秘書の嫁入り 犬(17)

互角なのか、見事に、黒瀬の持った日本刀が勇一の振り回す刃を止めていた。

「このままじゃ、埒があきませんね。しょうがない」

黒瀬が左手に刀を持替えると、器用に片手で勇一の刃と応戦を始めた。

「情けない人だ。片手の俺と互角ですか? そんなことで、よく桐生の組長が務まりますね」

勇一を挑発しながら、空いたほうの右手で拳を作る。

「コノヤロ―ッ、」

勇一が黒瀬の頭を狙って日本刀を振り下ろした。
それを黒瀬は左手に握った日本刀で受けると、右手の拳を勇一の腹にめり込ませた。

「ぅぐっ、」

勇一の手から、日本刀が落ちる。
佐々木が潤の側から急いで駆け寄り、拾い上げた。
勇一は、腹が痛いのか、意識はあるものの、呻りながら畳の上に転がった。
その勇一の顔の真横に、黒瀬が手にしていた日本刀をグサッと刺した。

「――ッ」
「兄さん、本当に、いい加減にして下さい。頭にきたのはわかりますが、ここで暴れられても迷惑なだけです」
「…武史」
「怒りをぶつける場所、間違ってるでしょ?」

黒瀬は日本刀に映し出された勇一の顔に、小さな異変を見いだした。

「佐々木、もう大丈夫だから、他の者を引かせて。早く」

黒瀬の命令で、佐々木が皆に下がるように指示を出す。 
組長の気性の激しさや、黒瀬との応戦を目の当たりにした若い衆は、潤同様、驚き声も出ないという感じだったが、佐々木に促され、皆無言で青い顔のまま去って行った。

「皆、もういなくなりましたから、良いですよ、兄さん」

黒瀬が勇一の顔の横に刺した日本刀を抜き放り投げると、勇一の身体を起こした。

「…勝貴がっ、…」

畳の上に滴がポタリと落ちた。
勇一が泣いていた。
泣かない男が涙を零していた。
黒瀬は、組長である勇一の涙を佐々木以外の組員に見せないよう、他の者を去らせたのだった。

「兄さん、内容は聞きません。だいたいの想像はつきます。俺の推測だと、想像以上に酷い内容だったんですね。一つだけ、確認を。時枝は、生きてますよね?」

黒瀬は兄、勇一を宥めながらも、一番大事な確認をする。

「…あれなら、…殺されていた方が……、本人は楽だったかも知れない……」

DVDに映っていた映像は、酷いなんてものじゃなかった。
つり下げられた時枝の身体に群がる黒人、白人。
ぶら下がる身体を下から押し広げられ、交互に、または同時に時枝を突き上げていた。
苦痛に泣き叫ぶ時枝を今度は下に降ろしての陵辱三昧。 
口に突っ込まれ、下も犯され、同時に四人に嬲られるシーンもあった。
それはまだ序の口だった。
次の場面では、檻の中で繋がれた時枝を、大型犬が嬲っていた。
怯え失禁する時枝が余計犬を煽るのか、それとも時枝の身体に雌犬の匂いが塗られていたのか、人間、しかも犬と同じ雄の時枝を犬が襲い掛かっていた。
犬の膨張した凶器が容赦無く時枝の身体を貫いた。
その時の時枝の悲鳴が、勇一の耳から離れない。
まだまだ残忍な場面は続いていたが、それ以上見ることは耐えられず、込み上げる怒りで、勇一は我を忘れてしまったのだ。

「兄さん、怒りますよ」

黒瀬が涙に濡れた勇一の頬を平手で、音が響くほど激しく叩いた。

「ボ、」
「黒瀬、」

叩かれた勇一より、見守っていた佐々木と、兄弟の激しい応戦で腰が抜けていた潤が驚き、同時に声をあげた。

「なんですか、それは。兄さん、時枝が死んだ方が良かったと? それなら、もっと早く俺が始末してあげてましたよ? 色々と小言のうるさい男ですしね。潤だって、入社してから、ずっといびられっぱなしで」

黒瀬、それは、今、話が違うだろ…と潤が心の中だけで窘めた。

「…死んで欲しいわけじゃないっ、そんなこと…、だが、…うっ」
「兄さん、その様子じゃ、DVDを最後まで見てないんじゃ? 時枝の居場所の手掛かりが映っていたんじゃないのですか? それに、向こうの要求とか」

動の激しい怒りが落ち着いたと思えば、今度は情けなく弱さを露見させた勇一に、これが何度も修羅場をくぐり抜けてきた男かと黒瀬を呆れさせていた。

「…最後まで、見れるかっ! あんな、勝貴…、」
「私の潤を、好き勝手嬲った男の発言とは思えませんね。兄さん、あなただって、結構酷い事平気でしてますよ」

それは、ボン、あなたもです…と今度は佐々木が胸の内で突っ込みを入れていた。

「…そんな、次元じゃ,ない…クソッ、勝貴、どうして、勝貴なんだ? あぁああっ」

黒瀬に支えられた勇一が、畳をバンバン叩き、嗚咽をあげ、泣き崩れた。

「兄さん、見るつもりはなかったですが、あなたがこんな状況ではしょうがない。DVD、寝室ですね」
「…だめだっ、見るなっ! あんな姿、誰にも見せられるかァあああっ…」

立ち上がった黒瀬の足に勇一がしがみつき、邪魔をする。

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秘書の嫁入り 犬(16)

「騒々しいですね、佐々木、何事?」

初めて見る勇一の鬼の形相と暴れ様に、潤は驚き怯え声も出ず、目を剥いていた。
その潤の肩を「大丈夫だから、怖がらないで」と抱き寄せ、黒瀬が佐々木に事の発端を訊いた。

「DVDを寝室で、見ていらしたんです。その間、隣室でアッシは待機をしていました。そうしたら、突然、組長が『殺してやるっ!』と日本刀を持ち出して、手当たり次第、斬りつけ始めて…」
「さては、余程、酷いものが映っていたのか。やれやれ」
「ボン、やれやれ、じゃないでしょっ! 組長を止めて下さいっ、あのまま、道に飛び出しでもしたら、どうするんですか!」
「無理。あの状態の兄さんを止められると、佐々木は本気で思っているの? 馬鹿じゃない? あの人、普段は隠しているけど、根はマグマのような激しい人間だよ。本気で怒らせちゃあ、駄目だって」

いや、それをいうなら、ボン、あなたでしょう、と佐々木は胸の裡で突っ込みを忘れなかった。
激しい部分は、二人とも、桐生の血なのだろう。
現れ方が違うだけで、激情の血は先代から、桐生の伝承のように受け継がれているのだ。
本人達には不本意でも。

「ボンッ、お願いですからっ、止めて下さいっ!」

佐々木が必死になるのも分る。
既に部屋中ぐちゃぐちゃで、このまま放って置くと、本宅が壊滅状態になりかねない。

「…黒瀬…、組長さん…止めて……」

黒瀬の腕の中で、怯え震えていた潤が口を開いた。

「潤がそう言うなら、仕方ないね。佐々木、チャカか刀か貸して。鉄パイプでもいいけど?」

物騒な道具に、佐々木より潤が先に反応した。

「黒瀬? …まさか、組長さんを…」

不安そうに潤が黒瀬を見上げた。

「日本刀振りかざしている兄さんに、素手で対抗はできないだろ? 心配しないで大丈夫。防衛用だから」

それなら、と潤は納得したが、佐々木は潤ほど単純ではなかった。
拳銃を渡せば、黒瀬のことだ、これ幸いと、手足のどこかを狙って打ちそうだし、刀を渡せば斬り合いになりそうだし、かといって、ガキの集団じゃあるまいし鉄パイプなんて、常備していない。
納屋まで探しにいけばあるかもしれないが、そんな猶予がないぐらい勇一は怒り狂っていた。
木刀はあるが、それだと、今度は黒瀬に不利だと、佐々木は迷いに迷い、結局、日本刀を渡した。

「ボン、念に為に申し上げますが、決して血を吸わせないで下さいよ」

忠告をした佐々木に、迷わず黒瀬が刃を向けた。

「佐々木? お前、さっきから何回『ボン、ボン』言ってるのか知ってる? これで三回目。三回斬りつけても、文句言えないよね?」

ひぇっ、と佐々木が後退る。
佐々木の喉に黒瀬が刃の先を押し付けた。

「も、も、もうしわけ、ございませんっ!」

こんな状況でも、一々数えていたのかと、佐々木は怯えながら呆れていた。
やはり、刀を渡すんじゃなかったと、後悔もした。

「アッシへのお叱りは、後でゆっくり受けますので、まずは組長をお止め下さいっ!」

黒瀬が佐々木に構っている間も、勇一の狂乱は一向に止む気配がない。
本宅内には、身内か身内当然の者しかいないというのに、敵味方ない状態で暴れている。
このままだと、勇一の振りかざす刀で、いつ、人間への被害が出てもおかしくない状況だ。
潤だって危ないだろう。

「潤、危ないから、佐々木の後ろに隠れておいで。佐々木、潤を頼むよ」

黒瀬の刀から解放された佐々木が、潤の側にいく。
この場から離れられれば、それが一番安全なのだが、変に動くと勇一を刺激しかねない。
黒瀬が止めてくれることに期待して、佐々木は潤の盾となる位置に立った。

「兄さん、いい加減にして下さい。潤が怯えているでしょう。ったく、人騒がせな」

日本刀を振り回す勇一へ、黒瀬が歩を進める。

「てめぇえ、邪魔する気かっ!」

勇一が黒瀬に刃を向けた。

「邪魔も何も、ここに、あなたの敵はいないでしょう?」
「うるせぇっ、勝貴がっ、あんな目に、この野郎、皆殺しだっ」

勇一が黒瀬に容赦なく斬りかかるので、それを黒瀬がヒョイヒョイ躱している。

「はあ、話にならない」

黒瀬が、日本刀を振り上げた。
カチン、シャキンと、刃と刃が重なる音が響く。

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秘書の嫁入り 犬(15)

どこから崩していくべきなのか、四人で、本題に入ろうとしていた矢先、ドタドタドタという足音と、「オッサン、いるか~」という、聞き覚えのある声が近づいてきた。
佐々木が、スミマセン、と頭を掻きながら、部屋を出た。

「こら、大喜、何事だ」

佐々木が面倒をみている大学生、大喜だった。
時枝のことは大喜にも伏せてある。

「なんかさ~、これ、さっき裏門出たところで預かったんだけど。桐生の組長に、直ぐに渡してくれって。大事なもんなんだろ?」

小さな紙の手提げに、DVDが一枚入っていた。

「どんな男だ?」
「サングラス掛けてて、顔、よく見えなかった。手袋嵌めてた」
「俺が、組長に渡すから、お前、早く戻れ」

ちぇ、俺だけ除け者かよ、とブツブツ言いながら、大喜がいなくなる。
時枝のことは知らされてないが、佐々木や黒瀬や潤が一同に勇一の元に集まり、何やら密談をしていることには気付いていた。

「組長、コレが…」

紙の手提げ袋を佐々木が勇一に手渡した。

「DVDか」

「大喜が裏門で組長に直ぐに渡してくれと、知らない男に頼まれたそうです」

勇一がDVDを袋から取り出すと、四人の視線がそれに向う。
一斉に息を呑む。

「…手掛かり?」

口を開いたのは潤だった。

「兄さん、早く目を通した方がいいと思います。興味はありますが、どうぞ兄さんお一人で」

それに時枝が映っているとしたら、決してホームビデオのようなほのぼのとした映像ではないだろう。
その対極にある酷い映像の可能性が高い。
最悪を想定すると、潤には見せられない。
黒瀬は勇一だけが見るべきだと判断した。
「寝室でどうぞ。俺達は軽く食事をしてきますから。一時間後に戻って来ます。佐々木もそれで、いいね?」
「はい、隣の部屋で待機しておりますので、何かあったら声を掛けて下さい」
黒瀬は潤を伴い、一旦本宅を出た。

「…生きてるよね?」
「時枝のこと?」
こぢんまりとした、和室。
軽く食事と言っていた黒瀬だったが、彼の軽くは懐石料理を指すらしい。
趣のある料亭で二人きりの食事。
潤は、DVDのことが気になるのか、あまり箸が進んでいない。

「うん。あれには、生きている時枝さんが映ってるんだよね?」
「余程の変態じゃなければ、死体を映して届けたりはしないよ」

潤にはそう言ったものの、そういうマニアックな連中も多い。
黒瀬は幼児ポルノを好んだり、殺人ポルノを収集する富裕層を数多く知っている。
だが、そんな現実を潤に教えるつもりはなかった。

「大丈夫、DVDが届いたということは、生きている確率高いから。ただ…」
「ただ、何?」

潤が身を乗り出した。

「命はあるとは思うけど、縛っているだけの映像じゃないことだけは確かだと思う。わざわざDVDに収めようというぐらいだから、」
「…時枝さん、俺と違って強いよね? 負けないよね?」

自分の過去の経験のようなことが、時枝の身にも起きているのかもしれない。
いや、もっと悲惨かもしれないと思うと、潤の胸が痛む。
命は助かったとしても、精神が病めば助かったとは言えないだろう。

「大丈夫。私だって死にかけてたけど、潤が助けてくれただろ? ちゃんと、元に戻っただろ? 潤は優しいね、あんな怖い上司の心配して。とにかく、食べなさい。食べないと力も出ないし。潤が食べないと、本宅へは戻れないだろ?」

目の前には上品に盛られた旬の料理が並ぶ。
潤の皿は一向に減らない。
時枝のことが、気になるなら食べなさいと、黒瀬に諭され、無理矢理箸を進めた。

 

 

「組長―――っ! 危ないですっ、誰かっ」

食事を終えた黒瀬と潤が本宅へ戻ると、勇一が日本刀片手に大暴れしていた。

「るっせぇ、そこ、どきやがれっ、」

家具から壷、掛け軸といった室内装飾品、果ては柱、建具まで、勇一が腹いせ紛れに斬りつけていた。
羽毛布団や羽根枕も斬りつけたのか、そこら中に、白いふわふわした羽毛と羽根が舞っていて、雪の中で鬼が暴れているように見える。

「よくもっ、よくもっ、俺の勝貴にっ!」
「ひぃっ、組長ぅ、刀を置いて下さい。お前ら、ぼやぼやしてないで、早く組長をお止めしろっ!」

佐々木が一人じゃ手に負えないと、本宅にいる若い衆を集め、両肌を脱いで暴れ狂う勇一を鎮めようとするが、日本刀を振り回す勇一に近づくことさえできなかった。

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秘書の嫁入り 犬(14)

時枝の消息が不明になってから、一週間が過ぎた。
黒瀬は出張から戻った足で、直接、桐生の本宅へ向った。
潤とは本宅で待ち合わせた。
出国時同様、成田へ出迎えに行きたいと潤が黒瀬に申し出たが、潤をネコっ可愛がりしている黒瀬がそれを断った。
時枝が消えたのが成田だったので、潤にも何かあったらと、勤務時間が終わったら直接本宅へ行くように命じた。
時枝が消えて直ぐ、潤には気付かれないよう、プロの護衛を付けていた。
第三者が係わっているとして、特定出来ないうちは、潤に被害が及ばないとも限らない。
すでに三回、潤は誘拐されている。
黒瀬の判断は、決して行き過ぎではない。
大事な人間を守りたいという、当然の判断だろう。

「お帰りなさいませ。ボ、…武史さま」

黒瀬の到着を佐々木が出迎えた。

「いらっしゃいませ、じゃない? 俺はもう、ここを出た人間だから。潤は?」
「既に到着されております」

そう、と笑みを浮かべると、黒瀬は潤と勇一が待っている部屋へと急いだ。

「潤、会いたかったよ~」
「俺も、黒瀬っ」

一週間。
この二人には、それは一年にも匹敵するぐらい、長い時間だったようだ。
ガッシリと抱き合い、熱い抱擁が始まった。

「いい加減にしろ」

そして、ここにも一人、人生で最も長い一週間を過ごした男がいた。
長いだけでなく、辛く耐え難い一週間だった。
プッツリと消えた恋人の消息。
拉致されたと読むならば、何か相手から動きがあっても良さそうなものだが、脅迫状も電話もメールもなかった。
安否を気遣い、待つだけの時間。
佐々木以外の組員や外部に、今の状況を洩らすわけにもいかず、イラツキを押し殺して通常の組長としての任をこなしていた。

「イライラしても、しょうがないでしょ、兄さん。状況は?」

部屋には、黒瀬、勇一、潤の他は佐々木だけ。
他の者は部屋から遠ざけていた。

「状況も何も…。桐生に対して何か仕掛けてくる気はないんじゃないのか? 不穏な動きも聞こえてこない。誘拐なら、脅迫状ぐらい、届いても良さそうなものだろ。静かなものだ。そっちは?」
「潤、時枝から連絡は?」
「ない。…けど…今思うと……」
「何、潤? 言ってみて」
「空港で、時枝さん、少し変だったかも。早く、俺を空港から追い出したかったみたい」
「だろうね。私を先に行かせた時から、時枝は既に巻き込まれていたんだ。組関係とか、仕事関係とか、そう単純なものじゃないのかもしれませんね、兄さん」

はあ、と、珍しく四人一緒に溜息を付いた。

「…これじゃ、まるで、勝貴自身が目的だったみたいじゃないか…」

勇一の口から漏れた言葉に、一同、ハッとなる。

「その可能性を忘れてましたね、兄さん。理由はわかりませんが、もし、目的が時枝勝貴だったら? 時枝を手に入れる為で、他に何も望んでないとしたら、そりゃ、連絡はありませんよ」
「…まさか。そんな…ことが……」

勇一の顔が暗くなる。

「あくまでも、可能性の一つです。あんな面白みのない人間を手に入れて喜ぶのは、兄さんぐらいだと思いますが、まあ、世の中、変な感性の人間もいますので、そういう可能性もあるかなと」

勇一を安心させたいのか怒らせたいのか、黒瀬の言動に、佐々木が冷や冷やしていた。
潤は慣れたもので、平然と二人のやりとりに耳を傾けている。

「はあ、武史を見ていると、世の中には常識の通用しない人間がいるってことがよく分かる。だとしたら、可能性はある」

ガクリ、勇一が項垂れた。

「組長さん、ガックリ来ている場合ではないでしょ。やっとお二人、将来の約束されたんでしょ! 何が何でも探し出すぐらいの気合いがなくて、どうするんですかっ」

渇を入れたのは、潤だった。
ここで自分達が諦めたら、動かなかったら、時枝の命が危ないと、思えてしょうがなかった。
あと一歩遅ければ、どうなっていたかわからない状況で、黒瀬や時枝に助け出された経験を持つからだろう。
黒瀬や勇一は、大人の判断で、今まで下手に動こうとはしなかった。潤にはそれが不満だった。

「そうだな、お前の嫁の言うとおりだ。俺がなんとしても、探し出してみせる」
「手がかり無しで?」
「ああ」

そう上手く行かないことは勇一だって分かっていた。
だが、もう、この一週間が限度だ。
これ以上、相手からの連絡を待つことはできないし、時枝が自力で戻ってくることもないだろう。
いくら、桐生で育った時枝だと言っても、生身の人間なのだ。
戻ってこなかったということは、戻れなかったということだ。

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秘書の嫁入り 犬(13)

「起きろっ」

朦朧とした頭を覚醒させるように、冷たい水をぶっかけられた。

「…一体…ここは……」

今まで意識が飛んでいたことは分かるが…、ここは何処だ。
どうして、俺は…、と時枝が覚醒した頭で記憶を遡る。

成田空港でメモにあったビアバーに出向いた時枝は、窓際の席に座る男に、さも親しげに「時枝さん、こっちです」と手を振られ、その男の側に行った。

「一杯やりながら、話しましょうか」

既にテーブルには時枝の分のギネスが用意されていた。

「一体これはどういうことですか?」

ポケットの中からグシャグシャに丸めた紙を取りだし、拡げると、テーブルに置いた。

「座ったらどうです、」

話はそれからだと、男の態度が物語る。
二十代後半だろうか? 時枝よりも若い印象だが、サングラスに深いキャップを被っているので、顔はよく分からない。

「これ、冗談だと思います?」
「私には分かりません。ですが、それを確かめるのには、勇一の命を危険に晒すということですよね? 違いますか」

確かめる手段として、きっと爆破の指示を時枝の目の前で出して見せるだろう。
これが悪戯なら何も起こらないだろうが、本気なら勇一の身が危ない。
事実であろうがなかろうが、勇一の身の危険を匂わせて、自分を呼びつけたのには、別の目的があるはずだ。
勇一の命を取りたいだけなら、時枝に回りくどく予告などせず、サッサと爆弾を爆破するなり、鉄砲玉を仕向けるなり、交通事故に見せかけるなり、他に方法はいくらでもある。
勇一の命の危険を匂わせて、馬鹿げた取引を持ちだそうと言うのだろうか?
それならあり得る。

「さすが、株式会社クロセの社長秘書さんは、頭が良い。悪戯かもしれないと思いながら、ここへ来た。桐生勇一の命を守る為に。桐生さんもここまで愛されていたら、本望でしょうね」
「目的は何ですか?」
「そんなおっかない顔をしてないで、まずは乾杯しましょう」

ギネスのグラスを勧められる。

「大丈夫ですよ。変な薬は入ってませんから。薬は、ご自分で飲んで下さい。はい」

男がグラスの横に、白い錠剤を二粒置いた。

「ただの、睡眠薬です。即効性ではありません。ここから駐車場までは、あなたに自力で歩いて行ってもらわねばなりませんから」

男の言う通り、それは確かに睡眠薬だった。
いつも時枝が常備しているものと同じT製薬のものだ。
特有のアルファベットが刻まれているので、間違いないだろう。
もちろん、市販されている薬ではなく、通常は処方箋が必要なものだ。
錠剤の粒を自ら口に放り投げ、ギネスで流し込む。

「乾杯も無しですか。せっかちな人だ」
「意識があるうちに、移動した方が良いのでは? 私の足元がふらつきますと目撃者が出てきますよ」
「こちらの事情まで考慮してくれるとは、さすが、裏の世界も通じているお方だ。出ましょう」

ビアバーを出ると、駐車場へ男と二人並んで向う。
まだ眠気はないが、一旦眠くなると意識が混濁するのは早い薬だ。
その前に、男から目的を聞き出したかった。

「私の事にもお詳しいようですが、そろそろ、目的を教えて頂いてもよろしのでは? 勇一の命が欲しいとは思えない」
「ほんと、せっかちな人だ。この場所を移動すれば、直ぐにわかりますよ。さあ、乗って下さい」

駐車場に駐められていたワゴンに乗り込んだ。

「そろそろ、薬が効いてくるでしょうから、ゆっくりお休み下さい」

ご親切というか何というか、毛布が座席に用意されていた。
誰が使用していたのか分からないものを使う気にはなれなかったので、畳んであった毛布には触れなかった。
座った途端、計ったように眠気が時枝を襲う。

「次に目が覚めた時、地獄が待っているかもしれませんね……時枝勝貴さん…」

男がエンジンを掛け、運転席からバックミラー越しに時枝に囁いたが、時枝の耳には届かなかった。
既に眠りの中だった。

 

 

「熟睡されてましたね。時枝さん」

サングラスを掛けた男が、手を振ると時枝の身体にまた水が掛けられた。

「…ぐ、はっ、…ここ、は…」
「だいたい、察しがつくでしょ? そして、これから、ご自分の身に何が起るのかも」

サングラスの男の他に、五人の男がいた。
サングラスの男は顔を見せる気がないらしいが、彼が首謀者らしく、他の者は彼の指示で動いているらしい。

「…スタジオってわけですか」

幸か不幸か、トレードマークの眼鏡はまだ無事に、いつもの定位置で時枝の視力の助けをしてくれるので、否応なしに自分の置かれている状況が、隅々まで観察できた。
地下室か倉庫か。広い。
窓はないが、リビングと寝室を模したセットが、二つ組まれている。
今、時枝がいるのは、そのいずれでもなく、二つのセットの中間に、天井に埋め込まれている大きなフックに、身体の自由を奪われ吊されていた。
撮影用の機材もあり、男達が自分に何をするつもりなのか、容易に想像できた。

「私を主演男優にでも、するつもりですか? こんな、花のない男では、絵にならないと思いますが? トウも立ってますし」
「あなたは、ご自分の価値も立場も、よく分かっておられない。桐生勇一の弱点だというだけで億の価値がある。心配しないで。我々はあなた達程、非道ではないから、ちゃんとあなたを桐生勇一の元へ、生きたまま、お返ししますよ。プレゼント付きで」
「目的は?」
「さあ。金とゲームとでも言っておきましょう。あ、もう、いいですよね。本当のことを話しても。もちろん、爆弾なんて、仕掛けていませんよ。面倒臭い」

この男は…似ている。
潤と出会う前の黒瀬に似ている。
人生を斜めから見ている。
違う点は、黒瀬はこの男より非情で残酷だった。
そして、こういう場合、もしもの保険で使用しなくても爆弾も用意する。
育ちが案外、いいのか?

「時枝さん、何を考えてます? 眉間に皺が寄ってますよ」
「無駄なことをやるあなたは一体何者ですか? どこの組の回し者なのかぐらい、教えてくれてもいいでしょう?」
「そんな質問に答えるバカだと思われていたとは、心外だな。さあ、始めましょうか。まずは、そうだな。アメリカから連れてきた黒人男優と絡んでもらいましょうか」

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秘書の嫁入り 犬(12)

「どういうことだ?」

勇一に黒瀬から電話が入ったのが、その日の夜だった。

『だから、時枝が消えたようです。兄さんに連絡がないのなら、消えたとしか思えませんが。時枝と喧嘩したとか?』
「アホぬかせ。ラブラブだ。仕事上のトラブルってことはないのか?」
『それも考えられますが、兄さんの方のトラブルもあるでしょ? これが、俺か潤なら、こっち側だけで推測しますけど。時枝は桐生にも意味を持つ人間ですからね。違います?』
「と言われても、表だって抗争が今起きているわけでもないし、今日一日こっちは何も変わった事はない」
『携帯も繋がらない。時枝が自ら姿を隠したのか第三者が関係しているのかでしょうけど、あの時枝が、中途半端に仕事を投げ出すことは考えられないから、後者でしょうね』

自らはあり得ないのだ。
見送りは断られたが、時枝は勇一に最高級の老酒を買ってくると約束したのだ。

「成田で消えたんだな?」
『はい、そうです。ですので、兄さん、後はよろしくお願いします。俺の帰国は一週間後ですから』
「てめぇ、自分の秘書が行方不明だって言うのに、人任せかっ」
『人って、時枝のことを一番分かっているのは兄さんでしょ』
「…とにかく、連絡があったら、直ぐ知らせろ。こっちで何か不穏な動きがないかは調べてみる」

黒瀬にしても、勇一にしても、実際動きようがなかった。 
第三者が関係しているとして、そいつの目的もクロセ側か桐生側かも分かってない。
時枝個人に恨みがあるのかも知れないし、または黒瀬や勇一に恨みを持つ者が係わっているのかもしれないし、推測しようにも、幅が広すぎるのだ。

『連絡があれば、知らせます』

黒瀬との国際電話が終わった勇一は、直ぐさま時枝の携帯へ発信した。
しかし、電源が切られているようだ。
念の為にと、時枝のマンションの家電にも電話した。
が、留守電のメッセージが流れるだけだ。

「おい、佐々木はいるか? 佐々木を呼べ」

勇一は佐々木を呼びつけた。

「お呼びでしょうか?」

風呂上がりだったのか、濡れた髪の佐々木が首にタオルと掛けやってきた。
慌ててシャツを着たのか、ボタンを掛け違えていた。

「ちょっと話がある。寝室へ来い」

最近、同居中の大学生の影響か、佐々木はちょっとしたことに過剰反応する。
今も勇一が寝室と言ってだけで、顔を赤くしている。

「話が、あるんだ。変な妄想するな」
「…アッシは別に……」

妄想が図星だったのか、ますます赤味が増した。
そんな佐々木に「来い」と顎で命じ、寝室へと招いた。

「ちょっと困ったことが起きた」
「は、何でしょう」
「今、うちを快く思ってない団体は幾つある?」
「…表向きは、友好状態が続いてますが……そうですね、関東清流会の傘下では、やはり誠和会崩れの一派が、うちを快く思ってはないかと。後は、香港からの利権を妬む企業ヤクザ系も、うちを目の敵にしているようです。奴等はスマートなので、ドンパチでは攻めてきませんが」
「大小合せると、切りがないな」

桐生関係だとしても、手当たり次第に内偵というわけにはいかないだろう。
それこそ、変な探りを入れていると思われると、後々火種を残し兼ねない。

「…組長、一体、どうしたんですか?」
「いいか、他言無用だ。勝貴が、消えた」
「消えたって、組長、また、泣かせるようなことをっ!」

佐々木が大声で叫ぶ。

「静かにしろっ、外に漏れるだろうがっ。喧嘩も浮気もしてないっ。誤解するな。出張に出る途中で消えたんだ。成田空港でだ。クロセ関係かうち関係かは分からんが、何か起こったと思って間違いない」

佐々木の顔が今度は青くなる。

「うち関係だとすると、時枝さんの命が……」
「それは、クロセ関係でも同じだ。潤や武史だって、命の危険は経験している」
「まだ、時枝さんは組に在籍してないのに、狙われたとなると……組長と時枝さんの関係に詳しいってことになりませんか」
「そうだろうな。狙いは、俺かも知れん。それに巻き込まれたか……」
「相手の出方が分からない以上、我々には手の出しようがないってことですか?」

佐々木も勇一同様の分析をしたようだ。

「そういうことだ。待つしかない」
「組長狙いとなると、組長を丸腰で誘き寄せるつもりかもしれません」
「ああ、そうだな。その時は、後のことを頼む」

勇一が佐々木に頭を下げた。

「組長っ! 不吉な事を言わんで下さいっ」
「そりゃ、そうだけど、勝貴一人逝かせるわけにはいかんだろうが」

それぐらいの覚悟はしていると言いたかっただけだが、佐々木の涙腺は、既に壊れていた。

「泣くなっ、そっちの方が不吉だろうが。この話はこれで終わりだ。噂でもいいから、不穏な動きがあれば、直で報告しろ」

待つのは辛いものだ。
安否が分からない状態というのは、身を引き裂かれる想いだ。
黒瀬が潤を助けるために、行方不明になった時のことが思い出された。
あの時は辛うじて命は取り留めたものの、廃人同然の姿だった。
無事でいてほしい。
傷一つない姿で、無事に戻って来て欲しい。
佐々木が出て行った後、勇一は一人仏間で仏壇と神棚に、手を合わせていた。

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秘書の嫁入り 犬(11)

時枝だって全く寂しさがないわけじゃないが、国内にいても数ヶ月会えない日々もあったし、最近は頻繁に会うようになったといっても一週間ぐらい間が空くことは、結構ある。
今日も勇一は見送りに行くと言ってくれたが、時枝が断ったのだ。
今までたかが出張ぐらいで見送りに来てもらったことはない。
変に来られて、感傷的になったりでもしたら、それこそ黒瀬に一生からかわれそうだ。
が…、目の前のバカップルを見ていたら、勇一がここにいても二人の視界には、入らなかったのでは、と少しだけ後悔した。
そろそろ盛り上がる二人を止めに入らねばと一歩踏み出した時、見知らぬ男に声を掛けられた。

「あんた、時枝さん? これ、預かったんだけど」

中年の男に頼まれたと、学生風の男が時枝に二つ折りにしたメモ紙を手渡した。
不審に思い、時枝はメモを直ぐに開いた。

『桐生勇一の専用車に、遠隔操作爆弾を仕掛けた。爆破されたくなかったら、携帯をゴミ箱に捨て、誰にも知られずに北ウィングのビアバーへ行け』

たちの悪い悪戯だと捨て置くこともできたが、ここで手渡されるということは、悪戯にしても時枝がこれから上海に出掛けることを相手も知っているということだ。
何らかの作為があることは間違いない。
しかも文面からして、時枝と勇一の関係を知っている人間だと推測される。
嫌な予感がする。
メモをグシャリと握りつぶし上衣のポケットに押し込むと、まだ盛り上がっているバカップル、黒瀬と潤の所に歩み寄った。

「社長、そろそろ、中に入られた方が。すみません、先に行って頂けますか? 先方から頼まれた土産品が、国内線のフロアにしかないようでして、一旦降りてきますので、搭乗口か機内で落合いましょう」
「はあ、一瞬、愛を引き裂く悪魔に見えたよ。潤、もう行くね。時枝は、遅れないように」

ガシッと更に一度、黒瀬と潤は抱き合った後、黒瀬はセキュリティチェックの列に消えた。

「市ノ瀬さま。分かっていると思いますが、あなた、まだ勤務時間内です。早く社に戻って下さい。まさか、デッキから飛ぶ立つ飛行機を見送ろうなんて、考えてはいないでしょうけど」

図星だったのか、潤の顔が一瞬引き攣った。

「当たり前じゃないですか。いやだな、時枝室長」
「じゃあ、留守を頼みます。行きなさい」

不穏な動きがある以上、潤を巻き込みたくない。
早く自分から離したかった。それは黒瀬にも言える。
罠だろう、と思う。
だが、勇一にもしものことがあったら、と思うと無視はできない。
連絡し、勇一に車に乗らないよう指示するのは簡単だが、多分メモの主は自分の動きを見張っているはずだ。
時枝はメモの書いてある指示通り、携帯を捨て、指定されたビアバーに向った。

 

「当機はあと一人のお客様をお待ちしております、皆さま、少しお待ち下さい」

チェックインを済ませた乗客が、現れないのでトランシーバーを持ったスタッフが搭乗ゲートからセキュリティチェックまで行ったりきたりしている。
機内にアナウンスが入り、乗客は「誰だ、迷惑なヤツ」とざわついている。

「すみません、ご迷惑をお掛けしているのは、私の秘書のようです。もう、定刻を過ぎていますので、どうぞ出発をして下さい。きっとチェックイン後に、酒でも飲んで酔っぱらって時間を忘れているんだと思います」

株式会社クロセ、代表取締役社長、黒瀬武史と書かれた名刺を、黒瀬は乗務員に渡した。

「でも…」
「全責任は私が負います。これ以上遅れては、他のお客様に申し訳がない。どうぞ、離陸して下さい」

黒瀬の説得で、飛行機はようやく動き出した。
時枝らしくない。
土産を買うからという理由自体が時枝らしくないのだ。
あの用意周到な男が、ギリギリになってから慌てて買いに走ることなど、あり得ない。
最初は勇一が空港に来ていて、それを自分に悟られたくなくて先に行かせたのかと黒瀬は思った。
遅れても時枝のことだから、飛行機自体に乗り遅れることは考えられないし、搭乗時刻になれば姿を現すだろうと安易に考えていた。
だが、時枝は搭乗時刻になっても現れなかった。
他の乗客が全て乗り込んだ後も、姿を現さない。
胸騒ぎを覚えたが、ここで大騒ぎして自分が出張を取りやめたりしたら、上海の新規取引先に借りを作ることになる。
クロセの方の取引先だけなら問題はないだろうが、裏の方の相手には、借りや弱みは見せたくない。
例え何かに時枝が巻き込まれたとしても、彼は潤とは違う。
桐生で育ち、自分と一緒に危ない橋も渡って来た男だ。
直ぐに命がどうこうということはないだろう。
黒瀬は時枝を置いて行くことを選択した。

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秘書の嫁入り 犬(10)

自分の我が儘でとった一週間の休みは、激務の倍返しとなって、時枝を襲った。
休日返上、週の半分は会社へ泊まり込んでいる。
仕事、仕事でストレスが溜まりそうなところだが、時枝は元気溌剌としている。
というのも、休暇前と違い、心が殺伐としてないからだろう。
釣った魚に餌をやらないタイプかと思っていた勇一が、本宅で皆に関係を暴露してから、時枝に対し、より甲斐甲斐しく尽くすようになった。
そのいい例が、お夜食だ。
黒瀬も帰り、深夜一人残業をしていると、勇一が夜食持参で現れる。
警備のおじさんとすっかり仲良しで、着流し姿のまま、ヒョコと現れる。

「勝貴、休憩時間だ。今日はリンゴ付きだ」
「いつも、悪いな」

風呂敷に包まれた重箱。
その中には、時折勇一が剥いたであろう、形の悪いウサギのリンゴも入っている。
一体どんな顔で剥いているのかと、想像するだけでも時枝の心が和む。
夜食を持って来た勇一が長居することはない。
時枝が休憩がてら夜食を取り、一服するまでの時間だけ付き合うと、空の重箱を持って去っていく。
仮眠室にはベッドもあるが、時枝を押し倒すことはしない。
時枝が仕事中だということを踏まえている。
ご褒美に、キスを強請るぐらいだ。
もっとも、強請る回数は、勇一よりもむしろ時枝の方が多いのだが。

「かなり、ウサちゃんリンゴ、上達したろ?」
「六十点にはなった。満点まであと四十ってところだ」

まだ、六十かよ、と凹む勇一が愛おしい。

「休日がなくて、済まない。中国の出張から戻ったら、まとめて休暇を取るから、それまでは……」
「分かってるって。勝貴のマンションでも、ここでも、来られるときは俺が顔を出す」
「…勇一…最近俺に優しすぎるぞ……」

勇一とて暇なわけじゃない。
また朝が早い勇一は、もともと、この時間は就寝中のはずだ。
それを自分の為に時間を割いて会いに来てくれることが、時枝には嬉しい。 ジーンと心が温まり、泣きそうになる。

「最近って、心外だな。俺はずっと勝貴には優しいつもりだったんだけど」
「…そうだな…。お前はずっと俺には優しい」
「あ、そうだ。報告してなかったが、理彩子との縁談、無事に破談ってことになったから、安心しろ。俺と勝貴の関係、おじきの耳にも入ったらしく、俺がどうこういう前に向こうから『ホモに大事な娘はやれん』だってさ。子どもの話はもうちょい時間が経って、理彩子が若頭と結婚してからってことになるだろうな~」

勇一の話を聞き、勇一がどうして急に桐生の組員に暴露したのか、時枝は察した。

「…勇一、仕組んだな。だから、早々と、バラしたんだ。噂が親父さんの耳に届くようにと……」
「そういうことだ。早くても遅くても、結果同じなら早い方がいいだろ?」
「意外と、勇一も小賢しいんだ…」
「そりゃ、大事な勝貴ちゃんを二度と泣かせたくないからな。打てる手は迅速にだ」
「…勇一……、俺はもう泣かないから、大丈夫だ。判断も違えないつもりだ」
「分かってるって。さあ、仕事だろ。俺はお暇(いとま)するぜ」
「ああ」

ドアのところまで見送ろうと時枝も立ち上がる。
勇一が秘書課の入口を出たところで、勇一の背中に時枝が抱きついた。

「…勇一、今夜もありがとう」

勇一の後頭部に囁くように礼を言う。
勇一が自分の腰回りに渡る時枝の手をゆっくりと剥がすと、時枝の方を向く。

「どう致しまして…だ。勝貴…」

どちらともなく顔の距離が縮まり、二人の唇が重なる。

「…美味しいな。いつ食っても勝貴の唇も舌も唾液も」
「…バカ…勇一も、うまいぞ」

名残り惜しいのはお互い様だが、勇一がエイっと時枝に背を向け、歩き出す。
振り返らず手を振り、

「仕事頑張れよ」

と一言残し、帰って行った。
釣った魚に餌撒いてどうするんだ? と、嬉しいくせに素直じゃない独り言を、勇一が帰った後、毎回洩らす。
しかし、その顔は、毎度にやついていた。

 

 

「オイオイ…たった、一週間だろ…はあ~」

深い溜息をつきながら、いい加減にしてくれよ、と国際線ターミナルに時枝は立っていた。
黒瀬と二人、一週間の上海出張へ向うため成田空港に時枝は来ているのだが、時枝の前ではバカップル、黒瀬と潤が、人目も気にせず抱き合っている。
今生の別れでもあるまいし、何をそう盛り上がっているのだと、思わずにはいられない。
飛行機で約二時間の距離だ。
新幹線を使って、福岡に行くより時間的には短い距離なのだ。
下っ端の社員はふつうに日帰り出張させられている。

「…大丈夫…だから…。俺、…寂しくても仕事ちゃんとするから……心配しないで。一週間ぐらい…平気だッ…」
「心配ぐらいさせて、潤。本当は潤だって連れて行きたかったんだ…だけど、今回はね、ほら、分かるだろ? あっちの仕事もあるから、潤に、もしものことがあったら大変だし」
「…わかってる。第一、俺、飛行機駄目じゃん…だから、日本で出来ること、俺頑張るから…黒瀬、絶対元気で俺の元に帰ってきて」

心配しなくても、その男は殺しても死にはしません、と時枝が声に出さず呟いた。

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秘書の嫁入り 犬(9)

「失礼します。時枝室長、そろそろ朝のミーティングの時間ですが……えっと…お取り込み中ですか…」

先輩社員に頼まれたのか、潤が時枝を呼びに来た。
黒瀬と潤の関係は知られてないが、秘書課の人間は、潤が黒瀬のお気に入りだとは認識していた。
度々、呼び出しが掛かれば、そう思われても仕方がない。 
だが、これは他の秘書達にしてみても都合がいい話だった。
独特のオーラを放つ、容姿端麗で浮世離れした自分達のトップは、おいそれとは近付けない雰囲気を醸し出していて、側に寄るとなると深呼吸が必要なぐらい緊張を強いられる。
だから、潤がホイホイと呼ばれて嬉しそうに社長室に行くのは大歓迎だし、雑務で社長に用事があれば、言いつかるのは最近では決まって潤だ。

「いえ、もう用事は済みました。あ、新人、こちらへ」

時枝が、潤を呼びつけた。

「出社早々、潤を苛める気?」
「社長! 理由もなく私が新人をイビッたことなど、ありません」
「ふ~ん、理由があれば、イビるんだ」
「言葉のあやでしょ。上司として適切な指導しかしていません。そうですよね?」

時枝が潤を見る。
ここで、違うと言える人間はいないだろう。

「はい、その通りです。社長、私は室長に苛められてもイビられてもいません」

潤が優等生の回答をすると、黒瀬が満足そうに目を細めた。

「やはり、私の潤は人間ができている。人の親切を素直に受け取れない誰かさんとは違うね」
「新入社員の一人に過ぎない者を『私の潤』などと就業時間内に呼ぶのは止めて下さい。この新人でさえ、ちゃんとあなたのことを『社長』と呼んでいるのに。は~、全く」
「少しは人間丸くなったのかと思えば、兄さんと『あ~~~ん』な関係でも時枝の口うるさいのは一つも変わらない。残念だ」
「当たり前でしょ。こんな調子じゃ、まだまだ私もあなたの側を離れるわけには行きませんね」

桐生に入れば、いつまでも秘書として黒瀬の側にいることは無理じゃないかと思う。
しかし、この一般常識が通用しない黒瀬を一人野放しにするのは、恐ろしくて出来ない。

「…あのぅ、時枝室長」
「ああ、新人、申し訳なかった。チャチャを入れる人間がいたもので、まだ話をしてませんでしたね。就業時間内ですがココは黒瀬潤さまにお詫びをさせて頂きます」

時枝が潤の方を向き、そして頭を下げた。

「本当に申し訳ありませんでした。社長の命令とはいえ、あなたに酷いことをしてしまった。そのことについて、私はまだ正式に謝罪していなかった」

潤が驚いたのは言うまでもない。

「あ、あのう…室長? 時枝さん? 俺、何か酷いこと…されました? えっと…」

黒瀬は時枝のいう『酷いこと』に思い当たるのか、意味ありげな笑みを浮かべていた。
その表情は、何かを懐かしんでいるようにも見える。

「イギリスでのことです。社長の暴行の手伝いをしてしまったことです。本当にあの時は申し訳ございませんでした」
「時枝さん、頭を上げて下さいっ!」

潤がどうしていいのか、分からずオロオロしている。

「あの凶行が、あなたの性癖を替えてしまったのかもしれません。あなた達の流血をも厭わない性生活は、きっとアレが原因です」
「時枝さん、どこかで、頭打ったとか…。黒瀬に無理矢理強姦されたのも…いや、あれは強姦じゃなかった…どっちにしても、俺にとっては大事な思い出だし、今更変だよ。時枝さん、何かあった? 黒瀬っ、止めさせてっ!」

潤が 黒瀬に助けを求める。
いつになく潤をみる黒瀬の目が優しい。

「疑似体験みたいなことが、あったんじゃない? それで、恐怖とか痛みとか経験したから、潤に悪い気がしてるんだよ。ね、時枝」

潤にだけ優しい眼差しは、時枝に移った段階で意地の悪いものへと変わる。
時枝が頭を上げ、黒瀬を睨む。

「恐怖はありません」
「あ、そ。じゃあ、痛かったんだ~。で、まだ、痛いんじゃないの。だから座布団用意してやってたのに。潤、知ってる?」

ナニナニ、と潤が体を乗り出す。

「尾川さんところの布団を、時枝、血で染めたんだよ」
「まさか、組長さんが…」
「レイプしたんじゃない?」
「違いますっ! 合意ですっ!」

言ってしまってから、ハッと時枝が口を押さえた。

「ふふふ、時枝を迎えにいった兄さん、余程溜まっていたんだろうね~」
「社長っ!」
「まあ、いいんじゃない? ね、潤」
「本当に気にしないで下さい。それより、室長、早く戻らないと、皆さんお待ちです」

仕事に戻ろうとした潤に、時枝は成長を感じた。

「はい、では、新人、いや、市ノ瀬君、行きましょうか」

えっ、と潤が目を丸くした。
嬉して溜まらないといった表情で、

「はい、時枝室長」

と返事をした。
時枝が潤を秘書として認め始めているのかと、黒瀬も悪い気がしない。
猛獣使いのバトンを渡す日が、案外早く来るのかもしれないと時枝は思った。

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秘書の嫁入り 犬(8)

「組長っ!」
「ドーナツ型クッションの代用だ。これなら、いいだろ?」

時枝が、真っ赤になっている。

「降ろして下さいっ、組長ッ!」
「照れなくてもいいって。さあ、朝飯だ」

勇一一人、平然としている。
時枝と勇一の関係を知っている佐々木さえ、面食らった顔で固まってしまった。
組の若い二人は、目の前の光景をどう処理していいのか分らず、瞬きを忘れ、二人に見入っていた。

「こんな体勢じゃ、食べられないでしょっ。抱っこされて、食事を摂る趣味はありません」

時枝の体は、横向きになっていた。
しかも右腕が勇一の胸の側だ。
手を伸ばしたところで、膳には届かない。

「心配するな。俺が食わせてやるから、口だけ開けてろ」
「組長―ッ! それじゃあ、まるでっ、」

餌を待つ雛鳥でしょう、と時枝は言おうとした。
が、その言葉を繋ぐ前に、

「ラブラブの新婚家庭みたい、だろ?」

勇一がウィンク付きで、言葉を被せた。
時枝の顔が更に赤くなる。
顔だけじゃなく浴衣から覗く胸元まで赤い。

「なっ、なっ、な、んてことッ、…ははは、んもう、組長、朝から冗談が過ぎますよ……ははは、皆さん、驚かれるでしょ…ははは」
「…そうですよ、組長。時枝さんも、困ってらっしゃる…ははは」

佐々木が顔を赤くし、時枝に助け船を出す。

「冗談? 言い方が悪かったらしい。俺たちゃあ、ラブラブだ」

勇一が視線を時枝から佐々木と若い組員に向けた。

「先々、この勝貴が、俺の伴侶となる。そのつもりでいろ」
「……あ~ぁ…、言っちまったよ…俺は知らないからな。きっと今日、組事務所は俺達の噂で持ちきりだ……」

勇一の胸元で、時枝が赤い顔のまま、ブツブツ囁く。
佐々木は、まさか勇一がそこまで覚悟を決めていたとは知らず、感動で目頭が熱くなった。

「お前達、組長の仰有ったことが、理解できたか? いいか、時枝さんは、組長の大事なお方だ。時枝さんは桐生に籍は置いていないが、今後は桐生の姐さんだと思ってお仕えしろ。他の者にもよ~く、言っておけ」

佐々木が溢れそうになる涙を堪え、惚けた顔の二人に言い聞かせた。
二人は、自分達の組長が男と懇(ねんご)ろになっていたとは想像すらしておらず、かなり衝撃を受けていた。
信じがたい事だったが、目の前では自分達の組長が膝に男を乗せ、一つの箸で仲睦まじく食事をしている。
昨夜、裸の勇一と時枝を見た者達は、自分達が目にした信じられない光景が、決して目の錯覚ではなかったことを、数分後、この二人からの話で知ることとなる。
携帯の普及により、組内の噂はあっという間に広がる。
そう、勇一と時枝の関係が組中に広まるのに、正味、一時間も掛からなかった。

 

 

「…社長、一体これはどういうことでしょうか? 聞けば、あなたが私の椅子に置いていったというじゃありませんか」

月曜日、時枝は予定通り会社に出ていた。
休暇明けなので、いつもより早い時間に出社してみれば、椅子の上にドーナツ型の座布団が置かれていた。
部下の篠崎に尋ねたところ、金曜日に社長が『時枝、お尻の調子が悪いらしい』と時枝の椅子の上に置いていったという。
もちろん、社長の冗談だと笑い飛ばした。
社内に『秘書課のクールビューティ、実は痔持ち』などという噂話が広まったらどうしてくれるんだと、座布団を鷲掴みに社長室へ飛び込んだ。

「時枝、早いね。おはよう。気にいってくれたかい」
「…気に入るはずないでしょ。どういうつもりですか。確かに急な休暇でご迷惑をお掛けしたと思います。だからといって、嫌がらせすることもないでしょう? 秘書課や社内に、私が痔だと言いふらすようなものでしょ?」
「裂れ痔じゃないの? 直に椅子に座れるの? 喜んでもらえると思ったのに残念だ。でも時枝、ここには兄さんいないから、抱っこで仕事ってわけにはいかないよ?」

時枝の顎から額にかけて、ドドドドっと、駆け足で赤くなる。

「あ、あ、当たり前でしょッ!」
「汚いなぁ、唾飛んだよ。大声出さなくても聞える。本宅で、凄かったらしいじゃないの、ふふふ、俺の耳にも届いているんだけど。あ~ん、って…あぁあ、想像すると気持ち悪い…食事、全部兄さんに食べさせて貰ったんでしょ? 夜な夜な変な呻き声が聞こえてきて、見廻りの彼等、悶悶として見廻りどころじゃなかったらしいじゃない。開き直った人間って、やること凄いよね~~~」
「食事は、金曜日の朝だけですっ! あの日だけ、ちょっと体調が悪かったものですから。あれはあなたの兄が、勝手にやったことですっ! あとは休暇を楽しんだだけのことですっ! 組長は誰かさんと違ってまともですから、私の傷は塞がってますし、この座布団も必要ありませんっ。会社にプライべートを持ち込んで、私をからかうのは止めて下さい」

時枝が座布団を黒瀬に投げつけた。

「素直に喜べばいいのに~。人の好意を素直に受け取れない人間のどこがいいのか、全く兄さんの趣味はわからない」

それをあなたが言いますか、と時枝が黒瀬を睨み付けた。

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