秘書の嫁入り 犬(11)

時枝だって全く寂しさがないわけじゃないが、国内にいても数ヶ月会えない日々もあったし、最近は頻繁に会うようになったといっても一週間ぐらい間が空くことは、結構ある。
今日も勇一は見送りに行くと言ってくれたが、時枝が断ったのだ。
今までたかが出張ぐらいで見送りに来てもらったことはない。
変に来られて、感傷的になったりでもしたら、それこそ黒瀬に一生からかわれそうだ。
が…、目の前のバカップルを見ていたら、勇一がここにいても二人の視界には、入らなかったのでは、と少しだけ後悔した。
そろそろ盛り上がる二人を止めに入らねばと一歩踏み出した時、見知らぬ男に声を掛けられた。

「あんた、時枝さん? これ、預かったんだけど」

中年の男に頼まれたと、学生風の男が時枝に二つ折りにしたメモ紙を手渡した。
不審に思い、時枝はメモを直ぐに開いた。

『桐生勇一の専用車に、遠隔操作爆弾を仕掛けた。爆破されたくなかったら、携帯をゴミ箱に捨て、誰にも知られずに北ウィングのビアバーへ行け』

たちの悪い悪戯だと捨て置くこともできたが、ここで手渡されるということは、悪戯にしても時枝がこれから上海に出掛けることを相手も知っているということだ。
何らかの作為があることは間違いない。
しかも文面からして、時枝と勇一の関係を知っている人間だと推測される。
嫌な予感がする。
メモをグシャリと握りつぶし上衣のポケットに押し込むと、まだ盛り上がっているバカップル、黒瀬と潤の所に歩み寄った。

「社長、そろそろ、中に入られた方が。すみません、先に行って頂けますか? 先方から頼まれた土産品が、国内線のフロアにしかないようでして、一旦降りてきますので、搭乗口か機内で落合いましょう」
「はあ、一瞬、愛を引き裂く悪魔に見えたよ。潤、もう行くね。時枝は、遅れないように」

ガシッと更に一度、黒瀬と潤は抱き合った後、黒瀬はセキュリティチェックの列に消えた。

「市ノ瀬さま。分かっていると思いますが、あなた、まだ勤務時間内です。早く社に戻って下さい。まさか、デッキから飛ぶ立つ飛行機を見送ろうなんて、考えてはいないでしょうけど」

図星だったのか、潤の顔が一瞬引き攣った。

「当たり前じゃないですか。いやだな、時枝室長」
「じゃあ、留守を頼みます。行きなさい」

不穏な動きがある以上、潤を巻き込みたくない。
早く自分から離したかった。それは黒瀬にも言える。
罠だろう、と思う。
だが、勇一にもしものことがあったら、と思うと無視はできない。
連絡し、勇一に車に乗らないよう指示するのは簡単だが、多分メモの主は自分の動きを見張っているはずだ。
時枝はメモの書いてある指示通り、携帯を捨て、指定されたビアバーに向った。

 

「当機はあと一人のお客様をお待ちしております、皆さま、少しお待ち下さい」

チェックインを済ませた乗客が、現れないのでトランシーバーを持ったスタッフが搭乗ゲートからセキュリティチェックまで行ったりきたりしている。
機内にアナウンスが入り、乗客は「誰だ、迷惑なヤツ」とざわついている。

「すみません、ご迷惑をお掛けしているのは、私の秘書のようです。もう、定刻を過ぎていますので、どうぞ出発をして下さい。きっとチェックイン後に、酒でも飲んで酔っぱらって時間を忘れているんだと思います」

株式会社クロセ、代表取締役社長、黒瀬武史と書かれた名刺を、黒瀬は乗務員に渡した。

「でも…」
「全責任は私が負います。これ以上遅れては、他のお客様に申し訳がない。どうぞ、離陸して下さい」

黒瀬の説得で、飛行機はようやく動き出した。
時枝らしくない。
土産を買うからという理由自体が時枝らしくないのだ。
あの用意周到な男が、ギリギリになってから慌てて買いに走ることなど、あり得ない。
最初は勇一が空港に来ていて、それを自分に悟られたくなくて先に行かせたのかと黒瀬は思った。
遅れても時枝のことだから、飛行機自体に乗り遅れることは考えられないし、搭乗時刻になれば姿を現すだろうと安易に考えていた。
だが、時枝は搭乗時刻になっても現れなかった。
他の乗客が全て乗り込んだ後も、姿を現さない。
胸騒ぎを覚えたが、ここで大騒ぎして自分が出張を取りやめたりしたら、上海の新規取引先に借りを作ることになる。
クロセの方の取引先だけなら問題はないだろうが、裏の方の相手には、借りや弱みは見せたくない。
例え何かに時枝が巻き込まれたとしても、彼は潤とは違う。
桐生で育ち、自分と一緒に危ない橋も渡って来た男だ。
直ぐに命がどうこうということはないだろう。
黒瀬は時枝を置いて行くことを選択した。