その男、激情!40

痛い、酷く頭が痛む。
一体俺の身体はどうなってるんだ…
ここは?
―――ここはどこだ…

橋爪が瞼を上げ、ぼんやりと入って来る視界を眼球だけで見渡した。
温かい布団に包まれ、ベッドの中にいる。
ホテルの安っぽい布団ではない。
高級羽毛布団の中だ。
ベッドも広い。キングサイズのようだ。
部屋はというと、シンプルだが、一つ一つの調度品が高級品。アジアとヨーロッパをミックスさせたテイストは、どこか無国籍な雰囲気を醸し出していた。

―――どこなんだ?

頭痛が橋爪の思考を邪魔していた。
最後の記憶を思い出そうとしてるが、それをズキズキと脈打つ痛みが邪魔をする。
誰かが近付いてくる音がした。
横になったまま、慌てて携帯しているはずの銃を探した。
そこで、橋爪は愕然とした。

「ないっ、…銃も、服も…。裸じゃないかっ!」

布団が心地良かったのは、地肌に直接纏っていたからだと、ここで気付く。
ガバッと上半身を起し、自分の服がどこにあるのか、今度は首を回して見渡した。
裸なのは、上半身だけではなく下半身もだった。
下着の一枚も着けてないのだ。
足音は、更に近付いてくる。
どうしたものかと考えた。
全裸で武器の一つも持ってない。
武器の代りになりそうな物が、部屋の中にはなかった。 
武器がなければ、素手で対処するしかない。
幸いその部屋のドアは内向きに開くタイプだ。
ドアの陰になるよう、橋爪は裸身のまま立った。

「組長さん、」

若い男の声がし、ドアがゆっくりと開いた。
そして…。

「声を出すなっ!」
「…くっ、」

橋爪は入って来た男の首に背後から腕を回し、締め上げた。
腕を首から離そうと藻掻く若い男を絞めた腕で持ち上げ、自分が寝ていたベッドまで運ぶと放り投げた。

「…ハァ、…ハァ、…死ぬかと思ったァ……」
「心配するな。お前は死ぬ。俺が殺すからな。あっという間に天国に行けるさ」
「…ハア、…イヤだな組長さん。久しぶりの再会なのに、脅さないでよ。あぁ、冗談にしては、タチが悪いよ…うわっ」

ベッドに沈む若い男の上に、橋爪は馬乗りになった。

「組長じゃない。橋爪だ」
「違う、組長さんだ。その身体は、桐生勇一だっ!」

生意気にも言い返してきた。
橋爪が今度は両の掌で、男の首を絞めにかかった。

「…見たことある顔だ。あぁ、黒瀬と一緒にいた男だな」

クロセのビルを観察していた時に見た顔だった。

「…くっ、るしいっ、…ゲホッ、」
「俺の服と銃をどこにやったか、言え」

いつもの橋爪なら、背後に人が迫ってくれば音がしなくても察知できるのだが、今は違った。
相変わらず続いている頭痛のせいだ。

「銃なら、ここにありますよ」

聞き覚えのある声と共に、後頭部に硬い物が押し付けられた。

「私の潤から、さっさと手を離して頂けません? 全裸で馬乗りとは、殺し屋だけでなく、強姦魔にまで成り下がったのですか?」
「…お前は…、」
「あなたの異母兄弟。残念ながら、半分も血が繋がってる可愛いあなたの弟ですよ。兄さん」
「勝手に人を兄弟に仕立てるなっ! 黒瀬武史ッ」
「いい加減にして下さい。さっさと手を離して下さい。私が撃たないとでも思ってます? ふふ、あなたと潤なら、間違いなく潤を取りますよ」

怒りと笑みが交じった口調。
それがゾーッと怖気が沸き立つぐらい不気味で、橋爪は手を緩めた。

その男、激情!39

「ふふ、お猿、お医者さんゴッコでもしようっていうのかな?」
「…ん、点検でも…診察でも…なんでもしてやるぞっ、ダイダイ…ダイダイッ、…こんな姿になる前に…見つけてやれなくてっ、…」

黒瀬のチャチャなんて、佐々木の耳には届いてないらしい。
佐々木は大喜を抱いたまま、歩き出した。

「急いだ方がいいかも。あの調子だと、置いて行かれそう」

部屋を出て行く佐々木の後ろ姿を見ながら、黒瀬が潤の肩をポンポンと叩いた。

「そうだね。…組長さん、どうするの?」
「もちろん、連れて帰る」
「帰る? それって、俺達のマンションにってこと?」
「置いて行ってもいいけど、少々展開がまどろっこしいし。ふふ、気になることもあるしね」
「気になること?」
「それは、後で、ゆっくりね。それより、お猿の脱がされた服と携帯探して。服はどうでもいいけど、携帯には多分桐生やクロセ関係の番号も入っていると思うから」
「はい、社長」

潤がふざけて秘書モードで返事をした。
大喜が見つかり、勇一を確保したことが嬉しいようだ。
黒瀬が男を―勇一を肩に担ぐ。
大喜の携帯と衣類は、部屋ではなく廊下のゴミ箱に捨てられていた。
それを潤が拾い、身軽な潤が先に佐々木達を追った。黒瀬じゃないが、今の佐々木の状態なら、自分達の事を忘れている可能性がある。

「待ってぇ!」

やはり、佐々木の頭には大喜のことしかなかったらしい。
潤が建物から外に出ると、目の前を佐々木の車が猛スピードで走り去った。

「…うそぅ、置いて行かれた…」
「間に合わなかった?」
「携帯で…タクシー呼ぶ?」

潤が黒瀬の背に担がれた勇一に目をやる。
場所も怪しければ、勇一の姿形も怪しいし、しかも意識がない。
タクシーだと乗車拒否されそうな気がした。

「車もう一台あるよ、潤。お猿の棺桶カーあるだろ?」
「あ、そうか。…でも誰が運転するの? 俺、ペーパーだよ?」

だいたいいつも、運転手付の生活だ。
黒瀬も運転するが、スポーツカーを毛嫌いしているので、ハンドルを握るとは思えなかった。

「ふふ、大丈夫。棺桶カーだって、乗りこなせるよ。後部座席よりは運転席の方がマシだしね」
「マニュアル車だよ?」
「やだな、潤。ご婦人方じゃあるまいし、そこは心配するところじゃないよ?」
「…ごめん。あれ、でもキーは? どこ?」

当然ながら、鍵がないと動かすことはできない。

「ダイダイのズボンのポケットは? 普通ズボンのポケットじゃない?」

潤が手にして大喜の衣類を漁る。
なかった。

「ない」
「じゃあ、こっちかも」

肩に担いだままで黒瀬が勇一のポケットを漁った。
あった。
車のキーだけでなく、別の鍵も出て来た。

「ほら、あったよ」

それは掌に握り込んで潤には見せず、車のキーだけ揺らせて見せた。

「ぁあ、良かった。帰れる」

ダイダイのスポーツカーに乗り込む。
後部座席を陣取っていた大きな熊の縫いぐるみの足を枕代わりにして勇一を寝せ、潤が助手席、黒瀬が運転席に座った。

「…これって、数年ぶりの家族でドライブ…だよね?」

車が走り出すと、潤がボソッと呟いた。

「家族?」
「組長さんは黒瀬の兄だし、俺、黒瀬のパートナーだし…家族だろ?」
「ふふ、潤らしい発想だ。そうだね。他人ではないね」
「一人足りないけど」

潤が後部座席を振り返る。

「時枝?」
「早く、二人一緒のところ見たい。…前みたいに、組長さんが時枝さんの尻に敷かれているところ…」
「潤?」

潤の声が湿ったのを黒瀬が気付かないはずがない。
後ろを向いた潤の顔に黒瀬が片手を伸す。
顎を掴み、自分の方も向かせた。

「泣いてない。…泣いてないから。…佐々木さんじゃないし…」
「分かってる。潤は、兄さんのあまりに変った風貌に驚いているだけ…ふふ、おいで」

運転しながら、黒瀬が潤の肩を引き寄せた。

「…さっきまで、平気だったんだけど、…変なの、俺、急に、なんかっ、ぐっ、」

潤の頬には既に涙の筋が出来ていた。
それを黒瀬が指で拭う。

「数年ぶりの再会が、お猿の下半身に顔を埋める兄さんだったからね。時枝が見たら、感動の再会の前に、兄さんを殴ってそうだけど」
「…はは…、有り得る…うん、」

泣き笑いだった。
勇一が生きていたことは幸いだったと思う。
時枝を殺す為に現われたとしても、こうして自分達の手の届く範囲に勇一がいることは幸せだと、潤も今は思っている。
だが、元に戻れるのだろうか…あの結婚式を挙げた日の二人に戻れるのだろうか。
幸せの絶頂にいた二人の姿が、潤の脳裏に浮かぶ。
組長として君臨していた頃の勇一とあまりに落差がある今の姿。
頬を這う黒瀬の指が、「泣いてもいいよ」と誘っているようで、溢れてくる涙を潤は止めることが出来なかった。

その男、激情!38

「そう見えるよね。兄さんったらしばらく会わないうちに悪食になったのか、猿のでも咥えたいらしい」
「…く、く、く」

固まっていた佐々木の肩が小刻みに震えだした。

「佐々木、クシャミなら手で口を覆って」

黒瀬は明らかにこの状況を面白がっている。

「…く、く、く、くわ、くわ、」

佐々木が壊れたロボットのように、震えながら何かを言おうとしていた。

「違うっ! オッサン、違うっ! 落ち着けっ!」

落ち着かないといけないのは大喜も同じだった。
男の頭を慌てて自分の太腿から退けようとした。
その時、男の鼻で自分の剥き出しの先端を擦ってしまった。

「落ち着けっ! …ぁう」

一番敏感な部分を擦った為、鼻に抜ける声を洩らしてしまった。

「佐々木の前で感じるとは、大胆なお猿さんだね」
「…くわ、くわ、えてるのかっ! この野郎ッ!」

それが、もと上司、組のトップだった勇一であることなど、佐々木の頭からぶっ飛んでいた。
鬼の形相で大喜の太腿に顔を埋める男の後ろ襟を掴み、オリャーと雄叫びをあげながら投げ飛ばした。
手首の枷から伸びる鎖を男が握っていたので大喜まで転がった。
元々、意識を飛ばしていた男が更に後頭部を床で打ち、反撃など出来る状態ではなかった。
男の目は固く閉ざされたままだ。
呻き声すら上がらない。
その男の上に馬乗りになり、佐々木が拳を振り上げているのが、大喜の目に映る。

「止(と)めてくれ! 殺してしまうっ!」

自分では止めに入るのは間に合わないと、大喜が黒瀬に向って叫んだ。

「この人、さっきから意識ないんだってっ!」
「黒瀬ッ、早くっ!」

大喜の叫びに潤が黒瀬を急かす。
黒瀬が佐々木の腕が振り下ろされる瞬間に、その手首を掴み後ろに捻った。

「悪いけど、潤に頼まれたイヤとは言えないからね」
「何しやがるッ!」

興奮状態の佐々木は、黒瀬さえ認識してなかった。

「誰に向っての言葉? 随分乱暴な口のきき方してくれるね、佐々木」

黒瀬が佐々木に微笑みかけた。
通称氷の微笑。
見た者を恐怖のどん底に落とし込むような美しすぎる冷酷な笑顔。
その顔が、佐々木に正気を戻した。

「…ボン、…じゃないっ、ボッちゃん、…じゃないっ、武史さまッ!」
「兄さんからも降りたら? 残念ながらフェラチオをしていた訳ではないみたいだし」
「そうだよっ、オッサンッ! 俺がそんなことさせる訳ないだろッ! ケツだって無事だッ! 脱がされただけだよ…理由は分からないけど」

大喜が床からまた叫ぶ。
黒瀬がヤレヤレと手を佐々木から離すと、佐々木が男から降りた。
そして、転がっている大喜に視線を移す。

「ダイダイ、ダイダイッ! …なんて姿を…可哀想に」

グスン、と佐々木が大きく鼻を啜った。
大喜は、あ、ヤバイ、と思った。
この後の佐々木の姿は想像出来る。
黒瀬と潤には見せたくなかった。
後々ネタにされること間違いないだろう。

「待ってろっ、…ぐっ、」

何かを耐えている。
佐々木は何かを耐えながら、男の手から鎖をもぎ取った。
それからやはり、何かを耐えたまま、大喜の上半身を起し下半身に自分が着ていた上着を掛け、それから抱き上げた。
そこで、何か、は耐えきれず激流となって溢れだした。

「オッサン、俺は大丈夫だから。…ごめんな、心配させちまったみたいで…何なら、ゆっくり点検してくれてもいいぞ? 家に戻ってからゆっくり、してくれよ」

大喜に、佐々木の涙が降り注ぐ。
大喜が慌てて、佐々木を宥める。
佐々木の涙は嫌いではないのだが、側に黒瀬と潤がいるので涙を止めようと試みた。

その男、激情!37

「佐々木さん、横浜へ向っています。この距離なら…早いルート知っていますので」
「ハイッ、お任せしますっ!」
「できるだけ、飛ばしてください。でも、警察には捕まらないように。捕まると時間のロスですから」
「お任せを。警察無線の傍受は出来ますから」

潤の指示で佐々木が車を制限速度無視しまくりで走らせる。
一見遠回りに見えるルートを潤が示すが、佐々木は素直に従った。

「…止まった。風船の動きが止まりました。佐々木さん、ナビお借りします」

携帯では詳細が分かり辛いと、車に搭載のカーナビへと潤の手が伸びる。
携帯で表示された番地から建物を割り出した。

「外れですね。中華街ではありません。木材ふ頭へ向って下さい…でも、ふ頭には入らないで……次の角を右に、次を左に…」
『次の信号を右折して下さい』

潤のナビと同時に、画面からも指示が入る。

「えっと、潤さま…どっちですか?」
「ナビは無視して下さい」
「了解です」

細い路地を入って行く。
車一台がやっとの道だ。
中華街とは違う、古く汚い中国系の店が建ち並んでいた。

「誰か手引きした者がいるのかな? 兄さんが知っていたとは思えないけど」

黒瀬の言う通り、適当に走ってここに辿り着くとは思えない。
台湾マフィアの隠れ家があるのかもしれない。

「潤、アレ、お猿の車じゃない?」
「ダイダイッ!」

黒瀬の言葉に、潤より先に佐々木が反応した。
路地の右に狭い空き地があり、そこに似合わぬスポーツカーが駐まっていた。
佐々木が車を停め、飛び降りた。
潤と黒瀬も後に続く。

「佐々木さん、こっち」

ここからは、また携帯が役にたった。
大喜がいると思われる建物の中に潤が先頭に立って入って行く。
汚い雑居ビル。
一階は中華料理店のようだが、シャッターが閉まっていた。
店舗横に階段があり、そこを駈けのぼった。
二階か三階と続いていたが、どちらの階にいるのかは携帯が示す風船では分からなかった。

「今、音がした。…アレって…」

二階から探し始めようとしていた一行の耳に、耳障りな音が届いた。

「銃声ですっ! 上ですッ!」

佐々木が潤を押し退け、先頭を切って階段を上がる。
三階は通路を挟んで左右にドアが二つずつ並んでいた。閉まっているのは一番奥のドアだけだった。

「アソコだっ!」

佐々木が怖面の顔を一層しかめて、ドアに向って猛進する。
その後に黒瀬と潤が続いた。

『オッサァアアアンッ!』

大喜の佐々木を呼ぶ声が声がドアの向こうから聞こえてきた。

「ダイダイッ! 待ってろっ!」

ドアノブに佐々木が手を掛けたが、鍵が掛っていた。
古い木製のドアを、佐々木が何の躊躇もなく蹴飛ばした。呆気なく蝶番が外れ、ドア板が前方に倒れた。

 

***

 

「…なんで? …うそぉおっ…」

確かに助けを求めた。
この状況で―――下半身裸でしかも剥き出しの局部に、桐生の先代が顔を埋めている―――で、何者かの足音が響けば、そりゃ、咄嗟に出るのは信頼できる男の名前だろう。
確かに大喜は「オッサン」と佐々木を呼んだ。
それは、ジェットコースターやお化け屋敷で母親や恋人の名前を無意識に出してしまうのと同じような感覚だった。
なのに、叫んだ相手が本当に現われた。
一番見られてはならない状況で。

「・・・」

勢いよく部屋に入った中年男は、目の中に飛び込んで来た光景に、脳内の処理が追い付いてないようだ。
入って来た瞬間のしかめっ面のまま、フリーズしていた。

「…黒瀬、アレ、組長さん?」

髪が肩まである人間が大喜の股間に顔を埋めている。
入口からは後頭部しか見えない。

「そうだよ、兄さんだ」
「…組長さん、…咥えちゃってる…とか?」

潤が率直に見たままを口にした。

その男、激情!36

「佐々木、早く大森の居場所をっ」

ベッドの上から、時枝が首だけ起こした。

「はいッ!」

と、佐々木は返事だけ威勢がよかった。
気が動転しているらしく、どこをどう探せばいいのか、基本的な事が思い付かないらしい。
えーっと、えーっと、と病室内を落ち着きなくグルグル回りだした。

「佐々木、GPS機能。キッズ携帯だろ、大森のは」

時枝の苛つき具合が声に出ていた。

「キッズ携帯? ダイダイはキッズ携帯だった? 前は違ったと思うけど……」

赤外線でアドレスのやり取りをしたことが潤はある。
そのときは普通に機能が充実した大人が持つ機種だったと記憶している。
もっともそれも数年前の話になるが。

「…いや、物騒な世の中なので…、潤さまも前に拉致やら、誘拐やらありましたので…、可愛い大喜の居場所が直ぐに分かるようにと…」
「普通の携帯でも分かるじゃない。わざわざ子ども用持たせなくても。よくダイダイだが納得したね」

潤は呆れていた。
大学生にキッズ携帯はいくらなんでもないだろう。
友人の前で出すのが、恥ずかしくないのだろうか?

「そうなんですか? 子どものいるヤツラが、大事なガキの安全には、キッズ携帯が欠かせない、と言ってたもんで…。それに、防犯ブザーも付いているらしく…」
「佐々木、どちらも役に立ってないじゃない。早く、確認したら? 直ぐに分かるように持たせた携帯じゃないの?」

黒瀬の言葉に、佐々木が慌てて自分の携帯を取り出した。

「風船が、風船が…動いていますっ!」
「見せて」

黒瀬が佐々木から携帯を取り上げた。

「動きが速い。車で移動中か。追うよ。佐々木車出して」
「はいっ! あ、…ここの警備は」
「桐生の者で問題ない。どうせ、私服警官も院内には紛れ込んでいるだろうし。厄介な兄さんはこの風船と同じ場所じゃない?」

ポイ、と携帯を黒瀬が潤に投げた。

「潤も兄さんに会ってみたいよね。時枝は、まだ無理だけどね。動けないんだから、しょうがないよ。ふふ、安静に」
「…時枝さんより先に会って…いいのかな、俺」
「どうぞ、お気遣いなく。それより、勇一のアホがアホなことする前にお急ぎ下さい。昔から下半身にはだらしのない男ですから」

時枝は、シーツをギュッと握っていた。

「生存が確認できたばかりだというのに、もう浮気の心配なんて、時枝に同情するよ」
「社長、楽しそうですよ。佐々木、早く。大森にもしもの事があったら、どうする? あれは今勇一であって、勇一じゃないんだ」
「はっ! こうしちゃあ、いられねぇ。直ぐに追い付かないとっ」

血相を変えて、佐々木が病室を出た。
その後を黒瀬と潤が追う。
駐車場に駐めてある佐々木の車に三人が乗り込む。
運転手は佐々木。
助手席には、携帯を持った潤。
後部座席には黒瀬。
珍しく黒瀬と潤が離れて座った。
携帯を渡された時から、自分がナビをしろという意味だと、潤は理解していたので自ら助手席に座ったのだ。
黒瀬が何も言わない所を見ると、それは正解だった。
秘書としての潤の仕事は多岐に渡る。
カーナビよりも的確に抜け道の指示まで出せる。
渋滞などで会議に遅れることのないよう、首都圏の道はタクシー運転手より詳しかった。

その男、激情!35

***

 

「佐々木さん、ダイダイ遅いね」
「今日は大学もない日ですが…」

時枝の着替えを、見舞いがてら大喜が時枝の病室に届ける手筈になっていた。

「携帯にも出ないし…何かあったのかな?」
「潤さま、脅さないで下さいよ」
「だって、彼時間には煩いよ。その辺時枝さん仕込みでしょ?」
「…そうですけど…、道がたまたま渋滞してて、とか」

佐々木の顔が青くなる。

「佐々木、兄さんの居場所は?」

黒瀬が佐々木に訊いた。

「昨夜迄のホテルは分かっているんですが…今朝からの足取りが掴めていません」
「なら、兄さんと一緒かも」
「どうして、勇一組長が、先代がダイダイと一緒なんですかっ! 今の組長はダイダイの事など顔も覚えてないでしょっ」
「佐々木、唾が飛んでるよ。汚い」
「あ、…興奮してしまって、申し訳ございません」

慌てて佐々木が頭を垂れた。

「兄さんはね、そうだろうけど」
「ダイダイは、違うってこと? ダイダイが偶然組長さんを見て、近付いたってこと?」
「さすが潤。そこのゴリラより数倍鋭い。その可能性もあるだろ? 兄さんが今日もこの近くを彷徨いていたとしたら、猿と偶然出会してもおかしくない。それに猿の顔を覚えてなくても、猿が我々の関係者だと、兄さんは知っていた可能性がある」

ふふ、と黒瀬が意味ありげに笑った。

「なにそれっ!」
「どういう事ですかっ!」

潤と佐々木が同時に声をあげた。

「内緒」

黒瀬のウィンクしながら言った言葉に、

「ええー!」
「ボンッ」

またも二人同時に不満の声を洩らした。

「ボン? 兄さんに狙撃してもらえば、佐々木。時枝の代りに佐々木が撃たれれば、事は丸く収まるんじゃない?」
「…黒瀬、笑えないよ、その冗談」

潤が、黒瀬を窘める。

「冗談じゃないんだけど。兄さん誰かの依頼で動いているみたいだし。殺した事実がないと、兄さんがヤバイかもね」
「…そんなの桐生組で手配できるだろ? ヤクザなんだから」
「何が手配できるって、潤?」
「そりゃ、その…時枝さんの代りになる…人間」
「すっかり悪に染まって。ふふ、今に誰かを殺してってお願いされそうだよ」

潤の潤らしからぬ発想に、黒瀬の顔が引き攣っていた。

「ち、違うっ! そうじゃなくって…誰かを時枝さんの代りに殺せっていう訳じゃないっ! 遺体を…無縁仏を一体…だけ…やっぱり、酷いことには変わりないか…ごめん、俺、どうかしている」
「あ~、ビックリした。ふふ、ブラックな発想の潤でも愛しいけど、やはり、潤は神々しい存在でいてもらわないとね」
「ゴホン。社長、神々しいとは、随分と大袈裟な表現ですね」

飛び込んで来た声に、黒瀬と潤、それに佐々木が一斉に振り返る。

「時枝さん、ご気分は?」

潤が真っ先に声を掛けた。

「問題ありません。騒々しくて目は覚めてしまいましたが、よく眠れました」

昨夜、大粒の涙を流し錯乱気味だったことなど忘れたかのようなスッキリした顔をしていた。

「もう起きちゃったの、夢の中で兄さんとイチャついてればいいものを。ふふ、今は現実の方が大事かな? 結構近くにいるって分かって」
「私をからかっている暇があるんですか、社長。大森の行方を探した方がいいのでは?」
「猿に兄さんを盗られそうで心配?」
「何を馬鹿なことを」
「馬鹿じゃありませんっ!」

佐々木が真っ青な顔で、割り込んで来た。

「組長は、いや、時枝組長じゃなくて、先代はっ、昔、ダイダイにっ、」
「手は出していない。からかっただけだ」

時枝が佐々木の先の言葉を、不機嫌丸出しで否定した。

「昔、はだろ? 変に記憶がない分、わからないんじゃない? からかうぐらいだから、嫌いなタイプじゃなかったんだろうし。ふふ、あれだけ佐々木との仲を応援していたのも、案外、自分の側に置いておきたいと思ったからかも」

佐々木と時枝、双方の神経を逆撫でするような事を黒瀬が楽しそうに言う。

その男、激情!34

「強姦した」
「嘘だっ!」
「ああ、嘘だ。安心しろ」
「それも嘘だっ! あんた、昔から俺を狙ってた…久しぶりに俺をみて、きっと…きっと…オッサンッ…オッサンッ、…ごめんよ…」
「泣くな、くそガキ。昔から? 今日初めて会ったんだ。昔も今もあるか、ボケ」
「人を犯っといて、そんな言い訳あるかよっ! この薄らボケのド変態っ! …イテェッ」
橋爪が鎖を引っ張った。
壁を背に座った状態の青年がバランスを崩し転がった。
尻の丸みの上に、橋爪が靴を履いたままの足を載せた。

「何すんだよっ! 変態っ!」
「お前は、ホモだろ」
「うっせ―よ、そんなこと、今更訊くなッ!」
「結構太いのぶち込まれているよな」

青年の双丘を割るように、踏みつけたままの足を動かすと割れ目から薄紫の窄みが覗く。

「不感症か?」
「んなはずないだろっ!」
「じゃあ、自分のケツが掘られた直後かそうじゃないかぐらい、分かるだろ、くそガキ」

橋爪は靴の先を割れ目に器用に押し込むと、薄紫の窄みを突いた。

「…ツっ、ヤメロッ! 変態っ! 触るなっ!」
「ふん、感覚はあるらしい。誰がケツの青いガキの孔に興味など持つか、馬鹿も休み休みいえっ」
「っるせ~よっ! ん…掘られてない? 俺のケツはまだオッサンのモノ?」
「どこのオッサンが相手か知らないが、その年でホモとは可哀想にな。女の良さを知らないのか」
「変態のくせに、俺を馬鹿にするのか? ホモはあんただろ。俺のケツだって狙っていたくせにっ!」
「何だその根拠のない被害妄想は」
「都合の悪い事、忘れたフリするんじゃねえぞ、このド変態っ! オッサンの前に俺に手を出そうとしてたくせにっ。変な格好してるからって、忘れたとは言わせないぞっ!」
「お前もか。揃いも揃って人を知った風に言うな。胸くそ悪い」

橋爪が足を青年の尻から降ろすと、軽く脇腹を蹴飛ばした。
痛みなどないはずだが、わざとらしく大袈裟に青年が「うっ!」と唸る。

「念の為に訊いてやる。お前は俺を誰と勘違いしているんだ? 間違っても桐生の組長とか言うなよ?」
「正解も間違いもあるかよっ。何年かぶりに現われたと思ったら、変な格好しやがってっ! ふん、昼ドラじゃあるまいし、記憶ありません、なんてほざくんじゃねえぞ、桐生勇一ッ!」

ギッと床の上から青年が橋爪を怒りに満ちた目で睨んだ。

「…桐生…勇一」

昨夜同様、激しい頭痛が橋爪を襲う。

「…それは、桐生の前の組長の名だろっ、…俺がそうだと、言いたいのか…」
「違うとは言わせね~ぞ。髪を伸そうと変な服装しようと、あんた、前の組長で時枝のオヤジの彼氏で、俺のオッサンの元上司だっ!」
「…黙れっ!」

声と同時に、橋爪が所持していた銃が火を噴いた。

「ヒィッ!」

橋爪がろくに青年の場所を確認しないで発砲したのだ。
幸い、弾は青年の頬一ミリの所を通過し壁に当たった為、青年に怪我はなかった。

「何が、恋人だっ! 何が組長だっ! 俺は殺し屋だ。時枝勝貴を殺しに台湾から来た橋爪だ。覚えておけっ!」

そのまま、橋爪は頭痛に耐えきれず、壁に背を預け床に座り込んだ。
青年と並んだ形になる。

「…もしかして、昨日時枝のオヤジ撃ったの…あんた?」

発砲が余程怖かったのか、青年の口調がけんか腰ではなくなった。

「――ああ。今回はそれで来日したんだ」
「…嘘だろ、…そりゃ、オッサンが泣くわけだわ……あんだけ、あんた達のこと、応援してたのに……電話越しで泣いていた理由はそこかよ……花粉症じゃなかったのか…」
「いい加減にしろっ、今度こそ、心臓打ち抜くぞっ!」

座ったまま、橋爪は銃口を横の青年に向けた。

「…マジなんだ…マジ、覚えてないんだ…あんた、可哀想だ」
「覚える? …俺は桐生など……」
「ちょ、ちょっと、あんた、大丈夫かっ!」

汗を掻き青い顔で、意識を失いかけている橋爪に、囚われの身の青年が焦る。

「…し、ら……」

下半身剥き出しで座る青年の太腿に、橋爪が顔を埋めるように倒れ込んだ。

「何だよ、この展開っ! 信じられね~」

重い橋爪の身体を、青年が何とか自分の太腿から外そうとした時だった。
ドタドタドタという数人の足跡が近付いてきた。

「今度は何事だよっ!」

身の隠し場所もないコンクリートの打ちっ放しの部屋。
動こうにも、腿の上の橋爪がビクともしない。

「これって、ヤバイ展開…だよなっ! オッサァアアアンッ!」

叫んだのと同時に、出入り口として一つしかないドアが、激しい音と共に前に倒れた。

その男、激情!33

「おいガキ、お前、早死にしたいのか? それともオツムが弱いのか? これが何だか分かるだろ」

橋爪が銃口を青年の額に向けた。

「久しぶりに出て来て、まだ人をガキ扱いよっ、あんた今組長じゃないんだから、無礼も何もないよな」

その銃口を邪魔だと青年は手で払い、身を橋爪の方に自分から乗り出すと、橋爪の掛けていたサングラスを瞬時に外した。

「ヤバイよっ、あんたっ、腹いて~~~~っ、」

橋爪の顔を見るなり、ぎゃははは、と馬鹿笑いを始めた青年に、橋爪は言葉を失った。

「なに、その髪型とその顔のミスマッチッ! あ~~、あんたに長髪は似合わね~ッて。あ~よかったっ、あんたが、今オッサンの上司じゃなくて。思いっきり笑っても、叱られないっ!」

オッサンが誰の事を指すのか、橋爪には見当も付かない。
だが、自分がこの若造に非常にバカにされていることだけはわかった。
仕事以外の殺しは趣味じゃないが、この時ばかりは、目の前の大笑いの青年に殺意が芽生えた。

「…黙れ」

橋爪が唸る。
馬鹿笑いで忙しい青年の耳には届かなかったらしい。 
涙を零して笑っている。

「黙れ、ガキ」

銃の柄で、青年の首の付け根を激しく打ち付けた。

「な、…に、」

大笑いの最中に、突然の衝撃を受け、青年は意識を失った。
途端車内が静寂になる。
橋爪は一旦車から出ると運転席に回り、青年を蹴飛ばし助手席へ移すと、自分がハンドルを握った。

「ガキは静かに寝てろっ」

青年を乗せたまま、橋爪は車を出した。

「は?」

走行を始めた橋爪が、スポーツカーの狭い後部座席を陣取る物体に気付き、思わず声を出した。

「着ぐるみか? 中に入っているならサッサと姿を現わせ」

と言いながらハンドルから片手を離すと、バックミラー越しに焦点を定め、銃を放った。
鈍い音がして、物体の中心から煙が上がる。

「ふん、ただの縫いぐるみか。桐生っていうのはアホの集団なのか?」

時枝を撃った時も、時枝を含めた三人が奇妙な被り物をしていた。
そして、自分を馬鹿にしたように大笑いした青年の車には、大型の熊の縫いぐるみ。
どう考えても普通じゃなかった。
李からの仕事の依頼を考えると、桐生は名の通った組のはずだ。
しかし、台湾で身を寄せていた裏の世界とは違いすぎる。
後部座席を陣取っている熊の縫いぐるみから、焦げ臭い匂いが漂ってきた。
鼻腔を擽る匂いが、橋爪に自分の仕事を思い出させた。 
最初から嫌な予感がした日本到着だったが、想定外の事ばかりだ。
今に李から催促の連絡が入るだろう。
入れば終わりだ。
失敗は自分の死を意味する。
そういう世界だ。
李は、何か知っているのか?
橋爪は、ふとそんな気がした。

「まあ、いい。仕事は仕事でやり遂げるさ。この生意気なガキ使ってな」

自分から出向くより、相手を誘き寄せた方が早い。
どこまでこのガキが桐生に関わっているかにもよるが、黒瀬を出迎えに行ったことと、自分をを知っているような生意気な口のきき方からして、橋爪は使えると踏んだ。

「…いてぇ…」
「やっとお目覚めか?」
「…さむっ」
「そりゃ、その格好だからな」
「…格好? ――うわっ!」

痛む首を押さえながら、青年が自分の姿を確認した。

「どういうことだっ! 俺をまさかっ」

下半身、剥き出しだった。
下だけ何も身に着けていない。
下着、靴下、靴、全部脱がされていた。
そして、片手にだけ鉄の輪が嵌められており、そこから伸びた鎖の先を橋爪が手にしていた。

その男、激情!32

***

 

気が付くと、橋爪の瞼は血糊で蓋をされた状態だった。 
意識はあるのに、目が開かない。
最初は目脂(めやに)かと思ったが、違った。
微かに鼻腔を擽る血の匂いに、額を切ったことを思い出す。
そして、消し去りたい昨日の一連の出来事も。
指を唾液で濡らし、ゆっくり上下の瞼のとじ目を擦る。 
一度ぐらいでは取れそうにない。
何度も指を口に含み、濡らしては目を擦る。
目が開くより先に、口の中に指に付着した血の味が広がる。
自分の血など、不味くて仕方ない。
だが、違う血の味も知っている。
今までに殺してきた相手ではない。
死体の血を啜るようなおぞましい変態チックな趣味はない。
しかし自分の血ではない、鉄臭い味を確実に知っている。

いつ、どこでだ?

橋爪は自問した。
しかし、橋爪は深くは考えたくなかった。
その先にあるものが、昨日の不快な出来事に繋がりそうだったからだ。

「…馬鹿馬鹿しい…」

全てをそちらに繋げる気かと、橋爪は自嘲した。
やっと、上下の瞼が離れた。
ビジネスホテルの狭いバスルームに行くと、洗面台の鏡が無残な姿を晒していた。
従業員にバレる前に退散した方が良さそうだ。
落ちてきそうな鏡の欠片に注意しながら、棺桶以上に狭いバスタブの中で、シャワーを浴びる。
髪に付いた血を流し身体を洗うと、髪も乾かさず荷物を纏めた。
そして、急いでチェックアウト。
橋爪は荷物をコインロッカーに預けると、新たな銃を調達し、時枝のいる病院へと向った。

「あの若いのは…確か…」

橋爪が病院前の木陰から様子を伺っていると、見覚えのある若造が駐車場から正面玄関に向って歩いて来た。 
スポーツカーで黒瀬達を運んで行った青年だと思い出す。

「…つまり、桐生関係者か? 組員には見えない、隙だらけだ」

こりゃいい、と橋爪が青年の背後に回り込む。

「なっ、」

肩に手を掛け、銃口を突き付けた。
驚き振り向こうとした青年に、

「前を向いてろ」

と、命じた。

「背中に何が当てられているかわかるよな、坊主」
「…嘘だっ、」

銃口に驚き出た言葉だと橋爪は思った。
だが、違った。

「…その声、あんた、生きてたのかっ、…嘘だッ!」

銃口より、橋爪の声の方が青年を驚愕させたらしい。

「ふん、どいつもこいつも、頭おかしいヤツばかりか? 騒ぐな。一緒に来い」

橋爪は銃口を青年の脇腹に移動させ、彼の腕を掴むと歩き始めた。

「お前車だろ。一緒にドライブでもしようじゃないか」

青年を自分の車まで歩かせる。
勿論その間、銃口は青年の脇腹を向いていた。

「スポーツカーとは良いご身分だな。乗れ」

助手席側から青年を押し込み運転席に移動させ、橋爪も助手席に乗り込んだ。

「逃げようとはしなかったな。褒めてやろう」
「なんで、俺が逃げるんだよっ。ふん、あんた何やってんだっ? 変な格好してっ!」
「えらく威勢のいいガキだ。ガキ、車を出せ」
「い、や、だ、」

本当にガキだった。
ベーッと舌を出され、橋爪は面食らった。

その男、激情!31

「だったら、退院するより大人しくここに入院していた方が、会えますよ。慌てなくても向こうから来る」
「本当だなっ、来るんだな? 絶対現われるんだな?」

今度は黒瀬の胸を時枝が掴む。

「ええ。時枝の息の根を止めにやって来ますよ。居場所も直ぐに佐々木が突き止めるでしょうし。ふふ、一つ確認」
「何だ、武史」

完全に時枝は地に戻っていた。
今、自分の前にいる男は、株式会社クロセの社長で自分の元上司ではなく、惚れた男の弟でしかなかった。

「今の兄さんは別人。時枝の知っている兄さんじゃない。時枝の事だって覚えてない。仕事のターゲットぐらいにしか思ってない。それでも会いたいの? 会ってどうするつもり?」
「黒瀬っ! …そんなこと、今、時枝さんに…言うなよ」

現実を突き付ける黒瀬の言葉に、時枝より先に潤が反応した。

「構いません。潤さま」

時枝の口調が元に戻る。

「会ってどうするのかは、会ってから決めます。ただ、勇一が私を覚えてない、今の勇一が別人だということは、私には何の意味も持たない。それはあなた方が一番分るはず。潤さま、違いますか?」
「…それは…」

先程、黒瀬に言われた事だった。

「昔あなたに言いましたよね。社長があなたを忘れた時、好きで忘れた訳じゃない、と。勇一は、私を庇って撃たれ海へ沈んだ。それから何があったのか分らない。別人だと言うなら、余程の事があったのでしょう。過酷な道を生き抜いて来たはずだ。激怒していますよ。私に銃を向けるなんて。だが、それは勇一のせいじゃ…ない」

一旦落ち着いたようにみえた時枝の目に、涙が浮かぶ。

「切れなかった。…法事まで出したのに、現われたっ! 私を…俺を忘れているのに、俺の前に現われたんだっ、終わりじゃなかったって、ことだろっ! 俺達は繋がっているんだよっ。違うか、武史」

時枝の手が、激しく黒瀬の胸を打ち付ける。

「違いませんっ!」

答えたのは、黒瀬でも潤でもなく、佐々木だった。
医者に報告に行った男が戻って来たらしい。

「組長、時枝組長っ、その通りですっ! お二人は運命の真っ赤な糸で繋がれているんですっ。アッシはっ、アッシはっ、」

佐々木が黒瀬を押し退けるように、時枝の自由が利く方の手を両手で挟む。
その手の上には、桐生組若頭から滝のように流れ落ちる熱い雫が降りかかっていた。

「真っ赤と言うよりは、どす黒い赤じゃない?」

佐々木に場所を奪われた黒瀬が、呆れたように笑っている。

「――アッシはっ、お二人をっ、お二人の恋を応援しますっ!」

佐々木の何かのCMのようなフレーズに、時枝は冷静さをとり戻したらしい。

「佐々木さん、…悪いが手を離して下さい」
「何の心配も要りませんからっ。ぁあ、素晴らしいっ、…深い愛の絆だぁあああっ、」

ついさっきまで、残酷だと叫いたことなど、佐々木の頭からは消えているらしい。

「一体何の騒ぎですか。何をやってるんですか」

医者が看護師を引き連れ、入って来た。

「安静にしてないと、ダメじゃないですか。横になって下さい」

医者に叱られ、時枝が身体を倒そうとするが、佐々木が離れなかった。
潤が佐々木の胴体を掴むと、引き離した。

「あなた達、患者を興奮させないで下さい。まったく、手術したばかりだと言うのに…回復が長引いても知りませんよ」
「申し訳ございません」

潤一人、医者に謝った。

「血圧が上がってます。寝た方がいいでしょ。寝られないようなら、睡眠薬を処方しますが。それと、そこのあなたには、精神安定剤でも打ちましょうか?」

そこのあなたとは、勿論佐々木の事だ。

「結構です。その男には、まだ仕事がありますので。ねえ、佐々木。忘れているようだが、することあるよね?」

黒瀬が佐々木に、汚い涙を流す暇があるならサッサと勇一の居場所を突き止めてこい、と冷ややかな笑みを向けた。