秘書の嫁入り 犬(8)

「組長っ!」
「ドーナツ型クッションの代用だ。これなら、いいだろ?」

時枝が、真っ赤になっている。

「降ろして下さいっ、組長ッ!」
「照れなくてもいいって。さあ、朝飯だ」

勇一一人、平然としている。
時枝と勇一の関係を知っている佐々木さえ、面食らった顔で固まってしまった。
組の若い二人は、目の前の光景をどう処理していいのか分らず、瞬きを忘れ、二人に見入っていた。

「こんな体勢じゃ、食べられないでしょっ。抱っこされて、食事を摂る趣味はありません」

時枝の体は、横向きになっていた。
しかも右腕が勇一の胸の側だ。
手を伸ばしたところで、膳には届かない。

「心配するな。俺が食わせてやるから、口だけ開けてろ」
「組長―ッ! それじゃあ、まるでっ、」

餌を待つ雛鳥でしょう、と時枝は言おうとした。
が、その言葉を繋ぐ前に、

「ラブラブの新婚家庭みたい、だろ?」

勇一がウィンク付きで、言葉を被せた。
時枝の顔が更に赤くなる。
顔だけじゃなく浴衣から覗く胸元まで赤い。

「なっ、なっ、な、んてことッ、…ははは、んもう、組長、朝から冗談が過ぎますよ……ははは、皆さん、驚かれるでしょ…ははは」
「…そうですよ、組長。時枝さんも、困ってらっしゃる…ははは」

佐々木が顔を赤くし、時枝に助け船を出す。

「冗談? 言い方が悪かったらしい。俺たちゃあ、ラブラブだ」

勇一が視線を時枝から佐々木と若い組員に向けた。

「先々、この勝貴が、俺の伴侶となる。そのつもりでいろ」
「……あ~ぁ…、言っちまったよ…俺は知らないからな。きっと今日、組事務所は俺達の噂で持ちきりだ……」

勇一の胸元で、時枝が赤い顔のまま、ブツブツ囁く。
佐々木は、まさか勇一がそこまで覚悟を決めていたとは知らず、感動で目頭が熱くなった。

「お前達、組長の仰有ったことが、理解できたか? いいか、時枝さんは、組長の大事なお方だ。時枝さんは桐生に籍は置いていないが、今後は桐生の姐さんだと思ってお仕えしろ。他の者にもよ~く、言っておけ」

佐々木が溢れそうになる涙を堪え、惚けた顔の二人に言い聞かせた。
二人は、自分達の組長が男と懇(ねんご)ろになっていたとは想像すらしておらず、かなり衝撃を受けていた。
信じがたい事だったが、目の前では自分達の組長が膝に男を乗せ、一つの箸で仲睦まじく食事をしている。
昨夜、裸の勇一と時枝を見た者達は、自分達が目にした信じられない光景が、決して目の錯覚ではなかったことを、数分後、この二人からの話で知ることとなる。
携帯の普及により、組内の噂はあっという間に広がる。
そう、勇一と時枝の関係が組中に広まるのに、正味、一時間も掛からなかった。

 

 

「…社長、一体これはどういうことでしょうか? 聞けば、あなたが私の椅子に置いていったというじゃありませんか」

月曜日、時枝は予定通り会社に出ていた。
休暇明けなので、いつもより早い時間に出社してみれば、椅子の上にドーナツ型の座布団が置かれていた。
部下の篠崎に尋ねたところ、金曜日に社長が『時枝、お尻の調子が悪いらしい』と時枝の椅子の上に置いていったという。
もちろん、社長の冗談だと笑い飛ばした。
社内に『秘書課のクールビューティ、実は痔持ち』などという噂話が広まったらどうしてくれるんだと、座布団を鷲掴みに社長室へ飛び込んだ。

「時枝、早いね。おはよう。気にいってくれたかい」
「…気に入るはずないでしょ。どういうつもりですか。確かに急な休暇でご迷惑をお掛けしたと思います。だからといって、嫌がらせすることもないでしょう? 秘書課や社内に、私が痔だと言いふらすようなものでしょ?」
「裂れ痔じゃないの? 直に椅子に座れるの? 喜んでもらえると思ったのに残念だ。でも時枝、ここには兄さんいないから、抱っこで仕事ってわけにはいかないよ?」

時枝の顎から額にかけて、ドドドドっと、駆け足で赤くなる。

「あ、あ、当たり前でしょッ!」
「汚いなぁ、唾飛んだよ。大声出さなくても聞える。本宅で、凄かったらしいじゃないの、ふふふ、俺の耳にも届いているんだけど。あ~ん、って…あぁあ、想像すると気持ち悪い…食事、全部兄さんに食べさせて貰ったんでしょ? 夜な夜な変な呻き声が聞こえてきて、見廻りの彼等、悶悶として見廻りどころじゃなかったらしいじゃない。開き直った人間って、やること凄いよね~~~」
「食事は、金曜日の朝だけですっ! あの日だけ、ちょっと体調が悪かったものですから。あれはあなたの兄が、勝手にやったことですっ! あとは休暇を楽しんだだけのことですっ! 組長は誰かさんと違ってまともですから、私の傷は塞がってますし、この座布団も必要ありませんっ。会社にプライべートを持ち込んで、私をからかうのは止めて下さい」

時枝が座布団を黒瀬に投げつけた。

「素直に喜べばいいのに~。人の好意を素直に受け取れない人間のどこがいいのか、全く兄さんの趣味はわからない」

それをあなたが言いますか、と時枝が黒瀬を睨み付けた。