その男、激情!32

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気が付くと、橋爪の瞼は血糊で蓋をされた状態だった。 
意識はあるのに、目が開かない。
最初は目脂(めやに)かと思ったが、違った。
微かに鼻腔を擽る血の匂いに、額を切ったことを思い出す。
そして、消し去りたい昨日の一連の出来事も。
指を唾液で濡らし、ゆっくり上下の瞼のとじ目を擦る。 
一度ぐらいでは取れそうにない。
何度も指を口に含み、濡らしては目を擦る。
目が開くより先に、口の中に指に付着した血の味が広がる。
自分の血など、不味くて仕方ない。
だが、違う血の味も知っている。
今までに殺してきた相手ではない。
死体の血を啜るようなおぞましい変態チックな趣味はない。
しかし自分の血ではない、鉄臭い味を確実に知っている。

いつ、どこでだ?

橋爪は自問した。
しかし、橋爪は深くは考えたくなかった。
その先にあるものが、昨日の不快な出来事に繋がりそうだったからだ。

「…馬鹿馬鹿しい…」

全てをそちらに繋げる気かと、橋爪は自嘲した。
やっと、上下の瞼が離れた。
ビジネスホテルの狭いバスルームに行くと、洗面台の鏡が無残な姿を晒していた。
従業員にバレる前に退散した方が良さそうだ。
落ちてきそうな鏡の欠片に注意しながら、棺桶以上に狭いバスタブの中で、シャワーを浴びる。
髪に付いた血を流し身体を洗うと、髪も乾かさず荷物を纏めた。
そして、急いでチェックアウト。
橋爪は荷物をコインロッカーに預けると、新たな銃を調達し、時枝のいる病院へと向った。

「あの若いのは…確か…」

橋爪が病院前の木陰から様子を伺っていると、見覚えのある若造が駐車場から正面玄関に向って歩いて来た。 
スポーツカーで黒瀬達を運んで行った青年だと思い出す。

「…つまり、桐生関係者か? 組員には見えない、隙だらけだ」

こりゃいい、と橋爪が青年の背後に回り込む。

「なっ、」

肩に手を掛け、銃口を突き付けた。
驚き振り向こうとした青年に、

「前を向いてろ」

と、命じた。

「背中に何が当てられているかわかるよな、坊主」
「…嘘だっ、」

銃口に驚き出た言葉だと橋爪は思った。
だが、違った。

「…その声、あんた、生きてたのかっ、…嘘だッ!」

銃口より、橋爪の声の方が青年を驚愕させたらしい。

「ふん、どいつもこいつも、頭おかしいヤツばかりか? 騒ぐな。一緒に来い」

橋爪は銃口を青年の脇腹に移動させ、彼の腕を掴むと歩き始めた。

「お前車だろ。一緒にドライブでもしようじゃないか」

青年を自分の車まで歩かせる。
勿論その間、銃口は青年の脇腹を向いていた。

「スポーツカーとは良いご身分だな。乗れ」

助手席側から青年を押し込み運転席に移動させ、橋爪も助手席に乗り込んだ。

「逃げようとはしなかったな。褒めてやろう」
「なんで、俺が逃げるんだよっ。ふん、あんた何やってんだっ? 変な格好してっ!」
「えらく威勢のいいガキだ。ガキ、車を出せ」
「い、や、だ、」

本当にガキだった。
ベーッと舌を出され、橋爪は面食らった。