その男、激情!133

「後はお任せして我々は帰ろう。長居は邪魔だろうしね。じゃあね、兄さん。可愛い看護師さんと浮気しないように」
「余計なお世話だ!」

結局、勇一は最後まで目を反らしたままだった。

「お世話? ふふ、一晩アレコレお世話してもらうくせに。佐々木、行くよ」
「待って下さいっ! まだ、組長に…」
「片時も離れたくないぐらい兄さんが恋しいの? ダイダイに報告するよ」

大喜の名を出され、佐々木は渋々黒瀬に従った。

「佐々木との不倫については、今日だけ目を瞑ってあげるから、佐々木を本宅に連れて帰って。明日は指示があるまで二人とも組で待機」

処置室を出ると、黒瀬が木村に次の指示を出した。
二人とも、とわざわざ言ったのは、佐々木に勝手な行動をさせるなという意味だ。

「不倫って……、わかりました」

一体いつになったら、疑惑は晴れるのだろうか? からかわれているだけならいいが…

「いやですよぅ、ボン。ダイダイに会わせて下さい」
「木村、本宅じゃなくて、動物園のゴリラの檻に変更。楽しい一夜をお仲間と一緒に過ごしてね。行こう、潤」

黒瀬が潤を伴い、二人と分れた。

「ボンッ! 待って下さいっ」
「――若頭、その『ボン』って言うのが機嫌を損ねたんですよ」

黒瀬達を追い掛けようとする佐々木の袖を引っ張りながら、木村が遠慮がちに言った。

「離せっ、変態ッ! 俺はダイダイ一筋だ」

自分に向けられる侮蔑の目に、木村はかなり傷付いていた。

「分っています。俺も妻だけですから。お願いですから、俺をそんな目で見ないで下さい…俺、必死で仕事しているだけなんですからぁ」

やべ、泣きそうじゃん、俺。
こんな所で泣いたら、それこそ本気だと思われる。
必死で楽しい事を探そうとした。
だが、咄嗟には思い浮かばず…
ポロリと溢れた涙の粒に、『やっちまった』という羞恥で木村の顔が真っ赤になる。

「――木村、…取り敢えず、ここは我慢してくれ。気持ちだけ、ありがたく…ないが、受け取っておくから…その、まあ、…泣くな」

自分がよく泣くだけあって、佐々木は人の涙に滅法弱い。
仕方ないヤツだ、とハンカチを渡す。
病院内だからまだいいが、違う場所ならどうみてもゲイカップルの痴話ゲンカだ。

「…すいません。お借りします。――もう大丈夫ですから、我々も行きましょう」

やっとこの二人も病院を出た――が、帰り着くまでに一騒動起した。
タクシーに乗り込むなり行き先を巡っての言い争いだ。
木村は動物園を主張し、佐々木は桐生の本宅を告げた。
一歩も譲らない二人に、運転手が動物園を経由でしてからの本宅という案を提示し、結局それでカタが付いた。

 

 

「――そうですか。あのアホは病院ですか」

一瞬顔を緩めた時枝だったが、すぐに顔を引き締めた。

「オッサンも頭を打ったのか?」

時枝の横で、黒瀬の報告を聞いていた大喜には、勇一よりも佐々木のことの方が気になるらしい。

「そっちは検査も終わってるし、問題ないよ。こぶを作っただけだから、安心して」

潤の言葉に、よかったと大喜がホッとする。
自分が側にいない分、佐々木のことが気になって仕方なかった。

「それより、ダイダイ、今後のことだけど…、体の傷が消えてから、佐々木さんのところに戻った方がいいと思う」
「――分ってる。この体を見せたら、オッサン失神するだろうしな。時枝のオヤジ…じゃなくて、時枝さんとも話したし…俺、オッサンには今日の事は話さない…墓場までもっていく」
「古くさい表現。それって、ゴリラの影響?」
「社長、若い子を苛めない。大森、本当にありがとう」

ポンポンと大喜の膝を軽く叩いて、時枝が礼を言う。

「今は、勇一なんですね。社長と潤さまに、多大な迷惑をお掛けして、申し訳ございません。食事の用意をしていますので、先に済ませて下さい」
「食事? 時枝さん、作ってくれたんだ」
「することもなかったので、大森と一緒に。勝手にキッチンを使わせて頂きました」
「あっ、冷蔵庫の中…」

潤の顔が赤くなった。

「もう一つソレ専用の冷蔵庫を寝室にご用意されたらいかがでしょうか?」

この家の冷蔵庫には、食材の他に冷やして楽しむタイプのラブグッズ…いわゆる大人のオモチャ系やらジェルが入っている。
中には野菜を模したものまであった。

「ふふ、寝室には別に専用のがあるよ。時枝が見たのはキッチン用だから問題ないよ、ねぇ、潤」
「んもう、時枝さんにバラすなよぅ…。お小言喰らうかもしれないだろ?」
「大丈夫だよ。時枝だって、人に言えないようなこと沢山経験したから、ふふ、少しは柔らかくなったんじゃない? だいたい、兄さんには言えないような乱れた性生活送ってきたんだから、私達に小言なんて言える立場じゃないしね」
「嘘、マジ!?」

黒瀬の話に大喜が飛び付いた。

その男、激情!125

その頃、橋爪は武器調達が上手くいかず、ビジネスホテルの一室に買い込んだ酒~ビール缶・酎ハイ・カップ酒を片っ端から空けていた。
いわゆるやけ酒ってやつだ。
床には空き缶が散乱しており、部屋中にアルコールの匂いが充満している。

「クソッ、のんびりしている時間はないっ」

空になったビール缶を放り投げながら、酔っ払いが叫ぶ。

「李なんか関係あるかっ! これは俺の仕事だっ! 他のヤツに殺(や)らせね~ぞ、」

―――アイツは、…アイツの身体は、…俺だけのモンだっ、ケツの中まで俺のだっ、

「文句あるヤツは、出て来いっ! 俺だけが、殺(や)る権利があるんだっ」

時枝の身体の感触が、リアルに蘇る。
カーッと身体の芯が、アルコールとは別の理由で熱くなる。
死にぞこないのくせに、搾りとろうとしやがって、とんだド変態ヤロウだ…
橋爪の右手が、下着の中に潜り込む。

『…お客さま、』
「――るっ、せーっ!」

今から、というタイミングを見計らったように、邪魔が入る。
ホテルの従業員がドアをノックしている。

『他の方のご迷惑になりますので、』
「迷惑? だったらなんだ?」
『声のボリュームを落として頂けますか?』
「なんだとぉお、このホテルは、客の過ごし方にイチャモン付けるのかっ!」

できあがっている酔っ払いに、大人の常識・モラルが通じるはずもなく、非常識な言葉がドア向こうの従業員に投げ付けられる。

『滅相もございません。どのお客さまにも快適にお過ごし頂きたいと思います。もちろん、この部屋の両隣のお客さまに対してもです』
「よ~く、分ったっ! 俺の楽しみを邪魔しようっていうのは、両隣の奴らだな。チクったやつと直接ナシを付けようじゃないかっ」
『え? こ、困りますっ』

従業員が、慌てる。
両隣の客を巻き込むわけにはいかない。

「今、行くから待ってろっ!」

正直、従業員は逃げたくなった。
今なら、間に合う。
だが、自分が逃げたら、確実に両隣の客が被害に遭う。
その場合の責任は?
どうすればいいんだ~~~~、と従業員が頭を抱え、ドアの前でドギマギしながら立っていた。
一方、酩酊状態の勇一は、下着の中に手を突っ込んだままで、入口に向かった。

クソッ、待ってろよ~、
どこのどいつだっ、
ちっ、地震か?
勝手に揺れるなっ、

揺れているのは部屋でも地球でもなく橋爪自身だ。
右に左にといわゆる千鳥足だ。
そして、左右にぶれて着地する足元には、空き缶が散らばっており、コントさながらの結末を橋爪は迎えることになる。

「げっ、わっ、」

空き缶の上に右足滑り、ズルッとそのまま足が持っていかれた。
運が悪いことに、利き手の右手が下着の中だった為、咄嗟に手を突くこともできず、見事に後頭部まで床に着地する羽目になった。
「―っ、」

後頭部に衝撃を感じた。

…なんだ、こりゃっ。…俺は、…死ぬ、…の、か?

外側から視界が白くなる。
日本に来てから二度ほど死を覚悟する状況があったが、今回は覚悟も何も、あまりに突然だった。
内側まで白くなったとき、橋爪の意識はなくなっていた。

『お客さま?』

従業員の耳にも、大きな音が届いた。

『お客さま? どうなされました?』

返事がない。
さっきまでの怒号が嘘のように静かだ。
静かになったのだから自分の仕事は終わった、とはいかなかった。
プライバシーの侵害だと後々文句言われるかも知れないが、急死でもされてたらコトだ。
死人の出た部屋というのは後々の営業に差し支える。
せめて死にかけているなら、最後は――救急車の中でも病院でも、とにかくこのホテル以外で迎えてもらわねばならない。
生きてこの部屋から出さないと、これまた自分の責任問題になる。
従業員は確認する前から、危篤状態を想定してマスターキーを取り出した。

その男、激情!88

「渡部はいいとして、俺がいない間に、何か気苦労があったのか?」
「いない間?」

記憶ないっていったじゃないですか、と今度は皆の視線が佐々木に集中した。

「この一週間という意味ですよね、組長」

皆の視線の意味に気付いた佐々木が、早口で勇一に確認した。

「ああ。武史に代理を頼んだ覚えはないぞ」
「はい、ボンはおいでになっていません。本宅に姿を出しただけで。気苦労というか、皆、時枝さんの事を心配しているんです」
「はい、組長が銃撃されたのが――ヒッ」

時枝がこの三年組長だったのだ。
時枝=組長の呼び名が浸透していた。

「バカッ、」

正直なあわて者を、木村が殴る。

「間違えましたっ、組長とその…仲がよろしいので…つい、その…時枝さんの事を…」
「そうだよな、皆、勝貴の事では、俺が不甲斐ないばかりに、心配かけて申し訳ない。やつもこんなに慕われているなら、いっそ、武史の元を離れて、桐生に籍を置けば良いんだ」

既に置いてますとも言えず、

「時枝さんが回復したら、話し合われてはいかがです? アッシら全員、大歓迎致します」
「だが、これ以上、勝貴を危険な目に遭わせる訳にもいかねぇだろ」
「ボンの側でも安全とは…あ、ボンにはご内密に」
「そうだな。俺の伴侶と公表した以上、どこにいても同じか…。その勝貴のことだが、俺は勝貴の仇をとる。異存のある者はいるか?」

勇一が事務所内を歩きながら、一人一人の顔を見た。

「そんな者、一人もいません!」

当たり前の組員の反応を、佐々木は複雑な想いで見ていた。

本宅で、勇一として目覚めて一週間が経っていた。
桐生本宅内で、その日のうちに佐々木から組員に説明が入った。
些細なことで年月のズレを気付きそうなものだが、幸い、勇一は時枝の看護に掛かりきりで、自分の身体に残る銃創も「記憶ないな。武史のせいで忘れたに違いない」と、深刻には捉えてなかった。
既に時間の経過で、生々しさのない古傷になっていた傷の原因を思い出せないことに、重大な何かが潜んでいるとは思いもよらないといった感じだ。
ヤクザという職業柄、そういう痕が身体を飾ることは珍しくないと思っているのだろう。
勇一の程良い単純さが、一週間経った今も勇一にまだ時間の経過を気付かせずにいた。
時枝の身体は順調に回復していた。
医者が説明したとおり、下半身が動かないが、それ以外は日に日に回復していた。
気力が一番の治療薬になっているようだ。
側に勇一がいる。
そのことが、時枝に奇跡的な快復力を与えていた。
弾が掠った額の傷は、既に瘡蓋状態だ。
点滴も既に外され、自由ではないものの腕も動かせた。
時枝が回復してくると、勇一の頭は「橋爪」でいっぱいだった。
拉致された時の仇をとってないこともあって、勇一の怒りの矛先は「橋爪」に注がれていた。
『橋爪だな。台湾の李か。桐生の総力を挙げて勝貴の仇をとってやるっ!』と、黒瀬や潤の前で宣言した通り、戦闘の指揮を自らとるつもりで、『一週間ぶり』の組に、勇一は顔を出した。
一方、桐生内部では勇一の事は佐々木の説明で既知となっていたが、外部は別だった。
外部には勇一が戻ってきたことは知らせてなかった。 
しかし勇一酷似した男が桐生に居座っているとの噂は既に広がっていた。
噂により、桐生の内部に探りを入れようとしているのは、もっぱら桐生より格下の組ばかりだ。
もっとも清流会の浦安などは、はなっから勇一の死を信じておらず、噂がたった段階で「長い遠足からお帰りかい?」と、佐々木に直に電話があったぐらいだ。

第一弾、応募方法!

機上恋・地上恋文庫の帯/オンラインファン企画の応募方法です!
まずお手元に該当文庫「機上の恋は無情!」「地上の恋も無情!(受難の突入篇)」「地上の恋も無情!(狂愛の完結篇)」を用意します。
このとき、注意して頂くのは「機上の恋は無情!」の帯です。落丁本をお持ちの方は帯の2000がピンク色だと思いますが、これは使えません。(今回送って頂く分に番号があるので、違う番号は対象外)
出版社で無料交換していますので、交換して下さい。(書店ではしていません。詳しくはこちらを)2000の数字が黄色だと問題ありません。今、出ている分は黄色ですが中古品でお求めの方は業者・出品者によっては怪しいので確認を。

 

ということで三枚の帯を用意できましたら、拡げます。その一番右のタイトルとISBNナンバーが入った裏表紙の折り返し部分を切り離します。
残りの部分は次の企画で使いますので、捨てずに保管! です。
20140505203019
DSC_0104
(紛失してなかった…の代用の方は文庫内のカラー口絵(巻頭のカラーイラスト)を切り離して代用してください。可能な限り帯を探して下さい)

次に用意するのが小冊子の送付先です。
送付先の郵便番号・住所・氏名を書いた紙(できればそのまま貼っておくれるようなシールが好ましい)を用意します。

以上の準備が整いましたら、あとは封筒(封筒裏に自分の住所・氏名をお忘れなく)に①切り取った帯三枚②宛先を書いた紙(シール)入れて会員募集と同じ宛先に送付して下さい。

〒160-0022  東京都新宿区新宿1-10-1
株式会社文芸社
「機上恋」会員申し込み係

☆黒桐Co.会員の方は別途ミニプレありです。送付前に会員ページを覗いて下さい。6日の24時までに会員ページ内に「合い言葉」の案内を入れますので、それまで投函はお待ち下さい。
※同時に会員に応募されたい方は、上記の帯の端、住所氏名を書いた紙の他に、会員募集に必要な応募券・切手を貼った返信封筒を揃えて同封して下さい。
(詳細は単行本を参照)

 

〆キリ; 5/31 (当日消印有効)

応募頂いた方の数のみ作ります。予備はありません。
これからお求めの方で、書店の配送の都合で、どうしても遅れそうな方は、〆キリ前にツイッターで経由でご連絡下さい。
お届けは8月を下旬を予定します。早まることはあります。
(会員募集に応募された方は、会員パスだけ先に送付します)

 

投函時の切手代以外は無料ですので、どうぞ文庫をお持ちの方はご応募下さいませ。第一弾は帯は捨てちゃった…って方にも対応していますので。
なお、うちは突発的な後出しジャンケン的な企画が多いので、同人誌でも文庫でも付いているものは全てを保管して下さっているといいかなと。
捨てちゃった(T_T)とか…良かったよ、まだ持ってたよ…とか運試し的なところがあります。

第一弾、かなりハードな内容になりますが……興味ある方はご応募下さい。

秘書の嫁入り 青い鳥(34)/終

「…二日酔いはどうだ?」
「…アルコール、…抜けた。それより、布団どうするんだ。余所様の布団を血で染めるって、非常識だ」
「染めたのは、勝貴だ。それに血だけじゃないだろ」
「…これじゃあ、武史達を叱れない。自分が同じ事やってれば世話ないか」
「あいつら、変態だな」
「…お前もだ。無理しやがって」

時枝と勇一が、狭い布団に二人で気怠い身体を横たえていた。
勇一が放った物三回分は全て時枝の体内だ。
時枝が流した血液と放った物は、勇一の身体と布団を汚していた。

「でも強姦じゃない。だろ?」

勇一が時枝の方を向いて、訊く。
その目は穏やかだった。怒りはどこにもない。

「ああ。……悪かった、反省している」
「何をだ?」
「意地悪言うよな、勇一は」

時枝がムクッと裸の上半身を起こす。

「―――つ、」

動けるような状態じゃない下半身を奮い立たせ、布団から出る。
立ち上がった瞬間、太腿にダラッと血液と交じり桃色になった勇一の体液が伝う。

「オイ勝貴っ!」

何をする気だと、勇一が目を丸くしていると、畳に真っ裸の時枝が正座した。

「この通りだ、勇一。水に流してくれとは言わない。だけど、許してくれ」

畳に額を擦りつけて土下座した。

「俺は酷いことを言った。お前に言ってはならないことを口にした。解放してくれとも言った。だが、解放しないでくれ。一生縛り付けてくれてもいい。お前が別の人間を選んだ時は身を引く。潔くは無理かも知れないが、お前の邪魔はしない」
「邪魔しろよ」

ぶっきらぼうに勇一が言う。

「俺は勝貴が俺以外を選んだら、どんな手段を使っても邪魔するからな。今度俺を捨てようとしたら、地獄の果てまで追いかけて、桐生に座敷牢作って、監禁する」

時枝が顔をあげた。
畳の上にポタッ、ポタッと雫が落ちる。

「心配するな。お前は酷いことは言ってない。言ったとして、俺と別れると言ったことだけだ。ヤクザは俺も嫌いだ」
「…何を…バカ、言ってるんだ…」
「バカはどっちだ? 布団だけじゃなく、畳も汚す気なのか? こっち来いよ。そんな身体で無茶するな」

勇一が、時枝を布団の中に引き入れた。

「動ける状態じゃないだろ。バカ」
「ヤクザのくせにヤクザが嫌いとか抜かすアホにバカと言われるとは…はあ~」

肌と肌と密着させ、時枝が大袈裟に溜息をついてみせる。
言葉とは裏腹に、感極まったままの時枝の目には、涙が溜まったままだ。

「なんだよ、もう、いつもの勝貴かよ。ちえっ」

勇一が、わざとらしく拗ねてみせる。

「当たり前だ。これからもこのアホと一緒に歩いて行くんだ。しおらしくじゃ、いられないだろ」

その声は涙声だった。
勇一が、布団の中で時枝の手を握る。

「一緒だからな。勝貴さまは、時々おバカになるから、この手を離せない。いっそ二人で結婚指輪でもする?」
「…何をアホなことを…人目ってものがあるだろ」

結婚の響きが、時枝の胸を更に熱くする。
折角いつも通りの態度に戻ろうとしているのに、邪魔をするように勇一が時枝を喜ばせる。はらり、涙がまた流れた。

「泣き虫勝貴だ。はは、じゃあ、ここは極道らしく、二人で揃いの紋紋入れてみる?」
「…馬鹿野郎、俺は極道じゃ…ない。だが……勇一が、どうしてもって、頭下げるなら……考えてやる」
「よし、じゃあ、婚姻届けを出して、無事夫婦になれたら、彫るぞっ!」
「大馬鹿野郎…、誰がお前と結婚するって言ったんだよ……第一、婚姻届けは無理だろうがドアホ。…俺を嫌いなヤクザにしようっていうのか?」
「ああ。駄目か? 俺だって嫌いなヤクザしてるんだから、勝貴だって、付き合え」
「……簡単にいいやがって……、そのうちな……考えといてやる」

黒瀬達よりも、勇一と時枝が一緒になる方が問題が多い。 
桐生組があるからだ。
だから、時枝は今回身を引こうとした。
組の存続をどうするのかそこを解決しとかないと、養子縁組も難しいのだ。 
だが時枝は、勇一が自分から結婚を持ちかけてくれたことが嬉しかった。
もし叶うなら、全身に彫られたって構わないと思った。

「やったね。絶対だからな。新婚旅行はどこにしようか?」
「…ドアホ。気が早過ぎだろ…バカ…」

もうそれ以上、言葉が続かなかった。
次から次へと涙が溢れて。
言葉の代わりに握っている勇一の手を更に強く握りしめた。

「少し寝ようぜ。疲れただろ? 俺も朝からバタバタしてたからさ。実は昨夜電話もらってから、一睡もしてない。逃げられないように、手は放さないからな」

狭い布団に、大の男が裸で二人、寄り添い手を繋ぎ眠りの中へと落ちていった。

秘書の嫁入り ~青い鳥~  了/ 秘書の嫁入り~犬~へ続く…

秘書の嫁入り 青い鳥(33)

二度と目にすることはないと思っていた勇一の分身を目にし、時枝の目頭が熱くなる。
一旦時枝の上から降りると、時枝の足を広げグイッと膝から曲げ、その間に勇一は自分の身体を置いた。
時枝の身体を少し押し上げると、勇一が覗き込む。
昨日、酔って寝てしまった時枝には、風呂に入ったかどうかの記憶もなかった。
どんな有様になっているのかと、恥ずかしくて堪らない。

「誰にもやらせてないだろうな?」

確認したかったのは、他の男の存在らしい。
時枝が首を縦にふる。

「だが、他のヤツと寝るつもりだったそうじゃないか」
「…それは…」
「違うのか? 違わね~よな?」

ヤクザそのもののドスの利いた口調に、勇一の怒りの深さを感じる。
宣言通り、勇一は時枝に対して、愛撫どころかなんの準備も施さず、自分のいきりたったモノを押しつけてきた。
解されもせず潤滑油もなく、ぶち込まれるという経験はない。
それを目にした経験は幾度かあるし、その手伝いをした経験もあるが、自分が体験したことはなかった。
このままぶち込まれたらどうなるかは、結果は見えていた。
激しい痛みと裂孔による出血。
当分排泄さえ困難だ。
ブルッと身体が震えた。もちろん恐怖でだ。
しかし一方で、これくらいの責め苦は当たり前だと思う自分がいた。
酷い扱いでも、勇一はまた自分と身体を繋げようとしている。
怖いのに嬉しい。

「勝貴、これは強姦か? 違うよな」

勇一の言わんとしていることが、時枝には痛いほどよく分かる。
別れてしまった二人なら、一方的な暴力行為だろう。
だがお互いまだ気持ちがあり自ら受け入れる気持ちがあるなら、いくら出血しようが痛がろうが酷い扱いだろうが、それは愛情の上の睦み合いでしかない。
勇一の目が、真剣だ。
まるで勝負を挑むような目付きだ。

「…強姦じゃない」
「それでこそ、勝貴だ」

二人の真剣勝負が始まった。
音がした。皮膚と肉が裂ける音。
同時に強烈な痛みを伴い、勇一が時枝の中に入ってきた。

「――ッ、は、あぅ」

歯を食いしばる。
決して痛いとは言いたくなかった。

「普通に動くぞ。いいよな」
「…あぁ、…構わない」

最後に勇一をそこに迎え入れたのは、いつだったろう。 
使われてない道は狭くなっていた。
まして、何の準備も施されていない。
時枝に拒む気はなくても、痛みで身体が勝手に勇一を拒む。
勇一にとっても、気持ちいいどころじゃないはずだ。
押し出そうとする内壁の顫動に逆らって狭いところを無理に押し進めている。
勇一の額に汗が滲んでいる。
自分の流す血の匂いが鼻に付く。
潤を黒瀬が強姦したときの事がふと時枝の脳裏に浮かんだ。
改めて、自分は酷いことをあの子にしたんだ、と猛省した。
怖かっただろう。
覚悟があって、勇一を受けて入れている自分でも、多少の恐怖感はある。
入口付近だけ、滑りが良くなった。
もちろん要因は裂傷から吹き出る血だ。
裂れ痔決定だな、と痛みから逃れる為に自嘲した。

「余裕だな、勝貴」

普通に動くと宣言した勇一だったが、半分まで進んだところで、このままだとこれ以上の進行は無理だと判断したのか、一度入口付近まで引き下がった。
時枝の流す血を自分の雄に擦り付けるよう入口を捏ねると、赤く染まった中心を一気に最奥までねじ込んだ。

「―――…っ、ァああっ…! 」

勇一とのセックスで、ここまでの痛みを感じたことは一度もない。
最初は痛みも多少あったが、流血もなければ、潤い不足の内部を突き上げられたこともなかった。
荒々しい行為の時でも、時枝の身体を気遣うことを勇一が忘れたことなどなかった。

「…は、…は、…は」

時枝が必死で呼吸を整える。

「…ゆういちっ…、」

時枝が手を伸ばし、勇一の身体にまわす。
酷いセックスでも、求められることが時枝には嬉しかった。
勇一の身体が全て収まったのだ。
時枝の胸に、熱い雫が落ちる。
勇一の涙だ。

「…勇一…、ばか、痛いのは俺だ」
「お前の中が締め付けて、イテェんだよ」

涙の本当の意味は分からない。
だが、きっと、自分と一緒の気持ちなら、こうして身体を再び繋げたことに感極まったのかもしれない。

「ァあう…、容赦ない…なっ」

照れ隠しのように、勇一が激しく腰を振る。
東京から福岡に飛んで来てくれた勇一の優しさを、この暴力的な行為の中、時枝はヒシヒシと感じていた。

秘書の嫁入り 青い鳥(32)

『早かったですね』
『連絡を頂いて助かりました。潤達の時同様、尾川さんには、お世話になりっぱなしで』
『また、一杯、やりましょう』
『ええ。あいつは?』
『二日酔いじゃないですかね~。かなり飲んでたから。朝食用意してますんで、後で食べて下さい。漁に出てきますので、気兼ねなく、仲直りして下さい。午後まで戻りませんから』
『ありがとうございます。本当に、面倒お掛けしてしまって』

頭が痛い。
誰かが、階下で話しているらしい。
それすら、響く。
酒だ。
二日酔いだ。
時枝は布団を頭から被り、音も光も遮り、痛む頭を庇うように、身体を丸めていた。
寝ていれば、そのうち治まるだろう。
頭痛が酷くて、時枝はここがどこだとか、どうして二日酔いなのかとか、階下で話しているのは、誰だとか、一切考えられなかった。
ドンドンドンと振動と音が床から響く。
誰だよ…静かに歩けっ!
更に深く、布団に潜り込む。
音と振動が、近づいて来る。
くそ、殺してやりたいっ!
布団の中でダンゴ虫のように身体を丸めているが、音と振動からは逃げられない。
ドンドンドンと近づいてきた足音が止み、ガタっと引き戸が開く音がした。
そして、またドンドンドンと数歩確実に誰かが時枝に近づいて来た。
コノヤロ、嫌がらせかっ!
用があるなら、静かに歩けっ!
と、罵倒した。悲しいことに、頭痛が酷すぎて、時枝の口からは、罵倒した言葉ではなく、う~っ、という呻き声のみが洩れていた。
時枝は布団を内側からしっかり握りしめていたのだが、近づいてきた誰かによって、その布団を一気に剥がされてしまった。

「なにっ!」
「起きろ―――ッ!」

声も、時として凶器になるらしい。
時枝は耳元で大声を出され、脳味噌が砕けるのを感じた。

「ひぃ!」

咄嗟に耳を庇ったが、遅かった。

「なんて、ざまだ。勝貴、起きろっ!」

丸めた身体を誰かが、イヤ、聞き覚えのある声の主が、無理矢理起こそうとする。

「顔も酷いし、酒くせ~」

イタタタ、と時枝は額に手を当て、強引に起こされた上半身を立て直すと、ゆっくり顔を上げた。

「…ゆう…い…ち…」
「ゆういち、じゃねえだろ。来いっ!」

勇一を目の前にしても、いまいち状況が飲み込めていない情けない状態の時枝の腕を勇一が掴み、無理に立たせると、そのまま引きずって洗面所へ連行した。
合宿所にあるようなタイル張りの昭和を思い出させる洗面所。
勇一が時枝の頭を押さえつけると、蛇口を捻り、流水を時枝の頭にぶっかけた。

「ひっ」

冷たい水が、二日酔いの時枝の頭を直撃だ。
髪から伝って顔も首も着ていたパジャマの襟も、冷たく濡れた。

「やめろっ!」

時枝が押さえ込まれている頭を振って抵抗した。

「お目覚めか? あ?」

水が止められ、時枝の頭から勇一の手が退く。
水を滴らせ時枝が顔を上げると、目を釣り上げた勇一の顔があった。

「勇一……、俺…」

やっと時枝は、勇一がどうして目の前にいるのか、飲み込めた。
自分を迎えに来たのだ。
第一声は、謝罪の言葉だと決めていたのに、勇一の怒った顔に威圧され、言葉が続かない。
言葉が続かないだけでなく、勇一の顔が見れなくて、時枝は目を反らしてしまった。
そんな時枝に勇一は頭からタオルを掛け、ゴシゴシと髪と顔を乱暴に拭いた。

「人をおちょくるのも、いい加減にしろよ」

来い、とまた腕を掴まれ、経路を戻りさっきまで時枝が頭を抱えて丸まっていた部屋へ時枝を入れると、乱れた布団の上に時枝を突き飛ばした。

「…待ってくれ、勇一、話を」

てっきり怒り心頭の勇一に、殴られるのかと時枝は思った。
自分だって腕に自信はあるが、本気を出した勇一には敵わない。
殴られても仕方ないことをしたのかもしれない。 
勝手に誤解して、勝手に別れ話をし、しかもその理由が「ヤクザが嫌い」だからだ。
殴られても構わなかった。
しかし、その前に自分の口から謝罪をしたかったのだ。
だが勇一が取った行動は時枝を殴るではなく、時枝の上に馬乗りになり時枝を全裸に剥くというものだった。

「なっ…、落ち着けっ! 勇一ッ!」
「俺は落ち着いている。慌てているのはお前だろ」

上から時枝を見下ろしながら、勇一が自分のシャツを脱ぐ。

「悪いが、愛撫をしてやる暇はない。勝貴の顔を見たときから、コチコチだ」

勇一が腰を浮かせ、ベルトを抜き、ファスナーを素早く降ろすと、中から猛ったモノを取りだした。

秘書の嫁入り 青い鳥(31)

「失礼じゃないですか」
「事実だろ。時枝さん、あんた、見合いしたことないだろ?」
「ないですけど、それが何か」
「だから、見合いのシステム知らないんだよ。あんた、見合いしたら、直ぐにカタ付けると思っているだろ?」
「結婚の意思がない場合はそうでしょう?」
「あのな、結婚の意思がなくても、間に入った人の顔を立てて、数回デートぐらいするぞ? 断る時、数回会って、色々話してみましたが、自分にはもったない相手で、とか言って断る方が角が立たないんだよ。それに、」

チラッと、時枝を見る。
ここまで言えば分かるだろうと、視線が語っている。

「お互いに仕方なく、っていう場合が多いんだ。そういう見合いって、だいたい、仲介してくれた人への義理とかで見合いだろ。そう言うときは、数回のデートに見せかけて、二人で上手い断り方を相談してたりするんだよ。だいたい、あんた、相手が誰か、知っているのか?」
「…知らない」
「相手が、ヤクザに嫁ぎたいって本気で思っているかどうかも分からないじゃないか」

それはそうかも知れない。
黒瀬の実母がいい例だ。
見初められたばかりに、訳も判らず嫁いだ結果、悲劇は生まれた。

「仮にだ。何か事情があって、相手の女性だってしたくもない見合いをさせられていたとする。相手から断れない事情があった場合、桐生さんならどうするかな?」

勇一なら相手の話を聞いてやるだろう。
そして穏便に破談にもっていくに違いない。

「まあ、実際、どういう見合いなのかは、分からん。しかし、見合いして数回デートしているだけで、大の男が大騒ぎするほどのことか? もし、あの桐生さんが本気で結婚を考えているなら、あんたに相談無しってことはないと俺は思うけどな」
「本気だから、俺に言えなかったんだ。そう考える方が自然だ」

佐々木さんだって、慌てて自分のところに来たんだ、と、大騒ぎしたのにはするだけの理由があるんだと、尾川を見据えた。

「時枝さんの常識では、だろ。俺からみたら、一々言わない方が自然だ」

そこで初めて、時枝を含め周りの人間の常識が、もしかしたら普通と違うのかと思った。
桐生の中や黒瀬達の間では、自分の感覚が一番まともで、最も常識人だと思っていたが、一歩外に出ると違うのかもしれない。
そもそも勇一の見合い話を時枝の耳に入れた佐々木も、見合いをした経験があるとは思えないし、こと恋愛事には大げさな男だ。
大袈裟に捉えすぎていたのだろうか?
尾川の言うことにも一理あるように思えてきた。

「百歩譲って、組長さんが本気で結婚を女性と考えているとして、そう思うならどうしてあんたは確かめないんだ?何も訊かず、自分から身を引くって、なんだそれ? 昼のメロドラマか、演歌の歌詞か? さっきも言ったけど、腹の中ぶちまければいいじゃないか」
「…他人事だから、簡単に言えるんだ」

はい、そうですかと、簡単には素直になれなかった。

「あんたも大概焦れったい男だな。俺は、海の男なんで、短気なんだ。悪く思うなよ」

尾川が立ち上がり、木製の古い小物入れの引き出しから何やら取りだした。
名刺だ。
それを見ながらレトロな黒電話の受話器を握る。
どこに電話しているのか、と尾川の指先を見ていたら、回すダイヤルを見て時枝は驚いた。

「尾川さんっ!」
「いいから、任しときな」

尾川は回したダイヤルは、勇一の携帯のナンバーだった。

「あ、桐生さんですか。夜分にどうもすみません。福岡の尾川です。…ええ、元気でやってます。はい、また一杯やりましょう。ちょっとつかぬ事を伺いますが、桐生さん、お見合いしたんですって? ほう、それはまた。で、ご結婚をその方と? …ははは、そうですか。でしたら、明日朝一でお宅の嫁さん迎えに来てもらえませんか? 迎えに来ないと浮気するそうですよ。尻に敷かれてますね。アハハ。じゃあ、明日」

受話器を置いた尾川の横で、時枝が顔面蒼白で口をパクパク金魚のように開けていた。

「明日、桐生さん迎えにくるそうだ。良かったな」
「よ、よ、よ…」
「よよよ?」
「…よっく、な―――っい!」

蒼白だった顔が、今度は一気に真っ赤だ。

「どうして? あ、それと結婚ないって。やっぱり、良かっただろ? 最初から、深刻になる問題じゃなかったんだよ」

勝ち誇ったような尾川の言い方にカチンと頭にくる。 
しかし、全て尾川の言った通りだった。
自分で問題を大きくし、勝手に悩み、勝手に答えを出し、そして、立ち直れそうもないぐらい落ちていた。
尾川に抱いてくれと持ちかけるほど自暴自棄だった。
時枝の身体から、力が抜けた。
今まで必死で乗り越えようと、藻掻いていた全てが、無意味だった。

「…アハ…、アハハ…、ハハハ……」

あまりに自分が滑稽で、笑いが込み上げてきた。
そんな時枝に尾川が慌てる。

「オイ、正気か? 大丈夫か? ほら、これ、飲め」

コップに日本酒をなみなみと注ぐと、時枝に持たせた。 
時枝はそれを水のように一気で飲み干した。

「…良かった…、まだ結婚しない…良かった」

先程緩んだ時枝の涙腺は、いとも簡単にまた緩む。
今度は安堵の涙だ。

「まだ、って、多分桐生さんは一生しないと俺は思うけどな。その辺は二人で納得がいくまで話し合えよ。一人で勝手に結論付けるのは子どものやり方だ。まあ、あんたも意外と大人の仮面を被った子どもかもしれんな」

時枝を子ども扱い出来るのはこの男ぐらいだろう。
潤が実父のジェフ以上に、この尾川を父親代わりに慕う気持ちが、今の時枝にはよく理解できた。
普通なのだ。 
普通の感覚で、しかも寛大なのだ。
父親と暮らしたことがない潤には温かくて大きい理想の父親像なのだろう。

「子どもですか…、そうかもしれません。俺も勇一も、無理矢理大人になったところがあります。黒瀬もですが」
「なに、男はみんな子どもなのさ。って、格好つけてみた。どうだ?」
「どうだって…えっと…」

笑えません、と正直言っていいものか。

「駄目か? チェッ」

尾川が拗ねて見せる様子がおかしくて、今度は普通に笑いが込み上げてきた。
頬にはまだ涙が残っていたが、中年男の可愛い子ぶった素振りがツボにはまり、久しぶりに腹の底から笑えた。

「それだけ笑えれば、大丈夫だ。さあ、飲め。飲んでヤなことは忘れてしまいな。明日はダーリンが迎えにくるからさ」

本当に一方的に別れ話をした俺を迎えに来てくれるのか、と時枝は不安だった。
一体どんな顔で会えばいいのかも分からない。
しかし、尾川の影響か、もう一人で抱え込むのはやめようという気になっていた。

秘書の嫁入り 青い鳥(30)

「いい加減にしろ。どんな事情で別れたかは知らんが、まだ気持ちが残っているんだろうが。大人のあんたが誰かと寝ようとそれは自由だ。しかし、今のあんたが、それですっきりすると思っているのか? あんた、今以上に辛くなるぞ? それでもいいのか?」

叩かれた頬をさすりながら、時枝が尾川を見上げた。

「じゃあ、どうすればいいんですかっ! 俺から別れたんだ。これが勇一にとっても桐生の組にとっても、最善だと信じてる。だけど、理屈じゃ割り切れないんだ。苦しいんだよっ。あんた俺より人生長く生きてるんだろ? 教えてくれよ。…教えて下さいっ! あいつはただの恋人とかそういうんじゃ、ない。くそぉおおおおおっ」

大声で喚いていた。目から水分を飛ばし、八つ当たりだと分かっているのに、心配してくれている尾川にあたっていた。
尾川が、前からではなく、時枝の後ろから羽交い締めにするように時枝を包む。

「潤や黒瀬さんのことでは冷静で、先を見据えての判断ができる時枝さんも、自分のことになると潤よりガキだ。あんた、仕事も完璧で、黒瀬さんや潤を引っ張って行ってるんだろ? でも、恋っていうのはそういうものだ。人から思考を奪う」

諭すような尾川の言葉に、時枝は嗚咽をあげたまま、耳を傾けた。

「誰でもそうだ。恥ずかしいことじゃない。泣き喚けばいいんだよ。ほら、泣け」

泣いている人間に泣けというのも尾川らしいが、泣けと言われると涙は引っ込むらしい。

「…もう、いい…です…」
「泣いていいんだぞ?」
「…泣けません……」
「じゃあ、俺の話を聞け」

羽交い締めにされたまま、首をコクンと下げた。

「あんた、間違っていると思う。おっと、反論するなよ。最後まで聞いてくれよ。俺が間違っていると思うのは、泣いて本音を伝えるのが俺じゃないということ。相手が違うだろ? 時枝さん、あんたのことだ。自分だけで自己完結しようとしたんじゃないのか? ちゃんと向き合ったわけじゃないだろ? 話し合っての別れ話じゃないだろう? 自分から別れたって、さっき言ってたよな。それって、自分の本心を相手にぶつけてないんだろ? だから苦しいんじゃないのか」
「…それが、出来ないから…。最善の方法をとった…」
「最善? 本当にそうなのか? そう自分で思い込んでいるだけじゃないのか? だいたい、恋人同士だったんだろ? 腹の中かち割って洗いざらいハッキリさせて、カタ付けろよ。それで別れるなら、別れるでいいじゃないか。違うから、自分の中だけで、終わりにしようとするから、やり場がないんだよ。あんた、桐生さんのことが、好きで好きで堪らないんだ。相手の為に身を引くって、美徳でも何でもないぞ? 潤達の話を聞いたが、彼奴らだって、身を引こうとしてたそうじゃないか。でも、引かなかった。それでも、何とかなったじゃないか。あんた達がいたからだ。逆に言えば、あんたと桐生さんにも、潤達がいる。事情は知らないが、あんたが身を引かなくても済む解決方法もあるかも知れないし…あの桐生さんがあんたを捨てるとは思えないけどな」

でも、事実…

「見合いした…その相手と付き合っている」

ぼそり、時枝が洩らした。

「見合い? それで、あんた…」

時枝を羽交い締めした尾川の腕がブルブル震えだした。

「…くっ、」

腕だけじゃなく、尾川の身体全体から細かい震動が伝わってくる。

「尾川さん?」

時枝が、泣き腫らした顔で後ろを振り返った。

「…たまらん…クッ、…ワリィ…あぁあ…腹が痛いッ…」

時枝の目に映ったのは、声を必死で堪えて笑っている尾川の顔だった。

「尾川さんっ!」

どこにも、笑いを誘う要因はなかったはずだ。
泣き喚いた自分の姿は、笑いを誘うものだったかもしれないが、そんな自分に確かに尾川は説教めいた言葉を掛けてくれた。
尾川がもう駄目だと時枝に掛けていた腕を外し、畳に座り込み涙を浮かべ腹を抱えて笑い出した。

「可笑しい話はどこにもないでしょっ!」

親身になって話をしてくれてるかと思っていたのに、大笑いされ、バカにされているのかと腹が立ってきた。

「…あんた、見合いってッ…あ~、腹が、千切れそうッ…それが原因でッ…ヒィ~~」

見合いが、そんなに可笑しいことか?

「あ~、悪かった……はぁ…、はぁ…、やっと落ち着いた」
「尾川さんっ、説明して下さいっ! 笑われる原因が分かりませんっ!」

呼吸を整える尾川に時枝が詰める。

「そりゃ、可笑しいだろ。思い詰めた原因がたかが見合いだっていうんだ。もっと深い何かがあると思うだろうが。死ぬような顔で思い詰めていた原因が、見合いって、そりゃ、見合いぐらい、桐生さんだってするだろうよ」
「ぐらいって、何ですか? 見合いしたんですよ。今までしたことがなかった勇一が俺に黙って」
「俺だって、世話焼きババァに無理矢理見合いって何度もあるぞ? 黙っていたのは、時枝さんにいうほどのことはないってことだろ」
「しかも、相手と付き合ってるんだ。結婚を考えている証拠だろ。だったら、俺が身を引くしかないじゃないかっ!」

尾川が時枝を見て、また笑いをかみ殺している。

「…時枝さん、あんた、頭賢いんだろ? 社会の裏だって見てきてるんじゃないのか? くっ…、なのに、世間知らずだったとは…」

世話になった桐生もそうだが、黒瀬と共に歩んで来た世界は、裏なんていう生易しいものじゃない。
まさかその自分が世間知らず呼ばわりされるとは思ってもいなかった。

秘書の嫁入り 青い鳥(29)

「ゆっくりしててくれ。活きのいい魚を仕入れてくるからよ」
「もう、暗いですが」
「ちょうど、夕方戻ってきた船が、荷を降ろしている頃だ」

尾川が出て行き、一人残された。
時枝は、東京を出てから、自分の中の勇一への思いを断ち切ろうとしてきた。
だが忘れようとすればするほど、自分の中に占める勇一が存在をアピールする。
一人残されれば、また勇一のことを考えてしまう。キリがないのだ。
岸壁から飛び降りそうと言った尾川の言葉じゃないけども、存在を消すには、自分がこの世から消えるしかないような気さえする。
それはできない。
消えるなら、絶対に勇一に知られない方法じゃないと、もし、自分がこの世を去ったことが分かれば、勇一は深く傷つくだろう。
ああ見えて、繊細な男なのだ。
勇一が見合い相手と付き合っているとしても、一方的な別れ話で傷ついていることは、時枝には分かっていた。
しかし、勇一の将来の為にはこれが最善の方法だと思っている。
憎まれてもしょうがない。
だけど、これ以上傷付けたくはない。
そうでなくても、勇一は今までも心を痛めてきた。
特に黒瀬の事では、自分を今でも責めている。
彼の人格を変えてしまったのは、父親の彼への虐待に自分が気付かなかったせいだと思っている。
父親の死が早かったのも自分のせいだと責めている。
そして時枝の人生を変えてしまったことも、自分の我が儘のせいだと、責めている。
桐生のトップとして君臨している彼の心が、傷だらけとは誰一人思ってはいない。
時枝だけが知っていた。

「死ぬ選択肢も俺にはない…」

自嘲気味に時枝は呟いた。

「当たり前だろ。あんた何を考えているんだ? 死ぬ選択肢は、誰にもない。しっかりしろよ」

いつの間にか尾川が戻って来ていた。
目を釣り上げ怒っていたが直ぐに笑顔になった。

「人間空腹だとろくなこと考えないからな。刺身で、先にやっててくれ」

大きな絵皿に盛られた刺身をちゃぶ台の上に置く。
仕入れ先で、その場で刺身にしてもらったらしい。
さほど空腹感はなかったが、口に入れてみると、腹が減っていたことが分かる。
そういえば今日は何も食べてなかった。
昨日は何か口にしただろうか? 覚えていない。 
いつが最後の食事だったかも思い出せないほど、時枝は精神的に参っていた。

「鍋にしたから、すぐに食えるぞ。酒も用意したから、好きなだけ飲め」

カボスの酢醤油を小皿に用意してくれた。
チューブに入った紅葉おろしをその中に入れ、二人で鍋を囲む。

「飲むと、ヤバイ人だったよな、時枝さんって。明日が仕事ってわけでもなさそうだから、酔ってもいいんじゃないか? 飲め飲め」
「頂きます」

勧められるままに、酒も飲む。
飲んで憂さ晴らしが出来るとは思わないが、酔えば何も考えなくて済むかなと酒が進む。
尾川は、時枝がどうして小倉にいたのか、どうして一人でフラフラしていたのか、訊いては来なかった。
話は黒瀬達の結婚式の話しだったり、潤の母親の若き日の武勇伝だったり、全く関係のない野球の話だったりと、時枝を気遣っているようだった。
最後の雑炊を食べ終わったころ、時枝の身体に酒も程良く回っていた。

「何も訊かないんですね」

時枝が箸を置く。

「訊いて欲しけりゃ、訊くぞ。言いたくなければ、それでもいい。抱えていることがあるんだろうけど、それは時枝さんの問題だ。此処に連れてきたのは、好奇心でそれを訊きだそうっていうんじゃない。俺が放っておけなかっただけだ」
「…優しい人だ。甘えてしまいたくなる」

寄りかかれるものが欲しかった。

「時枝さん?」

尾川の背に、時枝は自分の背を合わせた。

「尾川さんは、男と寝たことありますか?」

背中越しに質問する。

「ないな」
「後腐れない遊びは?」
「ある」

正直な男だ。

「俺と遊びましょう」

スラッと出た言葉に、自分でも驚いた。

「後を引くのは、遊びとは言わない」

ふざけるなと、怒鳴られると思ったが、淡々と言われた。

「…遊びじゃなくても構いません。俺は誰かと寝たい。後先考えずに、何も考えずに寝たい」
「いいだろう。但し、彼に連絡しろ」
「彼って?」
「桐生勇一。あいつに内緒にするなら、諦めろ。俺は、あんたも気に入っているが、彼も気に入っている。あんた達二人が好きだ」
「…別れた男ですから。関係ありません」
「関係あるだろ。関係ないなら、あんたがそんなに傷ついている理由がない。悪いけど、時枝さんが、仕事でヘマするとは思えない。訊かなくても理由はその辺だろうとは思っていたよ」
「…連絡は出来ません」
「なら、無理だ。コソコソしたことはしたくない。そんなことすれば、二度と会えなくなるからな。正々堂々としていたい」
「…分かりました。すみません、変なこと言って。他当たります。お邪魔しました。俺、行きます」

背を向けたまま、立ち上がる。
歩き出そうと前に一歩踏み出したところで、後ろ足を掴まれた。
座っていた尾川が立ち上がり、時枝の頬を平手で叩いた。
時枝の顔から眼鏡が飛んだ。