その男、激情!143(終)

「…はぁ、はぁ、だから、これで、勘弁しろ」

落ちた指を掴むと、今度は佐々木に投げた。

「ひぇええっ、」

腰を抜かした状態の佐々木が、悲鳴をあげながらキャッチした。

「指ぐらいで、桐生の若頭がそんな声出すなっ」

ど素人が指を渡されたような反応に、激痛の勇一が呆れ顔だ。

「…組長の指ですよっ」
「そうだ、俺の詫びだ。ガキの身に起こったことの代償にしては、陳腐かもしれね~が、これで勘弁してやってくれ。この通りだ」

血の滴る二本の指を押さえながら、勇一が佐々木に頭を下げた。

「はいはい、もう学芸会は終わりでしょ?」

血の匂いが充満した部屋に、す~ッとした新鮮な空気が流れ込む。
パチパチと手を叩きながら、黒瀬と潤が入って来た。

「ちぇッ、武史、いたのか」

二人を見るなり、勇一が露骨に嫌そうな顔をする。

「ふふ、やはり、桐生一の問題児は兄さんですね。あ~あ、畳まで派手に汚しちゃって…ほら、兄さんの腹の中と同じどす黒い血が落ちてますよ」
「…ホントに切り落としてる。――本当に問題児かも…信じられない、…信じられないバカだ」

黒瀬の横で真っ青な顔の潤が、忌憚なく思った事を口にした。

「お前ら、何しにきた」
「何しにって、学芸会の片付けかな? 単細胞の兄さんはここで終わりだと思っているでしょうけど、ここで終わりにするのは私の美意識に反するので」
「…美意識? 勝手に割り込んできて勝手なことほざくな」
「ふふ、誰も兄さんに美は求めていませんから、ご安心を。それより佐々木、時枝からイモ虫を預かって」
「…芋虫?」
「一本は佐々木も持っているじゃない。その醜いイモ虫と兄さんを早く医務室に連れて行って」
「佐々木、勇一の指だっ! 武史の言う通りに早くしろっ!」

地のままの時枝が、佐々木に勇一の指を差し出す。

「あっ、はいっ!」

佐々木が時枝から慌てて指を受け取る。
今度は悲鳴をあげなかった。

「組長、行きましょうっ!」

勇一の指を二本とも預かった佐々木が、勇一を振り返る。

「誰が行くかっ、」
「兄さんに選択の余地はありませんよ。今まで私が被った迷惑の数々を考えたら、足の指まで落としても足りやしない。指二本程度で何が詫びですか。落とし前付けるにしても、ホント、中途半端で笑いがこみ上げてきますね」
「何をぉおおっ!」

勇一が大股で黒瀬の前まで行くと、右手で黒瀬の胸ぐらを掴んだ。

「怪我人のくせに威勢だけはいい。まさかその汚い左手で殴るつもりじゃないでしょうね」

言いながら、黒瀬は潤に目配せをした。
潤が頷く。
以心伝心、潤が素早く動く。

「悪いんですけど、兄さんの血を浴びるつもりはありませんから。ふふ、潤の血なら話は別ですが」

黒瀬が勇一の手を払うと、勇一の肩を強く突いた。

「わっ、」

バランスを崩した勇一が腰からひっくり返る。
着地した先は畳の上ではなく、時枝の車椅子の上だった。

「グッドタイミングだよ、潤。ふふ、まさに阿(あ)吽(うん)の呼吸」

黒瀬の意図するところを組んで、潤が動いた結果だった。

「畳の上に車椅子を持ち込んだ非常識はこの際目を瞑りますッ! 社長、潤さま、早くそのバカ男を医務室へ。佐々木さんもっ!」

時枝に慇懃さは戻っていたが、勇一はバカ男に格下げになってしまった。

「とうとう、名前で呼ばれなくなったね。行きますよ、バカ男さん」

車椅子から腰を上げようとした勇一の頭を上から黒瀬が押さえ付けた。

「このヤローッ、勝手なことしやがってっ、離せっ! 降ろせっ!」
「勝手なことをしたのは兄さん。足りない頭で考えるからこんな汚い結果になるんです。本当に美しくない。血を流すならもっと優雅に流して下しい。ふふ、それに兄さんの嫌がることをするのは楽しいので、とことん兄さんの意に反することをさせて頂きます」

車椅子のグリップを黒瀬が握ると、

「ふふ、救急車両として、スピード出しまから、振り落とされないようして下さいね。佐々木も、イモ虫落とさないように!」
「はいっ!」

 

嵐は去った。
勇一に伴い、皆医務室へ向かった。
一人残された時枝は、畳の上に残された血痕に指を這わせていた。

「――疲れた…。昔からバカだったが…ぐっ、…この三年でもっとバカになって戻って来た…ははは、――戻って来た…。本当に戻ってきた――バカでもいいんだ……、バカでもっ、…、――バカでも…アホでも…、」

時枝の頬を伝って流れ落ちる滴が、勇一が残した血痕の上に落ちる。

「――ちょっと、休みたい…。――駄目だ…眠い…、武史が付いてるなら…大丈夫だろ…起きたら説教だ、…起きたらな、勇一…、…」

時枝の身体から力が抜ける。
血痕の上に頬を乗せるようにして、時枝の身体が畳の上に雪崩落ちる。

 

 

「時枝さん?」

途中まで黒瀬らと一緒だった潤が戻って来た。

「一人にしたので、拗ねてるとか…」

横になった時枝から返事がない。

「勝手に車椅子使ってごめんなさい。だから、迎えに来ました。一緒に医務室に行きましょう」

時枝の前に回り込んだ潤が、時枝の身体に手を置き、軽く揺らした。

「時枝さん、こんな所で寝ると風邪ひきますよ。――時枝さん?」

返事がないまま、時枝の身体が潤に揺られゴロンと転がった。

「時枝さん、――時枝さんっ、――うそっ、時枝さんっ、起きてっ、…時枝さんッ! ――それは、有り得ない…」

時枝の目が開かない。
眼鏡の奥の目が開かない。
激しく揺らしても、頬を叩いても、耳元で叫んでも、 時枝の瞼は微動だにしない。

「起きろ―――ッ!」

潤の悲痛な叫びが谺した。

 

その男、激情!(了)
「その男、激震!」へと物語は進む

 

 

更新中、沢山のオーエン、ありがとうございました! やっぱ、最後のシメは俺かなと。ヤクザ者S~からここまで応援してくれた皆さんもいると思う。きっとその中の多くは俺,大森大喜のファンのはずだ。え? 時枝のオヤジが好き??? 俺の方が若いぞ! 若い方がいいって! さて、ここで終わったらバッドエンドだけど、シリーズは続くんだ。このシリーズにバッドエンドは似合わないだろ? よかったらサイトやら同人誌で発表中の「その男、激震!」もよろしくな。激震でモロモロのカタは付くと思う。(サイト「黒桐Co.」にて不定期更新中)
会員ページじゃなくて、この激情と同じNOVELS内に置いてあるから、どなたも閲覧可能だから。あ、それとお知らせ入ってたと思うけど、お知らせブログ「砂月玩具店with黒桐Co.~STORY*STORY~」は定期的にチェック頼む。あれさ、名前長いから、通称STSTでよろしく、な。

では、皆さん、これからもこの機上恋シリーズを愛してやってくれ! 頼むぞ!
んでもって、文庫が手元にある方!

じゃあ、名残惜しいけど……ありがとう! SEE YOU ! 以上大森大喜でした。

追伸:会員パスを申請してくれた方、パスと一緒に載せてあるミニストーリー・「激情と激震の狭間」は文字通り、このラストと激震の間のことです。

その男、激情!142

「佐々木、」

勇一が時枝から佐々木に視線を移した。

「はい」
「短刀を返す。取りに来い」
「…はい、」

佐々木が勇一の前に出向き、畳に突き刺さった短刀を引き抜こうと柄を握った。
すると勇一が、五本指揃っている右手で短刀を上から押さえ付けた。

「…あのぅ、…組長、手を」
「このままで俺の話に付き合え」
「はい」

横から佐々木、上から勇一、一本の短刀を奪い合っているように見える。

「…ガキにも同席して欲しかったが…」

その一言で、時枝は勇一が今から話そうとしている内容が分った。

「それは、駄目だ――っ」

時枝の叫びを勇一は完全に無視した。

「おまえのとこのガキに、援交させた」
「エンコー?」

佐々木が、何ですかそれ? という顔で聞き直した。

「金の為に、男を釣らせた。美人局のはずが、最後までいっちまった」
「…最後までって…、それはどういう意味ですか?」

佐々木が目を伏せ、抑揚のない声で訊いた。

「テメェのとこのガキは俺のせいで男にケツを掘られた」
「…そんな、…バカなっ、」
「事実だ」
「信じられるかァア――ッ!」

烈火のごとく怒った佐々木が、掴んで短刀を勇一を押し退け引き抜くと、そのまま勇一に向け、翳した。

「佐々木さん、落ち着いて下さい」

時枝の声は、怒りで興奮した佐々木の耳には届かなかった。

「振り下ろせ。お前にはその権利がある」
「許せねーっ、ダイダイをっ、俺のダイダイにっ、」

佐々木が勇一の胸ぐらを掴むと、短刀を振り下ろした。

「ヤメローッ」

結末が怖くて、その瞬間、時枝は目を閉じた。
刺されたはずの勇一からも佐々木からも何の声も上がらない。
勇一が倒れた音も聞こえない。
時が止まったような静寂に、時枝がゆっくりと瞼を上げた。

「…静止画?」

佐々木の振り下ろした短刀の刃先が、勇一の喉仏に触れていた。
そこから血液が一筋流れている。
そこからグイッと押し込めば、勇一の命は切れるだろう。
だが、そこで止まったままだ。
目を凝らして見ると、静止画ではなく動きがある。 
佐々木の短刀を握った手が小刻みに震えている。
それが刃先に伝わり、喉仏の傷も少しずつ拡大しているようだ。
流れ落ちる血の量が少しずつ増えている。
それでも命に係わるような量ではない。

「どうした、佐々木?」

勇一が佐々木を挑発するように言う。

「…うっ、…うっ、…うっ、」

命を預けている勇一と命に替えても守ってやりたい大喜。
グサリと行く寸前の所で、忠義心が佐々木の動きを縛っていた。

「勇一じゃない。橋爪がしたことだっ!」

今ならまだ間に合う、と時枝が佐々木に訴え掛ける。 
時枝とて、橋爪だからといって許せる話じゃないと大喜に言っていたが、今は別の人間がしたことだ、と訴えることしか思い付かなかった。

「勝貴、余計なことを言うなっ!」

勇一から叱られても、時枝は止めなかった。

「佐々木さん、橋爪は俺を銃撃したぐらいだ。勇一だったらそんなことはしないっ! 橋爪が許せないなら、その責任は俺にあるっ! 俺を殺せっ!」
「勝貴! 佐々木の邪魔するなっ!」
「ゴチャゴチャ、ウルセ―ッ! …うっ、…くそっ、…くそォオオっ!」

佐々木の短刀が動いた。

「っ、」

短刀の動きに時枝が呼吸を忘れた。

「――ぅ、そぅ」

一瞬の出来事が、スローモーションのようにコマ写しで時枝の網膜に焼き付いた。
佐々木の短刀が前に動くのと同時に、勇一の身体も同じスピードで後退した。
グサッと刺さるはずの刃は刺さらず、喉仏の出っ張りに触れただけに留まっている。
勇一は背筋を使っただけだったが、少しでもタイミングがずれれば、佐々木の短刀が喉を突き刺していたのは間違いない。

「…、――アッシは、――アッシは、なんてことをッ!」

気が動転していた佐々木は、自分が勇一を刺したと思い込んでいた。
ガクガクと震えだした佐々木の腹を、勇一が殴った。 
佐々木がよろけ畳みの上に尻から落ちると、手にしていた短刀を奪った。
畳の上にまだ半分残っていた半紙の上に、血で染まった左手を置くと、

「振り下ろす権利は与えるが、命はやれね~んだよ、佐々木。勝貴をこれ以上の地獄に落とすわけにはいかね~からよ。―んぐっ、」

薬指を第二関節から落とした。

その男、激情!141

「何いってるんだ? 俺が橋爪だと言いたいのか? 橋爪でも劉(りゅう)というヤツでもないぜ。俺はお前のダチから旦那に昇格した桐生勇一だ。式だって挙げたじゃねえかよ…寒かったな、あの教会――まさかアレからしばらく会えなくなるとはよ~、やっぱ、映画のセットじゃ神様が怒ったのかもしれね~な。第一、俺、クリスチャンじゃねえし」
「―――勇一、お前…、」

時枝が、恐々と視線を上げると、短刀を勇一が左手の小指の第二関節に押しあてたところだった。

「ばかっ、ヤメロッ!」
「組長ーっ! はやまらないで下さいっ」
「――殺さなくて良かった…。勝貴をこの手で殺さなくて良かったっ! ――もう、分っただろ。俺に、筋を通させろっ! 詫びを受けろ、」

えい、っと勇一が短刀に圧を加えた。

「ぐっ、」

勇一の顔が一瞬酷く歪む。

「バァカヤロゥウウウーッ!」

刃が半紙に到達したシャリという音と共に、時枝の声が轟いた。
ベッドリと赤く染まった短刀を畳に勇一が突き刺した。

「…はあ、…はあ、ほらよ。受け取れ」

自分の身体から離れた小指を、勇一は時枝に放り投げた。
時枝が、身体のバランスを崩しながら勇一の小指をキャッチした。

「時枝さんっ」

横に倒れた時枝を、佐々木が起す。

「俺のことより、救急車だっ! 早く、この指と勇一を運べっ!」

ついさっきまで勇一の身体の一部だった小指は、まだ勇一の体温を保っていた。

「なんてことしたんだっ、こんな詫びを俺が喜んで受け取るはずないだろぅが、この大バカヤロ―ッ。佐々木っ、ぼやぼやするなっ、救急車っ!」

敬称など付ける余裕もなく、時枝は自分の身体を支えている佐々木を怒鳴る。
佐々木が慌てて立上がった。

「佐々木、まだ、おわってね~よ。座れ」

小指の切断口からの出血を半紙数枚で押さえながら、勇一が佐々木に眼を飛ばす。

「組長っ、無理ですっ。救急車が先です!」
「いいから、座れっ! 俺が座れと言ってるんだ、座れっ!」
「佐々木、いいから救急車っ!」

相反する指示。
佐々木とて、時枝の方を優先させたかった。

「俺と勝貴、お前にとって、どっちが組長だ? あ?」

その一言で、佐々木は動けなくなった。

「佐々木ィイイっ!」

時枝の叫びに、佐々木は「申し訳ございません」と答えるしかなかった。

「もう、いい。自分で呼ぶっ」

時枝が自力で立とうと試みる。
だが、力が思い通りに入らない足では立てるはずもなく、結局座ったままの移動に切り替えた。

「…くそ、…くそうっ、――こんな時に、この足はっ、」
「――…その足にしたのも、俺だ…俺がお前をそんな体にしちまった…俺のケジメを見届けてくれよ、勝貴。まだ、終わってないからよ。頼む。見届け人になってくれ。この通りだ」

勇一の態度が一変する。
深く頭を下げた勇一に、彼の底無しの苦悩を感じ、時枝は動けなくなった。

「――お前のケジメが、俺にはどれだけ残酷が分ってて、言っているんだろうな?」

自分を庇ったせいで、勇一は撃たれたのだ。
橋爪にしてしまった責任は、自分にあると時枝は思っている。
殺し屋を名乗っていたぐらいだ。
この数年の間に、きっと何人、何十人と殺めてきたはずだ。
今、橋爪として生きた歴史が勇一の中にあるというなら…これまでに犯した罪の苦しみに押し潰されそうなはずだ。

「…分っていると思う。しかし、頼む。桐生勇一の仁義を貫かせさせてくれ」
「――わかった。好きにしろ」

時枝は覚悟を決めた。
こうなりゃ、勇一のやりたいことにとことん付き合うしかないだろ。
それを目の前の男は望んでいるのだ。
戻って来た最愛の男が。

その男、激情!140

「俺を殺したいと思った事はないか?」

勇一が佐々木に訊いた。

「――アッシが、…組長をですか? 滅相もございませんっ!」
「そうか」

勇一が立上がり、大股で佐々木の所まで来ると、

「ちょっと、コレ借りるぞ」

佐々木の前に置かれた短刀を手にして自分の場所に戻った。

「良く手入れしてるな」

鞘から抜いた刃を念入りに眺め、指の腹を当て、軽くひいた。
ポタリと赤い滴が畳の上に落ちた。

「勇一、血判でも押すつもりか?」

勇一の真意が分らず、堪らずに時枝が訊いた。

「いいや」

着物の袷部分から半紙の束を取り出すと、それを畳に広げた。
その半紙の上に、勇一は左手を広げて置きその横に短刀を並べた。

「佐々木、どの指がいいか、決めろ」

勇一が何をしたいのか、やっと二人に分った。

「組長っ! バカな事は止めて下さいっ」
「そうだぞっ! 勇一、どうした? 頭打ってバカに拍車が掛ったのか?」
「そうですよ。詰める必要無いのに、無意味にそんなことするもんじゃありませんっ! ハクづけのつもりですかっ!」
「佐々木さんの言う通りだ。爪切るとの勘違いしてないか? 切ったら伸びないんだぞっ!」

時枝は酷く動揺していた。焦っていた。
スッと立てない身体がもどかしく、手を勇一に伸ばして座ったまま前に進もうと身体を揺らした。

「騒ぐなっ!」

勇一の一喝に、時枝と佐々木が固まる。

「いいから静かに座ってろ。ヤクザのくせに指の一本、二本でガタガタ言うな」
「――二本だと? 二本も詰めるつもりか? ……だいたい、俺がいつヤクザになった? …お前の伴侶イコールヤクザとしても、俺は桐生の構成員じゃないっ。抗議する権利あるだろ! お前の伴侶として、俺は抗議するっ!」

時枝が勇一を見据えた。
何がなんでも阻止してやると睨む。
勇一が左手を半紙の上に広げたまま、時枝をにらみ返す。
緊迫した空気に、佐々木の額に冷や汗が滲む。

「ふん、笑わせやがって」

勇一の視線が時枝から反れる。それから、
天井を見ながら大笑いを始めた。

「…組長、」
「――とうとう、壊れたか…勇一」

一頻り笑うと、勇一は真顔に戻った。

「桐生の構成員じゃないだと? 時枝組長さんは、他の組からの借り物だったと言うつもりか?」
「……お、まえ、――それ、」

時枝の顔が蒼白になる。
佐々木は口を開けたまま、絶句だ。

「桐生組を率いていたんだろうが。なにが、構成員じゃない、だ」
「――誰かに、―――何か、…吹き込まれたのか? ……そうだろ、…そうだよな、…そうに違いない…」

時枝の声は震えていた。
声だけじゃなく、身体も震えている。

「吹き込む? そうきたか。だいたいその怪我も組長として、事務所に出勤していた時に銃撃された傷だろうが。まさか、勝貴が馬の被り物なんてお茶目な格好をするとはね~」
「――どうして、ソレを知ってる…、……勇一だよな ――お前、本当に桐生勇一だよな…」

歯がカツカツと鳴るほど、時枝は震えていた。

その男、激情!139

「お呼びでしょうか? 朝食の準備も出来ていますが」

佐々木がシャツの袖を捲って、勇一の部屋に来た。

「朝食の時間はすぎていますが後で頂きます。朝からバタバタしたのでお腹空きましたね」
「組長は?」

室内を見渡した後、佐々木が訊いた。

「着替えています。湯から上がったばかりで着替える必要はないと思いますが、コスプレでも披露してくれる気ですかね」
「――あのう、時枝組長、」

佐々木が身体を低くすると、畳の上に腰を降ろしている時枝に、声を潜めて擦り寄った。

「勇一が戻って来たので、組長は返上です」

時枝も同じく声を潜めた。

「――時枝さん、…大喜のことなんですが…」
「はい、何でしょう」

来たか、と心臓が跳ね上がったが、そこは努めて冷静に返した。

「ボンの所にいるって、本当なんでしょうか?」
「そう聞いていますが」

朝まで一緒にいたことは、伏せた。
木村が話してなければ、時枝が黒瀬のマンションにいたことを佐々木は知らないはずだ。

「…大丈夫でしょうか…、ボンはそのう、以前、ダイダイに……酷い悪戯を……」

そっちの心配か?
橋爪のことを訊かれずに助かったと、時枝の緊張が一気に緩む。

「ナニを二人でコソコソやってるんだ?」

割り込んで来た勇一の声に、時枝と佐々木の二人の世界、もとい、内緒話がそこで終わった。

「…勇一」
「組長?」

時枝も佐々木も勇一の姿を見て、二人とも言葉が続かない。
白の正絹の着物を左前に着ている。
ご丁寧に帯まで白だ。死装束のように見えた。
もちろん、実際には死装束で作られた着物でも帯びでもない。
背中には般若の面が刺繍されている着物だ。
だが、帯との色あわせといい、左前に着ているところといい、わざわざ死装束に見せる為に着ていることは、一目瞭然だ。

「…なんの、…コスプレだ…」
「組長、冗談にしては…ちょっと行き過ぎかと」

実際、この二人は勇一の葬儀を出している。
その時の複雑な想いが、流れた時間を無視して一気に吹き出してくる。

「急だったんで、これしかなかったんだ。いいから、二人とも俺の前に座れ」

勇一が、部屋の中心に正座した。
その前に時枝と佐々木を並べさせたいのだが、時枝は怒りでそれどころではないようだし、佐々木はブツブツなにか口籠もって動こうとしない。

「組長桐生勇一が、座れ、と言ってる」

悪ふざけのつもりではないと、怒気を含んだ声が物語っていた。
時枝と佐々木が顔を見合わせる。
組長命令なら、従うしかない。
時枝は佐々木の助けを借り、勇一の前に坐した。
時枝をたて、その斜め後ろに佐々木が座る。

「二人とも、いい面構えだ」

勇一が交互に時枝と佐々木の顔を見比べる。

「佐々木、短刀(どす)を出せ」
「――ドス、ですか?」
「懐に忍ばせているのを出せ」

素直に出してよいものか時枝の表情を読みたかったが、佐々木の位置からは横顔しか見えない。

「――はい」

上着を脱いでいたため、佐々木は短刀を腰に隠していた。
スラックスのウエストに挟んでいた短刀を後ろ手で抜くと、自分の前に置いた。

その男、激情!138

「はあ~」
「ん? どうした勝貴。まだ気分が悪いのか?」
「いや。大丈夫だ」
「そっか。佐々木のヤツ、遅いな。ちょっと着替えて来る」
「なんだ? その着物気に入らないのか? 似合ってるぞ」
「へへ、ちょっとな。気分の問題」
「どうでもいいが、呼び付けておいて、佐々木さんを待たせることのないようにな」
「分ってるって」

勇一が隣の寝室に消えた。
時枝の耳に人の声が微かだが聞こえた。

「武史と潤か?」

目の前にいなければ、敬称で呼ぶような時枝ではない。

「帰ってなかったのか。やはり武史は何か企んでいるんだな」

きっとロクでもないことだろう、と佐々木とは別の意味で気が沈む。
車椅子か松葉杖があれば、勇一が着替えている隙に探りにいけるのだが、この部屋には身体を支える物も人もいない。

「ケセラセラ…だ。は~あ…イヤな予感に限って当たるんだよな…」

佐々木が現われる迄、時枝の溜息とボヤキは幾度となく繰り返された。

 

 

勇一の部屋を出た黒瀬と潤は、木村を捕まえると勇一の隣の部屋に潜んだ。

「――俺、粗相しました?」

不始末をやらかした覚えはないが、強引に引き摺り込まれれば、自分に非があるとしか思えなかった。
黒瀬の顔を正面から見る勇気もなく、潤に探り探り訊いた。

「したんじゃないの? あ? また佐々木さんと?」

実のところ、潤にも分っていなかった。
てっきり、帰るとのかと思っていた。

「ふふ、ゴリラのことは知らないけど。大事な用事。大至急、医務室に医者を呼んで縫合セットを用意しておいて。全て内緒でやって。木村の地位ならできるよね。特に隣の部屋にいる兄さんと時枝と、木村の大好きな佐々木には内緒。用意が終わる前にバレたら、その時は――…言わなくても分っていると思うけど」
「勿論ですッ! ――ですが、その用意って…」
「余計なことは訊かない。サッサと取り掛かって。大至急って言ったの、訊いてなかった? それから、医務室の用意が終わったら、この部屋に時枝の車椅子も運んで。言ってることが理解できたら、即行動」

黒瀬が最後に笑みを浮かべたので、こりゃマズイと木村は部屋を飛び出した。
木村だけでなく、潤もその用事が意味することを黒瀬に確かめたかった。

「潤まで、そんな顔しないの。備えあれば憂い無しって言うじゃない?」
「――それって、備えが必要なことが起こるかも、ってことだろ? だったら、止めるのが先決じゃないの? 何が起こるのか黒瀬には分ってるんだろ………時枝さんを、哀しませるようなコトだったら、俺、イヤだ」

強い視線で自分を見上げ訴える潤を、黒瀬が胸に抱き寄せた。

「少々妬けるね。時枝に愛を囁いているように聞こえるよ。ふふ、大丈夫、何が起きても時枝の前から兄さんが消えることはもうないから。何を兄さんが企んでも大丈夫。橋爪じゃないなら、問題ないよ。雨降って地固まる。まあ、この場合、血の雨降って、かな?」
「――流血騒ぎってことだろ。どうしてそんなに物騒なんだよ」
「どうして、って潤は可愛いことを言うね。ここはヤクザの家だよ。血ぐらい流れてもどうってことないし、そのために医務室完備なんだから。ふふ、潤だって、ベッドの中では結構流血じゃない?」

黒瀬の手が潤の臀部に滑り、意味ありげに尻の膨らみを撫でた。

「バカぁあ、…意味違うだろ。あれは…その、……愛じゃないか」
「ふふ、同じことだよ、潤。どのみち兄さんの足りない頭で考えることなんて…時枝絡みだろうしね。兄さんの愛なんじゃないの。気持ち悪いけど」
「――分ってるんなら、やっぱり止めた方が……。組長さん、悪いけど信用出来ないし」
「私と潤はいないことになっているのに? 兄さんは信用しなくてもいいけど、むしろ信用して欲しくないけど、私のことはどう? 私も信用出来ない? 最終的には、潤を哀しませるようなことにはならないと誓うよ?」
「信じてるよっ! 当たり前だろっ。今まで黒瀬を疑ったことは、イギリスのあの時だけだっ! 黒瀬が俺に酷い事しても、絶対俺は黒瀬を信じてるからっ! 俺には何をしてもいいんだよっ」

潤が黒瀬をギュッと抱き締めた。
自分の愛を疑うことは許さないという言葉の代わりに腕に力を込めた。

「…潤、愛してる。潤を哀しませるよなことは排除するから。でも、ゴメンね。最終的にだから。途中はこの部屋で私と一緒に兄さんの愚行に耐えてね」
「――俺も男だから、はは、…大丈夫」

黒瀬を信じていても、湧き起こる不安。
自分の弱さを象徴しているようで、潤は空元気に答えた。

その男、激情!137

「来てたのか、お前ら」

のぼせた時枝が回復するのを待って、勇一は自分の部屋に戻った。
もちろん、時枝も一緒だ。
時枝を背負い自分の部屋に戻った勇一を、黒瀬と潤が迎えた。

「問題児の顔を見にね。立て替えた治療費も返して貰わないと」
「大企業の社長のくせに、せこいヤツだ。ん? 問題児って、コレのことか?」

勇一が背中の時枝を指した。

「俺のはずないだろ、ドアホ」

勇一からゆっくりと畳の上に降りながら、時枝が反論する。

「じゃあ、佐々木か?」
「ゴリラも確かに問題ありますが、桐生随一の問題児は、兄さん、あなたしかいないと思いますが。ゴリラといえば、お猿を呼んだそうですが、うちに監禁中ですので、あしからず」
「武史、何を企んでいる?」
「ナニも。ふふ、兄さんこそ、何か企んでいませんか?」

お互いの視線が、互いの腹を探り合おうとぶつかり合う。

「お前じゃあるまいし。そういうのは、性じゃねえんだよ」
「そうでしたね。私は多細胞で繊細な人間なので、複雑なんですよ。単細胞の兄さんが羨ましい。企むには頭使いますからね。ふふ、兄さんには無理な話です」

時枝にも潤にも、黒瀬が勇一を挑発していることは分った。
分らないのは、黒瀬が勇一から何を聞き出そうとしているのかという点だ。

「社長、いい歳して、兄弟ゲンカを吹っかけるつもりですか?」

ヒントを得たくて、時枝が横槍を入れた。

「侮辱してるの、時枝? この私が桐生の人間相手にケンカ? 有り得ない」

本当に嫌そうだ。

「――お前な。いい加減にしとけよ」

勇一に怒っている感はない。
黒瀬が桐生を嫌っていることなど、勇一が一番良く知っている。

「治療費はイロ付けて振り込んでやるから、用がないならサッサと帰れ」

邪魔だと言いたげに勇一が手で払う。

「用事ねぇ、今はないですけど。行こうか、潤」
「いいの? 組長さんに用事があったんじゃ?」
「単細胞相手に用事も何もないよ。生物としての進化が認められたら、来よう」

黒瀬と潤が勇一の部屋を出て行った。

「相変わらず、掴めないヤツだな」
「そうか? 勇一を心配してるんだろ。武史なりに」
「アレがそんなタマか? …そうかもな。昨日も病院に来てたし」

勇一は何も言わないが、病院に運ばれたことを不思議に思ってないんだろうか?
運ばれる前は、勇一だったのか橋爪だったのかどっちだ?
大喜の話だと少なくともホテルを出たときは橋爪のはずだ。
そもそも墓地で大喜から聞いた話を、勇一はどう思っているんだ?
もう時間のズレに気付いているはずだろ?
何一つ、時枝は訊けなかった。

「そうそう、大事な仕事があった。片付けなければならない事案が。佐々木―っ! 佐々木を呼べ」

廊下に出て、勇一が叫ぶ。

「内線で呼べばいいのに、」

時枝は佐々木と顔を合わせたくなかった。
正門で迎えられたときは、木村と佐々木が変な空気を醸し出していたせいで、余計なことを考えずに済んだのだが…
うしろめたいのだ。
橋爪が大喜にしたことを考えると、申し訳ないという気持が込み上げて来て、佐々木の顔をできれば見たくなかった。
ポーカーフェイスは得意だと自負しているが、この三人で顔を付き合わせるのは、気持が沈む。
だが、それは甘えだ。
大喜が佐々木と顔を合わせた時のことを考えたら、自分の良心が痛むぐらいなんだ、と開きなおるしかない。

その男、激情!136

「佐々木んとこのガキに決ってるだろ。どうせまだ戻ってないんだろ?」
「はい。アッシも会いたいと思っていたところですが…それがそのぅ、ボンが会わせてくれないんです」

佐々木は、大喜の身に起こったことを知らない。
だが、木村と時枝は違う。

「ウマに蹴られるぞ、勇一。二人のことは二人に任せておけ。武史にも口を出さないように言っておく。お前も口を挟むな」

あの身体で佐々木の前に連れて来るわけにも行かないし、昨日の今日で佐々木と会わせるのは大喜には酷だ。

「任せられるか。引っ付くときも散々迷惑かけられたんだ。別れる時も面倒みてやる」
「別れる? はあ? 組長っ! なにおしゃっているんですかっ!」
「ボリューム落とせ、佐々木。ガキはそのつもりだろ。だから戻ってこないんだ。俺が綺麗さっぱりカタつけてやるから、安心しな」
「いい加減にしろ、勇一。本気で怒るぞ」

何が何でも阻止しなければならない。

「佐々木さん、アホの言うことなど、気にしなくていい」
「佐々木、組長命令だ」

時枝と勇一、どちらに従うべきか。
双方とも組長だ。
だが、勇一が橋爪でない今、勇一を組長とするべきだろう。
佐々木自身は大喜に会いたいと思っている。
しかし、呼び寄せる理由が別れ話なら、話は別だ。

「他人の痴話ゲンカに組長命令をか出すやつがあるか、ドアホ。――まったく、呆れたヤツだ。もう勝手にしろ」

これ以上反対すると反って不審がられるかもしれない。
呼び戻すにしても、大喜への連絡は黒瀬経由でしか取れない。
だったら、そこで話は終わるに違いない。
時枝は黒瀬の判断に賭けることにした。

「おい、勝貴、待てよ…風呂は一緒だぞっ! 汗、流してやるから~~~」

自分を置いて進んでいく車椅子を勇一が慌てて追い掛ける。
本宅の庭に、勇一の情け無い声が響いていた。

 

 

「――実際、勝貴は奇跡の回復だよな。それって、俺様への愛がもたらしたものだろ」

桐生本宅自慢の露天風呂。
勇一が時枝を膝に乗せ、湯に浸かっている。

「なんだ、それ?」
「早く勇一を安心させたい~~~、ってヤツだろ? 人間気合いで治癒も早まるってことだよ。照れるな、勝貴」
「アホか。俺を撃った殺し屋がヘタクソだったおかげだろ。数撃ちゃあたると思ったんだろうけど、全部、急所は外れてる。脚のリハビリさえ上手く行けば、もう問題ない。まだ、少し、腕は不自由だが、日に日に痛みも取れてきたし」
「なんだよ、それ。こんな目に遭わせたヤツに感謝するようなこと言うな」

感謝はしてない。
だが、勇一が負わせた傷だと思うと、奇妙な幸福感を感じてしまう。
俺は変態なのか、と思う程、傷跡が愛おしく感じることもある。
自分に対してなら、それが『橋爪』が起したことでも良かった。

「いいじゃないか。別に。お前だって良い思いしてるだろ? 俺を膝の上に乗せる理由が出来て嬉しいんじゃないのか? 回復したら、風呂で抱っこなどさせないからな」
「ええぇっ!? これを定番にしようと思っていたのに…絶対定番だ」
「盛りのついた獣の上に乗っている俺の身にもなれ、ドアホ」

時枝の尻を勇一の下半身を押し上げていた。
自分が収まる場所を探すように動く小動物を上手く躱してはいるが、かなり危ない状況だ。

「ばれてた?」
「当たり前だ、ボケ。朝から盛るな、鬱陶しい」
「――鬱陶しいって、酷いな。俺なんかいない方がいいってことかよぅ…ぐ、ってぇえっ、噛むやつがあるか」

時枝の口の中に血の味が広がった。つまり、それほど酷く時枝が勇一の肩に噛付いたのだ。

「…簡単に、――軽々しくっ、・・・――いなくなるとか、言うな――っ、この、薄らハゲ――ッ!」

露天風呂に時枝の叫びが轟く。

「……ハゲって、俺、禿げてないしぃ」
「うるせ――ッ! 今度そんなバカなこと口にしたら、俺が根刮ぎその髪、毟ってやるから、覚えておけっ。――バカ、ヤロゥ…」
「――勝貴? …泣いてるのか?」
「…誰が、――誰が、泣くかっ、」

言葉に反して、時枝の声は湿っていた。

「悪かった。――俺が悪かった。…お前を置いて、消えない。絶対だ」

勇一は泣いている時枝を茶化さなかった。
時枝の頭を自分の胸に密着させるように強く抱き締めた。

「…勇一の心臓の音がする」
時枝が静かに言った。

「ああ。生きてるからな」
「…勝手にこの音止めたら、殺すからな」
「いや、その時は、既に死んでるから…」
「いちいち、口答えするな…」
「はい、ごめんなさい」
「――勇一、」
「なんだ?」
「…のぼせそうだ…」

自分の胸に抱え込んだ時枝から力が一気に抜けるのを勇一は感じた。

「勝貴っ、それを早く言えっ、」

勇一が慌てて時枝を脱衣場に運ぶ。
床に横たえ、身体の水分を拭き、上からバスタオルを掛けた。
それから自分の身体の水分を拭き取り、腰にバスタオルを巻くと、時枝の側に座り込んだ。

「許せ、勝貴。――全く俺は、何やってるんだか……。こんな俺に、まだ泣いてくれんだな…ありがてぇな…」

鼻腔の奥がキュンと痛くなるのを感じた。

「俺には、泣く権利もないよな、そう思うだろ?」

勇一は鼻を啜りながら、目から余分な水分が落ちないよう天井を仰ぎ見た。

その男、激情!135

翌朝、大喜は寝坊した。
散々な目にあった身体は、時枝に起されたことも、皆が外出したことも気付かない程、深い眠りに陥っていた。

「起してくれればいいのに、――除け者かよ」

昼前にやっと目を覚まし、誰もいないことがわかると、深い疎外感を感じた。

【病院に行き、その後本宅に戻ります。私の部屋で身体の傷か治るまで暮らしなさい。実家だと佐々木が訪ねるでしょう。生活費が足りないなら連絡を 時枝】

キッチンに行くと、大喜の食事が用意されており、皿を覆うラップの上に時枝からのメモが残されていた。
そして、皿の横には鍵と現金十万円の入った封筒が置かれていた。

「――時枝さん…」

一気に大喜の疎外感は吹き飛んだ。
時枝が提供してくれるという部屋は、本宅に越すまで時枝が使っていた部屋だ。
今大喜がいる黒瀬のマンションより一つ下のフロアにある。
時枝が本宅で暮らすようになってから、使われていない。
本来時枝には、何の責任もない。
佐々木とのことも含め、全部自分が迂闊だったからだ。
それなのに本気で怒り本気で謝罪してくれ、そして自分の為に部屋まで貸してくれるという。
昨日、取る物も取らず状態だった時枝が現金を用意できるわけがない。
きっと黒瀬と潤に頼んで用意してもらったのだろう。

「――どうして、ここまでしてくれるんだ…時枝のオヤジ」

自分の愚かさが身に染みた。
佐々木にした誰が大事か選ばせる質問が本当に愚かだったと思った。
自分にも大事な人間は決して一人じゃないと実感した。
自分を大事に思ってくれる人間も多数いる。
惚れた男はたった一人佐々木でも、大事な人間は一人じゃない。

「…俺、やっぱ、桐生好きだわ…。くそっ、ヤクザは無理だけど、オッサンと一緒に桐生支えたいっ、」

佐々木に惚れたから、仕方なく桐生と関係していると思っていた。
しかし、今、大喜は桐生に利益をもたらす人間でありたいと思った。

 

 

「朝から雁首(がんくび)揃えて結構なことだ」

自分を迎えにきた面々を見て、勇一の第一声がこれだ。
会計で支払いの相談をしていた所に、時枝、黒瀬、潤が現われた。

「それだけか? 他に言うことあるだろ、勇一」
「勝貴と一発やりてぇ~」

場所も考えずの発言に、会計に座っている事務員の顔が引き攣っている。

「一発でいいのか? じゃあ、」

車椅子から勇一の臑を時枝が蹴った。

「―ったぁああっ、……うちの嫁は激しいねぇ。…激しいのは、夜だけでいいのにぃ…」
「ふん、夜ならいいのか。夜、ハンマーで臑を叩いてやる。ドアホ」
「怪我人に優しくしてやろう、なんて気はないらしい」

ピクッと時枝のこめかみが動いた。

「誰を見て言ってるんだ? あ? どうみても、俺の方が怪我人だろう。さっさと俺の車椅子押せ。帰るぞ」
「…うちの嫁は…人使いが荒い」

勇一が渋々といった様子で時枝の車椅子を押す。

「まだ、支払いがっ、」

二人のやり取りに呆気にとられていた事務員が、自分の仕事を思い出した。

「ふふ、慌てなくても大丈夫。桐生勇一の支払いは任せて」
「お身内の方ですか?」
「そう。笑えるけど、あれの弟だから」

何が笑えるのか、事務員には理解出来なかったが、そこは病院といえども客商売。
笑顔で「そうですか」と受け、請求書を提示した。

「潤、あとお願い。ちょっと医者と話してくるから」
「了解」

支払いを済ませた潤と、医者から検査結果を聞き出した黒瀬は、先に出た勇一と時枝の後を追い桐生本宅へ向かった。

 

 

「組はどうした。サボリか?」

正門まで迎えに来た佐々木と木村の間に流れる変な空気を、勇一も時枝も感じた。

「元組長代理から、本宅待機の指示を頂いたので」

木村が答えた。

「元組長代理? 誰だ、それ」
「ボン、――武史さまです」
「そうか、武史か。佐々木、この場に武史がいなくて良かったな。内緒にしといてやる。それにしても、あいつ、何を考えているんだ? きっとロクでもないことだろうな。ところでお前ら、ケンカでもしたのか?」
「しません!」

佐々木と木村が同時に答えた。

「力(りき)入れて叫ぶようなことか」
「本当に変ですよ。二人とも。お互い避けているようにみえますが」

お互いの視線から逃れようとしているように見える。

「初デートの中学生みたいですよ」
「時枝くみ、…時枝さんまで、変なことを言うのはやめて下さい。俺と若頭の間に何もありませんからっ!」
「その通りですっ! コイツが懸想(けそう)してても、アッシには大喜がいますので。ダイダイ一筋ですから」
「違いますっ。誤解ですから。俺も女房を愛してますっ!」
「ウルサイッ! 叫くな。不倫でも何でも勝手にしろ――それより、飯だ。それから風呂だ。俺が出るまでにガキも戻しとけ」

勇一の発言に、一気に場が凍り付く。

「――組長、ガキって」

木村が恐る恐る訊いた。

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沢山のオーエンありがとう! 橋爪が俺に強要したこと考えたら、そりゃ、凍り付くわ。ラストまでドドドって突っ走りたいから、オーエンよろしく頼むな。中の人が寝る前に50人に届けば更新すぐ見れるけど…。昨日は寝る前に100人超えたから、その分も更新してから寝てた…。by ダイダイ

その男、激情!134

「社長っ! 子どもの前でやめて下さい!」

時枝が、黒瀬を睨みつけた。

「――子どもって、俺?」

大喜が潤に訊いた。

「この中じゃ、そうだと思う」

潤の声が幾分自信なさげなのは、もしかしたら自分も含まれているかも、という疑念があるからだ。

「ひでぇ…。成人してるっつうの。そりゃ、まだ学生だけど……。でも、ちょっとショック…。時枝さんって、あいつ一筋かと思ってたからさぁ…」
「一筋です」

時枝が宣言するように言った。

「――ただ、大人にはいろいろあるんです」

大喜が知っているのは、時枝が黒瀬に本宅の離れで強姦された一件だけだ。
だが、あれは『乱れた』うちには入らないだろう。

「…オッサンには、ないよな…あったら、どうしよう…」

大喜の呟きに、潤の顔色が変わった。

「あるわけないだろ、ダイダイ。佐々木さんに限って、木村さんとなんて有り得ないから安心しろよ」
「木村さん? それ、なんの話?」

ヤバイと思ったが、吐き出した言葉は飲み込めない。
やはり、潤は疲れているようだ。
こんなミスをするような潤ではない。

「ふふ、潤は兄さんの事や元上司の暴走とか、ゴリラの世話で疲れているんだよ。木村にさっき会ったから名前が出ただけ」

潤が誤魔化す前に、黒瀬がフォローを入れた。
黒瀬の何気ない優しさが潤には嬉しくて堪らない。
もちろん、時枝はそんなことでは誤魔化されないが、ことを大きくするつもりもない。

「くだらない話より、食事にしてください。どうぞ、お二人先に。邪魔しませんから、ごゆっくり食事でもそれ以外でもどうぞ。大森と私は後で頂きますので」

四人集まっていたリビングから二人を時枝が追い出すと、時枝は大喜に子ども扱いしたことを謝罪した。

「立派な大人ですから、今聞いたことは忘れて下さいね」

それは自分の乱れた性生活について、大喜へ口止めだった。

 

時枝と大喜も食事をとり、大喜の介助で入浴を済ませると、二人は客室のベッドに二人並んで横たわった。

「ここさ、客室だろ。ベッドがダブルベッドだけっていうのが、黒瀬さん達らしいね」
「身内しか来ませんしね…このマンション。ここ数年は誰も使ってないと思います」
「――こうして時枝のオヤ、時枝さんと一緒に寝てると、アレ、思い出す」
「アレ? ぁあ、アレ、ですね」
「そう、アレ。今だから話すけどさ、最初は超恥ずかしかった。早くオッサンと繋がりたくて、俺も必死だったけどさ」

アレ、とは、大喜が時枝に頼んだ拡張訓練のことだ。 
佐々木と相思相愛になったばかりの大喜が、真珠入りの一物を持つ佐々木とのザ・合体をスムーズに行えるよう、時枝に頼んだのだ。

「社長達ほどではありませんが、大森と佐々木さんも、落ち着くまでいろいろありましたね…。せっかく訓練を施しても、実践までどれだけ掛ったか…」
「悪かったよ。…でもさ、黒瀬さん達や俺達よりも辛い想いしてるのって、時枝さんじゃん。――そうなんだよね、俺が今日経験したことなんて、それに比べると」
「いえ、人が感じる辛さなど、コトの大小ではありません。あなたの心に傷を負わせたことは事実です。――はあ…なのに、あのアホは…」
「良かったじゃん。橋爪じゃないって、黒瀬さん言ってたし。今日のことも覚えてないと思う」
「覚えてなくても許しません」
「ははは、時枝さんの愛ってなんだかんだ凄いよね…。あっ、でも、…どうしよう…」

大喜が跳ね起きた。

「時間の空白があること、組長さん、もう知ってるんだ…喋ったし」
「いいんですよ。どうせ分ることです。――寝ましょ」

時枝が、興奮気味の大喜の背に軽く触れる。

「疲れすぎて、眠れませんか? だったら昔話でも。このベッド、勇一と初めてヤッたベッドなんですよねぇ。あのアホ、好奇心で俺を抱きやがった…」

元々友人同士なのは知っていたが、その一戦を越えた話は、大喜には意外だった。
時枝の勇一に対する愛情の深さからして、もっとロマンスのある話が隠されていると思っていた。
そして、それを苦々しく語る時枝の話術に引きこまれ…笑っているうちにいつの間にか眠りについていた。

「やはり、まだ、子どもですよね…」

絵本の読み聞かせで寝てしまう幼児と大差ない大喜の寝顔を、時枝はしばらく眺めていた。