その男、激情!26

「クソッ!」

部屋に入るなり、安っぽいベッドを橋爪が力任せに蹴り上げた。
キルト部分がほつれているのか、羽毛が数枚舞い上がった。
朝、チェックアウトしたホテルとは別のビジネスホテル。
本来ならもう台湾に戻っているはずだった。
しかし、仕事をしくじったばかりに、仕方なく滞在延長となった。
だがそれも、一泊だけの予定だった。

「何が兄さんだっ! 何が組長だっ! 人をおちょくりやがってっ!」

一度までか二度までもしくじった。
最悪なのは、子ども騙しな罠にはめられ、ターゲットの身内に逃がされたという事実。

「あれが、やつらの手なのか? 心理作戦ってやつか? あの男は、俺の記憶の欠落を知っていて、身内に仕立て上げようという魂胆か? クソッ!」

あの男、黒瀬に、兄さん、と呼ばれてから頭痛が酷い。
吐きそうだ。
橋爪は頭を両手で抱え、床に踞った。
左目の横に傷のある男、黒瀬が「佐々木」と呼んだ男が口にした言葉が真実だとすると、橋爪の顔と桐生の前組長は同じ顔だということになる。
ガンガンと唸る頭を支えバスルームへ移動し、橋爪は鏡の前に立った。

「何故、同じ顔なんだ…? 知らない間に、顔を整形されたのか? それとも自分の意思で俺は顔を変えたのか? まさか…桐生の組長と双子なのか…」

今のこの顔の記憶しかない。
これは自分の顔だ。
他の誰の顔でもない、この俺の顔だ。
台湾で劉(りゅう)と呼ばれ、ここでは橋爪という名の殺し屋の顔だ。
それ以外の人生があったというのか?

「…バカな。有りえない…初めて会う顔ばかりだ。夢で見たこともない…。桐生の場所にデジャブ―すら感じない…クソッ、欺されないぞっ、」

ふと、桐生の事務所前で張っていた時のことを思い出す。
橋爪の声に桐生の組員が騒いでいた。

「…声まで、…同じ?」

喉に手を当てた橋爪が首を振る。

「だから、何だって言うんだッ」

鏡に映る自分の顔に、橋爪は頭を叩きつけた。
鏡にヒビが入るぐらい、激しく何度も。
視界が赤くなり顔を上げる。
ヒビの入った鏡に、赤い血を額から流し、その血で眼球を染めた顔が、壊れた万華鏡のように映っていた。
元々の頭痛と打ち付け切れた箇所の痛みが重なり、意識が遠のいていくのを橋爪は感じた。
外側から白く靄が掛かる視界が、完全に白く閉ざされる前に、どうにかベッドに辿り着く。
そこで橋爪は意識を失った。

 

「ボン、どういう事ですかっ! 説明して下さいッ」

黒瀬が時枝が本当にいる病室へ向っていると、佐々木が視界に入ってきた。
鼻腔を広げ、鼻息荒く黒瀬に詰め寄った。

「廊下で騒ぐと迷惑だろ。説明? その前に、」

黒瀬が、佐々木に冷たく微笑みかけた。
微笑みに『冷たい』という形容詞が付く人間はそうはいない。
身の凍るようなゾッとする黒瀬の微笑みに、佐々木はヤバイッ、と自分の失態を自覚したが、時既に遅し。
腹にめり込む衝撃を感じた。

「ぐっ、ふっ」
「珍しく気分が高揚しているので、殺してやってもいいけど。ほら、こういうオモチャ、持ってるし」

腹を押さえる佐々木の前に、黒瀬が拳銃をちらつかせた。