その男、激情!71

あまりの空腹で、男は目が覚めた。
昨日の記憶はないがところをみると、余程呑んだのだろう。
頭が痛い。
だが、腹は減っている。
何時だ、とベッド脇の目覚まし時計を確認した。
長年愛用の時計が、男に朝の五時を告げていた。
腹時計と見事にマッチしたその時刻に、男は「だろうな、朝飯の時間だ」と納得した。
ベッドから抜けだし、一気に着ていたパジャマを脱ぐ。
下着一枚で桐箪笥の引き出しに、お気に入りの紺地の着流しを探した。

「ん? この間着たばかりだと思うが…」

全ての着物が新品のたとう紙に包まれ、防虫剤の小袋が引き出しの隙間に置かれていた。
虫干しした記憶も無かったが、気の利く相方が業者に頼んでいたのかもしれない。
男はたとう紙を捲りながら、紺地の着流しを探した。

「帯がない」

着流しは直ぐに見つかったが、帯が見あたらない。
いつもの収納場所にない。
帯は帯で一段使っていたが、そこには、見覚えのないスラックスがズラッと並んでいた。

「誰が勝手に移動させたんだっ」

空腹も手伝って、男は癇癪気味にスラックスの入った引き出しを抜き、床に投げつけた。
それから、部屋の入口の引き戸を引いた。

「誰でもいいから、直ぐに来いっ! …ってぇええ」

怒鳴りながら、部屋を出ようとして足元の大きな物体に躓いた。
思い切り臑を打ち、腹いせ紛れに物体を叩いた。

「うわ、わっ、く、く、く、組長!」

大きな物体は、人間だった。
戸の前に座っていたらしい。
手には何故か木刀を持っている。

「何やってるんだ? …なんだ、その面は?」

元々ある刀傷の他に、小さなひっかき傷が顔中に散らばっていた。

「ガキにやられたか。情けね~ヤロウだ。それで、人の部屋の前に逃げて来たのか? あ? それでも桐生の若頭かっ、」

再度、男が腕を振り下ろした。
帯の件に追い打ちを掛けるように痛む臑。
そして、朝っぱらから見る情け無い面。
男の機嫌の悪さに拍車が掛る。
情け無い顔の物体が、人間であることを主張したいのか、叩かれた頭を抑えながら立ち上がった。

「…アッシの事が分るんですね…、そうなんですね、…アッシが桐生の若頭って、」

立ち上がった物体、イヤ、人間が、機嫌の悪い男の上腕を掴んだ。
そして、男の身体を縋るように揺さぶった。

「佐々木、俺に叩かれてアホに磨きがかかったか? 鬱陶しい、離れろっ!」

男はヤバイ、と思った。
目の前の顔が、大洪水を起こす一歩手前になっていた。

「組長っ! 組長ですよね? 本物の組長ですよね? 正真正銘、桐生勇一ですよねっ、どうなんですかッ!」

離そうとしているのに、離れるどころか顔を至近距離に近付けて、唾を飛ばしながら叫(わめ)かれた。

「テメーッ、朝からナニ人を呼び捨てにしてるんだっ。本物って、何だ? 俺が偽物だって言いたいのかっ、この薄らボケがッ!」

掴まれ身動きができない上半身は諦め、男は自由がきく足で迫ってくる男、佐々木の臑を蹴り上げた。
ウッという唸り声と共に佐々木の顔が男の前から消えた。

「いい加減にしろ。アホなことほざいてないで、俺の帯を出せ。どこに隠した。俺に下着一枚で一日を過ごせと言うつもりか」

踞ったまま、立上がろうとしない佐々木を見捨て、男が歩き出した。

「他に誰かいないのか! 帯を持ってこいっ、メシの用意はどうなってるっ!」

怒鳴った所で、男の背にドサッと重いモノ覆い被さった。

「ぐ、はっ。降りろっ、離れろっ、」

床に踞っていたはずの佐々木が、男の背中に飛び掛かってきたのだ。正しくは、抱きついて、だが。

「組長だっ。本当に組長なんですね。…ひっく、戻って来てくれたんですねっ、アッシは、アッシはぁあああ、ぐぁああああ、組長ぅうう、…嬉ヒィ… 愛ヒィてますっ! もう、絶対に、離ヒィま…せんっ!」
「いい加減にしろッ!」

男が、背中の佐々木を背負い投げで投げ飛ばした。

「そうだよ、オッサン。朝っぱらから浮気してるんじゃねえよ。全く油断も隙もねぇよな」

ドサッと佐々木が畳みの上に落ちたと同時に正面の襖が開き、若い男が帯を持って歩いて来た。