その男、激情!22

「ヒィッ!」

叩かれた黒瀬ではなく、佐々木が頬を押さえ小さく悲鳴をあげる。
当の黒瀬は、一瞬何が起ったのか分らなかったらしい。

「…潤」

変な間があった。
その後、頬を押さえ、潤をこれ以上ないぐらい優しい目で見つめた。

「ゴメン…黒瀬。でも、今の状況で、笑ってあの世なんて言うなよ…ゴメン、俺、分ってるのに。黒瀬が今どんな気持ちだって…」

平気なわけがないのだ。
心を閉ざした少年期から唯一心を開いていた人間が時枝なのだ。
時枝は、潤とは違った意味で黒瀬には特別な存在のはずだ。

「ボンッ、はやまらないで下さいっ! 潤さまも悪気があったわけじゃあッ」

床の上にいた佐々木が慌てて跳び起きた。
潤の前に立つと両手を広げ、潤の壁になった。
潤を見る黒瀬の優しい眼差しが、佐々木には黒瀬が報復前の獲物を見定める目に見えたのだ。

「殺すよ」

黒瀬が佐々木を射るように睨む。

「止めて下さいッ! 潤さまはボンが憎くて叩いたわけじゃあぁっ」
「煩い。殺したいのは、潤じゃない、佐々木。退け」

潤の前に立ちはだかる佐々木の肩を掴むと、片手で横に投げ飛ばした。
そして、潤に詰め寄る。

「謝らないで、潤。潤は悪くない。今の姿を時枝に見せてあげたかったよ。ふふ、潤の勇姿を見たら、手術台から跳び起きそう」

イギリスのヒースロー空港。
黒瀬が潤に恋に堕ちた運命のビンタ。
それ以来の潤から受ける頬の痛み。
あの時、黒瀬以上に驚いたのは今手術室の中にいる男、時枝だった。
黒瀬を知る人間は、自分の命を危険に晒してまで黒瀬に手をあげようとは思わない。
よく知らない人間は、独特の雰囲気を持つ黒瀬に、本能が危険を察知するのか自ら近付こうともしない。
その黒瀬に、当時大学生だった潤が、何の躊躇もなくビンタを喰らわせたのだ。
驚くなという方が無理な話だ。
黒瀬は頬に残る痛みの余韻に浸りながら、自分の行為を反省し俯いてしまった潤の顎を掴む。

「…黒瀬、」

上を向かされた潤が、黒瀬を見ると彼の目が潤んでいた。

「…うそぉ…」

投げ飛ばされた床の上、佐々木が信じられない光景に、目を丸くしていた。
それが誰であろうと、黒瀬が自分に手を上げた人間を許すはずがないのだ。
肉親であろうと、近くにいる人間であろうと、それは変わらない。
黒瀬と潤がどんなに深い愛情と信頼で結ばれていようと、潤は【黒瀬本人】ではなく、他人なのだ。
それなのに、黒瀬は怒るどころか涙を浮かべ、佐々木の前では見せたことがない柔和な顔で、自分を叩いた潤を愛しそうに見つめている。

『この世の奇跡だ…』

佐々木の頭上で唇を合せた二人に、時枝の一大事だということも忘れ、感動の涙が押し寄せていた。

「――うっ、なんて素晴らしいんだっ、…ボンが…ボンがっ、…人間に見えるぅうううっ、」

この桐生の若頭、こと恋愛事に関しては、ロマンティストで純情な面がある。
甘ったるい恋愛映画に涙する男だった。

「佐々木さん、バカな事言ってないで、さっさと立って下さい」

黒瀬が佐々木に何か言う前に、黒瀬の唇から離れた潤が佐々木を注意した。

「佐々木、時枝の事が落ち着いたら、色々整理しておいた方がいいかも」
「…アッシが何か…お気に障る事でも…」
「さあね。ゴリラの頭で考えてみるといい」

黒瀬に冷たい視線を投げつけられ、佐々木の腰は、なかなか上がらなかった。

「黒瀬、ランプが消えた」

手術中のランプが消え、手術室の扉が開く。