その男、激情!39

「ふふ、お猿、お医者さんゴッコでもしようっていうのかな?」
「…ん、点検でも…診察でも…なんでもしてやるぞっ、ダイダイ…ダイダイッ、…こんな姿になる前に…見つけてやれなくてっ、…」

黒瀬のチャチャなんて、佐々木の耳には届いてないらしい。
佐々木は大喜を抱いたまま、歩き出した。

「急いだ方がいいかも。あの調子だと、置いて行かれそう」

部屋を出て行く佐々木の後ろ姿を見ながら、黒瀬が潤の肩をポンポンと叩いた。

「そうだね。…組長さん、どうするの?」
「もちろん、連れて帰る」
「帰る? それって、俺達のマンションにってこと?」
「置いて行ってもいいけど、少々展開がまどろっこしいし。ふふ、気になることもあるしね」
「気になること?」
「それは、後で、ゆっくりね。それより、お猿の脱がされた服と携帯探して。服はどうでもいいけど、携帯には多分桐生やクロセ関係の番号も入っていると思うから」
「はい、社長」

潤がふざけて秘書モードで返事をした。
大喜が見つかり、勇一を確保したことが嬉しいようだ。
黒瀬が男を―勇一を肩に担ぐ。
大喜の携帯と衣類は、部屋ではなく廊下のゴミ箱に捨てられていた。
それを潤が拾い、身軽な潤が先に佐々木達を追った。黒瀬じゃないが、今の佐々木の状態なら、自分達の事を忘れている可能性がある。

「待ってぇ!」

やはり、佐々木の頭には大喜のことしかなかったらしい。
潤が建物から外に出ると、目の前を佐々木の車が猛スピードで走り去った。

「…うそぅ、置いて行かれた…」
「間に合わなかった?」
「携帯で…タクシー呼ぶ?」

潤が黒瀬の背に担がれた勇一に目をやる。
場所も怪しければ、勇一の姿形も怪しいし、しかも意識がない。
タクシーだと乗車拒否されそうな気がした。

「車もう一台あるよ、潤。お猿の棺桶カーあるだろ?」
「あ、そうか。…でも誰が運転するの? 俺、ペーパーだよ?」

だいたいいつも、運転手付の生活だ。
黒瀬も運転するが、スポーツカーを毛嫌いしているので、ハンドルを握るとは思えなかった。

「ふふ、大丈夫。棺桶カーだって、乗りこなせるよ。後部座席よりは運転席の方がマシだしね」
「マニュアル車だよ?」
「やだな、潤。ご婦人方じゃあるまいし、そこは心配するところじゃないよ?」
「…ごめん。あれ、でもキーは? どこ?」

当然ながら、鍵がないと動かすことはできない。

「ダイダイのズボンのポケットは? 普通ズボンのポケットじゃない?」

潤が手にして大喜の衣類を漁る。
なかった。

「ない」
「じゃあ、こっちかも」

肩に担いだままで黒瀬が勇一のポケットを漁った。
あった。
車のキーだけでなく、別の鍵も出て来た。

「ほら、あったよ」

それは掌に握り込んで潤には見せず、車のキーだけ揺らせて見せた。

「ぁあ、良かった。帰れる」

ダイダイのスポーツカーに乗り込む。
後部座席を陣取っていた大きな熊の縫いぐるみの足を枕代わりにして勇一を寝せ、潤が助手席、黒瀬が運転席に座った。

「…これって、数年ぶりの家族でドライブ…だよね?」

車が走り出すと、潤がボソッと呟いた。

「家族?」
「組長さんは黒瀬の兄だし、俺、黒瀬のパートナーだし…家族だろ?」
「ふふ、潤らしい発想だ。そうだね。他人ではないね」
「一人足りないけど」

潤が後部座席を振り返る。

「時枝?」
「早く、二人一緒のところ見たい。…前みたいに、組長さんが時枝さんの尻に敷かれているところ…」
「潤?」

潤の声が湿ったのを黒瀬が気付かないはずがない。
後ろを向いた潤の顔に黒瀬が片手を伸す。
顎を掴み、自分の方も向かせた。

「泣いてない。…泣いてないから。…佐々木さんじゃないし…」
「分かってる。潤は、兄さんのあまりに変った風貌に驚いているだけ…ふふ、おいで」

運転しながら、黒瀬が潤の肩を引き寄せた。

「…さっきまで、平気だったんだけど、…変なの、俺、急に、なんかっ、ぐっ、」

潤の頬には既に涙の筋が出来ていた。
それを黒瀬が指で拭う。

「数年ぶりの再会が、お猿の下半身に顔を埋める兄さんだったからね。時枝が見たら、感動の再会の前に、兄さんを殴ってそうだけど」
「…はは…、有り得る…うん、」

泣き笑いだった。
勇一が生きていたことは幸いだったと思う。
時枝を殺す為に現われたとしても、こうして自分達の手の届く範囲に勇一がいることは幸せだと、潤も今は思っている。
だが、元に戻れるのだろうか…あの結婚式を挙げた日の二人に戻れるのだろうか。
幸せの絶頂にいた二人の姿が、潤の脳裏に浮かぶ。
組長として君臨していた頃の勇一とあまりに落差がある今の姿。
頬を這う黒瀬の指が、「泣いてもいいよ」と誘っているようで、溢れてくる涙を潤は止めることが出来なかった。