その男、激情!20

「…あ? …なんだありゃ」

橋爪の目に飛び込んで来た、奇妙な光景。

「…お遊戯会か?」

馬とブタと少女のマスクを被った人間が三人、車から降りてきた。
あまりのバカバカしさに、笑う気も失せる。

「まさかとは、思うが…狙われていると勘付いて、顔を隠しているつもりなのか?」

今から殺す人間ではあるが、こんな子ども騙しの事をやってのける浅はかさに、命を狙う価値があるのかどうか、橋爪は疑問に思った。
李を脅かす存在とは思えない。
どうみても、『黒瀬』の方が危険な存在だ。
だが仕事は仕事だと、馬に照準を合わせた。
そう、被り物のマスクなど意味がないのだ。
車から降りてくる馬に、出迎えに出た者が頭を下げているし、ブタと少女のマスクの二人が馬を警護するように挟んで事務所の事務所の入口へ向えば、誰が大事な人間なのか、分らない方がおかしい。
もっとも、そういう芝居までしているなら話は別だが、そこまでの芸の細かさがあるなら、こんなふざけた被り物など端っからしてないだろう。
トリガーに掛けた指と、標的を捉える目に神経を集中させる。

「天国か地獄か…どちらかな、時枝勝貴」

橋爪がトリガーを引いた。

 

 

「社長!」

秘書課に現われた眉間に皺を寄せた黒瀬に、その時その場にいた秘書達全員が立上がった。

「市ノ瀬は?」

潤が社長付の秘書になってから、黒瀬が直々に秘書課に現われるのは珍しい。
また、いつも飄々としている黒瀬の渋面とを、社内では見かけたことがない。

「川瀬部長の所です」
「至急、大至急、呼び戻して」

眉間に皺を寄せたまま、それだけ言うと、黒瀬は社長室に戻った。
一分後、息を切らした潤が社長室へ駈け込んで来た。

「…はぁ、…社長、…急用でしょか…」
「潤、」
「…ここは、会社です…市ノ瀬と…」

全部言い終る前に黒瀬が言葉を被せた。

「時枝が、撃たれた」

その言葉を聞いた瞬間、潤も秘書ではなくなっていた。

「…どういうこと? どういうことだよっ、黒瀬!」
「言葉通りだよ。時枝が銃撃された」

潤が黒瀬に詰め寄る。

「生きてるよね? 時枝さん、無事だよね」
「分らない。佐々木が興奮してて、肝心な点を言わなかったから」
「分りやすく、説明してよっ! な、黒瀬、時枝さんどうなってるんだよっ!」
「潤、落ち着いて。佐々木から五分程前に連絡があった。『ボン、一大事ですっ、組長が銃撃されたましたっ』とね。そのまま携帯が切れ繋がらないから。組の事務所の電話してみたけど、誰も出ない」
「…行こうっ、黒瀬、今すぐ時枝さんの所行こうっ!」
「無理。どこにいるか分らないだろ? 病院だとしても、どこに搬送されているのか、不明だし」
「じゃあ、どうしろって、言うんだよっ」

潤が、黒瀬の胸をバンバン叩いた。

「あの男が、そう簡単に死ぬわけない。あんな口うるさい男は、三途の川で、船に乗る前に乗船拒否されるから、大丈夫。それより、いつでもココから出られるよう、潤にはすることあるよね? 至急、私のスケジュール調整して。この後三日間は休みにして欲しいな。三十分で出来る?」
「…できる。黒瀬、三日間って…まさか」

秘書として、冠婚葬祭にも関わる事が多い潤だ。
黒瀬のいう数字に思い当たるものがあった。

「潤、考えすぎない」

何を考えていたのか、黒瀬にはバレバレだった。

「…スケジュール調整する」
「良い子だ。その間に時枝の状態と場所を調べておくから」

黒瀬と潤は各々、今すべきことに取り掛かった。

 

橋爪がターゲットに浴びせた銃弾は一発じゃなかった。
馬の頭部から脚まで数発の弾を撃ち込んだ。
蜂の巣とまではいかないものの、命を奪うに十分な弾数が命中した。
周囲の悲鳴は、ビルの屋上の橋爪にまで届いた。
手応えを感じ、橋爪は直ぐにその場を離れた。
ふざけた格好をしていても、ヤクザはヤクザだ。
直ぐにこの場所を嗅ぎつけ桐生の者が来るだろう。
屋上から下に戻る途中の階で、持っていたライフルを空調ダクトに隠すと、仕事結果の確認をするために、喫茶店の前にできた野次馬の中に紛れた。

「組長ぉおおっ!」
「大丈夫だっ、脈はある! 救急車はまだかっ!」

倒れているターゲットの顔は、群がる組員で見えなかった。
赤い血が道路を汚しているのは、隙間から見えた。

「しくじったか」

チェッと、橋爪が舌打ちをした。
なんでこう、思い通りに事が運ばないんだ。
日本に降り立った時から、落ち着かなかったり変な夢に魘されたりしたのは、仕事が上手くいかない事への前触れか?
そんなわけあるか、救急車が到着する前に地獄へサッさと逝きやがれ、と数が増す群れに紛れた橋爪が、時枝の息の根が止まるのを待つ。
救急車が早いか、時枝が事切れるのが早いか。
血の流れは勢いを増しているようだ。
応急で止血も施しているだろうが、隙間から見えていた赤い筋は、もう歩道から車道へと届いている。
橋爪にとっても、桐生の人間にとっても、救急車が到着するまでが、数時間にも感じられるほど長かった。
遅い割りには、大急ぎで来ましたとアピールするように、耳障りなサイレン音を鳴らし、救急車両は到着した。
直ぐに担架が降ろされ、救急隊員が桐生の群れに隠れた。

その男、激情!19

「もしもの事があれば、何だ?」
「組員全員で組長の後を追いますからっ!」
「はあ…大袈裟な」

木村にしてみれば、大袈裟でも何でもなかった。
黒瀬に桐生を継がれると死より怖い日々が待っているかもしれない。

「組長、皆の為にも、完全武装でお願いします」

佐々木が三つのマスクのうち馬のマスクを時枝に差し出した。

「眼鏡の上からでも大丈夫ですから、どうぞ」
「被ればいいんだろう…被れば。被りますよ」

街中をこれで闊歩(かっぽ)するわけではない。
事務所へ行くだけだ。
と、半ば自棄クソで時枝が折れた。
お手伝いします、と木村が手を貸した。
あっという間に、スーツ姿の姿勢の良い馬が出来上がった。
凛とした馬の姿が木村の笑いを誘った。

「笑うヤツがあるかっ! お前も早く被れ」

時枝が咎めるより先に、佐々木が木村を叱った。
佐々木が木村にセーラーバルーンの葵ちゃんのマスクを渡す。

「…ブタの方が…」

人気美少女アニメキャラのマスクはさすがに恥ずかしかった。

「早くしろ」

木村のリクエストは無視され、佐々木がブタを被り始めた。

「これで万全です。組長参りましょう」

ブタと美少女が馬を誘導して歩く姿に、本宅内にいた他の組員は、皆呆気にとられ固まっていた。

 

***

 

その朝橋爪は、準備万全で桐生組事務所の前のビルにいた。
屋上の端に陣取り、装弾済みライフルの銃口を上にし、縁に立てかけていた。
仕事が済めばその足で空港に向うつもりで、ホテルはチェックアウトしてある。
胸の内ポケットにはパスポートとオープン航空券が収められていた。

「昼の便には、間に合うか」

八時前。
黒いスーツの男が、一人、また一人、と事務所内に入って行く。
企業でも暴力団でも、上の人間が一番という所は少ない。
最後に現われるのが、ターゲット『時枝勝貴』と思って間違いあるまい。
ターゲットの到着を静かに待つ。
不思議と今日は現われる気がしていた。
だから、何の焦りも苛立ちもない。
来るのを待てばいいだけだ。
橋爪は煙草を咥え、一服しながらその時を待った。

九時前。
事務所前に停まった一台の車。

「ベンツじゃないのか」

三ナンバーではあるが、外車ではなかった。
日本車だが、善良な一般市民の車ではないことは、一目瞭然。
スモーク貼りで中の様子が見えない。
ウィンドウも、銃弾除けの特殊ガラスに取り替えられているだろう。

「日本のヤクザは燃費重視なのか、それとも、この組がケチなのか」

嫌みったらしく呟きながら、煙草を足元に投げ捨て、火を消した。

「さあ、生のお顔を拝ませてもらおうとするか」

持っていた写真をグシャグシャッと丸めズボンの後ろポケットにしまうと、ライフルを構え、照準合わせでスコープを覗いた。

その男、激情!18

***

「佐々木、頭、大丈夫ですか?」
「はい、もちろんです」
「防弾チョッキだけで十分だ」
「組長、往生際が悪い。馬さんかブタさんかそれともこのセーラーバルーンの葵ちゃんか、早く決めて下さいっ!」

法事も終わり、久しぶりに事務所へ向おうという時枝の前に、佐々木が立ち塞がっている。
横には木村という若手ナンバーツーもいる。
木村の手には時枝用の防弾チョッキが、佐々木の手には、ヤクザの出勤に全く関係なさそうなゴム製のフルフェイス型のマスクが数種類、握られている。

「いい加減にして下さい。コントでもさせる気ですか? それとも強盗にでも入れと?」
「ボンからも、警護を頼まれておりますし、頼まれるまでもなく、不穏な動きがある以上、用心に越したことはありません」
「はあ。佐々木、その用心がこのマスクにどう関係しているのか、一分間で説明しなさい」

朝っぱらから変な物を真剣に押し付ける佐々木に、時枝は苛立っていた。
確かに浦安からも不穏な話は聞かされていたし、実際、何やら動きがあるのも事実らしいが、だからといって、朝から変なマスクを被らないとならない理由が分からない。
しかも、コントの道具にしか思えない物を手にした佐々木が真剣な表情だから、始末に負えない。

「…三分でもイイですか?」

恐る恐る訊いてくる佐々木に、更に苛立ちが募る。
時間の問題じゃないだろ、とド突きたくなるのを我慢した。

「ええ。出来るだけ手短に」
「組長のお命を守る為です。心臓は防弾チョッキで守ることが出来ます。手足は出血多量じゃない限り、打たれたり刺されたりしたぐらいでは命に係わる事はありません。しかし、頭は別です」

まさか、このゴムのマスクで脳味噌が保護出来るとでも思っているんじゃないだろうな、と時枝が眼鏡越しに冷ややかな視線を佐々木に投げつけた。

「ゴムで弾がはじけるとでも?」
「そんなわけないでしょう」

そこまでバカではなかったらしい、とある意味ホッとした。
桐生の若頭が小学生以下の知能では困る。

「被ることで、焦点がずれる可能性がある。特にこの馬なんて、最高です。この頭部の長さ。どこまで組長の頭が入っているのか分からない」
「―――本気でそう思っている…のですか?」

やはり…小学生以下だったか、と時枝が落胆した。
肩の高さから、プロのスナイパーなら頭部の高さぐらい見当がつくだろう。

「それに、一番の利点は」

少しはまともな理由があるのか?

「こんなマスクを被るような人間が、組のトップとは、誰も思わないでしょう。万が一、組長とばれることも考慮して、同行するアッシと木村も被りますので」

聞かされてなかったのか、木村の顔が一瞬歪む。

「三人で被れば、誰が誰だか分からないでしょうし身長差もマスクの高低で誤魔化せますので、完璧です。な、木村もそう思うだろ」
「え、あ、いや…はい、若頭の仰有る通りです」

もっと他のお守り方があるんじゃないのか、と木村は思ったが、佐々木が怖くて言えなかった。
それにこのマスク着用に異議を唱え、組長にもしもの事があったら自分の責任問題になるかもしれない。

「マスクを着用した変人が桐生の組長とは思わないと思います」
「…木村…私を笑い者にしたいのか?」
「滅相もございません! ただ、組長のお命は何が何でもお守りしなければ、と思っておりますっ。時枝組長にもしもの事があれば…」

次に組長になるのは、黒瀬かもしれない。
それだけは避けたいと、木村だけでなく、桐生組一同思っている。
佐々木を除いては。
過去に一度だけ、先代の勇一の代に黒瀬が組長代理を務めた事があった。
その時の極度の緊張を強いられた日々が、皆トラウマとなって残っていた。

その男、激情!17

「社長、何を企んでいるんですか? 佐々木さんは?」
「さあ」
「大森相手に悪さしようと言う気じゃ、ないでしょうね?」
「悪さ? 猿相手に何をするって言うの、時枝。ふふ、潤、そろそろ帰ろう」
「黒瀬、ホントにダイダイ連れて帰る気? 佐々木さんの許可、とってあるのか?」
「問題ない。手を振って見送ってくれたから」

そんなはずはない、と時枝も潤が顔を見合わせたが、それ以上の追求をしなかった。
しても無駄だと二人とも知っているからだ。

「時枝、車を一台回して。猿の棺桶車で来たので足がない」

この場に佐々木がいれば、佐々木が手配することだが、いないので組長直々に手配した。
桐生の中で時枝に命令を下すような人間はいないが、黒瀬は正確には組以外の人間であり元上司だ。
秘書の時の習慣で、黒瀬には当然のように従ってしまう。

「だから、このいかにもヤクザ仕様車、止めてほしいんだけど? 今時スモーク貼りのベンツって…」

本宅の正門。
運転手付で用意された車が、黒瀬には気に入らないらしい。
大喜を後部座席ではなくトランクに押し込みながら、見送りに出た時枝に文句を言っている。

「一般人には見えない社長が乗車されるのですから、これで十分です。それとも、軽自動車でも用意しますか?」
「時枝は、私を殺したいらしい。やたら悪目立ちする車を用意したり、オモチャの車を用意すると言ったり、命が幾つあっても足りないじゃない」
「黒瀬、命狙われているの?」

潤が、黒瀬の言葉に反応した。

「ふふ、大丈夫。私は死神から嫌われているって、知ってるだろ? もしも、の話しだから。むしろ、ヤバイのは、この男じゃない?」

後部座席に乗り込みながら、黒瀬が時枝を指さす。

「私も嫌われていますのでご心配なく。死にかけても、狙われても死ぬのは私じゃないようですので」
「ふふ、それって、庇って撃たれた兄さんへの嫌味? じゃあ、今度代わりに撃たれるのは誰だろうね。佐々木? 佐々木死なせたら、猿から一生恨まれるよ」
「バカな事言ってないで、サッサとお帰り下さい。トランクの大森が酸欠になる前に」

時枝が後部ドアを閉めた。
運転席に座る者に、早く出せ、と時枝が目配せをする。
黒瀬と潤、それに大喜を乗せた車は発車した。

 

***

 

深夜、橋爪はホテルのベッドで地図を広げていた。
その横には、アメリカ製のアサルトライフルが一挺。
クロセの本社ビルからホテルに戻る途中、ファイアーの息の掛かった台湾料理店で受けとった、橋爪の大事な仕事道具だ。
地図の上に、赤いペンで付けた印が三箇所。
桐生組の事務所、クロセの本社ビル、そして、ターゲット時枝勝貴が住む桐生の本宅。
引き籠もりヤロウもそろそろ出てくるだろう、と地図上の本宅と桐生の事務所迄の道筋をボールペンでなぞる。
無駄に一週間も過ごしてしまった。
明日には仕事を片付け、その足で台湾に戻りたい。
移動は車に違いない。
乗車するときか降車時が狙い目だと、ボールペンを事務所の場所で止めた。

その男、激情!16

「ダイダイ、ボンになんてことを!」

目を潤ませ感動していた佐々木が、慌てた。
慌てすぎて、ダイダイの無礼に上乗せするように、佐々木はいつもの失言を犯してしまった。

「二人揃ってあの世に逝ってもらいたい。味見以前の問題だ。味が不安だって言うことは、潤のレシピを信用してなかったということじゃない? 潤が気の毒だ」
「そういうわけじゃないけどさ。舌の肥えた黒瀬さんに味見してもらえれば、胸張ってオッサンに出せるだろ?」

慌てている佐々木の横で、大喜は悪びれた様子もない。

「あっそ。そんなに佐々木に美味しいもの食わせたいなら、本当の嫁になれるよう、潤の下で修行でもすればいい」

黒瀬がソファから立上がる。

「ちょっと、この猿、借りていく」
「え?」

首根っこを掴まれ、後方に大喜が引き摺られる。

「ボッ、武史さまっ! お待ち下さいっ!」

佐々木が黒瀬の前に回り、両手を広げ阻止した。

「邪魔。退いて」
「退きませんっ! ダイダイから手を離して下さいっ!」
「退け、」

低い声で言われた。
一瞬にして、空気が凍るのを大喜も佐々木も感じた。
佐々木が焦る。
ヤバイ、このままだと大喜が連れ去られる。
だが、黒瀬のこの冷気に逆らえば、二人ともあの世逝きかもしれない。
なら、大喜の命だけでも助けてもらわねば、とかなり大袈裟な思考が巡る。

「ゴリラの百面相に興味はない」

佐々木の焦りが眼球の動きに現われていた。
両手を広げた佐々木の肩を、黒瀬の空いた方の手がド突く。
バランスを崩した佐々木の横を黒瀬が大喜を連れて通る。

『ここに置いておくのは危険』

通り際、黒瀬が佐々木の耳元で囁いた。

「は?」

体勢を戻した佐々木は、黒瀬を追わなかった。
ゴリラと常々黒瀬に卑称される佐々木だが、決して頭の回転が遅いわけではない。
腕力だけで若頭になれるほど、ヤクザの世界も甘くない。
黒瀬達の前では、駄目な男の代名詞みたいな佐々木だが、組の中では威厳もあれば力もある。
そう簡単に下っ端が話し掛けられるような、気やすい存在ではなかった。
黒瀬がお仕置き目的で大喜を連れ出したわけではないと分かると、「さすがボンだ…ありがてぇ」と、黒瀬と大喜が出てった玄関ドアに向って、仏様に参るみたいに手を合せた。
佐々木が考えていた以上に、事は重大且つ危険だということなんだろう。
本宅だからと言って、安全ではないということだ。
組員なら訓練も受けているが、大喜は素人だ。
何かあれば、真っ先に命を落とす。
他の素人さんにもしばらく暇を出せねば、と佐々木は家政婦数名と庭師に連絡を取った。
それから何も持たずに出て行った大喜の為に、大喜の着替え等、必需品の荷造りを始めた。

「潤、お待たせ」
「黒瀬…それ、」

ユウイチと遊んでいた潤が、黒瀬の肩にある物体を指さした。

「潤の元で花嫁修業がしたいって。しばらくうちで預かることになった」

途中「オッサン、オッサン」と煩い大喜を、黒瀬が失神させ担いで来たのだ。

その男、激情!15

「いい匂いだ。紅茶か」

佐々木の話は大喜の出現により、中断された。
黒瀬はもう佐々木と会話を続けるつもりはないらしい。
自分の欲しい情報は得たのだろう。

「あっちで、緑茶は飲み飽きたかなと思って、紅茶にしてみた」

黒瀬の前に、大喜が紅茶にクッキーを添えて出した。
もちろん佐々木の分もある。

「お猿にしては気が利く。クッキーがホームメイドとは、いつでも嫁に出せるな」

佐々木が飲みかけていた紅茶を噴きだした。

「佐々木、汚い」

間髪入れずに、黒瀬が佐々木を咎める。

「何バカなこと言ってるんだよ。俺は既に嫁いで来たっていうの」

佐々木の濡れた顎の周りを大喜が、着ていたシャツの端で拭きながら、自分の立場を黒瀬に伝える。
もちろん、黒瀬だってそんなこと百も承知なのだが。

「まだ大森姓のくせに、威張って言うことじゃないと思うけど。ふふ、兄さんと時枝みたいに、後回しにしているとその前に別れがくるかもしれないよ? 永遠のね」
「だってよ、オッサン。黒瀬さんもこう言ってることだし、早く俺をオッサンの籍にいれてくれよ。このままじゃ、俺とオッサンの墓は別になるぜ」

大喜は黒瀬に反論せず、むしろ黒瀬の言葉を利用した。
黒瀬が大喜を気に入っているのは、こういう大喜の抜け目のない所だ。
黒瀬を利用しようとする人間など、黒瀬の周囲にはいない。
潤も黒瀬を怖れないが、潤と時枝以外で黒瀬と対等に口をきこうとする存在は珍しい。
もっとも、黒瀬に手をあげることのできる人間は、潤ただ一人であるのだが。
同居という名の佐々木と大喜の同棲も、もう三年目だ。
同棲というよりは結婚生活のつもりで暮らしているが、肝心の入籍が済んでいない。
大喜の両親の許可は同居を始めた年にとってあるが、佐々木がどうしても、大喜が社会人になるまではとゆずらないのだ。
佐々木なりに思うところがあるらしい。
この男、大喜との関係を一つ進めるのに、かなりの時間が必要だ。
同性同士ということや、職業やら年の差やら、と一般的に悩むであろう事柄もあるにはあるが…佐々木が異常にロマンティストで、貞操観念が固くて古いという事も関係していた。

「猿はやっぱり変わってるよね。墓の下まで、こんなオヤジと一緒がいいとは」
「こんな、じゃねえよ。最高のオッサンだ」
「最高ね~、」

呆れた気味に黒瀬が呟いて、その言葉を流すように紅茶を一口飲んだ。

「ダージリンか」
「クッキーも味見してみろよ。それ、潤さんに教わったレシピだから」
「だったら、する必要はない。美味しいに決まっているし」
「いいから、一口」
「うるさい猿だ。毒でも入っているんじゃない?」

渋々というかイヤイヤというか、黒瀬がクッキーを一枚口入れた。

「…ん、悪くない」
「それは美味しいってことだよな?」
「だから、潤のレシピで不味いはずない」
「俺が作っても、美味かったってことだろ?」
「猿にしてはいいんじゃない」
「ヤッタ―ッ! オッサン、間違いなく美味しいぞ。食べていいぞ」

大喜が、佐々木の手にクッキーを握らせた。

「やっと、食わせてもらえるのか…」

佐々木が、クッキーを見つめている。
その目は、感動で潤んでいた。
余程大喜が作ったクッキーを食べたかったのだろう。

「猿、どういう事? 私に味見をさせたということ?」
「だって、初めて焼いたからさ。オッサンに不味い物、食わせられないじゃん。オッサン、不味くても美味いって言うに決ってるし。本当に美味いっていう確信が欲しかったの」
 
黒瀬のこめかみが、ピクッと動いた。

その男、激情!14

「何か用かよ」

黒瀬の顔を見るなり、大喜のぶっきらぼうな一言。 
佐々木が戻ってきたと出迎えに行けば、立っていたのは黒瀬だった。

「ダイダイ、失礼だろ。お茶を頼む」

黒瀬の後ろに立っていた佐々木が、慌てて、黒瀬から大喜を遠ざけようとする。

「お猿の裸踊りでも、久しぶりに見ようかなと思ってね。暇だろ?」
「暇じゃねぇよ。第一、久しぶりも何も、裸踊りなんて見せたことねえじゃないかよ。オッサンの前でいい加減なこと言うなよ。オッサン、俺は、そんなことしてねぇからな」
「…信用しているから、大丈夫だ」

という佐々木の顔は真っ赤だった。
大喜のストリップでも想像したのだろう。

「あ…もう、だらしね~な。鼻血が…」

黒瀬がいるというのに、大喜は佐々木の首に手を回し抱きつくと、ペロペロと佐々木の鼻から垂れている赤い筋を舐めだした。

「ふ~ん、客にお茶も出さずに、猿とゴリラは交尾でも始めるつもり?」

黒瀬の言葉に、佐々木が慌てて大喜を突き放した。

「ダイダイッ、お茶っ!」

ハイハイ、と大喜が台所へ消え、佐々木は黒瀬をリビングに通した。
黒瀬をソファに座らせると、佐々木は床に正座した。

「で、一体、ダイダイにどんなご用が?」
「佐々木、あれ、本気にしてたんだ。ダイダイに用などないよ。口実。時枝抜きで、佐々木と話したかっただけ」
「アッシとですか?」
「あるんだろ、話が。幽霊話にはもっと何か。続きを聞かせろ」
「…その、たいした事では…ないんですが…、」
「だが、時枝の耳には入れたくなかった。違う?」
「…ええ、まあ。そんな感じです」
「どんな感じでもいいから、サッサと話して」
「…声、声に驚いたんだそうです。…組長の…、あ、時枝組長ではなくて、先代の声がして…、それで驚いて声の主を見たら、金八さんみたいな髪型にサングラスを掛けた不気味な人間が座っていたと」
「それ、どこ?」
「事務所の前の喫茶店らしいです」
「ふ~ん、なるほどね。それで、幽霊か」
「別人です。アキバ系だと表現した若いヤツもいますんで。あの先代のはずがない」
「そうだね。声紋を分析すればわかるが、あの兄さんのロン毛、有りえないだろ。ふふ、まだ時枝の女装の方があり得るかも」
「えっ!? 組長にそんな趣味がっ!?」

佐々木が大声を上げる。
うるさいと、黒瀬が耳を塞いだ。

「それぐらい、有りえないという話し。でも、そのロン毛の幽霊には気を付けた方がいい。特に時枝の警護はしっかりしておいて。出掛ける時は、防弾チョッキでも着けさせた方がいいと思う」
「それって、金八が組長を? アキバ系が桐生のトップの命を狙ってると仰有るんですか?」
「さあね。ふふ、用心に越したことはないだろ? 時枝には長生きしてもらわないと、組長の座が回ってきそうだし、そうなると潤との時間が減ってしまうからね」
「…あのぅ、もしかしてボンは、」

ギッと黒瀬が佐々木を睨んだ。

「猿を苛めてこようか? お茶も遅いし」
「申し訳ございませんっ!」

佐々木が床に頭を付ける勢いで謝罪した。

「もしかして、武史さまは、その男の正体をご存じ…」

と佐々木が言い掛けた所で、大喜がお茶と運んで来た。

その男、激情!13

「やはりね」
「比喩はともかく、もっと具体的に訊かせて下さい」

そして、潤だけが

「金八さんって、あのドラマの? 幽霊?」

と、訳がわからない様子だ。

「具体的って…言われましても…、アッシが耳にしたのは、それだけですので…」

返答に困り、佐々木が黒瀬を見た。
時枝に聞かせたくない内容があるからだ。
勘のいい黒瀬がそれに気付く。

「つまり、変な輩が出没しているってことだろ。何かが起こる前触れじゃない?」
「黒瀬、縁起でもないこと言うなよ」

潤が、顔をしかめた。
勇一がいないことを除けば、ここしばらくは平穏な日々が続いていた。

「幽霊話が出るところからみて、誰かの怨念かもしれないよ」
「誰かさんじゃあるまいし、そうそう怨まれる覚えはありません」
「ヤクザのトップが何を言っているのやら。桐生の組長と言うだけで、黙って座っていても怨まれる対象じゃない。やはり、時枝、おバカになってきてない? ユウイチおいで」

時枝が、ムッとしているのを無視して、黒瀬が餌を食べ終わったばかりのユウイチを呼ぶ。

「お利口なユウイチの鼻はちゃんと働いているよね。血の匂いを身に纏った誰かが、時枝に近づいて来たら、ちゃんと教えてあげるんだよ? それが人間じゃなくても。いい?」

黒瀬がユウイチを抱き上げ、ユウイチの鼻先を自分の鼻に付け、諭すように語った。
黒瀬との距離の近さに、ユウイチはかなり緊張していた。
決して自分が上位になり得ない相手だと、ユウイチは黒瀬を認識している。

「返事は?」
「……ワンッ」

思い出したように、ユウイチが返事をした。

「ところで、佐々木、お猿は猿山?」

ユウイチの返事で、黒瀬の中で不審者の話は終わったらしい。

「ダイダイですか? 家の方でパソコンを弄っていると思いますが」
「そう、ちょっと猿と遊んで来るか。迎えに来てもらった礼を言うの忘れていたし」
「礼? ボンッ、ダイダイが、何か粗相を!?」
「ボン? 粗相は、佐々木じゃない? この組の者に、学習能力を期待する方がバカなのか? 佐々木を教育するより、猿を人間に進化させる方が早い気がする」
「ボ、…武史さま…そんなぁ。ダイダイは十分人間ですので…」
「まあいい。猿と遊んで来る。潤も来る?」

潤には黒瀬が別の意図で、この場を離れようとしていることが分った。
そうでなければ、最初から潤も同行することが前提のはずだ。
『潤も』と、言われた段階で、同席をして欲しくないのだと理解した。

「ユウイチと時枝さんと遊んでいるからいい。時枝さんと久しぶりにゆっくり話したいし」
「時枝、潤に私の悪口を吹き込むなよ」
「悪口? 吹き込むなら、それは全て事実です」

黒瀬がユウイチを潤に手渡すと、立ち上がり歩き出した。

「佐々木、行くよ」

当然のように黒瀬が佐々木を同行させる。
やはりね、と潤は思った。
時枝のいないところで、佐々木と話をしたいのだ。 
大喜は口実に過ぎない。
時枝もそれには気付いているだろうが、素知らぬ顔をしている。
潤はユウイチとじゃれながら、仕事の相談を時枝にしたり惚気話をしながら、黒瀬が戻ってくるのを待った。

その男、激情!12

「お待たせしました」

佐々木がユウイチの餌を持って戻ってきた。

「ゆっくり食べておいで」

佐々木が座卓の横に餌皿を置くと、時枝がユウイチを腕から解放した。
余程お腹が空いていたのだろう、物凄い勢いで餌にユウイチが飛び付いた。

「佐々木さんも、どうぞ。お疲れでしょう」

潤が佐々木にもお茶を煎れた。

「潤さま、駄目ですよ。茶ぐらい自分で…、」
「本当だよ、佐々木。私の潤にお茶を煎れさせるなんて、百年早いよ」

と、黒瀬が佐々木を冷ややかに睨む。

「細かいことはいいじゃない。もう煎れたんだし、どうぞ」

潤が黒瀬に笑顔を見せる。
すると、黒瀬の目が穏やかになる。
それから萎縮してしまった佐々木に茶を出すところは、さすが潤だ。
黒瀬の扱いには慣れている。

「潤の心の広さには、感服するよ。猿からゴリラ、眼鏡を掛けた神経質な山羊にまで愛情深く接することが出来る。さすが、私の潤だ」
「社長、その眼鏡を掛けた山羊って、まさか、」
「時枝に決ってるだろ」

自分をゴリラと評された佐々木が、溜まらず口に含んだお茶を噴きだした。
潤もケラケラと笑い出す。

「私は草食獣ですか? まあ、いいでしょう。こういう職業で、そういう風に見えることは逆に褒め言葉ですから」

時枝なりの嫌味を飛ばし、時枝もまたお茶を啜った。

「そういえば、その草食獣の周辺で肉食獣の匂いがするけど。佐々木、ここ最近、何か変わった事は?」
「どうして、佐々木に訊くんですか? 私に尋ねればいいでしょ」
「時枝に訊いても意味が無い。亡霊の三回忌の為に、取り憑かれたように本宅へ籠っていた男に訊いてもしょうがない。違う?」
「違いませんが、取り憑かれていた訳ではありません。業者と寺との打ち合わせを事務所でなくこちらでしていたものですから、結果外に出られなかっただけです」
「別にその辺はどうでもいいことだけど。籠っていたことは事実じゃない。気のせいか、組長になってから、どうも時枝がおバカになっていく気がする。潤を苛めていた頃が懐かしいね」

ギッと眼鏡越しに時枝が黒瀬を睨む。

「苛めてはいません。教育的指導です」
「物は言いよう、だね。だけど時枝、今、話題にしたいのは、別の事なんだけど。時枝、やはりおバカになっているんじゃない?」

時枝の歯軋りが聞こえてきそうだった。

「佐々木、変わった事が? 私は聞いていませんが?」

先程浦安から訊いた台湾の事がある。
それに黒瀬の鼻は確かだ。
黒瀬に引っ掛かる事があるなら、何かが動いている証拠だ。

「…いえ、特には。…変わった事は…、ん? アレか?――いや、あれは…、変ったと言えば、変っているような…だが…」
「何を一人でブツブツ言ってるんですか。判断はこちらでしますから、些細な事でも報告して下さい」
「時枝の言うとおりだ。ゴリラの脳味噌に判断は期待してないから。何かあったんじゃない?」
「…不気味な金八さんが…とか、幽霊が…とか、変な噂が…チラホラ」

きっと笑われると佐々木は思った。
二人が訊きたいのはこんな噂話じゃないはずだと。 
だから『変』ではあるが、言いたくなかった。
しかし、佐々木の予想に反して、意外にも二人は真剣な顔で食いついてきた。

その男、激情!11

「お待たせしました」

三人と一匹が、黒瀬の待つ座敷へ着いた。
法事が行なわれた仏間とは、別の部屋だ。
先代組長桐生勇一の寝室になっていた部屋に隣接している、身内が集う部屋である。

「遅かったね。浦安に誑かされて、ホテルでも行ってるのかと思ったよ」
「行くはずないでしょ。私だって好みというものがありますから」
「ふ~~ん、好みね~」

黒瀬が意味深な視線を時枝に送る。

「潤、悪戯されなかった?」
「大丈夫。時枝さんには俺よりユウイチじゃない?」
「相変わらず、ユウイチとは仲いいんだ、時枝」
「ええ、もちろん。どっかのアホみたいに、いなくなったりはしませんし、可愛いですよ」

時枝が潤の腕からユウイチを取り戻す。
黒瀬、潤、佐々木の前で、時枝がユウイチの口に自分の唇をチュッと重ねた。

「佐々木、悪いがユウイチの餌をここに」

はい、と佐々木が部屋を出て行き、時枝が組長に就任してから用意した黒檀の座卓を、三人で囲む。
ユウイチを抱えた時枝が、黒瀬の前に座し、気を利かせた潤が茶の用意をする。
組の者がいないからなのか、上座には当然のように黒瀬が座っている。
黒瀬の秘書としての年月が長いので、時枝にも黒瀬にも、それは自然な事だった。
尤も、組長として時枝が場に居るときは、兄の勇一が組長だった頃のように黒瀬が下座に回る。

「美味しい。煎れるのが上手くなりましたね。秘書として、満点でしょう」

時枝が潤の煎れたお茶を一口飲むと、潤を褒めた。

「ありがとうございます」

元上司兼教育係に褒められ、潤は嬉しかった。
一緒に働いているときは、叱られる回数の方が多かったから、余計だろう。

「本当に美味しいよ、潤。もう三回忌とはね~。ふふ、1年遅れだけどめね。兄さんも草葉の陰で泣いてたりして」
「何で泣くの?」
「そりゃ、時枝が見境なく遊んでいるからじゃない?」

黒瀬が、意味ありげに時枝を見る。

「時枝さん、そうなんだ。ちょっとショック」

時枝にとって、先代組長の勇一が一番であって欲しいと潤は思っている。

「何ですか、社長。アレが草葉の陰にいるかどうかも分からないのに。尤も草葉の陰にいてもいなくても、あのアホも散々やっていると思いますよ」
「ふふ、時枝、まだ兄さんの生存を期待しているんだ。健気だね」

ズズズと、黒瀬が茶を啜る。

「意地悪だな、黒瀬は。俺だって組長さん、あ、元組長さん、どこかで生きてると思っているのに」
「三回忌法要を終えた男の生存を信じている二人に、感動を覚えるよ」
「信じてはいませんよ。その可能性もゼロじゃないと思っているだけです。あの世ならあの世で化けてでも出てくる気概があるかと思えば…、全くあのアホは。私のことで泣いてくれているようなら、まだ可愛げもありますけど。ユウイチ、心配するな。同じ名前でもお前は可愛いぞ」

時枝の腕の中から、ク~ンと主を見上げるユウイチの頭を時枝が撫でる。
ユウイチが誰よりも時枝の心の機微を感じ取らしい。
時枝の強がりの中に紛れる本音と、主を想うユウイチの姿に、潤の涙腺が緩む。
誰よりも黒瀬を溺愛している潤には、時枝がどれほど勇一を愛していたか分かる。
打ち拉がれた時枝が、出口の見えない底なし沼で苦しんでいた三年前を見ているだけに、時枝の強がりが胸に刺さる。
が、涙は流さない。
今更時枝に同情するのは、失礼だろう。