その男、激情!30

「それから、…俺、黒瀬に謝らないと」

潤が佐々木から黒瀬へと視線を移す。
照れ臭そうな顔だった。

「何を?」
「黒瀬は、組長さんが現われて、嬉しかったんだろ? だから、時枝さんも嬉しいと分るんだ。組長さん、黒瀬の血の繋がった家族なのに…俺、酷い事言った。組長さんが生きて目の前に現われて、嬉しいに決ってるのに。残酷だ、って、酷い事言った。ゴメン」
「兄さんに、特別な感情はないよ。人騒がせな兄を持つと、弟は大変なだけだ」
「嘘つき。黒瀬は時々、バレバレの嘘を付くから」

嘘つき呼ばわりされ、黒瀬は嬉しいらしい。

「そう?」

込み上げて来る愛おしさを、隠すつもりもなかった。 
潤に視線に絡める。
潤には、黒瀬の視線が「潤だけが分ってくれればいいよ」と、語っているように思えた。

「佐々木さん、残酷なんかじゃないよ。今までの方がきっと、時枝さんには残酷で辛い時間だったんだよ」

黒瀬と視線を絡めたままだった。
言葉だけ、佐々木に向いていた。

「佐々木、時枝の目が覚めたこと、医者に報告しなくてもいいの?」

潤と同じく、黒瀬もまた言葉だけ佐々木に向ける。

「あっ、行ってきます」

佐々木がやっと床から腰を上げた。
ドタドタと足音を立て黒瀬と潤の前から消えると、二人の絡んだ視線の距離が縮まった。

「…黒瀬、」
「…潤、おいで」

二人の世界が今、まさに始まろうとしていた。
しかし、接近した唇が重なる事はなかった。

『クソッタレがっ!』
「…今の、…時枝さん?」

泣き声が徐々に聞こえなくなったと思ったら、罵り言葉が聞こえてきた。

『出て来たと思ったら、俺を痛めて楽しんでいるのか? ド変態野郎に成り下がりやがって。流血のプレイが好きなS野郎か? 俺を殺す? 馬鹿かっ! てめぇが助けた命だろうがっ! ふざけるなッ』

ドガッ、と音まで聞こえた。

「ふふ、時枝、元気が出てみたい」
「今の音、まさか…」

黒瀬の腕から離れ、潤が病室に慌てて戻った。
てっきりベッドから時枝が転げ落ちたと潤は思った。 
しかし、違った。

「時枝さんっ!」

起き上がれるはずのない時枝が上半身を起し、撃たれてない方の手で枕を壁に向って投げつけたらしい。

「さすがに、兄さんの存在は大きいね。時枝がゾンビになった気がするよ。ふふ、撃たれたぐらいじゃ、死なないね」

潤の後から入って来た黒瀬は笑っていたが、潤は青ざめた。

「安静にして下さいっ! 手術したばかりなんですよっ! 傷が開いたらどうするですか」

潤が枕を拾いあげ、ベッドに戻す。
時枝の肩を抱き倒そうとしたが、時枝が振り払った。

「今すぐ、退院の手続きをして下さい。こんな所でゆっくり寝てられませんっ! あのバカに会わねばっ!」
「時枝さん、落ち着いてっ。まだ無理です!」
「生きていたんですよっ! 勇一が、生きていたんですよっ! 俺の側まで来たんだっ! あのバカがっ、早くっ、早くっ、…会わせろぉおおおっ!」

動く方の手が、潤の胸ぐらを掴む。
哀しみからか、喜びからか、それとも怒りからか、想像を絶する力が時枝には働いているらしい。

「そんなに、会いたいんだ。自分を殺そうとした男に」

時枝の潤の胸を掴む手が、黒瀬には気に入らないらしい。
潤の胸から時枝の指を外しながら、視線も向けずに訊く。

「当たり前だっ。俺が、どれだけ待っていたと思うんだ。俺を殺す? 上等だ。結構だっ。生きてなきゃ、出来ない芸当だろっ、違うか武史っ!」

やはり、嬉しかったのだ。
時枝の腹の底からの歓喜の叫びが、潤にも痛いほど届いた。

その男、激情!29

「ふふ、優しいね、潤。私も潤の事は潤以上に知ってるよ」

潤の頭に黒瀬がキスを落とす。

「…時枝さん、……本当に、嬉しいと思う?」
「思う」
「撃ったのが組長さんだったって、時枝さんに言う?」
「目が覚めたらね」
「――覚めて……います…」

黒瀬の背後から、微かな声が届く。

「時枝さんっ!」

潤が黒瀬を押し退け、時枝の側に行く。

「時枝さんっ、今の話…まさか…えっと、」
「潤さまの大声で、覚醒したようです…。どこからか現実か…分りません……が、…勇一が…、」

時枝の目からツーッと一筋の滴が、頬から耳の下を通り、枕に着地すると小さな染みを作った。

「…勇一がっ、……あの馬鹿がッ…生きて、…生きて…っ、…くっ、申し訳ございません、一人にしていだけませんかっ、」

顔を背けた時枝からは、嗚咽だけが聞こえてくる。

「…時枝さん、」

時枝の涙が、潤の心にキュンと突き刺さる。
何と声を掛けていいのか、分らなかった。
そんな潤の肩を黒瀬が抱え込み、『行こうか』と耳元で囁いた。
黒瀬に促され、潤は時枝のいる個室を出た。
ドアが閉まった瞬間、中から「ウォオオオオッ」と、獣のような咆吼が洩れる。
多数の銃弾を受けた身体から発せられているとは思えぬような、張り裂けんばかりの声だった。

「時枝組長っ!」

ドアの側に立っていた佐々木が、声に驚き中に飛び込もうとしたが、黒瀬に首の襟を後ろから掴まれ阻まれた。
「歓喜に浸っているのを邪魔しない」
「歓喜? 喋ったんですかっ! 狙撃したのが先代だって、ばらしたんですかっ!」

振り返り、佐々木が黒瀬に食って掛かる。

「興奮しない。潤との会話を時枝が盗み聞きしただけ」
「――そんなぁ…」

佐々木がその場に崩れる。
そして、そのまま自分の太腿を殴り付けながら、泣き始めた。

「…可哀想だっ、…組長が、時枝組長が…、何をしたって言うんですかっ、…くそっ、」

佐々木の背中を、黒瀬が足で蹴った。

「時枝に対して失礼だろ。脳味噌が空のゴリラに同情されるなんてね。あんなに喜んでいるのに、失礼なヤツ」
「…黒瀬、泣いてたぞ…時枝さん、涙零してた…」

佐々木じゃなく、潤が控えめに反論した。

「そうだね。嬉し涙流していたね」

潤には優しく黒瀬が答える。

「…本当に黒瀬は、時枝さんが喜んでいると思っているのか?」
「当たり前じゃない。さっさきも言っただろ。ふふ、時枝の時間が動き始めるよ、これで」

嬉しそうなのは、時枝よりも黒瀬のように見える。
まだ床で泣いている佐々木に、黒瀬が再度蹴りを入れる。

「泣いている暇があったら、仕事すれば? 兄さん、また時枝を殺そうと画策するよ。兄さんの居場所突き止めたりとすることあるんじゃない? 佐々木も兄さん見て分っただろ。兄さんは、時枝の事も我々の事も忘れているようだから、邪魔となれば桐生の組員だって殺すよ」
「…ボン、…アッシ達は、勇一組長から時枝組長と桐生を守らねばならないということですかっ」
「そういうこと。少なくとも、今の兄さんは味方じゃない。今後は分らないが」
「…やはり、残酷じゃ、ねぇですか。恋人同士だった者が敵味方って…、酷すぎますっ!」
「だった、って、過去形にしちゃって。佐々木も案外冷たい男だ。時枝の中ではまだ続いていると思うけど」
「そんな、言葉尻はどうでもいいでしょ!」

佐々木が床から黒瀬を見上げ、叫(わめ)く。

「佐々木さん、ここ、病院だから…」

先程のリベンジではないだろうが、潤が佐々木を注意をする。

その男、激情!28

「信じないっ、…信じられるものか…」

佐々木の腕を振り切るように、掴んでいた手を離すと、よろよろと潤は黒瀬の方に移動を始めた。
足元がおぼつかないのは、足がふらつくというよりは、涙が目の縁に溜まって視界が揺らいでいる為だ。

「潤、どうして泣くの? 嬉しくないの?」

潤が自分の元まで辿り着くと、黒瀬が立上がり、潤を自分の胸に抱き締めた。

「嬉しい? 組長さんが、時枝さんを殺そうとしたのに、嬉しいはずないっ!」
「どうして? 兄さんの生存分って良かったじゃない? ふふ、一番嬉しいのは時枝かな?」

安否不明、でも生きていると信じていた。
いや、信じていたかった。
だが、どこかで、もう、この世にいないのかも知れないとも思っていた。
それは決して口には出さなかったし、その考えが浮かべば、そんなことはない、と頭を振って否定してきた潤だった。
しかし、潤も佐々木同様、ショックと言いようのない憤りと哀しみに襲われていた。

「…どうして、時枝さんが喜ぶんだよっ、…ひっ、…残酷だよっ、――こんなに待っていたのに…何で殺そうとするんだよっ!」
「私だったら嬉しいよ、潤」

黒瀬が二十七にもなる青年の背を、ヨシヨシと、幼児にするようにさすった。

「…っく、…嬉しい?」

潤が黒瀬の顔を見上げた。

「私と潤に置き換えて想像してみて。もし撃った相手が潤だと分ったら、きっと幸せ絶頂で天国に旅立てるかも」
「…な、に、…ソレッ。俺が撃つはずないっ!」
「だから、もしも、の話だよ」

納得がいかない潤の背を、またもや黒瀬がさする。

「ずっと安否が分らない、死んだかも知れないと思っていた潤が、私の目の前に現われてくれるなら、それが私を殺す為に送られた刺客でも嬉しい…。生きて、現われたんだよ? どんな潤でも私は嬉しいに決っている。潤だってそうじゃなかったの? 私が潤の事を思い出せないでいた時、あんな酷い事ばかりしていたのに…一緒にいてくれたのはそういうことじゃない?」
「…そうだけど、――でも黒瀬は俺を殺そうとはしなかった」
「厳しいこと言ってもいい?」

大丈夫? と黒瀬が潤に問う。
潤が、うん、と頷いた。

「あの時の私なら、…ペットとしか思ってない相手になら…必要があれば何の躊躇もなく殺(や)れたよ。私の本質はそういう男なんだよ?」
「違うっ! 違うっ、ちがーーーーうっ!」

病室のガラス窓が、音波で割れるんじゃないかと思える程の大声で、潤が否定した。
佐々木が鼻に掛かった声で、えらく控えめに、

「あまり騒ぎますと…えっと、そのぅ…、個室といえども、看護師さんから叱られるんじゃないかと…」

と注意を入れたら、黒瀬から睨まれた。
そして手でシッシッと、犬のように追い払われた。

「…えっと、看護師が来ましたら、アッシが代りに叱られますので…ごゆっくり……」

鼻を啜りながら、佐々木が個室の前に立った。
急に鼻炎になったわけではない。
黒瀬と潤の関係に感動しての事だ。
殺されても嬉しいと言う黒瀬と、黒瀬の自虐的な告白を強く否定した潤に、込み上げてくる熱いモノがあった。
殺し屋となって現われた勇一の件で動揺していただけに、一気にそれは佐々木を突き上げた。
かろうじてその感動は鼻で止っていたが、いつ大粒の滴となって目から溢れてもおかしくない状態だった。

「黒瀬はそんな男じゃないっ! 黒瀬よりも黒瀬の事は俺の方が知っているンだッ! 俺が違うって言ったら、違う!」

個室の中では、まだ潤が大声を張りあげていた。

その男、激情!27

「…ボ、…武史さまっ、…それっ、アッシの、――いつの間にッ」
「弾が入ってないって、どういうこと? あの人も動揺していたみたいで、気付かれずに済んだけど」

佐々木が腹を押さえながら、黒瀬の手から自分の拳銃を取り戻した。

「…威嚇(いかく)にと、持っていただけです。病院内で、発砲する気はありませんから」
「ふふ、甘いね。そんなことじゃ、兄さんに時枝殺されちゃうよ?」

小馬鹿にしたような口調で、黒瀬が佐々木を冷ややかに笑う。

「…本当に、組長なんですかっ! 先代なんですかっ!」

拳銃をしまいながら、佐々木が黒瀬に食って掛かる。

「顔は整形で似せられても、声は無理じゃない? 物まね芸人じゃあるまいし。それに、体臭もね。兄さんと同じ匂いだったよ」
「――そんなァ…」
「なに落胆してるの? 喜ばしいことじゃない? 消息不明で死人扱いだった人間が、戻って来たんだから。時枝に教えてやらないとね…ふふふ」

黒瀬が邪魔だと佐々木を押し退け、時枝のいる個室へ向う。

「黒瀬、どうだった? 現われたの?」

時枝の側に、潤が付いていた。

「現われたよ」
「怪我は? 大丈夫なのか?」
「見ての通り、私はかすり傷一つない。時枝は、まだ目が覚めないの?」
「うん。夢見ているみたい。時々『勇一』って唸ってるよ」
「何年経っても、兄さんで時枝の中身は埋まっているってことか。ふふ、だとしたら、時枝が引き寄せたのかな?」
「引き寄せた? なに、それ」

黒瀬が時枝のベッドの側に寄る。

「ボンッ、」

その時、佐々木が個室へ飛び込んで来た。

「ダメですっ!」
「うるさいよ、」

黒瀬が、佐々木を睨む。

「残酷な事、言わないで下さいっ! 勇一組長が、狙撃犯だったなんて、残酷過ぎますっ!」
「…佐々木さん?」
「あ、」

慌てて佐々木が自分の口を手で塞いだ。
黒瀬が時枝のベッドに腰を降ろしながら、

「ふふ、自分で言っちゃったよ」

と、佐々木を一瞥した。

「なんだよ、どういうこと? 佐々木さん、今、勇一組長って、言った?」

潤が佐々木に詰め寄る。

「…えっと、…その、」
「狙撃犯って、どういうことだよっ!」

潤が自分より体格のいい佐々木の腕を掴み、佐々木を揺らす。

「時枝、兄さん生きてたよ。良かったね」

黒瀬が時枝の頬をなで下ろしながら、目を閉じたままの時枝に告げる。

「黒瀬っ、組長さん、生きてたのかっ!」

潤は時枝のことを今でも時枝さんと呼ぶので、組長とは先代の勇一のことだ。
佐々木の腕を掴んだまま、潤が黒瀬を振り返る。

「殺したいぐらい、愛されているのかな? 兄さんから受けた銃弾に倒れて。兄さんは時枝の前に姿を現わそうとしたよ。ついさっき、拳銃を持参で」

潤にというより、黒瀬の言葉は時枝に向かっていた。

「――バカな…、…そんなこと、…そんなぁ…、組長さんが…時枝さんを…有りえない!」
「事実だよ。おいで、潤。佐々木にしがみつくぐらいなら、私の胸にどうぞ。ジェラシーで佐々木を殺す前においで」

ベッドの腰掛けた黒瀬が、自分の胸を軽く叩く。

その男、激情!26

「クソッ!」

部屋に入るなり、安っぽいベッドを橋爪が力任せに蹴り上げた。
キルト部分がほつれているのか、羽毛が数枚舞い上がった。
朝、チェックアウトしたホテルとは別のビジネスホテル。
本来ならもう台湾に戻っているはずだった。
しかし、仕事をしくじったばかりに、仕方なく滞在延長となった。
だがそれも、一泊だけの予定だった。

「何が兄さんだっ! 何が組長だっ! 人をおちょくりやがってっ!」

一度までか二度までもしくじった。
最悪なのは、子ども騙しな罠にはめられ、ターゲットの身内に逃がされたという事実。

「あれが、やつらの手なのか? 心理作戦ってやつか? あの男は、俺の記憶の欠落を知っていて、身内に仕立て上げようという魂胆か? クソッ!」

あの男、黒瀬に、兄さん、と呼ばれてから頭痛が酷い。
吐きそうだ。
橋爪は頭を両手で抱え、床に踞った。
左目の横に傷のある男、黒瀬が「佐々木」と呼んだ男が口にした言葉が真実だとすると、橋爪の顔と桐生の前組長は同じ顔だということになる。
ガンガンと唸る頭を支えバスルームへ移動し、橋爪は鏡の前に立った。

「何故、同じ顔なんだ…? 知らない間に、顔を整形されたのか? それとも自分の意思で俺は顔を変えたのか? まさか…桐生の組長と双子なのか…」

今のこの顔の記憶しかない。
これは自分の顔だ。
他の誰の顔でもない、この俺の顔だ。
台湾で劉(りゅう)と呼ばれ、ここでは橋爪という名の殺し屋の顔だ。
それ以外の人生があったというのか?

「…バカな。有りえない…初めて会う顔ばかりだ。夢で見たこともない…。桐生の場所にデジャブ―すら感じない…クソッ、欺されないぞっ、」

ふと、桐生の事務所前で張っていた時のことを思い出す。
橋爪の声に桐生の組員が騒いでいた。

「…声まで、…同じ?」

喉に手を当てた橋爪が首を振る。

「だから、何だって言うんだッ」

鏡に映る自分の顔に、橋爪は頭を叩きつけた。
鏡にヒビが入るぐらい、激しく何度も。
視界が赤くなり顔を上げる。
ヒビの入った鏡に、赤い血を額から流し、その血で眼球を染めた顔が、壊れた万華鏡のように映っていた。
元々の頭痛と打ち付け切れた箇所の痛みが重なり、意識が遠のいていくのを橋爪は感じた。
外側から白く靄が掛かる視界が、完全に白く閉ざされる前に、どうにかベッドに辿り着く。
そこで橋爪は意識を失った。

 

「ボン、どういう事ですかっ! 説明して下さいッ」

黒瀬が時枝が本当にいる病室へ向っていると、佐々木が視界に入ってきた。
鼻腔を広げ、鼻息荒く黒瀬に詰め寄った。

「廊下で騒ぐと迷惑だろ。説明? その前に、」

黒瀬が、佐々木に冷たく微笑みかけた。
微笑みに『冷たい』という形容詞が付く人間はそうはいない。
身の凍るようなゾッとする黒瀬の微笑みに、佐々木はヤバイッ、と自分の失態を自覚したが、時既に遅し。
腹にめり込む衝撃を感じた。

「ぐっ、ふっ」
「珍しく気分が高揚しているので、殺してやってもいいけど。ほら、こういうオモチャ、持ってるし」

腹を押さえる佐々木の前に、黒瀬が拳銃をちらつかせた。

その男、激情!25

「離せっ、…ゴチャゴチャ言ってないで、手を離せっ、黒瀬武史」
「光栄ですよ、兄さん。俺の名前、覚えてくれてましたか?」
「兄さんやら組長やら、バカな事ほざいてないで、手を離せ。命が惜しくないのか?」
「この状況で、何を言ってるんですか。命の心配した方がいいのは、兄さんの方でしょ?」
「そうか?」

男が、黒瀬に捕られてない方の手を、ポケットに入れると中から拳銃を取りだした。

「一つだけとは、限らないんだよ、残念だったな。手を離せ」

男が黒瀬のこめかみに銃口を突き付けた。

「ボンッ!」

佐々木が慌てて二人の前に飛び出そうとすると、

「おっと、動くとこの男の命はないぞ?」

男は引き金に手を掛けて見せた。
黒瀬が佐々木に問題ない、と目で合図を送る。

「そう、良い子だ。そのままにしてろよ」

男は黒瀬を人質に取り、病室から通路に出た。

「兄さんと、夜の病院を散歩ですか? ふふ、深夜の病院で死んだはずの人間と歩く。幽霊話としては、ありきたりですね」

こめかみに突き付けられていた銃口は、脇腹に移動している。

「黙れっ!」
「ふふ、時枝を殺すのを邪魔して悪かったですね。自分が命を掛けて守った男を、自らの手で殺す。狂気めいていて、私好みですよ」
「黙れっ! 本当に撃つぞっ!」

二人は非常口に着いていた。

「どうぞ。撃ちたければ構いませんよ。弾の入ってない拳銃で人は殺れないとは思いますが」

黒瀬が男の前に拳を突き出すと、ゆっくり開いて見せた。

「バカな。…いつの間に」

掌で鈍い輝きを見せる五つの弾。

「殺し屋さんが、武器を一つしか所有してないと思う程、あいにく世間知らずではありませんよ。兄さんが佐々木に気を取られている隙に、抜いておきました」
「じゃあ、何故、ここまで来た!」
「ふふ、そんなの決まっているじゃないですか、兄さんを逃がす為でしょ。顔色悪いですし、早く休みたいんじゃないんですか? それとも、桐生の連中に引き渡されたいですか? それはそれでも、楽しそうですけど」

形勢はまた逆転した。
黒瀬が男が突き付けていた拳銃を取り上げ、自分が隠し持っていた別の拳銃を男の脇腹に突き付けた。

「兄さんだの組長だの、訳のわからない話で俺に手を引かせたいつもりか? 殺すなら、殺せばいい。命乞いなどはなっからするつもりはない」
「でしょうね。殺すのは簡単ですけど、肉親を手に掛けるのは、多少私の良心も痛みますし」
「いい加減なこと、言うなっ。何が肉親だっ!」

二人はもう非常口の外に出ていた。
怒鳴る男に、黒瀬が静かに、と口に指を当てる。

「気の毒に。洗脳されたわけじゃなく、記憶そのものが、ないらしい。ふふ、時枝を殺すまで、頑張ってみればいい。その前に、時枝から殺されないように」

さあ、行って下さい、と黒瀬が男を手で払う。
銃口は依然男の方を向いていたが、撃つ気はないらしい。
男が外階段を降りていく。
途中、何度も振り返り黒瀬を見上げていたが、その顔には覇気がなかった。
顔色が悪いだけあって、体調が優れないらしい。

「時枝に殺される前に、階段から落ちて死ぬんじゃないの?」

黒瀬はご丁寧に、男が地上に辿り着き、建物から去るまで、上から見届けていた。

「ふふ、やっと止まった時計が動き出したね」

独り言を楽しそうに呟くと、黒瀬が建物内へ戻った。

その男、激情!24

「黒瀬!」

背後から潤が呼び止める。

「どこ行くんだよ」
「ちょっと院長先生へご挨拶に。潤は入院の事務手続きを。秘書さんはそういうことにも精通しているよね? 終わったら時枝の側にいてあげて。う~~ん、そこのゴリラは仕事あるよね。分っていると思うけど」
「…警察ですか?」
「そろそろご到着じゃない? 本人はしゃべれないだろうし、対応よろしく」
「お任せを」

銃撃され救急車で運ばれたのだ。
警察が動かないはずがない。
既に銃撃現場での検証は終わっているはずだ。
警察が握っている情報を引き出すことも、警察に必要以上、時枝や桐生に張り付かれないようにすることも、佐々木のすべき仕事だ。
潤と佐々木、そして黒瀬、三方に別れ、今すべきことに取り掛かった。

 

***

 

「見張りが寝て、どうする」

白衣に聴診器をぶら下げた医師が、壁にもたれて座る男二人を見下ろし呆れ気味に呟くと、『時枝勝貴』と書かれた病室の中に入った。

「お休みのようですね、時枝さん」

照明を点けることなく、暗い病室を懐中電灯で照らしながら進む。
懐中電灯の灯りをベッドの上に這わすと、包帯を巻かれた頭部が見えた。
仰向きで寝ているようだが、首は横を向いている。 
傷口を無意識に庇っているのだろう。

「夢の中ですか?」

医師が白衣の深いポケットに手を入れ、何かを漁っている。

「寝る事は良いことですよ。このまま、永遠に寝て下さいね」

医師が取りだしたのは、ボールペンでも体温計でも注射器でもなく、サイレンサー付の拳銃だった。
銃口を布団の上から心臓部分に突き付ける。

「世話を掛けやがって、この野郎」

低音の声で唸るように呟くと、引き金に手を掛けた。
その瞬間、布団の中からニュッと手が出て来て拳銃を持つ手をギュッと掴まれ捻り上げられた。

「なっ!」
「お医者様に、こんな物騒な物は必要ないと思いますが?」

布団が跳ね上がり、時枝が…違う、時枝でなかった…転げ落ちた懐中電灯が照らしたのは、包帯を一部巻いているが、時枝とは明らかに違うウエーブがかった長髪の男だった。
グッと更に掴まれた手を捻られる。
捻りながら、男はベッドから降りた。
そして、医師の顔から変装用に掛けてあったメガネとマスクを外した。

「お久しぶりですね、まさかこんな形で再会出来るとは思ってもいませんでしたよ、兄さん」

その瞬間、病室の照明が付き、二人を煌々とした灯りが照らした。

「…組長…、―――そんなぁあ…、バカな事が…」

入口に佐々木が立っていた。
病室の照明スイッチを指で押したまま、驚愕のあまり、これ以上ないぐらい目を見開いている。
通路で座っていた男の一人が佐々木だった。
黒瀬の命令で、不審者をわざと病室内へ入れたのだ。 
もちろん、時枝は安全な場所にいる。
これは銃撃犯がトドメを刺しに来るのを見越しての黒瀬が仕掛けた罠だった。
意外と身近なヤツが犯人かも、と黒瀬から聞かされていた佐々木だったが、それが先代組長だとは思いもよらなかった。

「―――どうして、この男は、…組長と同じ顔をしているんですかっ! ボンッ!」
「本人だからじゃない?」
「嘘だぁあ…、そんなはず…、――銃撃犯が勇一組長? 何かの間違いだっ!」

佐々木が、吠える。

その男、激情!23

中から、マスクを片耳にぶら下げた医師が、疲労した顔で視線を下にして出て来た。
潤が黒瀬の袖をギュッと握り、黒瀬は潤の腰に手を回し、佐々木はやっと立上がった。
誰一人、自分から医師に訊ねようとはしなかった。

「手術は…」

三人が息を呑む。

「一応、成功しました」

成功したとは思えぬ暗い表情だった。

「一応? その曖昧な表現は、どういう意味?」

ありがとうございました、の礼もなく黒瀬が医師に突っかかる。

「手術は成功です。但し、足の神経を損傷していますので、歩行が困難になる可能性があります。但しその場合でも、脊髄は無事ですので、リハビリでなんとかなるでしょう」

やっと医師が顔を上げた。
疲労困憊の表情のまま、淡々と説明をした。
ホットした潤が、黒瀬の胸に顔を埋めた。

「あ、ありがとうございますっ!」

佐々木が医師の前に飛び出し、深々と頭を下げた。

「…いえ、仕事をしただけですから…」

そんな佐々木に医師は、無表情で答えた。
早くこの場を離れ休憩に入りたい、という所だろうか。

「本当に、ありがとうございますっ!」

そんな医師の手を佐々木が強引に両手で挟み、何度も何度も礼を言う。

「本当に本当に、先生のお陰ですっ!」
「ですから、私は仕事をしただけです」

いい加減にしてくれよ、という本音が、声に表われていた。
この医師、今日は緊急手術が続いており、極度の緊張から今やっと解放されたばかりだった。
まともな精神状態の時なら、どうみてもスジモノの強面男を邪険に扱うことはしないだろうが、今は違った。

「何を仰有るっ! 先生がいなかったら、きっとうちの組長は、とっくにあの世へ行ってますっ!」

もう、うんざりだった。
心臓を撃たれた訳でもないのに、そう簡単に人間死ぬかよ、と医師は内心で毒づいた。

「そうですね。私がいたので、助かったのかもしれません。では、失礼します」

反論する気にもなれず、佐々木の手を振り払い、医師はその場を離れようとした。
黒瀬が、潤に「ちょっとゴメンね」と断りを入れてから、医師を追いかける。
そして、医師の肩に手を回した。

「なんですか、あなた」
「ふふ、先生にちょっとご相談が」

自分より、身長のある黒瀬に肩を捕られては、逃げようがなかった。

「どういった?」

明らかに不機嫌な声。

「先生と、この病院の院長に、お願いしたいことが」
「はあ。今すぐじゃないとダメでしょうか?」
「もちろん。今すぐ、院長室に案内して。じゃないと、命の保証はできない」
「…すみません、…今、何と仰有いました? 疲れていて、聴覚が少し変になったようです」
「命の保証はできない、って言ったんだけど。分りやすくいうと、さっさと案内しないと、ふふ、殺すよ、ってこと。急を要するので、モタモタしないで欲しいんだけど?」

今度は医師の耳に口を近付けて言った。

「先生一人、警察沙汰にしないで消すことぐらい、簡単だから」
「あ、あなたっ、私を脅迫するつもりですか!」
「大袈裟な先生だ。サッサと案内してくれればいいじゃない? さあ、行きましょう、先生」

幾ら疲れていると言っても、命云々言われれば、足取りも速くなる。

その男、激情!22

「ヒィッ!」

叩かれた黒瀬ではなく、佐々木が頬を押さえ小さく悲鳴をあげる。
当の黒瀬は、一瞬何が起ったのか分らなかったらしい。

「…潤」

変な間があった。
その後、頬を押さえ、潤をこれ以上ないぐらい優しい目で見つめた。

「ゴメン…黒瀬。でも、今の状況で、笑ってあの世なんて言うなよ…ゴメン、俺、分ってるのに。黒瀬が今どんな気持ちだって…」

平気なわけがないのだ。
心を閉ざした少年期から唯一心を開いていた人間が時枝なのだ。
時枝は、潤とは違った意味で黒瀬には特別な存在のはずだ。

「ボンッ、はやまらないで下さいっ! 潤さまも悪気があったわけじゃあッ」

床の上にいた佐々木が慌てて跳び起きた。
潤の前に立つと両手を広げ、潤の壁になった。
潤を見る黒瀬の優しい眼差しが、佐々木には黒瀬が報復前の獲物を見定める目に見えたのだ。

「殺すよ」

黒瀬が佐々木を射るように睨む。

「止めて下さいッ! 潤さまはボンが憎くて叩いたわけじゃあぁっ」
「煩い。殺したいのは、潤じゃない、佐々木。退け」

潤の前に立ちはだかる佐々木の肩を掴むと、片手で横に投げ飛ばした。
そして、潤に詰め寄る。

「謝らないで、潤。潤は悪くない。今の姿を時枝に見せてあげたかったよ。ふふ、潤の勇姿を見たら、手術台から跳び起きそう」

イギリスのヒースロー空港。
黒瀬が潤に恋に堕ちた運命のビンタ。
それ以来の潤から受ける頬の痛み。
あの時、黒瀬以上に驚いたのは今手術室の中にいる男、時枝だった。
黒瀬を知る人間は、自分の命を危険に晒してまで黒瀬に手をあげようとは思わない。
よく知らない人間は、独特の雰囲気を持つ黒瀬に、本能が危険を察知するのか自ら近付こうともしない。
その黒瀬に、当時大学生だった潤が、何の躊躇もなくビンタを喰らわせたのだ。
驚くなという方が無理な話だ。
黒瀬は頬に残る痛みの余韻に浸りながら、自分の行為を反省し俯いてしまった潤の顎を掴む。

「…黒瀬、」

上を向かされた潤が、黒瀬を見ると彼の目が潤んでいた。

「…うそぉ…」

投げ飛ばされた床の上、佐々木が信じられない光景に、目を丸くしていた。
それが誰であろうと、黒瀬が自分に手を上げた人間を許すはずがないのだ。
肉親であろうと、近くにいる人間であろうと、それは変わらない。
黒瀬と潤がどんなに深い愛情と信頼で結ばれていようと、潤は【黒瀬本人】ではなく、他人なのだ。
それなのに、黒瀬は怒るどころか涙を浮かべ、佐々木の前では見せたことがない柔和な顔で、自分を叩いた潤を愛しそうに見つめている。

『この世の奇跡だ…』

佐々木の頭上で唇を合せた二人に、時枝の一大事だということも忘れ、感動の涙が押し寄せていた。

「――うっ、なんて素晴らしいんだっ、…ボンが…ボンがっ、…人間に見えるぅうううっ、」

この桐生の若頭、こと恋愛事に関しては、ロマンティストで純情な面がある。
甘ったるい恋愛映画に涙する男だった。

「佐々木さん、バカな事言ってないで、さっさと立って下さい」

黒瀬が佐々木に何か言う前に、黒瀬の唇から離れた潤が佐々木を注意した。

「佐々木、時枝の事が落ち着いたら、色々整理しておいた方がいいかも」
「…アッシが何か…お気に障る事でも…」
「さあね。ゴリラの頭で考えてみるといい」

黒瀬に冷たい視線を投げつけられ、佐々木の腰は、なかなか上がらなかった。

「黒瀬、ランプが消えた」

手術中のランプが消え、手術室の扉が開く。

その男、激情!21

「邪魔です。開けて下さい」

救急隊員が担架を担いで出てきた。
担架に人が乗っているのわかる。

「組長っ! しっかりっ」

救急隊員と一緒に現われたブタに、野次馬軍団は笑うことも出来ず、唖然としていた。

「若頭、マスクッ!」
「うるせぇ、マスクがどうしたっ! 俺は風邪じゃない!」

被ったいる当の本人は、自分がブタのマスクを被っていることを、忘れてしまったようだ。
野次馬どもは、ブタに気を取られたいたが、橋爪は違った。
視線は担架の上のターゲット一点に注がれていた。
担架からダラリと垂れた腕。
やっと姿を見せた時枝は、もう馬のマスクは着けていなかった。
頭部からも血が流れているのが分る。
だが、残念ながら、弾は頭を貫通していない。
していたら、即死だったろう。
角度的に顔が見えない。
ブタの身体がちょうど顔の部分を隠していた。
人をコケにしたような姿で現われ、しかも一命を取り留めつつある、苦々しいターゲット。
その生の顔を自分の肉眼で拝みたいと橋爪は思った。

『退け、ブタ』

邪魔な男が担架から離れるよう念じた。
橋爪の念が通じたのか、救急隊員から何か言われたブタが、先に救急車両に乗り込んだ。
ターゲット時枝の横顔が見えた。
血に染まった横顔では、顔の造りそのものは分らない。
写真では眼鏡を掛けていたが、今、時枝の顔にはなかった。
元々着けていなかったのか、それともマスクと一緒に外されたのか。
救急車両に担架を乗せる時に、担架の向きが変わった。
その時、時枝の顔を正面から捉えることが出来た。

「――なんだ、あいつッ…くそっ、…ハァッ」

時枝の生の顔。
左半分は生気なく青白く、右半分は血で覆われていた。
血まみれの顔など珍しくもない。
それなのに、時枝の血に染まった死にかけの顔を見た途端、心臓を打ち抜かれたような衝撃を受けた。

「…息がっ、…、あのヤロウッ、…死ぬ前に俺を呪い殺そうととでも言うのかッ…」

呼吸が苦しくなり、野次馬の中に埋もれるようにしゃがみ込んだ。
どうして、急に身体に異変が起ったのか分らない。
肺や気管支に異常はないはずだ。

「…ハァ、…ハァッ、なんだって言うんだっ!」

救急車が発車した音を、野次馬達の脚の間で聴いた。
何とか立上がると野次馬を押し退け、橋爪はその場から離れた。

 

***

 

「佐々木さんッ!」

都内屈指の総合病院の手術室の前。
長いベンチに佐々木が頭を垂れ一人座っていた。

「潤さまっ、ボンッ!」

駆けつけた潤と黒瀬を見て、突然立ち上がったと思うと床に座り込んだ。
そのまま、頭を床に付け、佐々木が叫んだ。

「申し訳ございませんっ! アッシの責任ですッ!」

土下座と言うよりは、床に額を打ち付けていると表現した方が正解だろう。
ゴンゴンと音が廊下に響く。

「殺すまでもなく、自殺する気らしい」

頭を床に打ち付ける佐々木を黒瀬が上から呆れた顔で見下ろしている。

「責任とかどうでもいいですっ! 時枝さん、生きてますよねっ!?」

佐々木に合せ、腰を降ろした潤が佐々木の肩を掴み激しく揺すった。

「…手術が終わってみないと…出血が酷かったので…」
「まさか、昨日の今日で、狙われるとはね。これで死んだりしたら、兄さんは喜ぶのか悲しむのか…ふふ、実はどこかで生きていて、時枝が先にあの世ってこともあり得る」
「黒瀬ッ!」

廊下に響く潤の怒声と破裂音。
それは物が破裂した音ではなく、潤が黒瀬の頬を叩いた音だった。