その男、激情!133

「後はお任せして我々は帰ろう。長居は邪魔だろうしね。じゃあね、兄さん。可愛い看護師さんと浮気しないように」
「余計なお世話だ!」

結局、勇一は最後まで目を反らしたままだった。

「お世話? ふふ、一晩アレコレお世話してもらうくせに。佐々木、行くよ」
「待って下さいっ! まだ、組長に…」
「片時も離れたくないぐらい兄さんが恋しいの? ダイダイに報告するよ」

大喜の名を出され、佐々木は渋々黒瀬に従った。

「佐々木との不倫については、今日だけ目を瞑ってあげるから、佐々木を本宅に連れて帰って。明日は指示があるまで二人とも組で待機」

処置室を出ると、黒瀬が木村に次の指示を出した。
二人とも、とわざわざ言ったのは、佐々木に勝手な行動をさせるなという意味だ。

「不倫って……、わかりました」

一体いつになったら、疑惑は晴れるのだろうか? からかわれているだけならいいが…

「いやですよぅ、ボン。ダイダイに会わせて下さい」
「木村、本宅じゃなくて、動物園のゴリラの檻に変更。楽しい一夜をお仲間と一緒に過ごしてね。行こう、潤」

黒瀬が潤を伴い、二人と分れた。

「ボンッ! 待って下さいっ」
「――若頭、その『ボン』って言うのが機嫌を損ねたんですよ」

黒瀬達を追い掛けようとする佐々木の袖を引っ張りながら、木村が遠慮がちに言った。

「離せっ、変態ッ! 俺はダイダイ一筋だ」

自分に向けられる侮蔑の目に、木村はかなり傷付いていた。

「分っています。俺も妻だけですから。お願いですから、俺をそんな目で見ないで下さい…俺、必死で仕事しているだけなんですからぁ」

やべ、泣きそうじゃん、俺。
こんな所で泣いたら、それこそ本気だと思われる。
必死で楽しい事を探そうとした。
だが、咄嗟には思い浮かばず…
ポロリと溢れた涙の粒に、『やっちまった』という羞恥で木村の顔が真っ赤になる。

「――木村、…取り敢えず、ここは我慢してくれ。気持ちだけ、ありがたく…ないが、受け取っておくから…その、まあ、…泣くな」

自分がよく泣くだけあって、佐々木は人の涙に滅法弱い。
仕方ないヤツだ、とハンカチを渡す。
病院内だからまだいいが、違う場所ならどうみてもゲイカップルの痴話ゲンカだ。

「…すいません。お借りします。――もう大丈夫ですから、我々も行きましょう」

やっとこの二人も病院を出た――が、帰り着くまでに一騒動起した。
タクシーに乗り込むなり行き先を巡っての言い争いだ。
木村は動物園を主張し、佐々木は桐生の本宅を告げた。
一歩も譲らない二人に、運転手が動物園を経由でしてからの本宅という案を提示し、結局それでカタが付いた。

 

 

「――そうですか。あのアホは病院ですか」

一瞬顔を緩めた時枝だったが、すぐに顔を引き締めた。

「オッサンも頭を打ったのか?」

時枝の横で、黒瀬の報告を聞いていた大喜には、勇一よりも佐々木のことの方が気になるらしい。

「そっちは検査も終わってるし、問題ないよ。こぶを作っただけだから、安心して」

潤の言葉に、よかったと大喜がホッとする。
自分が側にいない分、佐々木のことが気になって仕方なかった。

「それより、ダイダイ、今後のことだけど…、体の傷が消えてから、佐々木さんのところに戻った方がいいと思う」
「――分ってる。この体を見せたら、オッサン失神するだろうしな。時枝のオヤジ…じゃなくて、時枝さんとも話したし…俺、オッサンには今日の事は話さない…墓場までもっていく」
「古くさい表現。それって、ゴリラの影響?」
「社長、若い子を苛めない。大森、本当にありがとう」

ポンポンと大喜の膝を軽く叩いて、時枝が礼を言う。

「今は、勇一なんですね。社長と潤さまに、多大な迷惑をお掛けして、申し訳ございません。食事の用意をしていますので、先に済ませて下さい」
「食事? 時枝さん、作ってくれたんだ」
「することもなかったので、大森と一緒に。勝手にキッチンを使わせて頂きました」
「あっ、冷蔵庫の中…」

潤の顔が赤くなった。

「もう一つソレ専用の冷蔵庫を寝室にご用意されたらいかがでしょうか?」

この家の冷蔵庫には、食材の他に冷やして楽しむタイプのラブグッズ…いわゆる大人のオモチャ系やらジェルが入っている。
中には野菜を模したものまであった。

「ふふ、寝室には別に専用のがあるよ。時枝が見たのはキッチン用だから問題ないよ、ねぇ、潤」
「んもう、時枝さんにバラすなよぅ…。お小言喰らうかもしれないだろ?」
「大丈夫だよ。時枝だって、人に言えないようなこと沢山経験したから、ふふ、少しは柔らかくなったんじゃない? だいたい、兄さんには言えないような乱れた性生活送ってきたんだから、私達に小言なんて言える立場じゃないしね」
「嘘、マジ!?」

黒瀬の話に大喜が飛び付いた。

その男、激情!132

「今の組長さんだ」
『離せぇええっ!』
「組長を助けるぞっ!」

佐々木が衿を掴まれていることを忘れて、処置室に飛び込もうとした。

「ぐ、ひっ、」

当然、首が絞まる。
ゴホゴホと真っ赤な顔で咳き込む佐々木を置いて、

「行ってみる?」
「もちろん!」
「お、お伴します」

黒瀬と潤と木村が処置室に入った。

「困ります」

入ってすぐ看護師に阻まれたが、黒瀬の

「院長先生に、うちの兄らしき男がこちらに運ばれたと直々にお知らせ頂きましたので、確認させて下さい。邪魔はしません」

という嘘で、入室可能になった。
院長の関係者なら、通さないわけにはいかないだろう。

「どこも悪くないっ! 離せっ! 帰る」

奥のベッドで勇一が体を捩って騒いでいた。
点滴を抜こうとしているようだ。
それを看護師が押さえ付けて阻止していた。

「ねえ、潤、あれ、どっちだと思う? 兄さんかな、それとも橋爪?」
「ううん、橋爪かな?」
「俺には、組長としか思えませんが」
「木村には訊いてないけど」
「さ、差し出がましいことをっ!」

三人の会談を無視する者が弱冠一名。
遅れを取った佐々木が、「組長~~~っ!」と叫びながら部屋の中に飛び込んできた。
黒瀬達三人の前を素通りすると、奥のベッドまで駆けていった。

「組長っ!」

佐々木の出現に、ベッドの上で暴れていた男もそれを押さえ込んでいた看護師も動きが止まった。

「なんなんですか、あなたっ!」
「・・・」

看護師は至極尤もな反応をし、暴れたいた勇一は、急に大人しくなり佐々木から顔を背けた。

「組長! 組長っ! 組長ぉおおおっ!」

佐々木がしつこく『組長』を連呼する。
他に何かあるだろ、と病院スタッフを含めたそこにいた全員が思った。

「佐々木、ウルサイ」

微かにそう聞こえた。

「なんですかっ!? 聞こえませんっ!」

佐々木が聞き直す。

「佐々木ウルサイ、とこの患者さんは言ってます」

看護師が通訳の役目を果たす。

「そんなぁ…、心配したんですよっ。突然姿をくらますから。ダイダイも姿を消すし…。組長、大丈夫なんですか?」
「――大丈夫じゃないから、ココにいる」

また小声だ。

「だったら、大人しく診察と治療を受けて下さい」

看護師の声に刺があるのは、ついさっきまで、正反対のことを口にし暴れていたからだ。

「兄さん、心配しましたよ」

やっと黒瀬の登場だ。
橋爪ではないという判断で、話し掛けた。

「あまり時枝さんを心配させるなよ」

それに潤が続き、

「…組長、ご無事で…その、…あの、…何よりです」

最後は木村だった。
三人の顔を確認しようともせず、

「武史に潤に木村か」

やはりそっぽを向いたままだった。
だが、今度はハッキリとした声だった。

「いつ、出られる?」

勇一が看護師に訊いた。

「頭をかなり強く打っていますので、検査次第です。異常がなければ、明日には」

答えたのは医者だった。

「誰にやられたんですかっ!」

まさか自分と同じように転んで強打したとは、佐々木はこれっぽっちも思わなかった。

「佐々木、ウルサイよ。兄さんの治療と検査が先じゃない? 佐々木よりは幾分兄さんの方が精密でデリケートな脳をしているはずだから、ねぇ、先生」
「…いや、それは…、」

はい、とは医者が言えるはずがない。

「ねえ、先生」

黒瀬に冷たい微笑と視線を送られ、否定してはマズイと医者の本能が警報を出した。

「――はい。とにかく、検査をしてからです」

認めてしまった医者は、看護師達に冷やかな目で見られ項垂れていた。

その男、激情!131

「違いますっ! 誤解ですっ!」

組んでいた手を慌てて解いた。

「俺は元組長代理の言いつけを守っていただけですっ!」
「なに、木村? いつ私が佐々木とラブアフェアしろって命じた? 記憶にないけど?」
「そうだよ、全く見損なったよ。今度は黒瀬に濡衣を着せようと言うつもりなのか?」
「そうじゃ、なくって…。若頭、助けて下さいよぅ」

半泣き状態で木村が佐々木に助けを求めた。

「気持ち悪い目で俺を見るなっ! 俺はダイダイ一筋だ! 悪いが、お前の気持ちには答えられん」

佐々木が不快感露わに、言い捨てた。

「俺だって若頭なんて、ゴメンですよぅ。若頭とどうにかなるぐらいなら、とっくに、アッ」

木村が何故か顔を真っ赤にし、自分の口を塞いだ。

「ふ~ん、佐々木だけじゃなくて、他にも誰かいるんだ」

黒瀬がすかさず突っ込みを入れる。

「いませんっ! 俺が愛しているのは、可愛い女房と子どもだけですっ! …んもう、いい加減にして下さい」
「口ではなんとでも言える。悪いけど、木村さん、俺、信用してないから。でも、今日のところはもういいよ。木村さんのことで来たわけじゃないから」

潤が木村に冷たく言うと、それに佐々木が続けた。

「全くだ。このボケがっ! お前のせいでダイダイの話が飛んだじゃねえかっ!」

ガツンと拳骨付きだった。
潤からビンタを喰らい、佐々木から拳骨を落とされ、踏んだり蹴ったりの木村に、更に黒瀬が留めを刺した。

「潤が許さないとなると、私も許すわけにはいかないから…ふふ、早く信用されるといいね」

黒瀬の微笑に、木村の背筋にゾゾゾと悪寒が走った。

俺、仕事しただけだろ?
真面目に仕事をした結果が…命の危険って、どういうことだ?
これが極道の世界の厳しさなのか?
今まで俺は、まだまだ甘い世界しか知らなかったということなのか?
若手ナンバーツーともて囃され、いい気になっていただけなのか?

組の仕事とは全く関係のない所で、自分の選んだ道の険しさに直面した木村だった。

「こんなヤツのことは、どうでもいいっ! ダイダイは、無事なんですね、ボンッ!」
「兄さんの様子、覗いてこようかな。兄さんが処置を受けているのはココ?」

佐々木の問い掛けを黒瀬は無視し、処置中の赤いランプが点灯している部屋を指しながら木村に訊いた。

「はい、そうです」
「ボンッ!」
「潤、ここにボンなんていた?」
「いない。佐々木さん、ダイダイは俺達のマンションにいるから。時枝さんも一緒だから安心して」

ダイダイに何が起こったのかは、勿論伏せた。

「潤は、本当に優しいね。全く、学習能力のないゴリラだ」
「も、申し訳ございませんっ! 元気なんですか!? 無事なんですね?」

黒瀬の機嫌を損ねたことよりも、大喜のことで佐々木の頭はいっぱいだった。
今直ぐ大喜の元に駆けつけたい、と佐々木の体の向きが変わった。
が、佐々木がその場を離れることは出来なかった。
前に一歩出ようとした佐々木の衿を後ろから黒瀬が掴んだ。

「兄さん放って、どこ行く気?」
「どこって、もちろん大喜の所です!」
「お猿は会いたくないと思うけど。元々家出中じゃない。疲れたところに、会いたくないゴリラの顔なんて、お猿もいい迷惑だよね」
「…そんなぁ」

『うわぁあああああっ!』

突然飛び込んできた声。
そこにいた四人全員の注意が、一斉に処置室に向いた。

その男、激情!130

「…黒瀬、…アレ、…木村さんと佐々木さんだよね?」

見間違いだと思いたい気持ちが、潤の言葉を途切れ途切れにさせた。

「ふふ、小猿からチンパンジーに宗旨替えしたのかのね」

慌てて駆けつけた黒瀬と潤の視線の先に、奇妙な光景があった。
佐々木の腕に、自らの腕を絡めている木村。
男同士の腕組みを否定するほど、この二人は古くさい概念などもちろん持ち合わせていないが、――むしろ、自分達は周囲の目をきにせず積極的に腕組みをするような二人だが、奇妙に思うのも無理はない。
佐々木には大喜が、木村には妻が、とそれぞれ別の相手がいるからだ。

「浮気?」
「佐々木が絡むとなると、本気じゃない? あれが、浮気なんて芸当できるわけないし。ふふ、ゴリラを挟んでの小猿とチンパンジーの泥沼の闘い?」
「佐々木さん、頭激しく打ったから、ダイダイと木村さんの見分けがつかなくなったとか?」
「でも、木村もノリノリじゃない? むしろ、木村の方から佐々木に腕回しているし~」

黒瀬と潤の二人と、佐々木達の距離は狭まっている。 
黒瀬と潤の声が聞こえたのか、木村が振り返った。

「――何あれ」

木村は振り返っただけでなく、黒瀬と潤の姿を捉えると、もう片方の手を嬉しそうに二人に振った。

「木村さんって、佐々木さんのこと…好きだったんだ…。俺、木村さんのこと嫌いになりそう」
「どうして?」
「だって、結婚が偽装だったということだろ。そんなの、男として、いや、人として許せない」
「潤が許さないなら、私も木村を許すわけにはいかないね」

ご立腹といった様子の潤とは違い、黒瀬は明らかに面白がっている。

「お待たせ。兄さんは?」

佐々木と木村の所に辿り着いた二人の様子に、木村は二人がケンカでもしたのかと思った。
黒瀬はいつものように微笑を浮かべている。
一方の潤は、かなり機嫌が悪そうだ。
実際は木村に対し腹を立てているのだが、木村の目には黒瀬とケンカでもして、拗ねているように映った。
そう、木村は知らなかった。
この二人の間に、通常のカップルのようなケンカは存在しないってことを。

「中に入ったまま、出てきません」

木村が答えた。

「ダイダイは、元気なんですかっ! 木村、このヤロ―ッ、いい加減放せっ!」

黒瀬に喰って掛るように佐々木が訊く。
同時に木村の腕を振り払おうとしたが、組んだ腕は解けなかった。

「若頭。無駄な抵抗は止めて下さい。少しは俺のことも…」

そこでパチンと乾いた音が廊下に響いた。

「は、い?」

突然のことで、何が起ったのか木村には分らなかった。 
音の直後から、左頬がジンジンと痛む。

「俺のことも、って、どういうことだよ、木村さん!? 俺のことも愛してくれとでも言うつもりだったんだろっ! その腕、サッサと佐々木さんから離せっ!」
「・・・今、俺、潤さまから…ビンタくらいました?」

木村が真横で唖然としている佐々木に、恐る恐る訊いた。

「――ぁあ、間違いない」

佐々木の答えに、木村は自分の身に起きたことを完全に認識した。

「あのう、俺、何か怒らせることを…」

目を釣り上げ自分を睨みつけている潤に、木村がお伺いをたてる。

「自覚ないんだ、図々しい」
「だいたい、佐々木さんも佐々木さんだよ」
「アッシですか?」
「ダイダイのいない隙に木村さんなんかにつけ込まれて、見損なった」
「申し訳ございませんっ!」

潤の勢いに負け、内容を深く考えずに佐々木が謝罪した。
これでは潤の言ったことを認めたことになる。

「木村さん。男として恥ずかしくないの? こんな非常時を利用して、佐々木さんにアプローチするなんて…。呆れ果てたよ」
「アプローチ?」
「人の目も気にせず、腕まで組んで、ダイダイに勝ったつもり? 自分と佐々木さんの仲がいいって、俺達に見せびらかしたいんだ」
「ふふ、木村が佐々木を愛していたとは、知らなかったよ。小猿のいなくなるのを、虎視眈眈と狙っていたんだ」

・・・まさか? 俺が、若頭を?
そんな誤解って、アリかよっ!
俺は、必死で若頭を引き留めていただけじゃないかっ!

やっと木村は、潤の誤解に気付いた。

その男、激情!129

今にも泣き出しそうな大喜の太腿に、時枝の手が伸びる。

「自信を持ちなさい。誰の目からみても、佐々木はあなたを愛しています。第三者がそれこそ呆れるぐらい、溺愛しています。大事かと訊くんじゃなくて、誰に恋しているのか訊いてみなさい。間違いなく、大森以外の名前は出て来ませんよ。それに佐々木さんがどう答えようと、桐生か大森か、本当に選ばなければならない時がきたら、あの男は間違いなく、」

ポンポンと時枝が大喜の太腿を叩く。

「大森を選びます」

夫婦は似てくると言うが…、まさに大喜がそれだった。

「…俺っ、――俺、……バカなことを…、」

顔を崩して号泣する様は、まさしく佐々木そのものだった。

「バカなことは誰でもしますよ。そのバカで愚かな行動は、相手に惚れている証拠ですよ。第三者だから客観的に見れるのです。私だって、勇一のことになると、理性も何もあったものじゃない」

時枝の言葉に、大喜が頷いた。

「そこは否定してくれないと。はは、無理ですよね。あなたを置き去りにして、ホテルを飛び出したのですから…」

言いながら、時枝はゆっくりとソファから降りた。
そして、大喜の足元に横座りで座った。

「時枝さん?」
「正座をしたいところですが、今は出来ませんので、この格好で失礼します」

横座りのまま、上半身を前に傾け、床に頭に付けた。

「本当に申し訳ない。勇一が申し訳ないことをした。謝って済む問題じゃないのは百も承知です。ですがお願いです。この通りですから、今日の事は…ホテルでのことは、この先、何ががあっても、佐々木さんの耳に入れないで下さい」
「時枝さんっ! 頭を上げて下さいっ!」

大喜も慌てて、ソファから降りた。

「佐々木さんが知れば、彼は勇一を憎むようになる。勇一を許すはずがない」
「あれは、橋爪だった…。どのみち、俺はもうオッサンの元には戻らない…、戻れない…」

時枝の突然の土下座に、大喜の涙は引いていたが、戻れないと語る大喜の声は悲嘆と諦めの混じった痛々しいものだった。

「駄目ですっ! 戻って下さい…、もっと後悔します…あなたは佐々木さんを裏切ってもないし、穢れてもいない。あれは自ら誘ったことになりませんっ! あなたは被害者ですっ! あなたの意思ではない。勇一のバカのしでかしたことが原因で、あなた方を不幸にするわけにはいきませんっ!」

時枝が、大喜の膝に縋り付くようにして、訴えた。

「…時枝さん、」
「お願いします。佐々木さんに惚れているなら、愛しているなら、彼の元に戻って下さい。今直ぐは無理でも、必ず戻って下さい。私が…俺が、必ずこの手で勇一をっ!」
「駄目だっ! 時枝さんこそ、駄目だっ。アイツは許せないが…組長とは認めないが、それは今日の事じゃないから。俺が認めないのは、アイツがオヤジを撃ったからだ」
「オヤジ?」

顔を上げた時枝のこめかみが、ピクッと撓った。

「時枝さん…を、です」

こういう時にでも、細かいことに反応するのが時枝だ。
大喜が慌てて言い直す。

「俺のことが元で、取り返しのつかない事になったら…俺…、俺…、」
「――ふふ、…ハハハ…、」

時枝が不気味に笑い出す。

「時枝さん?」

頭が変になったんじゃないのか、と大喜は怖くなった。

「…同じだ……、ははは、同じことを…」
「同じ?」
「大森も俺も、同じ心配しているってことだよ」

誰だよ、こいつ。
時枝の砕けた話し方に慣れてない大喜は、知らない人間のように感じた。

「大森は俺達を、俺は大森達の関係を、自分のせいで壊したくないと思っている…同じだろ」
「――同じだ…」
「…どちらが壊れても、俺達は後悔の嵐ってことか…」

時枝と大喜がお互いの顔を見て、二人一緒に『はあ~』と溜息を漏らす。

「――俺…、今日の事は、忘れられないかもしれない、…隠し事は辛いと思うけど…、」
「戻ってくれるのですね?」

時枝の口調が、元に戻った。

「…オッサンには、心の中で償う…。だから、時枝さん、アイツをどうこうしようなんて、思わないでくれ」

どの面下げて戻ればいいのか…正直、今の大喜は佐々木の顔を見ることすら怖かった。
だが、ここで意地を張れば、時枝が勇一に何をしでかすか分らない。

「分りました…。ですが、『お仕置き』はさせて頂きます。そうじゃないと、私の気が済みません」
「…命、とったりとか、しないよな?」
「はい。ですが、私を蜂の巣にした償いと、今日の落とし前はしっかりつけて頂きます。大森の前で恥ずかしいことをさせましょう。それで、あのアホを許してやって下さい」
「…恥ずかしいコト?」
「ええ、死にたくなるぐらい、恥ずかしいこと、を」

時枝の眼鏡の奥がギラッと光り、口角を引き攣らせ、口元だけでニヤリと笑った。

「…」

この瞬間ほど大喜が時枝を恐ろしく感じたことはなかった。
泣き崩れて勇一との再会を喜んだ時枝と、とてもじゃないが、同一人物とは思えなかった。

その男、激情!128

「つまり、話を整理すると、桐生の墓地でおかしくなった勇一が大森に美人局(つつもたせ)まがいのことをさせようとした、ということですね? ギリで助けに入るはずの勇一が助けに来なかった。その結果、犯られてしまった。勇一の言分(いいぶん)は助けようとしたが、鍵が掛っていて入れなかった。しかし金は相手からちゃっかり脅し取った。そして混乱している大森を縛り上げ置き去りにした」
「…そうです。だから、アイツが俺を直接どうこうした、って言う話じゃないんだ」

黒瀬と潤の愛の巣で、大喜は勇一と桐生の墓地に行ったところから、時枝にホテルで何があったのかまで、詳しく話した。

「勇一であろうとなかろうと、許せる話ではありません。佐々木以外の男に…こんなにボロボロになるまで犯られて…。可哀想に…」

高級な革を使ったソファに座った大喜に並ぶように、車椅子から降りた時枝も座っている。
その時枝が、ギュッと大喜を抱き締めた。
時枝にも勇一以外の男やら犬に自分の意思とは関係なく嬲られた経験がある。(←ここの場面が小冊子第一弾です)
肉体的な辛さもあるが、本当に辛いのは心だ。
実感としてあるだけに、大喜の辛さが時枝には手に取るように分る。

「誰だから許せる、誰だから許せない、という次元ではないでしょっ!」
「…でも、俺にも責任があるから」
「ありません! 大森が自ら誘ったとしても、そう仕向けたのは勇一でしょ! 全くあの男は…俺を殺すことだけ考えていれば可愛いモノを…。佐々木の宝を二度も巻き込むとは、それが橋爪であっても、許すわけには行きませんっ!」
「っ、く、くるしいっ!」

時枝が興奮し、大喜を抱き締める腕に力が入った。
肋骨が軋むぐらいの強い力に、大喜から悲鳴があがった。

「あ、すまない」

慌てて時枝が腕を離した。

「…ふう、――俺、…宝? オッサンの宝? 本当にそう思う?」

息を整えた大喜が、今度は時枝の肩を揺らして確認する。

「うっ!」

今度は時枝から呻き声が上がる。
顔を顰めた時枝を見て、大喜はあることに気付いた。

「…時枝のオヤジ、…いや、時枝さん、三角巾は? 腕いいの?」

時枝の片腕は、まだ吊られていたはずだ。
ホテルに時枝が現われた時は、片手しか自由じゃなかった。

「…ない。いつ、外した? 勇一を捜している時か? あのワゴン車の中か? 今、言われて気付きました。痛い筈だ。骨折ではないので問題ないでしょ」

大喜に回した手が無意識に片手だったのはそれでか、と妙に納得した。

「…ごめんなさい。俺、ウッカリして…」
「大丈夫ですから。それよりも、先程の質問ですが、本当のことです。大森は、佐々木の、佐々木さんの大事な宝です」
「…でも、オッサンは、黒瀬さんや潤さんも同じぐらい大事だと言った。俺の方が大事とは言ってくれなかった…。実家に帰るって言っても、止めてもくれなかった…」
「はあ? はあ…、大森、あなた、…社長と出会った頃の潤さまと同じぐらいに愚かです。今日あなたに起きた事は、一先ず置いておきます」

時枝が心底呆れた顔を向けた。
その顔にはハッキリ「バカだろ」と書いてあった。
その表情が、なんとも嶮しいものに変わる。
そして「はあぁああ、」という深呼吸とも溜息ともとれる長い一呼吸が入り、時枝の説教が始った。

「あの佐々木さんの側に三年もいて、まだ彼の不器用で真っ直ぐな愛情を疑うなんて。社長と潤さんだけじゃなく、私や勇一の名前を出しても、佐々木さんなら『大事』と答えますよ。質問したんしょ? どっちが大事かって。同じくらい大事って、答えるに決まっています。あなた、ご両親と佐々木さんを天秤にかけてどちらが大事なんて言えますか?」

あ、と大喜が息を呑んだ。

「胸張って、佐々木さんの方が両親より大事と答えるような薄情な人間なんですか? だったら、私の大森を見る目は曇っていたということになります。そんな男なら、佐々木さんには不釣り合いです」

大喜の視線が、時枝から離れ自分の太腿に移る。
時枝の言葉は耳に痛いだけでなく、大喜の胸も痛くする

「佐々木さんは懐の大きい男です。社長にはいいようにあしらわれていますが、それでもあの社長が、本気で無能と思っているなら、とっくの昔に、桐生に佐々木さんの姿はないはず。私が桐生で組長をやってこれたのも佐々木さんのサポートがあってのことです。それは大森、あなたも分っているでしょ? やっと勇一が戻って来た。ますます佐々木さんの中で桐生に対する責任感が生まれていたとしても不思議じゃない。それは桐生が佐々木さんにとって、あなたのご両親のような存在だからです。それをあなたも分っていたはずでしょ」

愚かだった。
愚問だった。
大喜が下唇をギュッと噛みしめる。

その男、激情!127

(切りの関係でちょっと長いです。)

「次はいよいよインドとロシアへの進出ですね」

中国支社を三年で軌道に乗せたクロセの次のマーケットは経済発展めざましいインドと地下資源に恵まれ経済成長を続けているロシアだ。

「本場のカリーとボルシチは絶品だから、優秀な秘書さんに食べさせてあげたいな」
「ありがとうございます。ですが、我々が直接出向くのは、まだ一年以上先の話ですから」

会議を終えた黒瀬と潤が談笑しながら社長室に戻ってきた。
潤の笑顔が幾分引き攣っているのは、インドやロシアへの交通手段を考えてのことだった。

「ふふ、私と一緒だから大丈夫だよ」
「何のことでしょう?」

潤が惚けてみせる。

「社長との出張は歓迎だが飛行機はゴメンだ、という顔をしていたけど?」
「気のせいです。社長のお伴ができるなら、空の上だろうと水の底だろうと、私は喜んでご一緒させて頂きます」
「ではこの週末、チャーター機でインドにカリーを食べに行こう」
「…ご冗談でしょ…」

潤の顔が瞬時に青くなる。

「ふふ、本気」
「……こ、光栄、です…。…早速手配を…」

会議室から持ち帰った資料が潤の手からスルッと抜け、床に散らばった。

「大丈夫?」
「失礼しましたっ! 今片付けます」
「愚兄のせいで朝からバタバタしたから、秘書さんも疲れているよね。手伝うよ」
「いえ、社長に手伝って頂くようなことではありませんから」

潤の意見など無視し、黒瀬も一緒に資料を拾い始めた。 
しかし、黒瀬の目的は資料以外にあったようだ。
せわしく動く潤の手を黒瀬が捕まえ、自分の頬に持って行った。

「疲れてるよね、潤」
「いえ、疲れていません」
「嘘。疲れてる」

潤の手を自分の頬で擦りながら黒瀬が潤を見つめている。

「大丈夫です」
「そう? インド行きの手配を口にするなんて、疲労の証拠じゃない?」
「…どういう意味ですか」
「この週末に日本出たら、帰国後葬式の嵐の気がするのは、私だけ?」

潤が、ハッとなる。
黒瀬の本気という言葉に惑わされて、真に受けてしまった。
二人を取り巻く状況を考えれば、二人が日本どころかこの東京を離れることも難しい。
失踪した勇一が橋爪になっているとしたら、時枝を狙って来るだろうし、当の時枝は橋爪化した勇一を殺しそうな勢いで頭に血が昇っていたし、佐々木に大喜の身にに起きたことが伝われば、これまた問題行動に走りそうだ。
この三人を操れるのは、目の前の愛すべき男以外は有り得ない。

「社長、手を離して下さい。甘えたことを言わせて頂けるならば、お言葉通り少々疲れていたのかもしれません。ですが、もう本当に大丈夫です」
「何が大丈夫なの?」
「疲れは飛んでいきました。――そのぅ、社長の体温を直に感じましたので…掌から…。それで癒やされましたし、インド行きは冗談だったと理解できました」
「ふふ。葬式の嵐でも、私は構わないけど、そうなると心優しい潤が気にするだろうしね」
「はい、もちろん気にします。――社長、手を、」
「そろそろ終業時刻じゃない? 早めに切り上げたいけど、秘書さん駄目かな?」

黒瀬が、潤の手を頬に当てたまま訊いた。

「駄目です」

ピシャリと潤がはね付けた。

「一瞬、潤が時枝に見えたよ」
「それは光栄です」

誇らしげに潤が言うと、黒瀬が「仕方ない」と潤の手を解放した。

「あと、十五分です。十五分間私は秘書ですので秘書の仕事をします。社長は社長の仕事をして下さい」

資料を拾うのは社長の仕事じゃないと暗に言われ、黒瀬は渋々立ち上がり自分のデスクに向かった。
最近、流されなくなった潤の成長が嬉しい反面、少し寂しい気もする。
だが、潤のやせ我慢の姿を見るのは、悪くない。
資料を掻き集めながら、この後の過ごし方で頭はいっぱいのはずだ。
今日一日頑張った潤の期待に応えてやらねばと、潤よりもむしろ黒瀬の方が、妄想に耽っていた。
潤が資料を全部拾い終わると、黒瀬の妄想タイムも終了した。
あとは妄想より楽しい現実が待っているはずだった。
だが、その楽しい現実に、待ったが掛った。

「今度はなに?」

黒瀬が内ポケットから振動で着信を知らせている携帯を取り出し、面倒臭そうに出た。

「――兄さんが? ――そう。よりにもよって、佐々木のいる病院とは。直ぐにそっちに行くから佐々木を兄さんに近付けないで。木村、お猿のことは、佐々木に言ってないよね? ふふ、もし佐々木が知るようなことあったら、海の底だから。もっとも底に沈む前に、魚の餌かもしれないけど」

携帯を閉じると、潤が既に黒瀬の帰宅準備を終えていた。
手には黒瀬のコートと鞄を提げている。

「終業まであと五分ありますが、急を要すことだと思いますので、切り上げましょう」

社長の黒瀬には、そもそも終業時刻など関係ないのだが、潤はそういう訳にはいかない。
秘書とはいえ、クロセの一社員だ。
時枝は秘書室長だったが、潤に秘書以外の肩書きはない。
社長付ということで黒瀬と行動を共にすることが多いため、通常の就業時間は当てはまらないが、社内にいるときは終業時刻は守らなければ、と思っている。
平社員の段階で、終業時間前に勝手に仕事を切り上げるなど、もっての他だ。

「潤の許可が出るなら問題ないね。潤はもちろん、私に同行。社長命令」

社長命令と黒瀬が言えば、それは業務にになる。
潤が仕事をサボったことにはならない。
時枝確保の為に抜け出せたのも、表向きは社長同行だ。
もちろん、今朝の出勤時刻がずれこんだのも同様だ。

「社長の命(めい)とあらば、断る理由がありません。急ぎましょう」
「通話の内容を説明しなくても潤は分っているようだね」 

二人は慌ただしくクロセ本社を出て、今朝、佐々木が運ばれた病院へと向かった。

その男、激情!126

「迎えなど邪魔なだけだ。ガキじゃあるまいし、一人で大丈夫だ」

検査結果が出るのを延々と待たされた佐々木がやっと結果を聞き出し、病院から出ようとしたときに木村が姿を見せた。
病院の自動ドアを出た所で、木村が駆け寄って来た。

「若頭、本当に大丈夫なんですか? まだ、顔色が悪いようですが」

佐々木を病院から出すなと命じられている木村は、ギリではあるが間に合ったことに安堵した。
しかし、引き止める理由が思い付かない。

「くどい。大丈夫だ。俺の事よりダイダイだ」
「大森は、大丈夫ですから。安全な場所にいます。心配要りません。それより、もっと詳しく検査してもらった方が……」
「見つかったのか? ダイダイ、無事なんだな?」
「はい。大森は無事です」

命は…という意味では無事だから、嘘は付いてない。

「どこだ!」
「どこって…それは、あの…元組長代理が…」
「ボンのところか。迎えに行かねば。木村は組に戻れ」

俺の役目は、若頭をここに引き止めておくことなんです~~~、と、目で語った所で通じるはずもなく、

『若頭、お叱りは後で受けますから!』

と、心の中で謝罪しつつ、佐々木の進行方向に自分の足を投げ出し引っ掛けた。

「ひっ!」

バランスを崩した佐々木が、派手に転んだ。
咄嗟に手を着いたので、今回は頭を打ち付けることはなかったが、その際、右手首を捩ってしまった。

「――こ、の、ヤロ――っ、木村、てめぇ、…ワザと、っい、てぇッ」
「診てもらいましょう!」

手首を擦りながら立上がった佐々木の背を木村が押す。

「バッカヤローッ。俺は忙しいんだっ。ダイダイが待ってるっ」
「お願いですからっ。診てもらって下さい!」

木村が渾身の力を出して、佐々木の身体を病院内に押し戻した。
その時、背後で耳をつんざくサイレン音と共に救急車が到着した。

「通路、空けて下さいっ!」

木村と佐々木を押し退けるように、運搬用のベッドが救急車両の元に運ばれた。
佐々木も同様に今朝運ばれたばかりだが、もうすでに他人事。
手首の痛みを忘れ、注意が救急車のストレッチャーからベッドに移されようとしている人物に向いた。 
木村も同じで、二人揃って野次馬状態だ。

「――死んでないか、アレ?」

ベッドの上から垂れた腕が見えた。

「縁起でもないこと、言わないで下さいよ。若頭も今朝は同じ状態でした」

ベッドの回りに看護師やら医師が集まっていて顔が良く見えないが、事故ではないようだ。
止血等の処置をしている様子はない。

「後ろ通ります!」

慌ただしく、二人の横をベッドが通過する。

「木村、今の、」
「若頭、アレは、」

通り過ぎる際、足元から顎を見上げる形で顔が少し見えた。
二人がよく知る顔に酷似していた。

「組長!?」

同時に思い当たる名前を言い、二人はお互いの言葉を確認しるように顔を見合わせた。

「勇一組長だ――っ!」

佐々木と木村が通過していったベッドを追い掛けた。

「なんなんですかっ! 邪魔ですっ」
「知人かもしれないっ! 顔を確認させてくれ」

追い払おうとするスタッフの間に割り込んで、正面から顔を確認した。
間違いなく勇一だった。

「…これは、橋爪っすかね、それとも組長ですかね…、若頭、どうしましょ」
「どっちでも同じ事だ」

それよりも、気になるのは状態だ。
意識がないのは一目で分るが外傷は見当たらず、重態なのかたいした事がないのか。

「どこが悪いんだっ! 何で意識がないっ!」

佐々木がスタッフに食って掛る。

「それを今から診るんでしょ。邪魔しないで下さい」

ベッドが処置室に運ばれ、佐々木と木村も中に入ろうとしたが、看護師から追い出された。

「一体、どうなってるんだ!? どこから運ばれたんだ?」
「若頭、救急隊員なら詳細を知っているはずです。今ならまだ外にいるかもしれません」
「それを早くいえ、ボケッ、…い、てぇ」

木村の頭を殴ろうとした佐々木が手首の痛みに顔を顰めた。

「俺が、訊いてきますから! 若頭は診察を受けて下さい」
「バカヤロー、こんな時にテレ~っと診察なんか受けてられるかっ」
「とにかく、俺がひとっ走り訊いてきますから! 若頭は此処を動かないで下さいよ」

思わぬ勇一の出現に木村も動転していたが、それでも黒瀬から命じられたことは忘れなかった。
とにかく次の指示を仰ぐまでは、佐々木に自由に動かれては困ると必死だった。

その男、激情!125

その頃、橋爪は武器調達が上手くいかず、ビジネスホテルの一室に買い込んだ酒~ビール缶・酎ハイ・カップ酒を片っ端から空けていた。
いわゆるやけ酒ってやつだ。
床には空き缶が散乱しており、部屋中にアルコールの匂いが充満している。

「クソッ、のんびりしている時間はないっ」

空になったビール缶を放り投げながら、酔っ払いが叫ぶ。

「李なんか関係あるかっ! これは俺の仕事だっ! 他のヤツに殺(や)らせね~ぞ、」

―――アイツは、…アイツの身体は、…俺だけのモンだっ、ケツの中まで俺のだっ、

「文句あるヤツは、出て来いっ! 俺だけが、殺(や)る権利があるんだっ」

時枝の身体の感触が、リアルに蘇る。
カーッと身体の芯が、アルコールとは別の理由で熱くなる。
死にぞこないのくせに、搾りとろうとしやがって、とんだド変態ヤロウだ…
橋爪の右手が、下着の中に潜り込む。

『…お客さま、』
「――るっ、せーっ!」

今から、というタイミングを見計らったように、邪魔が入る。
ホテルの従業員がドアをノックしている。

『他の方のご迷惑になりますので、』
「迷惑? だったらなんだ?」
『声のボリュームを落として頂けますか?』
「なんだとぉお、このホテルは、客の過ごし方にイチャモン付けるのかっ!」

できあがっている酔っ払いに、大人の常識・モラルが通じるはずもなく、非常識な言葉がドア向こうの従業員に投げ付けられる。

『滅相もございません。どのお客さまにも快適にお過ごし頂きたいと思います。もちろん、この部屋の両隣のお客さまに対してもです』
「よ~く、分ったっ! 俺の楽しみを邪魔しようっていうのは、両隣の奴らだな。チクったやつと直接ナシを付けようじゃないかっ」
『え? こ、困りますっ』

従業員が、慌てる。
両隣の客を巻き込むわけにはいかない。

「今、行くから待ってろっ!」

正直、従業員は逃げたくなった。
今なら、間に合う。
だが、自分が逃げたら、確実に両隣の客が被害に遭う。
その場合の責任は?
どうすればいいんだ~~~~、と従業員が頭を抱え、ドアの前でドギマギしながら立っていた。
一方、酩酊状態の勇一は、下着の中に手を突っ込んだままで、入口に向かった。

クソッ、待ってろよ~、
どこのどいつだっ、
ちっ、地震か?
勝手に揺れるなっ、

揺れているのは部屋でも地球でもなく橋爪自身だ。
右に左にといわゆる千鳥足だ。
そして、左右にぶれて着地する足元には、空き缶が散らばっており、コントさながらの結末を橋爪は迎えることになる。

「げっ、わっ、」

空き缶の上に右足滑り、ズルッとそのまま足が持っていかれた。
運が悪いことに、利き手の右手が下着の中だった為、咄嗟に手を突くこともできず、見事に後頭部まで床に着地する羽目になった。
「―っ、」

後頭部に衝撃を感じた。

…なんだ、こりゃっ。…俺は、…死ぬ、…の、か?

外側から視界が白くなる。
日本に来てから二度ほど死を覚悟する状況があったが、今回は覚悟も何も、あまりに突然だった。
内側まで白くなったとき、橋爪の意識はなくなっていた。

『お客さま?』

従業員の耳にも、大きな音が届いた。

『お客さま? どうなされました?』

返事がない。
さっきまでの怒号が嘘のように静かだ。
静かになったのだから自分の仕事は終わった、とはいかなかった。
プライバシーの侵害だと後々文句言われるかも知れないが、急死でもされてたらコトだ。
死人の出た部屋というのは後々の営業に差し支える。
せめて死にかけているなら、最後は――救急車の中でも病院でも、とにかくこのホテル以外で迎えてもらわねばならない。
生きてこの部屋から出さないと、これまた自分の責任問題になる。
従業員は確認する前から、危篤状態を想定してマスターキーを取り出した。

その男、激情!124

「今のうちに車に」
「了解!」

黒瀬と潤は、気を失った時枝を車椅子ごとワゴンに乗せた。

「あとはお猿を拾ったら終わり」

一連の成り行きを好奇心丸出しで見守るギャラリーの視線を受けながら、ワゴンは発車した。
大喜のいるホテルに回る。
裏の駐車場に、スキンヘッドに付き添われた大喜が黒瀬と潤を待っていた。
時枝の暴走で、大喜は自分が死ぬどころではなくなっていた。
身体と心に受けた傷が癒えたわけではないが、今は別の心配でそれどころではなかった。

―――時枝さんがアイツを殺したら、俺のせいだ――

「時間がないので、さっさと乗って」

ワゴンの窓から顔だけだして、黒瀬が大喜に指示を出す。
自らワゴンのドアを開け、大喜は乗り込んだ。
男に乱暴に扱われたせいと、拘束されてから不自然な体勢で暴れていたので、全身が怠く、節々が痛く動きがかなり緩慢だ。

「――時枝さんっ!」

頭を垂れた時枝の姿。

「…死んでる? ――黒瀬さん、あんた達、まさか…」

大喜が黒瀬と潤に疑いの眼を注いだが、それに二人からの返答はなく戻ってきたのは、

「急ぐから」

という潤の言葉とワゴンの急発進による身体への衝撃だった。
意思に関係なく尻がワゴンの座席の上に収まる。

「…急ぐってどこに?」

時枝の脈をとり、生存確認をしてから大喜が訊いた。

「俺達のマンション」

潤が腕時計を見ながら素っ気なく答える。

「ふふ、大丈夫、間に合うから。車椅子があんな走りをしてたんだから、ワゴンならもっと無茶しても問題ない。近道するね」

黒瀬の言う無茶は、スピード違反という可愛いレベルのものではなかった。
進入禁止も一方通行も無視し、十分掛るところを五分で自分達のマンションに着いた。
あとはもう黒瀬と潤の愛の巣への直通エレベーターに乗せればいい。
気絶したままの時枝を降ろすと、黒瀬が今度は起す為に一撃を加えた。

「っ、たーっ。何をするんですかっ、社長。こ、こは…、」

意識が戻った時枝の視線が大喜の姿を捉えた。

「大森ッ、大丈夫なんですか! …そうだ、勇一だっ、あのヤローっ、」
「時枝、悪いけど兄さん探す前に、大森とココで留守番ね。勝手に兄さん捜しに出て行ったら、大森に兄さんがしたこと、佐々木に喋るよ。ふふ、そうしたら…内部抗争勃発じゃない? 佐々木が兄さんを殺しに掛りそう」

時枝への脅しは同時に大喜への脅しになっていた。
大喜が時枝の車椅子のグリップをしっかり握った。

「お猿は理解したみたい」

直通エレベーターの扉が開き、時枝と大喜の二人だけが乗り込む。
黒瀬と潤は、急いで会社に戻った。

「…時枝さん、俺、…俺のせいで、無茶させてしまった…、ごめん」

上昇するエレベーターの中で、大喜が時枝に謝る。
リハビリ中の時枝を暴走させた責任を感じていた。
とにかく、時枝が誤解したまま勇一と対峙しなくて良かったと、大喜はホッとしていた。

「どうして、あなたが謝るのです。悪いのはあのアホです。…勇一のヤロウッ、俺がこの手でキッチリカタを付けてやる」
「違うんだっ! ソコ、誤解なんだ…、橋爪でもないけど…組長でもないんだ、俺を犯ったの……別人…自業自得なんだ…」
「勇一じゃない?」

どういうことだ、と車椅子の上から時枝が振り返った時、エレベーターは最上階の黒瀬宅に着いた。