その男、激情!91

「いくら、大喜がアッシに愛想尽かせて出て行ったからって、大喜を手籠めにしようなんて、許せるはずがないでしょっ、」

佐々木が勇一に掴み掛かった。

「誰があんなケツの青いガキに、手を出すか」
「前に出そうとしたことあったじゃないですかっ」
「ギャンギャン、中年男が騒ぐなっ」

勇一が袷を掴む佐々木の手首を捻り、同時に佐々木の足を払った。
バランスを崩した佐々木の身体を勇一が持ち上げると、前方に「エイッ」と投げ飛ばした。

「…っ、うっ、――組長っ!」

投げ飛ばされた佐々木の身体は横断歩道を渡りきったところにあった。
桐生の若頭、武道の心得は当然ある。
咄嗟のことでもダメージを軽減する姿勢はとれた。
だからといって、どこも打たなかったわけではない。
頭を守った為に、肘と腰に痛みが走る。

「悪いな、手が滑った」

信号は既に赤に変わっていた。
しかし、勇一の前を横切ろうとする車体はなかった。
前列の運転手が目の前の光景に呆気にとられ、前方の信号が青に変わったことに気付かなかったのだ。

「…組長ぉお、…酷いじゃないですか。…それに、ダイダイの尻は青くはありません。そりゃ、可愛い桃なんですからっ、」

腰を擦りながら立上がった佐々木は、何かを思いだしたのかデレッとした顔になった。

「それは俺が投げ飛ばしたこととは、関係なさそうだな」

横断歩道を悠々と渡りきった勇一が、佐々木の鼻の下を指した。

「え? ぁあ? …うわっ、何だ!」

鼻水でも垂れているのかと指で拭うと、指に付いたのは佐々木の予想に反して赤いものだった。

「いい歳して、興奮してるんじゃねえぞ。わりぃわりぃ、ガキがいなくて欲求不満だったな。不夜城で抜いてもらえ」
「組長ッ! 冗談は止めて下さい! アッシの身体は体液一滴残らず大喜のものなんですっ!」
「は? 若頭の身体は、組のモンだろが。つまり、俺のモンだ」
「ぇえええっ、組長、…まさかっ、」

佐々木が突飛な声をあげ、後方にずれ下がった。

「…ご苦労なさったんでしょッ! それはアッシにも想像が付かないぐらいッ、…だからといって、いけませんッ!」

佐々木が自分の身を守るように、自分の胸で腕を交差して組む。

「アッシにはダイダイがっ。そして組長には時枝さんが!」
「――佐々木? 頭大丈夫か?」

自分が投げ飛ばしたせいでおかしくなったのだろうかと、勇一が首を傾げる。

「お前にガキがいようと、俺に勝貴がいようと、関係ないだろ。俺とお前の問題だろうが」
「…知りませんでした。…組長がそんな目で…アッシの事を…」
「はぁ?」

アスファルトに、佐々木が沈む。
本日二回目の土下座である。

「申し訳ございませんっ、それだけは無理です。組長のご期待には…お応え出来ませんっ。大喜も、時枝さんも俺には裏切れませんっ! 俺の身体は体液だけでなく、ケツの穴まで全て大喜のモンですから」
「ぶっ、…お前、…佐々木、……まさか、」

やっと勇一にも佐々木の誤解が何であるか分ったらしい。
ガハハハと、大笑いを始めた。

「やべぇ…、ひっさしぶりのヒット、ぁあ腹、いてぇえっ、俺が、…お前のケツを? …ぁあ、気持ち悪りぃ、想像させるんじゃねえっ」

このボケが、と笑っていたはずの勇一が佐々木の頭を度突いた。

「…え?」
「つうかよ、ケツまでガキのもんって、お前達…そうなのか?」
「当たり前じゃないですかっ!」

佐々木は勇一の問いの意味が分ってなかった。
分っていたら、肯定はしてないだろう。
佐々木の言うところのケツの穴までという意味は、自分の身体のどの部分であっても愛する大喜のモノだという意味で、決して『行為』においての役割を指しているものではなかった。

「そ、っか。――変なこと訊いて悪かった…。そうか…そうなんだ…。まぁ、ガンバレ」

勇一が、まだアスファルトに座る佐々木の肩を軽くガンバレと叩いた。
この四十代の男が小生意気な大学生に後ろをあけ渡している図を想像し、過去の自分の体験を思い出してしまった。
二度しかない貴重な体験を。

その男、激情!90

「おっかねぇことは、やめて下さいっ、」
「実在しない銃口を怖がるな、バカバカしい」
「ですが、組長、目が…本気です」
「当たり前だ。狙っているからな」
「アッシが、何かしましたか?」
「お前を狙ってるんじゃねえよ。馬だよ、馬」
「う、ま、って、あのパッカパカ走る、あの、馬ですか?」

勇一の言葉に、佐々木の顔から血の気が引いた。

「それ以外のウマって、ねえだろ。しっかりしろ、桐生組若頭。おかしな馬の顔がファインダー越しにちらつく。その頭を狙ってんだよ…」

勇一が構えを解いた。

「…あの、…組長。今のは」
「錯覚だろ。笑えるが、スーツ着た馬と豚と美少女がちらついたんだよ。勝貴を撃ちやがった橋爪の野郎と同じ場所に立ったんで、脳味噌が興奮してるんだろ」
「…そうですよ。スーツを着た馬なんて有り得ません、です」

佐々木の額にはうっすらと汗が滲んでいた。
あの時のマスクが今どうなっているのかと、心配になった。
間違っても勇一の目に触れさせるわけにはいかない。
時枝を撃ったことの記憶が勇一に戻れば、時間のズレどころじゃない。
あの時は、時枝を病院に搬送することで必死だった。 
脱いだマスクがどうなったのか、あの時の佐々木には全く関心がなかった。

「武史は腕が悪いと言っていたが、お前はどう思う? この場所を選ぶとなると、特殊な訓練を受けた者だろ」
「…その根拠は」
「この高さだ。これぐらいの高さだと一発で仕留めて姿を眩ませないと、自分の身が危険だろうが。通常、スナイパーは、銃撃した後のことも考えて場所を選ぶ。プロとなれば、顔が割れることも好まないはずだ」
「…もちろん、仰有る通り、生業にしているヤツだと思いますが…、時枝さんは一発ではありません。幸い、一命も取り留めましたし…、ボンが仰有る通り、腕は…そんなに…」
「腕に自信がある。たぶん、今までに一度もヘマはしてないはずだ。今回が、何らかの事情で特別だったんだ。それが幸いしたんだが…」

う~ん、と、勇一が考え込む。

「…組長?」
「急ぐぞ、佐々木。下手すると橋爪を他に掻っ攫われる。仕事に失敗した殺し屋の末路など、知れている。ヤツをやるのは、この俺さまだからな」

これ以上この場にいても無駄だと勇一は判断した。
大股で歩き出す。

「待ってくださせーっ。今度はどこにっ、」

次はどこに向かう気だ、と佐々木が追い掛ける。

「事務所に戻るだけだ」

くだらんことを聞くなと、その声は語っていた。

「なあ、佐々木」

行きと違い、二人は横断歩道で信号が変わるのを待っていた。

「テメェんとこのガキ、いつ戻って来るんだ?」
「ダイダイ、大喜は……未定です」
「お前、舐められてるんじゃねえのか? 何やったんだ? ついに、離縁か」
「組長ぉお、脅さないで下さい。アッシにも何が原因か…」
「連れて来い、」

信号が青に変わった。

「って、…大喜をですか?」

横断歩道を渡り始めた勇一の背中に、佐々木が訊いた。

「ああ。訊きたいことがある」
「組長の手を患わせるような事では。これはアッシとダイダイの問題ですから」

下手に勇一に介入され、これ以上大喜の機嫌を損ねたら大変だと、佐々木が慌てた。

「アホ。訊きたいことがあるのは、テメェらの痴話ゲンカについてじゃなぇよ」
「じゃあ、何についてですか?」
「個人的なことだ。佐々木には関係ない」
「――個人的? 関係ないって、…まさか、組長っ、」

佐々木が、先を歩く勇一の前に回り込んだ。

「そりゃ、あんまりですっ! 時枝さんという立派なお方がお有りなのにっ!」
「は? 何、興奮してんだ?」

横断歩道の真ん中。
信号が点滅に変わっていた。
だが、佐々木が勇一の前を塞ぐので、二人とも止まっていた。

その男、激情!89

「情け無い話だが、時枝が銃撃された際の記憶が俺にはない。詳しい状況を教えてくれ」

勇一の中で、記憶がない部分は全て黒瀬のせいとして処理されていた。

「俺もその場にいたのか?」
「いらっしゃいません!」
「そうだよな。いたら、勝貴をあんな目に遭わせるはずがない。一人だったのか?」

佐々木と木村が、ハッと顔を見合わせた。
そして、二人揃って勇一の前に並ぶなり、床にその身体を沈めた。

「申し訳ございませんっ!」

二人並んでの土下座。

「アッシらが、一緒だったんです」
「立て。土下座はいいから、詳しく話せ」

立たずに、二人とも顔だけをあげた。

「…その、…時枝さんは、この事務所に用事があると申すので、アッシらが一緒に本宅から同行したのですが…車を降りたところで、向かいのビルの屋上から狙撃にあったと…言うわけです」

間違いではないが、かなり端折った説明だった。
用事の内容を細かく聞かれたら何と答えようかと、佐々木の頭の中はグルグルしていた。
木村はというと、佐々木が被り物の事を言わなかったことに胸をなで下ろしていた。
羞恥極まりない過去を、今更ほじくり返されるのは真っ平だった。

「向かいのビルからか…」

勇一が、事務所の窓に立つ。
腕を組み、道路挟んで真向かいに立つ雑居ビルに視線を沿わせた。

「佐々木、屋上からで間違いないんだな」
「はい。警察の検証も行なわれたので、間違いありません」
「行くぞ、」

スタスタと勇一が入口ドアに向かって歩き出した。

「ちょ、ちょっと待って下さいっ! 組長ッ! どこに行かれるんですかッ!」

慌てて佐々木が追い掛ける。

「向かいのビルだ。サッサとついて来い」

結局勇一が事務所にいたのは、ものの数分だった。

「留守頼む」

木村達を残し、佐々木は出て行った勇一を追い掛けた。

「組長ッ、信号を渡って下さい!」

車の往来を無視し、着流し姿の勇一が車道を横切る。
急ブレーキの音やクラクションがけたたましく鳴っているというのに、気にもしてないようだ。
勇一は前のビルの屋上を見上げ、マイペースで道路を渡りきった。
車の方が勇一を避けた形だったが、佐々木となると話は別らしい。
車はクラクションを鳴らしながらも、スピードを落とす気配がない。
いい歳をした中年男が、バレエを舞うようにクルクルと回りながら、なんとか車道を渡り終えた。

「…はあ、…はぁ、危なかったぁ、まだ、死ねね~…。ダイダイと行き違ったままで、死ねるかっ、…あれ、組長は? 組長ぉーっ、待ってくだせぇえ―ッ!」

勇一の姿は佐々木の視界から消えていた。
行き先は分っている。
雑居ビルの屋上だ。喫茶店横に階段がある。
エレベーターの存在を確認する前に、目の前の階段を佐々木は駈けのぼった。

「遅いぞ、」

検証跡の残る隅に、勇一が仁王立ちで佐々木を迎えた。

「…はぁ、…はぁ、申し訳ございません」
「ここから、狙ったんだな」

勇一が、ライフルを構える仕草をした。

「…その日、…俺は」
「はい?」
「…どこにいた?」
「どこって、そりゃ、…もちろん、」

ココですとは言えない。

「事務所だよな」
「はい」
「デジャブって、知ってるか?」

ファインダーを覗く仕草のまま、勇一が佐々木に訊いた。
デジャブ=既視感だ。
もちろん、佐々木でも知っている言葉だった。

「初めてのはずなのに、前にも見たことある、ってやつじゃ…」
「ああ。ソレだ。ここから下を覗いたことがある」
「…気のせいですよ」
「だろうな。尤も、不思議なのは、こうしてファインダー覗くと、」

構えた仕草のまま、勇一が佐々木の方を向いた。
今、ライフルの先は佐々木を向いている。

その男、激情!87

***

 

「組長っ、…組長がっ、…組長がっ、組長に、戻ってるぅうううっ」

窓に張り付いていた、桐生の若手が驚愕の声をあげる。 
組長専用車から降りてきたのは『橋爪』に撃たれた時枝ではなく、過去に自分たちが組長と呼び慕っていた男だった。

「ナニ、意味不明のことほざいてるんだっ。てめぇら、若頭の話聞いてなかったのかっ。いいか、粗相するんじゃねえぞ」

桐生組の事務所の内部は、ざわめき立っていた。
佐々木からの連絡で出迎えは要らないというので、皆、事務所の窓から外を見下ろしていた。
既に勇一が戻ってきていることは知っていた。
佐々木が本宅に本部にいるもの全員を集め、『実は、』と勇一が生存不明の行方知れずだったことを話したからだ。
時枝が入院している病院で、数名の組員は勇一の姿を見ていたが、その数名は黒瀬の脅しで他には洩らしてなかった。
よって、殆どが佐々木の話で勇一の生存を知ることとなった。

「もちろんですっ! 新聞も雑誌も片付けましたし、本宅同様テレビも壊してありますっ。あ、カレンダーに、年号が」
「さっさと、外せ。急げ、足音が聞こえる」

黒瀬は勇一が年月のズレに気付いても構わないと言っていたが、佐々木は最大限その時期を延ばそうと画策していた。

『戻ってきた先代――組長にはご自分が行方不明になった経緯もこの間の記憶もない。戻って来たばかりの組長を混乱させない為にも、しばらく三年の空白を悟らせないように。もちろん、葬式まで済ませていることは、口が裂けても、ボンに脅されても言うなよ』
『口が裂けるぐらい我慢出来ますが……元組長代理に脅されたら…自信が有りません。なあ、みんな』
『…はい、自信が有りません…』
『例えだろっ、バカどもが』

普段黒瀬からはバカ呼ばわりされることの多い佐々木だが、組の中では尊敬を集める存在だ。
時枝が組長としてやってこれたのも、佐々木が率先して時枝に敬意を払ったからだ。
本宅でのやり取りで皆心構えは出来ているはずだが、いざ数年ぶりに勇一と向き合うとなるとやはり緊迫した空気が事務所内に漂う。
聞き慣れた足音と、懐かしい足音。
一つは革靴のコツコツという音と、一つは雪駄のザッザッザッという音。
二つの音が三年ぶりの和音を奏でていた。
来るぞ、来るぞ、来るぞ―っと、組員の視線が入口ドアに集まった。

「! 散れッ」

佐々木がドアを開けるなり一喝し、ドアを閉めた。
勇一の登場が気になるあまり、視線だけでなく組員のからだ本体も入口に寄っていた。

「どうした?」
「…なんでもありません。どうぞ、中へ」

改めて佐々木がドアを開ける。

「お、…お、…お、」

真っ先に挨拶を入れようとした一人が勇一の顔を見るなり、おはようの【お】だけで言葉を詰らせた。

「おはようございますっ! 組長」

その横にいた若手の代表格の木村が、声を詰らせた一人の足をギュッと踏むと同時に慌てて挨拶を入れた。
他の者が、それに続く。

「朝から、気合いが入っているな。まあ、元気なことはいいことだ―――ん?」

勇一が、自分に向けられた顔を見渡した。

「何か?」

佐々木の問いに、勇一が首を傾げた。

「うちの組には、何か悪い病でも流行っているのか?」
「と、申しますと?」
「佐々木の所のガキもそうだが、一斉に老け込んでないか? 渡部、お前、頭…」

渡部という現在三十の男の頭に皆の視線が集まる。
皆、しまった、という顔で視線を頭のある一部に注いだ。
M字に禿げかけた額だ。
勇一が姿を消す前には、ソコはM字ではなかった。
一直線に髪が生えそろっていた。

「何でもありませんっ! どうぞお気になさらずにっ」

渡部が額に手をやりながら、後退った。

「何でもないって、それ、禿げてるだろ」
「組長、渡部のハゲは気にしないで下さい。昔のダチに誘われて、いい歳してそり込み入れただけですから」

木村が慌ててフォローを入れた。
だがどうみても、抜け落ちたのと剃ったのでは生え際が違う。

「お前、毛抜きで抜いたのか? 本当に禿げるぞ」

皆、内心で『本当に禿げてるんです』とツッコミを入れていたが、もちろん顔には出さない。

「気を付けますっ!」

渡部に植毛を命じようと、佐々木はこの時本気で思った。

その男、激情!86

「ふふ、桐生の組長はゾンビってことで、桐生に敵無しじゃない? ゾンビ相手だと、仕掛けた方も呪われそう。切れた兄さんの恐ろしさを思い知れば良いんじゃない? 兄さん、あの人の激情型の気質を引き継いでいると思うけど」
「あの人? …あ、ゴメン」

父親の事だ。
黒瀬の産みの親、翠を愛しすぎたため、狂気に走った男。
成長するにつれ翠に似てきた黒瀬を、深すぎる愛情故に虐待した父親。

「謝る必要はないよ、潤。兄さんが逆上して日本刀振り回したの、覚えてる?」
「うん。あの時は、ビビッた…」

それは忘れられない光景だった。
拷問ともいえる時枝の凌辱シーンが収められたDVDが届けられた日。
勇一が日本刀を振り回し、「殺してやる」と我を忘れて暴れたのだ。
その尋常じゃない姿は鬼そのものだった。

「あれが、本質だよ。兄さんの。ふふ、時枝相手に、下半身が役立たずになったのも兄さんらしいけど」
「そこは、忘れてあげないと」
「潤は優しいね」
「普通だよ。そういえばあの時、佐々木さんが一番の被害者だったんじゃ…」
「アッシの事は、忘れて下さいっ!」

佐々木の脳裏に、風俗嬢にパクッと頂かれてしまった場面が蘇った。

「ふふ、一番の被害者は、お猿じゃない?」
「もう、その話は終わりですっ!」

後ろを向いたままの佐々木の肩が上下する。

「生意気なゴリラだ。私に命令? 偉くなったものだね」
「お、お願いです」

黒瀬の冷やかな声に、佐々木が慌てた。

「物は言いようだね」
「黒瀬、佐々木さんのことよりさ、戻ってきた組長さん、偽物って思われるんじゃない?」

佐々木が助かったと思ったのは云うまでもない。

「どうして?」
「だって、自殺ってことだったろ? 遺骨もあるし、役所にも死亡届出している」
「自殺を信じている者は少ないはず。外は特にね。表向きは納得しているけど、先に荼毘に付せた段階で本人かどうか怪しいと思っているはず。とにかく、兄さんがここから外に一歩でも出る前に、佐々木がまず組全体に正式に通達しないとね。時枝があの状態だから、今の桐生の実質的トップはこのゴリラってことだし」
「トップ? 滅相もないッ」
「ふふ、ゴリラの謙遜なんてどうでもいいから、早く、仕事してくれば? 兄さんが動き出す前に手を打たないと、既に姿を見てる組員もいるから、変な噂が広がるかも~。それこそ、ゾンビとか?」
「そうだよ、佐々木さん。早く仕事して、それから、ダイダイ迎えに行かないと。夫婦の危機ってヤツだよ」

佐々木が大慌てで台所から出て行った。

「邪魔なゴリラもいなくなったことだし、私達は、愛をより一層ディープに、ね?」
「ココで?」

散々食事しながら触られイかされたが、快感に貪欲な潤の身体には中途半端な熱が残っていた。
別の場所でゆっくり愛し合いたかった。

「もちろん、寝室で。ふふ、乱れる自分の姿を見たくない?」
「それって、ダイダイと佐々木さんの寝室でってこと?」
「そう」

膝の上の潤を黒瀬が抱いたまま、立上がった。

「姫、参りましょう」
「恥ずかしいよ、…でも、確かにあのベッドなら、黒瀬は王子か王様だ」

二人が佐々木とダイダイの寝室だからと遠慮するわけもなく、散々バカにしていた姫系ベッドの中でディープな愛を確かめあった。

その男、激情!85

「黒瀬、佐々木さん泣いてるよ」
「ゴリラというより、珍獣だね。ふふ、あのお猿の父君相手に泣きつくなんて、面白い」

大喜の父親は、極端に若いのだ。
大喜と九つしか違わない。
ぱっと見、兄弟にしか見えない。
元は大喜の家庭教師で、大喜の母親と結婚した為、大喜の父親となった。

「いっそ、佐々木があの父君とも関係をもてば、楽しいのに。お猿と母君を巻き込んでの泥沼」
「無理無理。佐々木さんだよ。不倫なんて、有りえない。プロ相手でも無理だろうから」
「そうだね、時枝や兄さんとは違うね」
「…時枝さんと、組長さんか…ある意味こっちが泥沼な気がする。…どうなるんだろ? 戻って来て良かった良かった、という単純な話じゃないよね?」

二人の関心は、もう佐々木から時枝と勇一に移っていた。
佐々木はまだ携帯を握りしめ、鼻水を啜りながら大喜の父親と話している。

「時枝は、単純に喜んでいるんじゃない? 狙撃されたことも恨んではなさそうだし」
「でも、組長さんは相当頭にきてる。仇とるつもりでいるし…ややこしいよ」
「とればいいんじゃない? 兄さんが橋爪へ報復する。ふふ、楽しそう…」
「黒瀬っ、」
「大事な者を傷付けたんだから、報復は当然じゃない? それが自分自身でも」

潤が、黒瀬の胸に手を伸ばした。シャツの上から縦に指を滑らせた。

「…黒瀬、…まだ、自分を責めているのか?」

潤の指がなぞっているのは、黒瀬の胸に残るスプーン型の火傷痕だ。
数年前、黒瀬自らが付けた懺悔と誓いの痕だった。

「潤を傷付ける者は、私自身でさえも許せない…愛してるよ、潤」
「…黒瀬…。黒瀬だけは俺を傷付けていいって、いつも言ってるだろ」

二人の視線が絡み合い、二人の距離が徐々に縮まっていく…唇が触れそうになったちょうどその時、

「ぅグッ、電話、終わりましたっ」

鼻声で、佐々木が割り込んで来た。

「空気の読めないゴリラだ」

冷やかな、凍りそうな程冷たい黒瀬の視線。

「…あの、アッシが、何か?」
「しかも、汚い顔。せっかくの食事が台無しじゃない。食事が済むまで後ろ向いてて」
「…あの、勇一組長のことで話をするんじゃ…」
「話に、顔は関係ないだろ? 後ろ向いていても会話はできるじゃない。やはりゴリラだけあって、バカだ」
「黒瀬、それは違うぞ。賢いゴリラもいる」
「そうだね、他のゴリラに失礼だった。潤、私の膝においで。一緒に食べよう」

佐々木は黒瀬と潤に背を向け、潤は黒瀬の膝へと移動した。

「…もう、…ばかっ、…駄目だって」
「ボ、武史さまっ、一体何を…」
「何って、食事。それで、兄さんの事だけど…」

食事では聞こえないはずの水音や、潤の甘ったるい声が洩れる中、黒瀬が勇一の話を始めた。
佐々木は雑念を払うように太腿を抓り、組内外への対応を黒瀬と話し合った。
鼻水はいつしか赤いモノに変わっていた。
二人の食事が終わる頃には、佐々木の太腿は腫れ上がっていた。

「組はいいとして、外が納得するかどうか。 葬式・法事では太い金も動いてますし。あと、組長自身が…。テレビや何かで三年のズレに気付くんじゃ…」
「気付けばいいんじゃない? 第一、自分の身体の銃創みたら、気付きそうなものだけどね。あの鈍感さには、敬服すらしたくなるね。ふふ、自分の中の時間のズレと橋爪への報復、一体どう対処するのか見物」
「でもさ、また、組長は組長さんに戻るわけだろ? 佐々木さんじゃないけど、死人が組長復帰って、外部は納得するの?」

今まで会話に入ってなかった…というか入れない状態だった潤が、呼吸を整えながら黒瀬に訊ねた。

その男、激情!84

「ふふ、実家に帰るって、実家に遊びに戻るっていう意味と思ってるとか? 桐生を出て、戻って来ないっていう意味じゃない? つまり、離婚前提で出て行くってこと。それを止めなかったんだから、ふふ、絶対お猿はココには戻らないよ」
「…う、そぅ、」

佐々木の顔が、蒼白になる。

「信じられない! 佐々木さん分ってなかったってこと?」
「ふふ、ゴリラの脳では言葉の裏までは理解できないからね」
「裏も何も、常套句じゃないかよ…」

切れて怒った自分が、潤は可哀想に思えた。

「大変だッ! こうしちゃおれね~っ、ダイダイッ!」

やっと潤の怒りの意味に気付いた佐々木が慌てて台所から出て行こうとした。

「行かせないよ、佐々木」
「ボンッ!」

椅子に座ったままの黒瀬が手を伸ばし、佐々木の腕を掴んだ。

「殺すよ、今度こそ。でも、その前にしてもらうことあるから。悪いけど、お猿のことは後回し」
「そんなぁあっ。今止めないと、ダイダイが出て行ってしまうっ!」
「ふふ、既に先程音がしたよ。出て行った後だから、安心して」
「なら、すぐに追い掛けないとッ! 離して下さい、ボ、武史さまっ!」
「無理。ふふ、お山に戻ったんなら、いつでもいいじゃない。死に別れや消息不明じゃないんだから。それより、今は、優先することあるんじゃない?」

黒瀬の佐々木を掴む手に、ギュッと力が入る。

「そんな、殺生な…」
「兄さんを、放置して行くつもり? 桐生内外に混乱を招くよ?」
「ですがっ、ダイダイがッ!」
「もう、遅いよ佐々木さん。出て行った後で慌てても、ダイダイ許さないと思うけど。どうしてダイダイが出て行こうと思ったのか心当たりあるの?」

今の潤は、心底大喜に同情していた。
この鈍い男なら、きっと原因に気付いてないだろう。

「…それは、」

佐々木に思い当たることといえば、この目の前の二人が寝室に入ったことだけだ。

「その…お二人が……、」
「責任転嫁?」

黒瀬の一言に、佐々木は続きの言葉をグッと飲込んだ。

「せめて、電話をさせて下さいっ!」

佐々木も、数年間分の記憶が欠如している勇一を残し、自分が本宅を空けられないことは理解していた。
内外に対する対処を最優先で考えないとならない。
そのために黒瀬と潤が本宅ではなく、自分の家でわざわざ朝食をとろうとしていることも知っている。
だが出て行った大喜を放って置くことは、大喜が出て行っても構わないということになる。
ここで誠意を見せなければ、男じゃないだろう。

「腕を放して下さいっ!」
「ふふ、お猿が電話に出るとは思わないけどね」

黒瀬が佐々木の腕を解放した。
佐々木が慌てて大喜の携帯に掛けた。
黒瀬の指摘通り、出ない。
電源を切っている主旨のアナウンスが流れるだけだった。
すぐに、別の番号に掛けた。大喜の実家だ。

「お、お父様っ、ご無沙汰しておりますっ!」

携帯を耳に当てたまま、佐々木が深々と頭を下げる。

「不徳の致すところで…あの、その…ご子息がそちらに…向っていると…、申し訳ございませんっ! 今直ぐに迎えに行きたいのですが…どうしても、出られない事情がっ。必ず、アッシ、いや、わたくしめが迎えに行きますので…はい、それはもう、重々承知しておりますっ。ダイダイにっ、ご子息に、是非お伝え下さいっ、愛してる…ぐっ、…許してくれと」

携帯を握りしめまま、義理の父親相手に愛を語り始めた佐々木。
次第に鼻に掛かった声になった。

その男、激情!83

否定しない大喜に、潤が掛ける言葉を失った。
黒瀬が、大喜から手を離すと、潤に行こうと促した。

「黒瀬、でも、…」
「いいから、行ってくれ。忙しいんだ」

出て行こうとしない潤の背中を大喜が押した。
バタンとドアを閉めると、内側から鍵を掛けた。
鍵の掛かる音で潤も諦めたらしく、黒瀬と共に歩き出した。
足跡が遠のいて行くと大喜はスポーツバッグに身の回りのものを詰め始めた。
黒瀬と潤が台所に着くと、出前のステーキと寿司も届いており、食卓の上は所狭しと皿と膳が並んでいた。

「どうぞ、温かいうちに、」

二人を佐々木が出迎える。
潤が佐々木の顔を観察するようにジッと見た。

「潤さま、アッシの顔に何か?」
「別に。普通の顔だなって思って」

ブスッと言いながら、席に着く。

「この顔を普通と表現できる潤は優しいね。左目の横の傷といい、鬼瓦のような目付きといい、ゴリラの中でも下の下じゃない?」
「ゴリラでも何でもいいけど、どうして、佐々木さんが落ち着いていられるのか不思議」
「ふふ、いいじゃない? そうなる運命だったんだよ。運命には逆らえないから。兄さんたちみたいに切れたはずの糸がしつこく繋がっていた、ってこともあるし、私と潤みたいに、日々愛が深まっていくと運命づけられている者もいるし」

さあ、食べよう、と黒瀬が箸を持つ。
それにならい、潤も食べ始めた。

「難しい話で…あの、何か…アッシに問題でも?」
「問題? 佐々木さん、ダイダイ放って置いていいんですか?」

呆れきった、という潤の顔。

「今頃、荷物まとめているかもしれないのに」
「そうなんですよ。ダイダイ、実家に帰るって言っていたので、その準備をしているんでしょう。給仕もしませんで、申し訳ございません。ダイダイの躾がなってないというお叱りでしたか」

世間一般に嫁が夫に言うところの『実家に帰る』という意味と同じ意味で、大喜がその言葉を口にしたとは佐々木は思っていなかった。
佐々木は、大喜が実家に用事で帰ると思っていた。
深く頭を下げた理由も佐々木に、出掛ける自分の代りに、黒瀬達の朝食の世話をお願いしたのだと思っていた。
誤解をしたままの佐々木の言葉は、誤解の連鎖を生んだようだ。

「あんた、それでも男かよっ!」

箸を放り投げ、潤が立上がる。

「ひっ、お、落ち着いてくだせぇ、…潤さまっ、」

切れた潤を見たことは、数回ある佐々木だが、それが自分に向けてとなると、初めてだ。

「潤、凛々しい姿もいいね。惚れ直すよ」

黒瀬は箸を休めることなく、嬉しそうに潤を見つめていた。

「躾がどうとか言ってる場合か! 見損なったよ。愛には真摯な男だと思っていたのにっ! 冷静に語っている場合じゃないだろっ! は? そんなに別れたかったのかよ。だったら、あの時、組長さんに激怒していたのは何だったんだよ」

潤のいうあの時とは、橋爪を名乗る勇一に大喜が拉致られた時のことだ。

「何を仰有っているんですか? 別れたい?…誰と誰がですか?」
「ゴリラと小猿に決ってるじゃない」

佐々木の質問に、潤より先に黒瀬が答えた。

「ゴリラって、アッシですか? アッシとダイダイが、別れる? 何のことだかサッパリ」
「イイ加減にしろよ、佐々木さん。実家に帰るってダイダイ言ったんだろッ! それを止めなかったんじゃないの? 違う? 別れたくなかったら、身体を張ってでも止めるのが、男じゃないの」

まだ、佐々木はピンと来てなかった。
自分が止めなかったことが、どうして別れたいと繋がるのか。
だが、潤の憤った様子から、自分が何かとんでもない間違いを犯したらしいことは推測できた。

その男、激情!82

「将来の雇い主に、もっと丁寧な話し方できないの? ふふ、時枝がここにいたら、厳しく叱られてたよ」
「残念だったな、ココに時枝さんはいないし、黒瀬さん、あんた、もう俺の将来の雇い主じゃない」
「ダイダイ、どういうこと?」

潤がベッドから跳ね起き、大喜の前に立つ。

「どうもこうも、言葉通りだ。朝食の準備が出来てるから。出前はまだだけど、桐生の朝食はセッティング済みだ」
「ココで食べるって、佐々木から聞かなかった? 下に降りていっただろ?」
「聞いてない。話あるんだろ? 三人で仲良くあのいい加減な男と時枝のオヤジの話するんだろ? 部外者は邪魔しないから、盛り上がればいいよ」
「部外者? ダイダイ、さっきから変だよ。機嫌悪そうだし。佐々木さんとケンカした?」
「は? ケンカ??? 俺がオッサンとケンカするわけないだろ。いいからサッサとこの部屋から二人とも出て行ってくれよ。俺だって忙しいんだよっ!」

自分の前に立っていた潤の腕を大喜が掴むと、寝室の外へ出そうと引っ張った。

「ヒィッ!」

その大喜の腕を今度はベッドから降りて来た黒瀬がねじり上げた。

「相変わらず煩い小猿だ。私の潤に暴力は許さないよ。佐々木が拾って来た頃と何の進歩もないところが、本物の猿だね。ふふ、人間に進化する前に、家出でもするらしいけど」
「えええっ?」

声をあげたのは潤だ。

「結婚の協力もしてあげたんだから、離婚の協力もしてあげようか? ふふ、こっちの方が面白そうだけど」

本気で黒瀬は面白がっていた。
退屈しのぎの話題は一つでも多い方がいいのだ。
しかも、時枝と勇一達とは違い、この二人の関係はシリアスモードに欠けており、当人同士には不幸な出来事でも見てる側には余興にしか感じられなかった。
特に黒瀬には。

「黒瀬っ!」

だが、潤は違った。
一人っ子の潤にとって、大喜は弟のような存在だし、佐々木には黒瀬が廃人同様に陥ったとき、組の仕事そっちのけで世話をしてくれた恩がある。
しかもこの三年、時枝の為に陰に日向にと動いてくれたのは、他ならぬこの佐々木だ。
そんな二人の危機と知れば、潤が黙っている訳がない。

「ダイダイ、佐々木さんと何かあったのか? さっきの事? ダイダイが組長さんに話そうとしたのを止めたこと怒っているの?」

自分と黒瀬が原因とは、潤はこれっぽっちも思っていない。

「だから、ケンカとかしてないって、言っただろ。サッサと下に降りて朝食食べろよ。冷めるぞ」
「ふふ、潤行こう。ゴリラと猿のことなんて、今はどうでもいいんじゃない?」

黒瀬は、朝食の方が大事だという意味で言った。

「…どうでも、いいって…。でも、確かに優先順位的には…悪いけど組長さんと時枝さんか」

と、潤は医務室の二人のことを言っているのだと解釈した。
潤の言葉に、どうせ俺はその程度だよ、と大喜が内心でやさぐれていた。今の二人の状況を考えれば潤が言っていた事は当然のことだが、大喜の心は今現在かなり荒れていた。
佐々木の言葉と潤の言葉が重なり、自分が佐々木にとっても桐生にとっても、どうでもいい存在に思えてならなかった。

「俺の事なんかどうでもいいだろっ。サッサと下に行けよ」
「ふふ、お山に帰る猿は放っておけばいい。人間社会には馴染めなかったって、分ったんじゃない?」
「…そうかも…しれないな」

ボソッと大喜が呟いた。

その男、激情!81

「ふ~ん、自分達の行為を鏡に映して悦んでるの。佐々木って、そういう趣味があったんだ。ロマンティックな変態ゴリラだったとは、最悪」
「いや、アレはっ、…その、ダイダイが、アッシの背中の、…菩薩が…えっとですね」
「ダイダイのせいにするなんて、佐々木さん見損なったよ」

潤は佐々木をからかっているに過ぎないのだが、佐々木の方は肩を落としてしょげた。

「オッサン、どこだよっ!」

タイミングよく大喜の声が階下から飛び込んで来た。 佐々木が、失礼します、と寝室を慌てて出て行った。

「二階で何してたんだ? あの二人はどこだ」

しかめっ面の大喜が、二階から降りて来た佐々木に責め口調で訊いた。

「…二階で朝食を召し上がりたいと仰有って…」
「はあ?」

大喜の不機嫌丸出しの声に、佐々木の声が先細りになっていく。

「……寝室に…その、何だ…」
「寝室? 入れたのか? オッサン、あの二人を俺とオッサンの愛の寝室に、入れたのかよっ!」

ヤバイと、佐々木は思った。
大喜が不機嫌を通り越して、激怒しているのが分る。
潤と黒瀬は、佐々木の趣味だと思っていた寝室だったが、実は大喜が少しずつ今の部屋へと変えていったのだ。
鏡も佐々木の言った通りで、大喜の要望で取りつけたものだった。

「許せ、ダイダイッ!」

佐々木が手を合わせ、大喜を拝むように謝罪した。

「俺はまだ仏じゃないっ!」

大喜が佐々木の合わさった手を振り払った。

「俺と組の仕事のどっちが大事なんだ、ってことは言うつもりはない。比べられるようなモノじゃないと思っているし、オッサンの魂は桐生そのものだって俺はちゃんと理解している」

胸ぐらを掴むと、身長差のある佐々木を見上げた。

「あ、ありがとう。さすがダイダイだ」
「だけどな、あの二人は違うだろっ! 俺とあの二人のどっちが大事なんだっ! 答えろっ!」
「…ダイダイ、そりゃ、もちろん、」
「もちろん?」
「もちろん、三人とも大事だ…」
「・・・」

大喜が佐々木を見上げたまま、固まった。
瞬きするのも、口を閉じるのも忘れていた。

「ダイダイ?」

佐々木の呼び掛けに、ハッと我に返った大喜が、佐々木から静かに離れた。

「実家に帰らせて頂きます」

静かにそう告げると、佐々木に深く頭を下げた。

「…実家?」

大喜の放った言葉の意味するところが、佐々木には分ってなかった。
大喜はクルッと向きを変え佐々木に背を向けると、佐々木を置いたまま、一人で寝室へと向った。

「あんた達、人の寝室で何してんだ?」
「やだな、見て分らない?」

オーガンジーの布の越しに、二人の人間が重なっているのが、大喜の目には映っていた。

「分るから、訊いてるんだよ」

本番中ではなかった。
服は着ている。
だが、大喜が寝室へ入った時、水音が聞こえる程、黒瀬と潤はハードなキスをしていた。
それも、自分と佐々木が愛を育んでいた大事なベッドの上で。
真っ白な純白のレースの寝具は、自分達の純粋な愛の証のように感じていた。
それを穢されたような気がして、大喜には許せなかった。
もちろん、一番許せないのは、寝室にこの二人を入れ、自分とこの二人を同等に評価した佐々木なのだが。