その男、激情!127

(切りの関係でちょっと長いです。)

「次はいよいよインドとロシアへの進出ですね」

中国支社を三年で軌道に乗せたクロセの次のマーケットは経済発展めざましいインドと地下資源に恵まれ経済成長を続けているロシアだ。

「本場のカリーとボルシチは絶品だから、優秀な秘書さんに食べさせてあげたいな」
「ありがとうございます。ですが、我々が直接出向くのは、まだ一年以上先の話ですから」

会議を終えた黒瀬と潤が談笑しながら社長室に戻ってきた。
潤の笑顔が幾分引き攣っているのは、インドやロシアへの交通手段を考えてのことだった。

「ふふ、私と一緒だから大丈夫だよ」
「何のことでしょう?」

潤が惚けてみせる。

「社長との出張は歓迎だが飛行機はゴメンだ、という顔をしていたけど?」
「気のせいです。社長のお伴ができるなら、空の上だろうと水の底だろうと、私は喜んでご一緒させて頂きます」
「ではこの週末、チャーター機でインドにカリーを食べに行こう」
「…ご冗談でしょ…」

潤の顔が瞬時に青くなる。

「ふふ、本気」
「……こ、光栄、です…。…早速手配を…」

会議室から持ち帰った資料が潤の手からスルッと抜け、床に散らばった。

「大丈夫?」
「失礼しましたっ! 今片付けます」
「愚兄のせいで朝からバタバタしたから、秘書さんも疲れているよね。手伝うよ」
「いえ、社長に手伝って頂くようなことではありませんから」

潤の意見など無視し、黒瀬も一緒に資料を拾い始めた。 
しかし、黒瀬の目的は資料以外にあったようだ。
せわしく動く潤の手を黒瀬が捕まえ、自分の頬に持って行った。

「疲れてるよね、潤」
「いえ、疲れていません」
「嘘。疲れてる」

潤の手を自分の頬で擦りながら黒瀬が潤を見つめている。

「大丈夫です」
「そう? インド行きの手配を口にするなんて、疲労の証拠じゃない?」
「…どういう意味ですか」
「この週末に日本出たら、帰国後葬式の嵐の気がするのは、私だけ?」

潤が、ハッとなる。
黒瀬の本気という言葉に惑わされて、真に受けてしまった。
二人を取り巻く状況を考えれば、二人が日本どころかこの東京を離れることも難しい。
失踪した勇一が橋爪になっているとしたら、時枝を狙って来るだろうし、当の時枝は橋爪化した勇一を殺しそうな勢いで頭に血が昇っていたし、佐々木に大喜の身にに起きたことが伝われば、これまた問題行動に走りそうだ。
この三人を操れるのは、目の前の愛すべき男以外は有り得ない。

「社長、手を離して下さい。甘えたことを言わせて頂けるならば、お言葉通り少々疲れていたのかもしれません。ですが、もう本当に大丈夫です」
「何が大丈夫なの?」
「疲れは飛んでいきました。――そのぅ、社長の体温を直に感じましたので…掌から…。それで癒やされましたし、インド行きは冗談だったと理解できました」
「ふふ。葬式の嵐でも、私は構わないけど、そうなると心優しい潤が気にするだろうしね」
「はい、もちろん気にします。――社長、手を、」
「そろそろ終業時刻じゃない? 早めに切り上げたいけど、秘書さん駄目かな?」

黒瀬が、潤の手を頬に当てたまま訊いた。

「駄目です」

ピシャリと潤がはね付けた。

「一瞬、潤が時枝に見えたよ」
「それは光栄です」

誇らしげに潤が言うと、黒瀬が「仕方ない」と潤の手を解放した。

「あと、十五分です。十五分間私は秘書ですので秘書の仕事をします。社長は社長の仕事をして下さい」

資料を拾うのは社長の仕事じゃないと暗に言われ、黒瀬は渋々立ち上がり自分のデスクに向かった。
最近、流されなくなった潤の成長が嬉しい反面、少し寂しい気もする。
だが、潤のやせ我慢の姿を見るのは、悪くない。
資料を掻き集めながら、この後の過ごし方で頭はいっぱいのはずだ。
今日一日頑張った潤の期待に応えてやらねばと、潤よりもむしろ黒瀬の方が、妄想に耽っていた。
潤が資料を全部拾い終わると、黒瀬の妄想タイムも終了した。
あとは妄想より楽しい現実が待っているはずだった。
だが、その楽しい現実に、待ったが掛った。

「今度はなに?」

黒瀬が内ポケットから振動で着信を知らせている携帯を取り出し、面倒臭そうに出た。

「――兄さんが? ――そう。よりにもよって、佐々木のいる病院とは。直ぐにそっちに行くから佐々木を兄さんに近付けないで。木村、お猿のことは、佐々木に言ってないよね? ふふ、もし佐々木が知るようなことあったら、海の底だから。もっとも底に沈む前に、魚の餌かもしれないけど」

携帯を閉じると、潤が既に黒瀬の帰宅準備を終えていた。
手には黒瀬のコートと鞄を提げている。

「終業まであと五分ありますが、急を要すことだと思いますので、切り上げましょう」

社長の黒瀬には、そもそも終業時刻など関係ないのだが、潤はそういう訳にはいかない。
秘書とはいえ、クロセの一社員だ。
時枝は秘書室長だったが、潤に秘書以外の肩書きはない。
社長付ということで黒瀬と行動を共にすることが多いため、通常の就業時間は当てはまらないが、社内にいるときは終業時刻は守らなければ、と思っている。
平社員の段階で、終業時間前に勝手に仕事を切り上げるなど、もっての他だ。

「潤の許可が出るなら問題ないね。潤はもちろん、私に同行。社長命令」

社長命令と黒瀬が言えば、それは業務にになる。
潤が仕事をサボったことにはならない。
時枝確保の為に抜け出せたのも、表向きは社長同行だ。
もちろん、今朝の出勤時刻がずれこんだのも同様だ。

「社長の命(めい)とあらば、断る理由がありません。急ぎましょう」
「通話の内容を説明しなくても潤は分っているようだね」 

二人は慌ただしくクロセ本社を出て、今朝、佐々木が運ばれた病院へと向かった。