秘書の嫁入り 犬(10)

自分の我が儘でとった一週間の休みは、激務の倍返しとなって、時枝を襲った。
休日返上、週の半分は会社へ泊まり込んでいる。
仕事、仕事でストレスが溜まりそうなところだが、時枝は元気溌剌としている。
というのも、休暇前と違い、心が殺伐としてないからだろう。
釣った魚に餌をやらないタイプかと思っていた勇一が、本宅で皆に関係を暴露してから、時枝に対し、より甲斐甲斐しく尽くすようになった。
そのいい例が、お夜食だ。
黒瀬も帰り、深夜一人残業をしていると、勇一が夜食持参で現れる。
警備のおじさんとすっかり仲良しで、着流し姿のまま、ヒョコと現れる。

「勝貴、休憩時間だ。今日はリンゴ付きだ」
「いつも、悪いな」

風呂敷に包まれた重箱。
その中には、時折勇一が剥いたであろう、形の悪いウサギのリンゴも入っている。
一体どんな顔で剥いているのかと、想像するだけでも時枝の心が和む。
夜食を持って来た勇一が長居することはない。
時枝が休憩がてら夜食を取り、一服するまでの時間だけ付き合うと、空の重箱を持って去っていく。
仮眠室にはベッドもあるが、時枝を押し倒すことはしない。
時枝が仕事中だということを踏まえている。
ご褒美に、キスを強請るぐらいだ。
もっとも、強請る回数は、勇一よりもむしろ時枝の方が多いのだが。

「かなり、ウサちゃんリンゴ、上達したろ?」
「六十点にはなった。満点まであと四十ってところだ」

まだ、六十かよ、と凹む勇一が愛おしい。

「休日がなくて、済まない。中国の出張から戻ったら、まとめて休暇を取るから、それまでは……」
「分かってるって。勝貴のマンションでも、ここでも、来られるときは俺が顔を出す」
「…勇一…最近俺に優しすぎるぞ……」

勇一とて暇なわけじゃない。
また朝が早い勇一は、もともと、この時間は就寝中のはずだ。
それを自分の為に時間を割いて会いに来てくれることが、時枝には嬉しい。 ジーンと心が温まり、泣きそうになる。

「最近って、心外だな。俺はずっと勝貴には優しいつもりだったんだけど」
「…そうだな…。お前はずっと俺には優しい」
「あ、そうだ。報告してなかったが、理彩子との縁談、無事に破談ってことになったから、安心しろ。俺と勝貴の関係、おじきの耳にも入ったらしく、俺がどうこういう前に向こうから『ホモに大事な娘はやれん』だってさ。子どもの話はもうちょい時間が経って、理彩子が若頭と結婚してからってことになるだろうな~」

勇一の話を聞き、勇一がどうして急に桐生の組員に暴露したのか、時枝は察した。

「…勇一、仕組んだな。だから、早々と、バラしたんだ。噂が親父さんの耳に届くようにと……」
「そういうことだ。早くても遅くても、結果同じなら早い方がいいだろ?」
「意外と、勇一も小賢しいんだ…」
「そりゃ、大事な勝貴ちゃんを二度と泣かせたくないからな。打てる手は迅速にだ」
「…勇一……、俺はもう泣かないから、大丈夫だ。判断も違えないつもりだ」
「分かってるって。さあ、仕事だろ。俺はお暇(いとま)するぜ」
「ああ」

ドアのところまで見送ろうと時枝も立ち上がる。
勇一が秘書課の入口を出たところで、勇一の背中に時枝が抱きついた。

「…勇一、今夜もありがとう」

勇一の後頭部に囁くように礼を言う。
勇一が自分の腰回りに渡る時枝の手をゆっくりと剥がすと、時枝の方を向く。

「どう致しまして…だ。勝貴…」

どちらともなく顔の距離が縮まり、二人の唇が重なる。

「…美味しいな。いつ食っても勝貴の唇も舌も唾液も」
「…バカ…勇一も、うまいぞ」

名残り惜しいのはお互い様だが、勇一がエイっと時枝に背を向け、歩き出す。
振り返らず手を振り、

「仕事頑張れよ」

と一言残し、帰って行った。
釣った魚に餌撒いてどうするんだ? と、嬉しいくせに素直じゃない独り言を、勇一が帰った後、毎回洩らす。
しかし、その顔は、毎度にやついていた。

 

 

「オイオイ…たった、一週間だろ…はあ~」

深い溜息をつきながら、いい加減にしてくれよ、と国際線ターミナルに時枝は立っていた。
黒瀬と二人、一週間の上海出張へ向うため成田空港に時枝は来ているのだが、時枝の前ではバカップル、黒瀬と潤が、人目も気にせず抱き合っている。
今生の別れでもあるまいし、何をそう盛り上がっているのだと、思わずにはいられない。
飛行機で約二時間の距離だ。
新幹線を使って、福岡に行くより時間的には短い距離なのだ。
下っ端の社員はふつうに日帰り出張させられている。

「…大丈夫…だから…。俺、…寂しくても仕事ちゃんとするから……心配しないで。一週間ぐらい…平気だッ…」
「心配ぐらいさせて、潤。本当は潤だって連れて行きたかったんだ…だけど、今回はね、ほら、分かるだろ? あっちの仕事もあるから、潤に、もしものことがあったら大変だし」
「…わかってる。第一、俺、飛行機駄目じゃん…だから、日本で出来ること、俺頑張るから…黒瀬、絶対元気で俺の元に帰ってきて」

心配しなくても、その男は殺しても死にはしません、と時枝が声に出さず呟いた。