その男、激情!80

「…あのぅ、そろそろ、抜いていいか?」

このままだと、また硬さを取り戻しそうだ。
勇一の問いかけに、時枝が濡れた瞼を上げた。
三十代の男のものと思えぬ、迷子の子犬のように切なげに潤んだ目が、勇一を見上げた。

「俺さまのミルク、飲みたいなら、またいつでも飲めるだろ? もう、身体休めた方がいいんじゃないのか? マジ、腹下すって。俺さまのミルクには元気いっぱいのオタマジャクシが暴れているから」

絡めた舌を離し、時枝が唇を緩めた。
そうっと、勇一が時枝の口内から自分の分身を引き抜いた。

「…勝貴、…そんな目で見るなって」

口を半開きにしたまま、水分で光る目で勇一を見ている。

「…勇一、」
さっきまで、水分を飛ばしながら勇一を怒鳴っていた時枝はいなかった。
儚げで、今にも消えそうな時枝が、掠れる声で勇一の名を呼んだ。
引き寄せられるように、勇一が時枝の唇に自分の唇を重ねた。
ビクッと、時枝の身体が撓った。
キスをされているというのに、時枝は目を閉じるどころか、驚いたように目を丸くした。
勇一もビリッと微電流が唇の薄い皮膚から流れたように感じ、驚きを覚えた。
だが、勇一はそれを自分が放った液体のせいにした。

―――キスなんて、いつもしているじゃないか…

怪我だけでなく、泣き疲れているはずの時枝をこれ以上興奮させたくなくて、労るような優しい口付けを施した。
時枝は目を見開いたまま、静かにそれを受けた。

「…ゴメン、勇一」

勇一が頭を上げると、時枝が瞼を閉じながら、掠れる声で謝罪した。

 

 

「・・・恥ずかしいって、こういうコトいうのかも」

黒瀬と共に、佐々木の寝室へ入った潤がぼそり、呟いた。

「悪趣味の一言に尽きるね」

黒瀬が軽蔑したように、冷たく言い放った。

「だから、イヤだったんですよぅ…」

二人を追ってきた佐々木は、今にも泣きそうな顔だ。

「ダイダイも、恥ずかしいんじゃないの? 彼の趣味じゃないでしょ、コレ」
「佐々木に感化され、喜んでたりして~。きっとお猿のエプロンもこの路線じゃない?」
「…ダイダイのエプロンは、ピンクで…もっと、ロマンティックなヤツでして……」

泣きそうな佐々木の黒目が、一瞬ハートマークを刻んだ。

「ますます、恥ずかしいよ、佐々木さん。裸に着せてるんじゃないの?」
「な、なんて破廉恥な事をっ、仰有るんですか!」

顔全体を赤にして、佐々木が潤に抗議した。

「破廉恥って、それを言うならこの寝室だと思うけど、ね、黒瀬」
「全くだ。猿と交わるのに、純白のレースとフリルのベッドメイキングは必要ないと思うけど。天蓋まで付けて。家具までプリンセス仕様になってるし」

前はシックな部屋だった。
少なくとも佐々木が一人暮らしの時は、無駄のない機能重視のシンプルな部屋だった。
が、しかし…
今、この部屋は恐ろしく変貌を遂げていた。
いわゆる姫系インテリアだ。
部屋中の壁は淡いピンク。
そのピンクの壁に、白い猫足のロココ調の家具が横並びに配置されいている。
中央には、周りをオーガンジーの布でふんわりと囲った天蓋付のベッド。
そのベッドはレースとフリルをふんだんに使った寝具一式で飾られている。大小のハート型クッションまでベッドには置かれていた。

「黒瀬あれ見て」

潤がベッドの上を指した。
オーガンジーの布の間から、鏡が覗いていた。

その男、激情!79

「…勇一…、俺のだ…。俺のっ、」

時枝が、勇一の分身に向って手を伸ばそうとする。
指先が、小刻みに震えていた。

「俺より、ココなわけ?」

あまりに切羽詰った表情を時枝が見せるので、勇一が冗談交じりに言う。

「…ああ、そうだ」

言葉とは裏腹に、そんなわけあるか、どアホ、と時枝の心が言っているのが勇一には聞こえた。

「全身、お前のモノだよ。どうぞ、お触り下さい」

勇一が自分の中心を時枝の指先に持って行く。
時枝の指先が、勇一のツルッとした先端に触れる。
触った瞬間、ブルッと勇一の全身が震えた。
時枝が、アッと小さく声をあげ、指を退いた。

「凄く、くるな。いつも触らせているのに、不思議だぁ、久しぶりの気がするぜ。遠慮要らないから、触れ」

時枝の指に、勇一は身体に電流が走ったように感じた。
少し触れられただけの場所が熱い。

「…裏切ったら、」

一度離れた手をまた勇一の分身に戻すと、今度は強い意志を持って握りしめた。
ギュッと力を込められ、くっ、と勇一の口から音が漏れる。

「針千本じゃなくて、コレを根元から切り落としてやるからなっ! 本体が俺を一人にするなら、剥製にして俺の側に置く」
「はは、冗談にしては、」

物騒な時枝の言葉を笑って済まそうとした勇一から、笑みが消えた。
泣きっ面で腫れ上がった瞼を大きく見開き、時枝が強い眼光を放ちながら勇一を睨んでいる。
握られた場所に、圧が更に加わる。

―――こいつ、本気だ… 真剣に言ってやがる。

「冗談じゃないんだな。勝貴、切り落とすつもりか」
「ああ。不慮の事故でも許さないっ! 許さないっ、…勇一……勇一っ、」

一旦乾いていた時枝の双眸がまた濡れる。

「ははは、俺さま、愛され過ぎだし、勝貴、可愛い過ぎだろ。うわっ、バカ、そんなに急に…」

時枝の手が、勇一を扱きだした。
勇一の熱い分身に時枝が直に触るのは、実に三年ぶりだった。
直に伝わる勇一の熱、皮膚感、膨張していく感触、何一つ変わっていない。
生きている…勇一は生きていた……自分の手の中で脈打つ勇一の生を感じながら、時枝の心は喜びで震えていた。

「ちょ、ちょっと、勝貴、手加減しろよ」

一息吐く間も与えない程、時枝の手が弱い所を攻めるのであっという間に勇一の雄は噴出寸前となる。

「…俺のだっ、自由にさせろっ!」
「そうだけどな、勝貴。もう、ヤバイって。っ、ってぇええ、」

ギュッと根元を握られ、勇一の欲望は堰き止められた。

「…飲みたいっ、」
「はい?」
「飲ませろっ、」
「・・あの、勝貴ちゃん、飲むって、俺さまのミルク?」
「他に何があるって言うんだっ、どアホ!」

勇一を怒鳴るのと同時に、時枝は勇一から手を離した。
そして、水分たっぷりの目を閉じると、口を丸く開いた。

「勝貴っ、オイ、」

何の為に開けられた口なのか、勇一にもすぐに分った。

「腹くだしても知らね~ぞ。…しょうがないな…」

ブツブツ言いながら勇一は、時枝の頭の方に回り込んだ。
時枝を覗き込むように上半身を前に倒し、時枝の口に猛ったモノをゆっくりと入れた。
半分入った所で時枝の舌が絡みつき、勇一の精を搾りとろうとする。

「ファラしたいんじゃなくて、飲みたいだけか」

口に入りきれなかった根元部分を勇一が手で扱く。

「んっ、」

鼻に抜けた声を出し、勇一が爆ぜた。
時枝の口の中に、懐かしい味が広がった。
勇一以外の味もこの三年間で覚えてしまった時枝を、嬉しさと後悔が同時に襲う。
咥えたまま、閉じた目から静かに涙を流す時枝。
その顔を見ていると、勇一の中に説明のつかない自責の念が生まれた。

―――俺のせいだ。許せ勝貴。
―――ん? 何が俺のせいなんだ…?
―――勝貴が、マズイもの口に含んで切ない顔するからか?

 

その男、激情!78

「お猿に、何て言ったの? ふふ、ご褒美で釣ったとか?」

騒いでいた大喜が、佐々木の呟きで静かになったことに、黒瀬が興味を示した。

「…いや、別に…特別な事は…。聞分けの良い子が好きだと…それから、いや、以上です」

言い切った佐々木の顔と服から露出している皮膚の全部が、真っ赤になった。

「ごちそうさま」

赤くなった佐々木を見て、潤が茶化した。

「どこで朝食を頂こうかな? ゴリラとお猿の寝室でもいいけど」
「それは、ご勘弁をッ!」
「何を慌てているの? 見られてマズイものでもあるの?」
「…あ、ありませんっ!」
「ふ~~ん、あるんだ。じゃあ、朝食は寝室で」
「ボンッ!」

と、叫んだ後、自分の失言に気付いた佐々木が慌てて口を押さえた。
黒瀬は何より「ボン」と呼ばれるのを嫌う。

「佐々木、殺さない代りに、寝室決定ね。ふふ、動物同士の交わりの場って、興味あるよね、潤」
「黒瀬、失礼だぞ。立派な人間同士の交わりだろ? でも、興味はあるかも。他人の寝室って、ちょっと興奮する」
「ふふ、興奮した潤を、食べるのも悪くないね」
「武史さまっ! それは、本当にご勘弁をっ! あのベッドは、アッシとダイダイの…その…あの……」

しどろもどろの佐々木を無視し、黒瀬は佐々木宅へ着くなり、二階にある佐々木と大喜の寝室へ向った。

 

 

「…勇一、…触りたい。勇一に、触りたい」

黒瀬達が出て行った医務室。
時枝が、勇一に点滴で繋がれた腕を数センチだけ持ち上げ、勇一を呼ぶ。

「勝貴、大人しく寝てろ。幾らでも触らせてやるから」

勇一が床に膝を付き、自分の頬を時枝の掌に当てた。

「――勇一、…桐生勇一、心も躰も勇一だよな……地獄じゃなく、二人ともこの世だ…」

涙腺が壊れてしまっているらしく、時枝は勇一の顔を見る度に、涙を流す。

「また、その話か? 安心しろ、俺は勝貴が大好きな頼れる男、勇一様だろ」

勇一の言葉に、ふわぁ、と泣き顔が緩み、その後、ムッとした表情を見せた。

「違う。…好きじゃない…、勇一なんか、好きじゃないっ、」

まさか、そんな言葉が返って来るとは思わず、勇一が「え?」と、間抜けな声をあげた。

「好きとか嫌いとか…そんな子供じみた次元じゃないっ! 惚れてるんだっ! 大惚れなんだっ!」

愛の告白のはずなのだが、勇一は自分が怒られているように感じた。
時枝の放つ言葉には、明らかに「怒」が含まれていた。

「か、勝貴っ、…落ち着け。あ、有り難う…」
「金輪際、俺から離れたら…、うっ、……」
「離れたらって…俺が、寝室で寝てたことを怒っているのか?」
「馬鹿ッ! そんな…ことじゃっ、…くっ、そうだよ……ああ、俺を一人にするなっ!」

時枝が言葉を呑み込んだ事を、勇一も感じていたが、それを言及する気にはなれなかった。
時枝が涙を流しながら勇一を睨むように見つめる視線の奥に、言葉では表せない時枝の感情が込められているのが分った。
それが何なのか、何故か訊くのが怖かった。

「悪かったよ。約束するから、泣くな。男前が台無しだ。指切りしようぜ、勝貴」
「…針千本で、済ませる気か? 裏切ったら…俺を一人にしようとしたら、針千本なんかで許せるかっ! 出せっ!」
「出せ?」
「…言っただろ。…触りたいってっ…。…顔しか触らせない気か…」

恨めしそうな顔で、時枝が掌の中の勇一の頬を軽く叩く。

「指切りは、しなくていいのか?」
「…だから、出せ」
「もちろん、ソレはこれを出せってことだよな…」

下着姿で大喜から医務室に連れて来られた勇一は、佐々木が掛けてくれた着流しを上から羽織っているだけだ。
勇一は立ち上がると、トランクスを下にずらし、中から自分の分身を取りだした。

その男、激情!77

「武史、一つ訊いていいか?」
「何ですか、兄さん」
「どうして、俺は勝貴が撃たれた事を覚えてないんだ? 病室でお前に空砲を浴びせられたんだよな?」

黒瀬が何と答えるのか、皆の視線が黒瀬の口元に集まった。

「兄さん、二つ訊いてますけど? ふふ、怒りで頭に血が上り過ぎたんでしょ。それか、空砲の衝撃で倒れた時に、頭を強く打ったからか。脳の造りが単純な分、衝撃に弱かっただけじゃないですか?」

そんな理由で納得するとは思えなかったが、

「そっか。まあ、人間頭を強く打てば、そんなこともアリだな」

勇一は、あっさり納得した。
そんな馬鹿な、と答えた黒瀬も含め誰もが思った。
大喜は何か言いたげな様子だったが、佐々木が大喜の耳元で『何も言うなよ』と先手を打った。

「勝貴、こんな大変な状態の勝貴から、一瞬でも離れていたこと、許せよ。ベッドで目覚めるとは…不覚だ。今日から、俺もココで寝起きする」
「それがいいんじゃない? 橋爪の情報収集は、佐々木でも出来るだろうし、数日ぐらい、兄さんが時枝に付いていても、桐生は回るから」

『今、でしゃばって、組に出て来られても、困るしね』と黒瀬が腹の中で続けたことを、時枝も佐々木も読み取っていた。
もちろん、潤も。
更に時枝に向け、黒瀬が続けた。

「意識戻ったなら、しばらく兄さんと一緒にいたいよね?」

『兄さんをしばらく足止めして置いて』という意味だ。

「もちろんです」
「我々は、退散するよ。ふふ、ごゆっくりどうぞ。もっとも楽しい事は何も出来ないだろうけど」

『その身体でもできることあるよね? ここから、出さないように』

「勇一が側にいるだけで、幸せですから」

『余計なお世話です。さっさと密談でも雑談でもどうぞ』

「ふふ、時枝の惚気なんて耳障りなだけだから、潤、行こう」

潤を促しながら、黒瀬は佐々木を見る。

「ダイダイ、お二人の邪魔になるから、我々も退散するぞ」

チッ、と大喜が舌打ちをし、

「分ってるって」

勇一を睨んだ後、佐々木と共に医務室を出た。

「やっと再会だね、組長さんと時枝さん」

医務室を出た潤が、しみじみと言った。

「どうするんだよ、これから」

大喜が誰に向けるともなく呟いた。

「こらから? もちろん食事だけど?」

黒瀬が、当然だろ、と言わんばかりの口調で大喜の呟きに答えた。

「はぁ?」
「お腹空いたよ。朝食は本宅で食べようと思って、私も潤も抜いてきたからね」
「うん、俺もお腹ペコペコ。ホッとしたから、余計に空いてきたよ」
「何言ってるんだよ、黒瀬さんも潤さんもっ。そんなこと今はどうでもいいだろッ」
「ダイダイッ!」

黒瀬と潤相手に切れ掛けた大喜の口を佐々木が慌てて手で塞いだ。

「お猿、ギャンギャン煩いよ。ふふ、佐々木の部屋でゆっくり極上の寿司でも食べながら、兄さんの悪口大会でもすれば、猿の気が収るらしい」
「ボ、あ、いえ、武史さま、朝から寿司ですか?」
「ステーキでもいいけど? 潤は何が食べたい?」
「そうだな…黒瀬、激しかったから、結構体力消耗しているし…寿司もお肉も両方食べたいかも…でも、桐生の朝食も捨てがたい」
「OK。佐々木、寿司とステーキと、桐生の朝食を用意して」
「かしこまりました。分ったな、ダイダイ。今直ぐ手配してくれ」

まだ口を佐々木から塞がれている大喜が、ウ~ウ~、と手の下で何か言っている。
その耳元で佐々木が何かを呟くと、大喜は大人しくなった。
大喜だけ朝食の手配で本宅内に残り、黒瀬、潤、佐々木の三人は、本宅内の佐々木の自宅へと向った。

その男、激情!76

「佐々木、ウルサイ。空砲で死ぬ人間って、珍しいと思うけど? せいぜい怪我か火傷ぐらいじゃない?」
「何の話だ?」

勇一が、怪訝な顔で黒瀬に訊く。

「時枝がベッドの上で兄さんと死にたいってしつこいから、拳銃で二人を撃つ真似をしただけですよ」
「…真似?」
「ええ。音に驚いて、気絶しただけです。ふふ、残念ながら、二人とも生きていますよ」
「白々しく俺の額について言っていたのに、お前の仕業か」

苦々しく勇一が吐き捨てる。

「ふふ、覚えてないとは、思いませんでしたよ。老化現象ですかね」
「うるせーよっ。でも、勝貴、これで分っただろ。俺達は生きてるんだぞ。勝貴も俺も、こいつらも。だから、早く元気になれ」

勇一が時枝のベッドの横で跪き、点滴で伸ばしている時枝の手を握りしめた。

「…生き、…てる? 勇一も? 本物の勇一が? …生きて、ここに? …俺のこと、俺のことっ、」

―――俺のことを分る勇一が…、
胸の裡で続けながら、時枝の視界は勝手にあふれ出す涙で歪んでいた。

「全く、結婚式まであと少しだっていうのに」

勇一の言葉に、大洪水中の時枝も含め全員が固まった。

…まさか?

勇一以外の皆が同じ疑問を持った。

「―――組長さん?」

口火を切ったのは潤だった。

「結婚式って?」
「決ってるだろ、俺と勝貴の式だ」
「…二回目の?」

大喜が、恐る恐る訊いた。

「アホか。俺も勝貴も初婚だ!」
「…時枝のオヤジとも?」

更に大喜が、控えめに訊いた。

「このガキ、ナニ言ってるんだ? 当たり前だろっ」

―――やっぱり

勇一以外が顔を見合わせる。
黒瀬は小馬鹿にしたような笑みを浮かべ、潤は少しムッとし、佐々木は嬉しそうに、そして大喜は呆れ顔だった。

「延期でも籍だけ先に入れるぞっ! 時間が出来た分、セットではなく本当の教会でも神社でも、どこでも手配可能だ。な、だから、早く元気になれ。その間に、俺が敵とってやるから」
「…勇一、――すまない。こんな身体で…。お前には心配と迷惑ばかりかけて」
「時枝さんが謝ることはないよ、時枝さんのせいじゃない」

今度は大喜ではなく、潤が口を開いた。

「そうだ、勝貴のせいじゃない」

と続けた勇一の背中に、他四人それぞれに、それは勇一のせいだという意味の視線を投げつけた。

「勇一の為にも…俺は早く元気になってみせるから…仇なんて事は…」
「大丈夫だ。もう、誰が勝貴をこんな目に遭わせたか、仕入れた」
「え?」

勇一の言葉に、時枝の大洪水が突然止まった。

「橋爪というイかれた野郎が実行犯で、裏に台湾の李だ。俺に任せとけ。桐生の総力を挙げて、息の根を止めてみせる」
「ふん、あんた、出来ると思ってるんだ。そんなことが」

小馬鹿にしたように大喜が言った。

「なんだとぉおおっ、このクソガキッ!」

時枝の手を握りしめたまま、鬼の形相で勇一が大喜を振り返った。

「勘弁してやって下さいっ!」

佐々木が、慌てて頭を下げた。

「なんだよ、オッサンだって、出来ないって思ってるくせに」
「ダイダイッ!」

佐々木が焦って唾を飛ばしながら叫んだ。
だが、大喜の言葉を佐々木は否定しなかった。

「ホント失礼なゴリラと猿だ。兄さんに出来ないはずないだろ。ふふ、楽しくなってきた。兄さんが、腕の悪い殺し屋さんをどう料理するのか、見物だね」
「社長ッ!」

ベッドの上から、時枝が黒瀬を睨む。

「ん? 何か問題でもあるの、時枝?」
「…いえ、」

言葉に反して、時枝は『大有りだろッ』と黒瀬を睨みつけた。

その男、激情!75

「貸せ」

名前一つ聞き出すのに、さっきから進まないことに勇一が痺れを切らした。
黒瀬の手から佐々木の手首をもぎ取った。

「佐々木、邪魔するなッ。誰だ、続きを言え」
「ふふ、それはですね、橋本さん、違った、橋爪という男ですよ」

ワ~~と、佐々木が懲りもせずまだ声を被せ邪魔を試みたが、それは勇一の鉄拳によって一秒で阻止された。
よって、ハッキリ名前を聞き取ることが出来た。

「橋爪?」
「台湾マフィアの李が差し向けた殺し屋です。腕は相当悪いと思いますけど」
「腕が悪い?」
「良かったら、本当に時枝は地獄でしょう? アレだけ銃弾を浴びているというのに、肝心の心臓は外れている」
「そうなのか、佐々木? 橋爪というヤツが勝貴を半殺しにしたヤツで間違いないんだな?」
「そ、そ、その通ですっ! はい、橋爪という男ですっ! 決して組長ではありません」

佐々木と勇一以外の三人が顔を見合わせる。

―――――ゴリラなだけのことはある。
―――――佐々木さん、自分で直接言いたかったから、黒瀬を止めた? …なわけはないか。
―――――オッサン、それ、そいつだと言ってるぞっ!

三人三様、心の中で佐々木に対し、突っ込みを入れていた。

「アホか。俺を出すな。今、関係ないだろ」

勇一の言葉に、また三人が顔を見合わせた。

―――――兄さん、佐々木と同レベル?
―――――自分は論外だと思っているって所が…少しムカツク。
―――――覚えてないと逃げるつもりかっ! 許せねぇっ。

今度は勇一に対して、三人が声に出さずに突っ込みを入れた。

「あっ、」

佐々木が、自分の吐いた言葉の意味を今更ながらに理解した。

「もちろんですっ。決して組長は関係ありませんっ!」
「ソコを強調して言うなっ! まるで俺が関係しているように聞こえるじゃねぇかっ! そうか、橋爪だな。台湾の李か。桐生の総力を挙げて勝貴の仇をとってやるっ!」
「敵ですか? それも楽しいかもしれませんね~~~」
「他人事のように、言うなっ!」
「やだな、兄さん。他人事でしょ? 潤じゃなくて時枝なんですから。十分に他人事です。そんなことより、時枝の所に戻らなくていいんですか? さっきから兄さんを呼んでますよ?」

耳を澄ませば、医務室から微かな声で「勇一」と、呼んでいるのが聞こえる。

「続きは後だ。待ってろっ、…いや、一緒に来い。四人とも一緒に来い」

死後の世界にいると思い込んでいる時枝に、生存を理解させる為に、勇一は黒瀬、潤、佐々木、大喜を医務室へ入れた。

「…皆さんも、地獄に? 一体、何があったのですか? まさか、俺達の邪魔をするために、無理心中とか?」

ベッドの上の時枝が、それこそ亡霊でも見ているような顔付きだ。

「ふふ、二人の邪魔をするのに、心中する必要ないけど? 第一、地獄が桐生の医務室と同じ造りなんて、閻魔さまの趣味悪すぎると思わない?」
「…社長まで…勇一と同じレベルのことを。死んだことに気付いてないんですね…。私と勇一が死んでいるのだから、その前にいるあなた達も死んでいます」

あのなぁ、と勇一が口を挟もうとしたが、黒瀬がちょっと待って、と制止した。

「ふふ、残念ながら、全員生存中」
「…社長ともあろう方が、…三途の川を渡るときに、記憶をなくしてしまわれたんですね…」
「なんの記憶? 教えて、時枝」
「…それは、…ちょっと、ここでは…」

時枝が、勇一をチラッと見る。

「そうですよ、そんなこと、どうでも良いことですっ!」

横から佐々木がチャチャを入れる。

その男、激情!74

「どうなってるんだっ!」

医務室前には、腕を組んだ大喜が壁にもたれて恐い顔をして立っていた。
その横には佐々木が、困った顔で突っ立っている。

「時枝さん、気がついたんだ」

中の会話は外の二人にも聞こえてたらしい。

「俺の質問に答えろ。誰にやられたんだっ! どうして、勝貴は自分が死んだと思っているんだっ」
「誰に? は? あんたがそれを訊くのか? 時枝さんを蜂の巣みたいに狙撃したヤツのことを、あんたに教えたらいいのか?」
「そうだ。サッサと言え」

勇一が大喜の胸ぐらを掴む。

「教えてやるよっ」
「ダイダイッ!」

横から佐々木が大声で割り込む。

「なんだよ、オッサン、邪魔するな」
「ふふ、そうだよ、佐々木」

佐々木でも大喜でもない、別の声が飛び込んできた。

「武史!」

弟の黒瀬が、その伴侶の潤を伴って勇一達の方へ近付いて来た。

「兄さん、お久しぶりの気がしますが…額の傷はどうしたんですか? 火傷みたいですけど」

勇一は、大喜の胸ぐらを掴んでいた手を、自分の額に移動させた。顔も洗ってないので、今朝はまだ鏡を覗いてなかった。

「ツッ」

手にカサッと何かが触れ、痛みが走った。
盛り上がった瘡蓋(かさぶた)を指でなぞると、円になっている。
円の内部に指を滑らせると、ジュクっとした感触とヒリヒリした痛みが襲った。

「えらく間抜けな顔になっていますよ。どうしたんですか?」
「知るかっ! 酔っぱらって、電球にでもぶつけたんだろ。今はそんなことはどうでもいいっ。勝貴は誰にやられたんだっ!」

今度は黒瀬に詰め寄った。

「大声出さなくても聞こえてますよ。鼓膜が破れたら、どうしてくれるんですか。潤の可愛い喘ぎ声が聞こえくなったら、兄さんでも許しませんよ」

バカァ、と、横にいる潤が頬を染める。
自分の大事な人間が痛々しい姿を晒しているというのに、惚気(のろけ)ているとしか思えない二人に、勇一が怒りを露わにした。

「ふざけるなっ!」
「ふざけていませんよ。俺はいつでも本気ですけど? 時枝のように堅物ではありませんけど、冗談なんて滅多に口にしませんよ。やだな。兄さん、ボケちゃいました?あなたが一番ご存じでしょ?」
「ウルサイッ! その堅物が変な事を口走っているんだぞっ。身体だけじゃなく、脳までイかれてるっ! 誰にやられたか、サッサと言えっ」
「ふふ、兄さんだけが知らないとは…笑えますね。教えてあげましょう。それはですね、」
「ボンッ、やめて下さいっ!」

また、佐々木が邪魔をする。
ご丁寧に今度は黒瀬の口を自分の手で塞いだ。

「オッサン、ヤメロッ、殺されるぞッ!」

大喜が慌てて、佐々木の側に駆け寄った。
が、時既に遅し…

「ヒィッ!」

黒瀬が佐々木の自分の口を塞いだ佐々木の手首を掴むと、捻り上げた。

「ゴリラに可愛がられて、少しはまともになったかと思えば、相変わらずの学習能力のなさプラス低脳さに磨きが掛った?」
「止めてくれよ。それ以上したら、オッサンの手首折れてしまうっ! 潤さん止めて」
「悪いのは、佐々木さんじゃない? 黒瀬の邪魔したんだから。ダイダイだって、さっき言おうとしてたのに、佐々木さんが邪魔したんだよ」

そんな~っと、大喜が泣きそうな顔をする。
黒瀬のことだから、折るのは間違いないと思ったのだろう。

その男、激情!73

「……か、つき?」

青白い顔。
肩に見える包帯。
白いガーゼの掛布の上に伸びた腕には、点滴針が刺さっている。

「…デジャブ―…じゃない、よな?」

過去にも同じような場面があった。
あの時は顔の腫れも酷かったが、今は顔は綺麗だ。
その分、生気が感じられない。

「なんだよ…何の冗談だ? これは、どういう事だっ」

毟るように掛布を剥いだ。

「はあ? 嘘だろっ、…一体誰にやられたっ!」

この世で一番大事にしたい人間が、重態だと一目でわかる有り様で横たわっていた。
パジャマや寝巻きは着けてなかった。
だが身体中に渡る白い包帯とガーゼで、その肌が見える部位は半分にも満たなかった。

「勝貴、オイ、勝貴ッ!」

痛々しい身体を揺さぶるわけにもいかず、勇一が大声で名前を呼んだ。
ピクッと瞼が動いた。

「勝貴ッ、俺が敵をとってやる。だから、戻って来いっ!」

再度瞼が動いた。
微かに開いた瞼の前に、勇一が自分の顔を持っていく。

「…、ゆ、…ういち?」

消え入りそうなぐらいの微かな声。

「勝貴ッ、どうしたんだよっ。何があった!」
「…そうか…。やっと地獄に着いたわけだ…はは、地獄でも俺はベッドの上か」
「しっかりしろ、勝貴。地獄じゃないだろっ」
「…そうだな。またこうしてお前と会えたんだから、…地獄でも、俺には極楽浄土だ…。たまには武史も……役にたつ」
「どうしたんだよ、なんだよ、地獄って。武史がどうした? これは、武史のせいなのかっ! あのヤロ―ッ」
「…もう武史には俺達会えないんだから、カッカするな。まさか、こっちに来ても傷だらけとは思ってなかったが…。死んでも痛みはあるんだな」
「死んでも? 不吉なこというなっ。俺を置いて死ぬなんて、許すかっ!」
「…落ち着け。死んでもバカは治らないって本当なんだ…。お前、自分が死んだってことに、気付いてないんだな……。ドアホの勇一だ…。本物の勇一だ……嬉しい…」

本当に嬉しいのだろう。
徐々に湿る声で、感極まっているのが勇一にも伝わった。

「勝貴? 身体をやられただけじゃなくて、…頭までおかしくなったのか?」

普通じゃない言動に、勇一の不安が募る。
脳に残る厄介な薬物でも打たれのかと、点滴の為に伸びた腕に視線を落とした。

「…死んでもお前は、失礼なヤツだ。二人だけになったんだ。嬉しくないのか?」

点滴周辺の痛々しい内出血以外、特に薬物を連想させる痕はなかった。
頭を強く殴打されたのだろうか?

「勝貴、お前が少しぐらいおかしくなっても、俺の愛は変わらないからな。クソッ、絶対俺が仇(かたき)をとってやるっ!」
「…バカだな…。仇なんて良いんだよ…。俺は気にしてないから…お前とこうしてまた一緒にいられるだけで、俺は幸せなんだよ…。仇なんて物騒なことは忘れて、俺と幸せになろう」

悟りを開いて、仏にでもなったつもりか?
医者は何て言ってるんだ?

「勝貴、ここは医務室だって、分るか?」
「…みたいだな。針山じゃなくて、良かったよ。こっちでも現世と同じ風景なんだな」
「現世も何も、現実に、ここは医務室なんだよ。桐生本宅だ」
「…お前、自分が死んだ記憶ないんだ」
「俺は死んでない。勝貴も死んでないっ! 俺達が死んだと言うなら、佐々木達も死んだのか? 煩いガキも死んだのか?」
「…あの二人は関係ないだろ。俺達だけだ」
「そうか。分った。ちょっと待ってろ」

勇一が医務室を出た。

その男、激情!72

「…ダイダイ。組長が、戻って来たっ! 良かったぁああっ、……ん? 浮気ィ?」
「浮気だろ。人の目、盗んで告(コク)ってんじゃねえよ。何が愛してます、だ。オッサンの愛は、俺に向いているんじゃなかったのかよ。そんなんだからゴリラにまで、色目使われるんだよっ!」
「ダイダイッ、それは誤解だっ!」

畳みの上の佐々木が、若い男の足に縋った。

「そりゃそうだろ。誤解じゃなく本当だったら即離婚だからな。伴侶をゴリラと頭のおかしいオヤジに盗られたんじゃ、俺の面子も居場所もないじゃん」
「コラ、ガキ。頭のおかしいオヤジって、俺の事か? …お前」

思春期でもあるまいし、一日二日での急激な成長はないだろうが印象が違う。
未成年独特の少年臭さが抜け、大人になった青年の顔だ。

「…一日で老けたな」
「一日? 笑わせるよな。ふん、やっと桐生勇一の登場かよ。いい加減うぜぇんだよ、あんた。俺は認めないからな。あんたがちゃんと自分のしたこと償わない限り、組長とは認めないし、あんたに敬意なんか払わないから。これだろ、探していたの」

目を釣り上げた青年が男に帯を渡す。

「なんだとぉおっ、このガキ、もう一遍言ってみろ。朝っぱらからこの俺にケンカ吹っかけるとはどういう了見だ。あ?」

男が生意気な青年の胸ぐらを掴んだ。
だが、それに青年が怯むことはなかった。

「佐々木――ッ!」

男が反抗的な目を向ける青年を睨み付けたまま、畳の上の佐々木を怒鳴る。

「ハイッ、組長ッ!」
「組長って、呼ぶなっ、オッサン。こんなヤツ、組長の資格なんかねぇだろッ」
「テメェは、自分のイロの躾もできねぇのかっ!」
「申し訳ございませんっ! こ、こらっ、ダイダイ、組長に何て口きくんだ」
「オッサン、ゴリラとイチャ付いている間に頭おかしくなったのか? 今の桐生の組長はコイツじゃないだろっ!」
「クソガキがぁああっ。オカシイのはお前だろっ! 桐生の組長は、この桐生勇一だろうがっ! 朝っぱらから寝言言ってるんじゃねえっ!」

男の拳が青年の顔めがけて飛んだ。

「ぐへっ、」

だが拳が着地したのは青年の頬ではなく、畳の上に居たはずの佐々木の頬だった。
泣きっ面をしていても、そこは桐生のナンバーツーだ。
俊敏な動きで、二人の間に割って入った。

「オッサンっ、大丈夫か。このクソオヤジ、俺のオッサンになんてことするんだっ」

自ら、桐生の組長を名乗るだけの事はある。
男のパンチは半端なく効いたらしい。
みるみる間に、佐々木の顔半分が腫れてきた。
全くなんて朝なんだ。
帯がないことから始まって、臑は打つは、ギャアギャア二人掛かりで叫(わめ)かれるは。
しかも共通しているのが、人物確認だ。
一人は何故か分りきっていることに興奮しているし、一人は、認めるだの認めないだの生意気に楯突いてくるし。

「ウルセ―ッ! もう、イイ加減にしろ。二人揃って、頭でも打ったんだろ。しばらく俺の前に顔見せるなっ。お前らに付合っていると、こっちがおかしくなる。アイツ呼べ」

面倒な事を押し付ける気はないが、煩いガキの教育は、相方の得意分野だ。

「アイツ? …それ、まさか、時枝のオヤジのことかよ」
「他に誰がいる」
「ハハハ、マジかよ。黒瀬さんの予想的中かよ。めでて~男だよな、あんた」

バカにしたように笑いながら、青年の目は怒火に満ちていた。
男は……桐生勇一は、大喜が自分に反抗しているのは、ガキなりに何か深い理由があるのかと、自分に向けられた憎しみすら感じる怒りを見て思った。

「時枝のオヤジは、呼んでもこね~よ」

大喜の顔から、笑いが消え怒りの部分だけが残る。

「会いたきゃあ、自分から行けよ。もっとも居場所が分ればの話だけどな」
「どういう意味だ」
「意味? 意味もクソもあるかっ」

大喜が勇一の腕を掴むと、歩き出した。

「こら、待てっ、クソガキッ!」

下着姿一枚での勇一が、大喜に引っ張られる。

「…ダイダイッ、」

顔を腫らした佐々木が、慌てて立上がり、二人を追う。
大喜は、勇一を桐生本宅内にある医務室の前まで連れて行った。
警察沙汰にしたくない負傷者を手当するために、この医務室には街の診療所並の設備が整っている。

「あんたの頭の中がどうなってようと、俺には関係ないけどさ、現実はしっかり見ろよなっ!」

事務室のドアを開けた大喜が、勇一一人を中に押しやった。

その男、激情!71

あまりの空腹で、男は目が覚めた。
昨日の記憶はないがところをみると、余程呑んだのだろう。
頭が痛い。
だが、腹は減っている。
何時だ、とベッド脇の目覚まし時計を確認した。
長年愛用の時計が、男に朝の五時を告げていた。
腹時計と見事にマッチしたその時刻に、男は「だろうな、朝飯の時間だ」と納得した。
ベッドから抜けだし、一気に着ていたパジャマを脱ぐ。
下着一枚で桐箪笥の引き出しに、お気に入りの紺地の着流しを探した。

「ん? この間着たばかりだと思うが…」

全ての着物が新品のたとう紙に包まれ、防虫剤の小袋が引き出しの隙間に置かれていた。
虫干しした記憶も無かったが、気の利く相方が業者に頼んでいたのかもしれない。
男はたとう紙を捲りながら、紺地の着流しを探した。

「帯がない」

着流しは直ぐに見つかったが、帯が見あたらない。
いつもの収納場所にない。
帯は帯で一段使っていたが、そこには、見覚えのないスラックスがズラッと並んでいた。

「誰が勝手に移動させたんだっ」

空腹も手伝って、男は癇癪気味にスラックスの入った引き出しを抜き、床に投げつけた。
それから、部屋の入口の引き戸を引いた。

「誰でもいいから、直ぐに来いっ! …ってぇええ」

怒鳴りながら、部屋を出ようとして足元の大きな物体に躓いた。
思い切り臑を打ち、腹いせ紛れに物体を叩いた。

「うわ、わっ、く、く、く、組長!」

大きな物体は、人間だった。
戸の前に座っていたらしい。
手には何故か木刀を持っている。

「何やってるんだ? …なんだ、その面は?」

元々ある刀傷の他に、小さなひっかき傷が顔中に散らばっていた。

「ガキにやられたか。情けね~ヤロウだ。それで、人の部屋の前に逃げて来たのか? あ? それでも桐生の若頭かっ、」

再度、男が腕を振り下ろした。
帯の件に追い打ちを掛けるように痛む臑。
そして、朝っぱらから見る情け無い面。
男の機嫌の悪さに拍車が掛る。
情け無い顔の物体が、人間であることを主張したいのか、叩かれた頭を抑えながら立ち上がった。

「…アッシの事が分るんですね…、そうなんですね、…アッシが桐生の若頭って、」

立ち上がった物体、イヤ、人間が、機嫌の悪い男の上腕を掴んだ。
そして、男の身体を縋るように揺さぶった。

「佐々木、俺に叩かれてアホに磨きがかかったか? 鬱陶しい、離れろっ!」

男はヤバイ、と思った。
目の前の顔が、大洪水を起こす一歩手前になっていた。

「組長っ! 組長ですよね? 本物の組長ですよね? 正真正銘、桐生勇一ですよねっ、どうなんですかッ!」

離そうとしているのに、離れるどころか顔を至近距離に近付けて、唾を飛ばしながら叫(わめ)かれた。

「テメーッ、朝からナニ人を呼び捨てにしてるんだっ。本物って、何だ? 俺が偽物だって言いたいのかっ、この薄らボケがッ!」

掴まれ身動きができない上半身は諦め、男は自由がきく足で迫ってくる男、佐々木の臑を蹴り上げた。
ウッという唸り声と共に佐々木の顔が男の前から消えた。

「いい加減にしろ。アホなことほざいてないで、俺の帯を出せ。どこに隠した。俺に下着一枚で一日を過ごせと言うつもりか」

踞ったまま、立上がろうとしない佐々木を見捨て、男が歩き出した。

「他に誰かいないのか! 帯を持ってこいっ、メシの用意はどうなってるっ!」

怒鳴った所で、男の背にドサッと重いモノ覆い被さった。

「ぐ、はっ。降りろっ、離れろっ、」

床に踞っていたはずの佐々木が、男の背中に飛び掛かってきたのだ。正しくは、抱きついて、だが。

「組長だっ。本当に組長なんですね。…ひっく、戻って来てくれたんですねっ、アッシは、アッシはぁあああ、ぐぁああああ、組長ぅうう、…嬉ヒィ… 愛ヒィてますっ! もう、絶対に、離ヒィま…せんっ!」
「いい加減にしろッ!」

男が、背中の佐々木を背負い投げで投げ飛ばした。

「そうだよ、オッサン。朝っぱらから浮気してるんじゃねえよ。全く油断も隙もねぇよな」

ドサッと佐々木が畳みの上に落ちたと同時に正面の襖が開き、若い男が帯を持って歩いて来た。