その男、激情!138

「はあ~」
「ん? どうした勝貴。まだ気分が悪いのか?」
「いや。大丈夫だ」
「そっか。佐々木のヤツ、遅いな。ちょっと着替えて来る」
「なんだ? その着物気に入らないのか? 似合ってるぞ」
「へへ、ちょっとな。気分の問題」
「どうでもいいが、呼び付けておいて、佐々木さんを待たせることのないようにな」
「分ってるって」

勇一が隣の寝室に消えた。
時枝の耳に人の声が微かだが聞こえた。

「武史と潤か?」

目の前にいなければ、敬称で呼ぶような時枝ではない。

「帰ってなかったのか。やはり武史は何か企んでいるんだな」

きっとロクでもないことだろう、と佐々木とは別の意味で気が沈む。
車椅子か松葉杖があれば、勇一が着替えている隙に探りにいけるのだが、この部屋には身体を支える物も人もいない。

「ケセラセラ…だ。は~あ…イヤな予感に限って当たるんだよな…」

佐々木が現われる迄、時枝の溜息とボヤキは幾度となく繰り返された。

 

 

勇一の部屋を出た黒瀬と潤は、木村を捕まえると勇一の隣の部屋に潜んだ。

「――俺、粗相しました?」

不始末をやらかした覚えはないが、強引に引き摺り込まれれば、自分に非があるとしか思えなかった。
黒瀬の顔を正面から見る勇気もなく、潤に探り探り訊いた。

「したんじゃないの? あ? また佐々木さんと?」

実のところ、潤にも分っていなかった。
てっきり、帰るとのかと思っていた。

「ふふ、ゴリラのことは知らないけど。大事な用事。大至急、医務室に医者を呼んで縫合セットを用意しておいて。全て内緒でやって。木村の地位ならできるよね。特に隣の部屋にいる兄さんと時枝と、木村の大好きな佐々木には内緒。用意が終わる前にバレたら、その時は――…言わなくても分っていると思うけど」
「勿論ですッ! ――ですが、その用意って…」
「余計なことは訊かない。サッサと取り掛かって。大至急って言ったの、訊いてなかった? それから、医務室の用意が終わったら、この部屋に時枝の車椅子も運んで。言ってることが理解できたら、即行動」

黒瀬が最後に笑みを浮かべたので、こりゃマズイと木村は部屋を飛び出した。
木村だけでなく、潤もその用事が意味することを黒瀬に確かめたかった。

「潤まで、そんな顔しないの。備えあれば憂い無しって言うじゃない?」
「――それって、備えが必要なことが起こるかも、ってことだろ? だったら、止めるのが先決じゃないの? 何が起こるのか黒瀬には分ってるんだろ………時枝さんを、哀しませるようなコトだったら、俺、イヤだ」

強い視線で自分を見上げ訴える潤を、黒瀬が胸に抱き寄せた。

「少々妬けるね。時枝に愛を囁いているように聞こえるよ。ふふ、大丈夫、何が起きても時枝の前から兄さんが消えることはもうないから。何を兄さんが企んでも大丈夫。橋爪じゃないなら、問題ないよ。雨降って地固まる。まあ、この場合、血の雨降って、かな?」
「――流血騒ぎってことだろ。どうしてそんなに物騒なんだよ」
「どうして、って潤は可愛いことを言うね。ここはヤクザの家だよ。血ぐらい流れてもどうってことないし、そのために医務室完備なんだから。ふふ、潤だって、ベッドの中では結構流血じゃない?」

黒瀬の手が潤の臀部に滑り、意味ありげに尻の膨らみを撫でた。

「バカぁあ、…意味違うだろ。あれは…その、……愛じゃないか」
「ふふ、同じことだよ、潤。どのみち兄さんの足りない頭で考えることなんて…時枝絡みだろうしね。兄さんの愛なんじゃないの。気持ち悪いけど」
「――分ってるんなら、やっぱり止めた方が……。組長さん、悪いけど信用出来ないし」
「私と潤はいないことになっているのに? 兄さんは信用しなくてもいいけど、むしろ信用して欲しくないけど、私のことはどう? 私も信用出来ない? 最終的には、潤を哀しませるようなことにはならないと誓うよ?」
「信じてるよっ! 当たり前だろっ。今まで黒瀬を疑ったことは、イギリスのあの時だけだっ! 黒瀬が俺に酷い事しても、絶対俺は黒瀬を信じてるからっ! 俺には何をしてもいいんだよっ」

潤が黒瀬をギュッと抱き締めた。
自分の愛を疑うことは許さないという言葉の代わりに腕に力を込めた。

「…潤、愛してる。潤を哀しませるよなことは排除するから。でも、ゴメンね。最終的にだから。途中はこの部屋で私と一緒に兄さんの愚行に耐えてね」
「――俺も男だから、はは、…大丈夫」

黒瀬を信じていても、湧き起こる不安。
自分の弱さを象徴しているようで、潤は空元気に答えた。