秘書の嫁入り 犬(37)/終

「あの写真、兄さんいい顔してたよね。時枝もだけど…。どうせなら、写真じゃなくて、生で鑑賞したいかも」
「初めてじゃないの? 時枝さんが攻めるのって?」
「あれ、言わなかった? 素敵な写真があるんだよ。どうしても私に見せたかったみたいで、二人がいつもの逆で楽しんでいる最中の写真がね。写真撮って私に送り付けてくるなんて、時枝も兄さんも変態だよね」
「社長っ!」

それは違うでしょ。
あなたが、要求したことでしょう。
と、言えなくて時枝が黒瀬を睨んだ。
潤を傷付けた代償として、させられたことは内緒なのだ。
時枝が大きな声を出すものだから、子犬のユウイチが驚いて鳴き始めた。
ブルッとした時枝の手を尽かさず潤が手を重ねる。

「潤ったら、また浮気してる」
「俺と時枝さんなんて、絶対ない。だって、この人俺相手に勃たないもん」
「そんなこと、わかんないだろ? 潤は可愛いんだから」
「イギリスでも押さえつけてただけで、勃たなかったし、福岡でも…あっ」

時枝の甲の上の潤の手が、自分の口元へ移動した。
ヤバッ、と慌てて口を覆った所で、黒瀬の目も耳も見逃すはずがなかった。

「福岡? 潤、どういうこと? 時枝と何かあったの?」
「あ…いや…、大した事は…ないと…思うぞ。ねぇ、時枝さんっ!」
「ええ、勇一が潤さまにしたことと比べれば…アレはただの人助けでしたまでのこと」

時枝の横に座っていた黒瀬が立ち上がり、子犬の入ったゲージを抱え戻って来た。

「隠してたってことは、やましいことがあるんじゃないの? 時枝、どういうことか話してもらおうか」

ゲージをこともあろうか、時枝の膝の上に置いた。

「ヒィイイッ! 社長ッ、」
「黒瀬っ!」

潤が慌ててゲージを抱え上げた。

「もう、ホント、大したことないんだって。むしろ助けてもらったの。後でそのことは俺がゆっくり説明するから…気に入らないなら、その時、俺にお仕置きすればいいだろ?」

含みを持った言い方で、上目使いで潤が黒瀬に言う。
それを理由に、今夜は激しくやろうね、と誘っているのだ。
潤もかなり黒瀬の扱いが上手くなってきた。

「ふふふ、そう。後で潤が、説明してくれるの。楽しみにしておこう。じゃあ、本題に戻して、兄さんの中っていいの? あの兄さんもよがるの? 写真じゃ声までは分からなかったから…」
「あ、いいこと思いついたっ!」

急に潤が大声を上げた。
またユウイチが驚き、キャンキャン吠える。

「シッ! ユウイチ。潤の邪魔しない」

途端鳴き止む。
さすが黒瀬である。

「ほら、俺達のマンションに組長さん呼んで、あの時の逆って言うのはどう? 内線をオンにして」
「…潤さま? あの、あの時と言うのは、もしかして……」
「訊くまでもないだろう? 私の秘書はソコまで鈍いの? もちろん、時枝が兄さんと結ばれた記念すべき第一夜の時だよ、ね、潤」

答えたのは潤ではなく黒瀬だった。

「うん、それでね、組長さんが時枝さんを拒むようなことがあれば、俺と黒瀬で乗り込むの。拒まず『ザ・合体』ってなったら……」

勢いがあった潤の言葉が先細り、頬がほんのり赤くなる。

「なったら、そりゃ、私達を楽しませてもらわなければね。なれない組の仕事は押し付けられ、迷惑極まりないんだから、お楽しみはちゃんと頂かないとね。ふふ、さすが私の潤。素敵なアイディアだ」
「な、何を…勝手な…」
「勝手? 勝手なのは時枝と兄さんだろ? 勝手に空港からいなくなって中国出張をすっぽかすは、勝手に組の仕事放り出すは…時枝、上司の俺に報告無しに、第三者の指示に従ったアホは誰? これだけ俺と一緒に色々やってきて、簡単な罠に引っ掛かったくせに」

今まで誰も時枝を責めなかった。
勇一にいたっては、お前は悪くないの一点張りだ。
やはり、ここに戻ってきて正解だったかもしれない。
全くこの男は、イヤになるぐらい気遣いも遠慮もない、と自分をアホ呼ばわりする上司が今は有り難い。

「兄さんは、組長失格の腑抜けぶり発揮だし、父親と同じ仕事するの嫌だって知ってて、組の仕事するように仕向けるのって虐め? しかも、出来の悪い組員ばかりで…片っ端から殺したくなるのを、どれだけの忍耐で抑えているか…つくづくうちの社員の優秀さが身に染みたよ」

そうだった。
この男は桐生を憎んでいる。
黒瀬を苦しめた父親と同じ仕事を引き受けるはずがないのだ。
今回この男に負担を掛けてしまったことは事実だ。

「…分かりました。確かに勝手をしました。秘書失格です。勇一のことはお任せしますから、いいように取りはからって下さい。…私が…勇一を……ですか…」

はあ、どうなることやらと深い溜息が洩れる。

「じゃあ兄さんの前に、こっちの『ユウイチ』の世話、よろしくね。仕事の件は後でメールしておくよ」

潤、行こう、と黒瀬が潤を誘い、『ユウイチ』を残して一つ上の自分達の部屋へ戻っていった。

秘書の嫁入り ~犬~  了

★秘書の嫁入り ~夢~ へ続く

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秘書の嫁入り 犬(36)

「…そんな…ことって…。信じられない」

潤の目が潤む。

「絶対、組長さん、愛してる。愛情がなくなるなんてことない。だって、時枝さんと組長さんは、そんな簡単な絆じゃないじゃないか」
「だからかもしれません。絆が深い分、彼のショックも大きかったのでしょう」
「何、大袈裟に考えているの? よくあることじゃない。男は普通、繊細だからね。出産に立ち合ったら、その後、妻を女と見れない、妻以外の人なら勃つけど、妻とは他の女を想像しないと出来なくなったっていう男性は、意外と多いよ」

繊細とも出産とも無縁の男が、口を挟む。

「黒瀬も…もし、俺が女で、出産に立ち合って欲しいって希望したら、そんな風になる?」
「ならない。私は潤がそこからゴジラでも蛇でも恐竜でも妖怪でも宇宙人でも産み落としても大丈夫。私は潤に感じるエロスは潤に何があっても失われることはない…この愛情は普通の人間の愛情とは深さも幅も違うし」

はあ、と時枝が溜息を付いた。

「…勇一は、普通の感覚を持ち、普通に傷付くんです…社長とは違います…繊細なんです」
「分かってるじゃない、時枝。だから、深刻に考えず、兄さんの下半身の情けなさを、嗤(わら)ってやればいいのに」
「黒瀬、それは男として、余計傷付くと思うぞ?」
「楽しいじゃない。ヤクザの組長が、どこまで傷付くか見てみたい。あの人が、潤にしたこともあるし…これって、きっと罰かも…」

時枝と潤が顔を見合わせた。

『まだ、根に持っていたんだ…』

黒瀬の執念深さを改めて思い知った二人だった。

「黒瀬…そのことはもう。でも、組長さん、俺と黒瀬の為には鬼にでも悪魔でもなれるというのに、時枝さんの事となると…」

『…鬼、悪魔って…結局この二人は…?』
時枝は、二人にはないと思っていた共通点を見た気がした。
潤と黒瀬は違いすぎるから惹かれ合ったと思っていた。 
自分の人を見る目がまだまだ甘いと、この時感じた。

『似たもの同士って事か…』

「ふふふ、潤、兄さんの弱点は時枝だね。なのに、愛がないみたいな捉え方されている兄さんって、結構可哀想かも」
「社長っ! 私は別に勇一に愛がないとは申していませんがっ!」
「だけど自分を欲しがってくれない勇一は同情しかない…ああ、俺はもう愛されてない…勇一のバカバカバカ…って、感じだろ?」
「・・・」

その通りだった。
結局自分は、勇一を責めているのだ。
勇一の為に、罠と知りつつ男の言いなりになって、あんな酷い目に遭ったと言うのに…と。
時枝は反論出来なかった。

「ふふ、兄さん同様、時枝もこと兄さんの事になると、物事の判断がちゃんと出来ないよね。時枝、一つ忘れていることがあるよ」
「…何ですか?」
「時枝は勃つの?」
「…なっ、社長っ! なんてこと訊くんですかっ!」

自分のことを振られると弱い。
勇一のことを最初にふられ時より、時枝は赤面だ。

「勃つなら問題ないじゃない。繋がりたいなら、別に兄さんが駄目なら、時枝が兄さんに挿れればいいだけのこと」
「なっ、」
「黒瀬、凄いっ! 天才だっ! 頭良いっ!」
「ふふ、潤に褒められると、何よりも嬉しいね」
「そうか、そうだよね。時枝さんが情けない組長さんを組み伏せればいいんじゃない? ふふふ、楽しそう~」
「ふふふって、市ノ瀬さまっ、社長みたいな笑い浮かべないで下さいっ!」

時枝が照れているのか、途惑っているのか、それとも、自分の一大事を笑いのネタにされていると怒っているのか…とにかく潤がプライベートでは市ノ瀬の姓を名乗っていないことをすっかり忘れ、抗議した。

「黒瀬です! 俺、黒瀬潤ですから。時枝さんも情けない組長さんを捨てる気ないなら、さっさと桐生の人間になれば、いいんだよ」

と潤が口を尖らせる。

「どうなの、時枝。誤魔化しても駄目だよ。勃つの、勃たないの、どっち?」
「……それは、その…勇一とは逆なんです…彼にだけ、身体が反応するようで…でも、触れられると身体が萎縮して」
「ソコも?」
「いえ、ソコは…問題なくて…元々私のは…人様より…」
「何、それ、自慢? だったら問題ないじゃない。兄さんがこれで拒めば、その時は愛情を疑えば良いんだよ。ふふふ、過去に経験しているじゃない。兄さんの中って良いの?」

経験が無いわけではないのだ。
過去に一度、黒瀬の怒りを買い、勇一を時枝が掘る写真を撮らされたことがあった。

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秘書の嫁入り 犬(35)

「…どうして、ユウイチっていう名前を」
「時枝さんが好きそうな名前を考えてたらそれしか思い浮かばなかったんです。叱るにしても、楽しいかなって」
「叱る?」
「そうだよ。時枝が今日から飼うんだから」

黒瀬も時枝の横に座る。
潤と二人で時枝を挟む形になる。

「私が…ですか?」
「私も潤も仕事あるし…一番暇なの時枝だろ? 第一、これ、私と潤からのお見舞いだから。大事に育ててね。縫いぐるみより、本物の方がやはり可愛いし」
「…私に世話が出来ると?」
「子犬一匹の世話が出来ないなんて、言わないよね? 言ってもさせるけど。時枝好みのユウイチに育てれば? 添い寝しても可愛いと思うけど? バター犬になったりしてね」
「…社長…、あなたって、とことん、そういう人ですよね……さすがです」

犬に犯された自分に向って、犬と寝ろとは、勇一だったら絶対に言わない。

「時枝さん、人間だってひどい人いるし、俺だって酷い目にあったけど、だからって人間全員が悪人じゃないだろ? 犬だってそうだよ。…ごめん…多分次元が違うこと言っているんだと思うけど……」
「いえいえ、乗り越えなければならない出来事だと私も思っております。だから、ここに戻ってきたのです」
「ふ~~ん、じゃあ、乗り越えてもらおう。それで、相談って何?」

電話で時枝は相談したいことがあると言っていた。

「俺、席外した方がいい?」

潤が気を利かせた。

「いえ、構いません。そろそろ、出来る範囲で仕事をしたいのです。例えば、裏のやり取りはマンションの事務所から出来ますし…、そっちの仕事だけでもいいので、少しずつ復帰したいと思いまして」
「な~んだ、仕事の話か。てっきり兄さんの根性のない下半身の話かと思った」
「はい? 社長…?」
「黒瀬、どういうこと?」

ふふふ、と黒瀬が笑みを洩らす。

「昨日、潤が兄さんに、どうして抱いてやらないって、迫ってたけど…」
「バカッ、時枝さんの前でばらすなよ…」

潤の頬が赤く染まる。

「今日、時枝が本宅を出た。しかも、兄さんのさっきの態度。俺から女々しいと言われた時の顔。久しぶりに楽しめるものを見ましたよ。昨日今日の、兄さんの態度と時枝の行動を足して三ぐらいで割ると、答えが出るんだよ、潤。分かる?」
「全然分からない。三で割ることの意味さえ分からない」

潤の頬から朱が引いていき、代わりに時枝の顔が段々と赤くなる。

「潤、三は適当に言っただけだから。別に四でも五でもいいんだけどね」
「ますます分からない!」
「つまり、そこから読み取れる答えは一つ。兄さんの下半身は、お辞儀しているんだよ。時枝にね」
「・・・お辞儀?」
「社長ッ!」

潤はまだ意味が分からなかった。
時枝のさっきまでの恐怖が、今度は羞恥に取って代わったようだ。

「ふふ、分からない潤が素敵。ハッキリ言ってあげよう、兄さんはね…」
「社長――ッ!」

黒瀬の言葉に時枝の大きな声が重なった。

「なに、時枝。自宅に戻った途端、えらく元気じゃない? 勇一~~~って、姿が見えないだけで泣きそうな顔をしていた人間とは思えない」
「あなたが、馬鹿なことを言おうとするからでしょっ!」
「馬鹿なことじゃないだろ? ああ、昨日の潤の啖呵を時枝にも見せてあげたかった。兄さん相手にどれだけ勇敢で、格好良かったか。惚れ直したよ。『あんたが弱くしてるんじゃないのか? 同情だけで側にいて、あんた、何もしてないじゃないかっ! あんな表情させるあんたはな、最低だっ!』と、ほんの一部抜粋。兄さん、言われっぱなしで。でも、反論できなかったんだよね、兄さん。なぜなら…」

続きの言葉を遮るように、時枝が黒瀬の口元に掌を近付けた。

「私が言いましょう。勇一は、私にはもう、欲情しないんですよ。愛情がないとは思いませんが、種類が違う。可哀想にという気持ちが強いのか、私に起ったことを消化できないのか、それとも無数の男や人間外のモノにいたぶられた私が穢らわしいのか……実際、拒否を最初にしたのは私の方なのですが。私限定で、萎えるようです」

何かを諦めた人間の表情で、時枝が寂しく語った。

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沢山のオーエンありがとう! バター犬ってなんだ? オッサン知ってるかな??? 次が気になる人はオーエンよろしく、な。by ダイダイ

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秘書の嫁入り 犬(34)

「人形を…、組長さんが渡さなかったようなので……、それに代わるものを……、だけど、本当に可愛くて……」
「何となく想像はつきます。もしかして、昨日、本宅からの帰りに購入したんじゃないですか? 勇一に会った後で」
「やはり、時枝さんだ。黒瀬の行動パターンをよくご理解してますね。少し妬けます」
「可愛いことを。少々付き合いが長いってだけのこと。繋がりの深さには負けますから、ご安心を」

時枝の言葉に、潤の顔が赤らむ。

「社長がそれをココに運んでくるつもりなら、申し訳ないですが、タオルを一本用意して下さい。もし、私がショックで痙攣をおこしかけたら、口に咥えさせて下さい」
「…わかりました。…時枝さん、覚悟して戻って来たんですね。そうだと思ってました」

それぐらいのことは黒瀬ならするだろうと時枝は思っていた。
静寂もあとしばらくか、と時枝は潤の煎れてくれたお茶を味わう。
黒瀬の部屋から直通のエレベータが開く音がし、キャンキャンと子犬特有の甲高い鳴き声が聞こえてきた。

「…時枝さんっ!」

湯飲みを持った手がブルブルと震えだした。
その時枝の震える手に潤が上から自分の手を重ねた。

「可愛いんです。大丈夫です。ゲージに入ってますから」

潤が何気なく口にしたゲージという言葉に、時枝の身体の震えは酷くなる。
あの時、ゲージに入っていたの時枝の方だった。
檻の中で何が起ったのか、頭の中でフィルムが流れるように映像が浮かぶ。

「潤、浮気中? 旦那の前で大胆な子だ」
「黒瀬、分ってて冗談言うなよ~」

横五十センチ位の、小さな取っ手付きゲージを抱えた黒瀬が入って来た。中の小動物が相変わらずキャンキャン吠えている。

「本気だけど? 手なんか握り合っちゃって、しかも時枝、目が恍惚状態じゃない?」

焦点定まらぬ時枝は、ヒィー、ヒィーっと、息を吸い込んでいる。

「時枝さん、呼吸、普通にしてっ! 大丈夫だから。あれはトイプードルで、名前はユウイチって言うの。なんなら、組長さんでも、アホでも、バカでも、根性無しでもいいから。危害は加えない。ちゃんと、呼吸して。それじゃあ、ひきつけ前に、過呼吸だよっ! 黒瀬、ビニール袋、一枚っ!」
「やれやれ、最近潤の方が強くて、私はすっかり尻に敷かれてるね。ふふ…それも悪くない…潤が女王さまで、私が僕(しもべ)。よし、今夜はそれでいこう」
「ああもう、黒瀬、早くっ! 時枝さん、吸ったら、吐いて。そうそう、吸ったら、吐く」

一旦ゲージを置くと、黒瀬が時枝のキッチンへビニール袋を取りにいく。

「うちの潤は、産婆さんにもなれそうだ。ふふふ」

潤が親身になって時枝の世話をする姿が、黒瀬には可愛くてしょうがない。
ついつい、からかってしまう。
時枝が大変な状態だが、予想以上に潤の献身的な可愛い態度を見られて、ジェラシーを感じつつも、時枝を本宅から連れ出した甲斐があったと黒瀬の目元が緩む。
何があろうと、黒瀬は潤中心なのだ。
黒瀬が潤にビニール袋を手渡してやると、潤がそれを膨らませ、時枝の口に持っていく。

「時枝さん、この中で呼吸して…そう、ゆっくり…そう、そう…」

時枝の呼吸が治まってくると、潤が時枝の背中をさすり、ゆっくりと袋を外した。

「呼吸、出来ますか?」
「……だい、じょうぶ…です」
「温くなってしまいましたが、お茶です。飲んで下さい」

呼吸は落ち着いたものの、子犬が鳴いているので、時枝の身体から震えは消えない。

「ユウイチ、静かにしなさい。良い子にしないと、丸焼きにするよ?」

黒瀬が子犬に命じた。
黒瀬の目が怖いのか、ク~~~ンと小さく鳴いたあと、子犬は静かになった。

「黒瀬、丸焼きはないだろ? 可哀想だよ」
「でも、ユウイチ大人しくなったよ」

鳴き声が止むと、時枝も少しは平静でいられるようだ。 
目を向けなければ、視界に入ってくることもない。

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秘書の嫁入り 犬(33)

『…俺より、武史か』

小声で、勇一が呟いた。
時枝は気付かなかったようだが、黒瀬の耳は拾っていた。

「しょうがないでしょ。表面だけの男より、俺の方が数倍魅力的だということですよ」
「何を言ってるんですか?」

勇一の言葉を聞いていない時枝には、自分の発言に対しての返事だと思っている。
来るのが早いというのと、黒瀬が魅力的だという繋がりが見出せない。

「何でもないよ。車椅子は持って行く?」
「必要ありません」
「じゃあ、兄さん。ご機嫌よう」
「ちょっと、待てっ!」

時枝が立ち上がろうとしたので、慌てて勇一が止めた。

「まだ、食事の途中だろうがっ!」
「だから?」

それがどうしたと、不遜な態度を黒瀬が勇一に向ける。

「勝貴だって、着替えが必要だろ? そのまま、行くつもりか?」
「…勇一、俺は社に出る訳じゃないんだぞ? 自分の家に帰るだけだ。このままで良いだろう。どうせ、車での移動だ。有り難いことに俺のマンションは、一般の住人とは別に専用エレベーターもある。服なんかどうでもいい。戻れば、幾らでもある」
「勝貴っ!」
「ご馳走さまでした。そして、ありがとう、勇一。じゃあ、行くから」

社長、行きましょうと、時枝が黒瀬の腕を掴む。
黒瀬には潤がいるし、黒瀬は潤を馬鹿が付くほど惚れていると知っていても、勇一は、二人の連れ添う姿が面白くなかった。

「勝貴ーっ、行くなっ!」

離れを出て本宅の廊下を歩く時枝の後頭部に、勇一の声が響く。
ドタドタと、勇一が追いかけてくる音がする。 
黒瀬が珍しく溜息を付き、立ち止まった。

「兄さん、無様なことはよしなさい。あなた、何も出来ないんなら、大人しく見送るぐらいしたらどうです? 全く女々しいったら、ありゃしない」

勇一の身体のことは知らないはずなのだが、「何も出来ない」と言われたことに、時枝相手に勃たないことを指摘されたように感じ、勇一の足は止った。

「……女々しい、か。その通りだ」

不能と言うわけではないが、時枝に欲情できない自分は、女のようだと言われてもしょうがないと感じた。
黒瀬は勇一の精神について言ったまでだが、今の勇一には言葉以上の意味があった。
目の前から遠ざかる二人を、勇一がそれ以上邪魔することはなかった。

「時枝さん、大丈夫ですか?」
「お早うございます。朝から、時間を取らせてしまって、申し訳ございません」
「やだな、水臭い」

黒瀬の車には、潤が乗っていた。

「黒瀬、組長さん大変だった?」
「ザッツ、ライト。全く、我が兄ながら、情けない。ふふ、あの人、もしかして…まあ、それは後でゆっくり、時枝から聞こう」

何やら、黒瀬は楽しそうである。
他に頼る人間がいなかったので仕方ないのだが、人選を間違ったのかも知れないと、時枝は思った。
本宅から一歩出た途端、時枝の心は少し軽くなった。
勇一の元を去ったという大きな寂しさと引換えに、勇一の同情による優しさから逃れたという解放感があった。
そして、この男の含みのある笑顔。
この男は自分に起きたことを考慮して、優しくなったり、良い人になったりはしない。
黒瀬は何があっても黒瀬だと思うと、間違った人選も悪くないか、と時枝は思い直した。
黒瀬と潤に付き添われ、時枝は久しぶりに自宅へ戻った。

「疲れたでしょう。俺、お茶煎れてきます」

一緒に部屋へ入ってきた潤が、空気を入れ替えましょうと窓を開けた後、キッチンへ消えた。
時枝はリビングのソファに座った。
当たり前だが、何も変わっていない。
部屋の主は、生涯消えそうもないトラウマを負うぐらい酷い目に遭ったというのに、出迎えた部屋はその前の自分が暮らしていたままだ。
黒瀬は車を置いたあと、先に自宅へ戻った。
見せたいものがあるらしい。

「あの、時枝さん。黒瀬、桐生の仕事もしてるんですよ。想像ですが、黒瀬が一番したくない仕事だと思うんです。だから…あの…」

潤が湯飲みを渡しながら、言いにくそうにしている。

「ごめんなさいっ! 先に謝っておきます。でも、とっても可愛いんです」
「何がです? ――う~ん、お茶を煎れるのが上手になりましたね」

黒瀬が何かを企んでいるのだろう。
潤の表情でわかる。

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秘書の嫁入り 犬(32)

「…おはようございます。朝早く申し訳ございません、時枝です」

誰、という潤の声が聞こえる。

「昨日は、ありがとうございました。…あの、急なのですが…、」
『兄さんのところ、出たいとか?』

時枝が用件をいう前に、黒瀬から切り出された。
勘のいい男だ。

「はい、」
『離れられるの、時枝? 兄さんがいないと寂しいんじゃない?』

今も近くにいないが、視界に勇一の姿がないだけで顔が見たいと思ってしまう。
二度と会えない気がするのだ。 
自分でも異常だと自覚している。
だからといって、このままでは駄目だ。
もう、勇一に甘えられない。
昨夜は「しばらく、側にいさせてくれればいい」と言ったが、側にいれば更に依存が強くなり、孤独は増すだろう。 
自分を愛せない勇一を無言で責めてしまうに違いない。

「それは…そうですが。相談したいことも…、ここでは、出来ませんし…、できれば、マンションへ戻りたいと…歩行も問題ありませんので、…ええ、お待ちしております」

昨日の今日で、黒瀬には申し訳ないと思ったが、ちょうど土曜日だ。
忙しい身の黒瀬だが、会社が休みの日なら、まだ時間はあるだろう。
できるなら自分一人でマンションに戻りたかった。
しかし、歩行はできてもまだ火傷が引き攣る足では長時間は歩けないし、外で犬を目にしパニックに陥るのは避けたかった。
こんな状態でなければ、黒瀬に借りを作るようなことはしたくないが、仕事のこともあるし、結果、頼らざるを得なかった。
時枝が受話器を置いた直後、勇一が戻ってきた。

「おはよう、勇一」
「――起きていたのか? 調子はどうだ」
「悪くない」
「――勝貴、あのな…、」
「腹が減った。朝食にしよう」

勇一が言い掛けたのは、昨夜のことだろう。
勇一のばつの悪そうな顔を見ると、それ以上、続けさせたくなかった。

「ああ、食欲があるのは良いことだ」

朝食の膳を運ばせると、二人、向かい合って食事を始めた。
昨日の朝と同じように。
二人の間に流れる重い空気だけが、違っていた。

「なんだ、腹が減ったと言っていた割りには進んでないな」
「…そうか。あのな、勇一…」

時枝が箸を置いた。

「改まってどうした? …口に合わないのか?」
「そんなはずないだろ。ここで半分育ったんだから…。桐生の味が、俺のお袋の味のようなもんだ。そうじゃなくて…」
「ハッキリ言ってみろ」

昨夜の続きか、と勇一が身構えた。

「今日、マンションへ戻る。今まで世話になった…あとは向こうでリハビリするつもりだ」
「駄目だっ!」

バンと、勇一が激しく箸を置いた。
途端、時枝がブルブル震え出す。

「あ、イヤ、えーっと、その、怒鳴って悪かった。急にどうしたんだ? 昨夜は、まだしばらくここにって……」

怯える時枝に、勇一が慌てて取繕うが、時枝の身体の震えは治まらない。

「…ここに、…じゃない。側に…いさせてくれ、って言ったんだ…。だけど…、距離の問題じゃないだろ……。今までだって…俺達は離れていることの……方が…多かったが……お前は、ちゃんと……側にいた……」

震えながらも、時枝は勇一の目を見て、必死で言葉を紡ぐ。

「…俺のこと、…可哀想って、同情してくれるなら…」

同情しかしてくれないなら

「…俺の好きに…させては…くれないか…」

自由を奪うぐらいの強い愛情がないなら

「……心だけ、側にいてくれれば、いい」

もう…俺は…勇一にとって、魅力のない人間なのだから……この無様な身体は、お前に必要ないだろう

「同情じゃない。違う。勝貴がどう思おうが、同情じゃない。そこだけは否定させてくれ」
「…わかった」

でも、恋愛としての愛情でもない。
今の勇一にあるのは、家族としての情愛だけだろ?

「何度も言っているが、勝貴は何も悪くない。俺は諦めない」

何をだ?
一度冷めた心が、元に戻るとでも言いたいのか?

「何をチンタラやってるんです? 時枝、迎えに来たよ」
「武史っ!」

黒瀬の突然の出現に、勇一が驚いた。

「早かったですね。あれから、まだ一時間も経ってないと思いますが?」

自分が連絡したものの、まさかこんなに早く来るとは思わなかった。
いざ此所を出るとなると、勇一との時間を少しでも長く持ちたかった。
居心地の悪い、押し問答的な会話しかなかったとしてもだ。

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秘書の嫁入り 犬(31)

「…落ち着け、」

時枝も身体を起こす。ゆっくりと。

「武史は関係ない。…お前だって、自覚はあるだろう? もう、愛せないという…認めるのが怖いだけだ」
「違うっ! 勝手に人の気持ちを決めつけるな。本気で怒るぞ!」

勇一が時枝の肩に手を掛け、揺さぶりながら怒鳴る。

「…じゃあ、どうして…」

穏やかに呟きながら、時枝の手が勇一の寝巻きの間を割る。

「ここは、…こうなんだ?」

下着の上から、勇一の股間を包み込むように時枝の手が置かれた。

「…もう、反応しないだろ? 違うか? もっと言おうか? 俺にだけ、反応しないんだろ?」

馬鹿なことを、と勇一は否定できなかった。
事実だった。
時枝のあまりに凄惨な凌辱シーンを目にして以来、その姿が脳裏に焼き付き、時枝への性衝動にブレーキが掛っていた。
時枝が拒絶するのを素直に受け入れてしまった背景には、勇一自身に問題があったのだ。
時枝が指摘したように、時枝限定で、身体が反応しない。
朝勃ちもするし、テレビでちょっとセクシーアイドルが艶めかしいポーズを決めただけで熱くなるソコは、時枝に触れても近くにいても無反応なのだ。
時枝は、確信していたわけではなかった。
だが、自分が拉致される前の勇一なら、側にいるだけで、ウザイほど股間を脹らませ自分に欲情していた。
自分に気遣い、一人で昂まったモノを処理するならまだ分る。
だが、四六時中側にいるというのに、勇一の目に雄の欲情は一切感じられず、ただ、優しいだけの男になっていた。
そして、先程、自分から仕掛けたキスで、時枝の推測は確信に変わった。

「違うっ!」
「…違わないだろ? 男の身体は正直だからな。いいんだよ、勇一。お前のせいじゃない」

悪いのは自分だと時枝が言う。
苦しめているのは自分だと。

「一緒に寝よう。俺は勇一の体温が好きだ。匂いも好きだ……同情でいい。しばらく、側にいさせてくれればいい……今はまだ、一人が怖くて寂しいんだ…だから、甘えさせてくれ……」
「――勝貴…」

時枝が、勇一の上半身をゆっくりと押し倒す。
暗闇に慣れた勇一の目は、時枝の頬に涙の筋が通っているのを捉えた。
勇一の身体が布団へ沈むと、今度は自分の上半身を倒す。
身体を丸め、勇一の身体に背中をピタッと貼り付くように寄る。
時枝の身体が小刻みに震え、その振動が勇一にも伝わった。
声を押し殺し、泣いていた。
その震える身体を勇一が背後から包み込んだ。
愛しているのだ、と伝えようにも、勇一の身体は時枝の温もりを全身で受け止めても反応しない。
口に出し、否定すればするほど、時枝を傷付ける。
時枝限定じゃなければ、ただの勃起障害として、そこまで傷付けずに済んだだろう。
不甲斐なさで、勇一の目も潤んでいた。

 

一夜明け、時枝は離れの電話を見つめていた。
習慣で五時には目覚める勇一は、時枝が起きた時には、姿がなかった。朝風呂だろう。
空港で携帯を捨ててから出掛けることもなかった時枝は、次の携帯を購入していない。
携帯に限らず、拉致された時に持っていたものは、全てない。
身の回りのものは、全て勇一が用意したものだ。
自宅マンションにさえ、一度も戻ってはいなかった。
電話を掛けようか、どうしようか、と時枝は迷っていた。 
掛ける相手は黒瀬だ。
今後の身のふり方を決めなければならない。
勇一が、自分の世話で組の仕事をしてないことは知っている。
自分を拉致した奴らの目的も知っている。
見事な迄の奴らの思惑通りの展開に、笑いさえこみ上げて来るが、一つだけ、奴らの計算違いがあった。
「黒瀬」の存在だ。

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秘書の嫁入り 犬(30)

彼奴ら…揃いも揃って…、一体何だって言うんだっ……しかし…、

二人かがりでやり込められ、勇一がハッと我に返った時には、誰もいない自室に一人残されていた。
反論しようにも二人は既に本宅を出ていたし、二人が言っていることの方が正しいと、勇一にも分っていた。
同情じゃないっ、だが、俺のしていることは……
潤から聞かされた、時枝の言葉が勇一の頭から離れなかった。

『普通に友人や知人なら、あなたに同情して終わりです。優しい言葉をかけ、あれは事故のようなものだから忘れろっていうだけでしょう』

俺だ。俺がしていることだ…最低だ……
二人の言うとおりだった。
しかし二人に理解出来ないこともあるのだ。
それを知れば、何と非難されるだろう。
いや、あの二人に知られることは、大したことじゃない。
時枝に知られれば、勇一はもっと彼を傷付けると知っている。
時枝の苦悩を広げてしまう勇一の抱えた問題。
それは―――。

勇一が離れに戻ると、時枝は寂しそうに沈んだ顔で窓の外を見ていた。
暗くて外の景色は見えず、ガラスに映っているのは部屋の内部だけだったが、時枝の視線はガラスの向こうを向いていた。

「お帰りなさい。二人は?」

勇一の顔を確認すると、ホッとしたのか、嬉しそうな表情を見せる。

「帰った。一人にして済まない」
「変な勇一だ。子どもじゃないんだ、一人が寂しいはずないだろ」

強がりが痛々しく聞こえる。

「そうか? 俺は寂しかったけど」
「ば~か。それより、武史が俺に持って来た見舞い品、くれよ」
「子どもには早い。もっと大人になってからな」
「…何の冗談だ? 三十四のオッサン捕まえて、子どもはないだろ?」
「一人が寂しい、子どもだろ?」
「寂しいなんて言ってないだろ」
「そうか? 俺には何故か、聞こえてくるんだけど。勇一、寂しい、ずっと一緒に居て~、勇一様~~~って」
「馬鹿が…空耳だ。俺が十分大人だって、お前が一番知っているんじゃないのか?」
「そうだったな。じゃあ、一緒に風呂でも入るか?」
「大人は一人でも入れる。先に入れ、勇一」

時枝の筋力は徐々に戻り、少しの移動であれば自力で出来る。
風呂も、シャワーなら問題なかった。

「そうか、じゃあ、お先に」

ここで、強引に一緒に入ればいいのだろう。
分っていて出来ない自分が勇一は情けなかった。
勇一が湯から上がると、いつもは二組敷かれている布団が、一組になっていた。
代わりに枕が二つ。
黒瀬が犬の縫いぐるみを買ってきたことを知り、時枝も自分から出口を模索していた。
同情じゃなく、勇一に向き合って欲しかった。

「浴びてくる」

布団のことには触れず、時枝は浴室へ消えた。

「…なんだ、起きていたのか」

時枝が部屋へ戻ると、勇一は煙草を手にテレビを見ていた。
小さな画面を覆うように、勇一の背中が時枝を迎えた。
勇一に声を掛けるわけでもなく、時枝は布団に潜る。
勇一が横に来ることを前提で、左半分に身を寄せた。

「―――寝るか」

勇一が煙草を消し、テレビも切ると、照明を落とし、時枝の横に静かに入る。

「…勇一…、」

静かに時枝が勇一の名を呼び、勇一の頭に手を掛けた。 
そっと自分から唇を重ねた。
軽く触れただけの口付けだった。

「おい、勝貴、お前…」
「……嫌か? 俺とキスするのは…、もう無理か?」

恐る恐る、時枝が訊く。

「変なことを訊くな」
「口の中まで、色々挿れられたからな……お前しか知らなかったのに…」

声が潤んでいた。

「思い出すな。考えなくていい…」
「そんなこと、出来るわけない。無かったことには、出来ない……俺はもう、愛される資格もないんだよ…いい、誤魔化さなくても……俺、知ってるから…お前、俺を愛せない……愛してない……勇一、認めてもいいんだよ……」
「なんてこと、言うんだっ! そんなわけあるかっ!」

勇一が、大声を出した。

「耳元で、怒鳴るなよ…。いいんだ。俺は愛されてなくても……こうして、側に置いてもらえてるし……」

弱弱しく、時枝が呟く。

「卑屈なこと、言うなっ! 俺は勝貴を愛しているし、嫁にするって決めたんだっ!」
「過去に縛られることはないんだ。現実を見た方がいい…愛と同情は違う……」
「武史に何か、吹き込まれたのか? そうだろ? 急に変なこと言いだして。あの野郎っ!」

勇一がガバッと身体を起こした。

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秘書の嫁入り 犬(29)

「どうしてだ? 俺は勝貴が大事なんだ。あいつの嫌がることはしたくない。傷を抉るようなこと、出来るわけがない。それのどこが酷いんだ?」
「だから兄さんは傍観者を決め込むと。それって、ただの逃げですよ? 怖がるから、嫌がるから? だから何? 水を怖がる子どもに泳ぎを教えなかった。結果、水難事故で子どもを亡くした。嫌がることを可哀想だとさせないことが、大事にするということではないでしょうに」
「そんなガキの話と勝貴を一緒にするなっ、次元が違うだろう」
「同じです」

きっぱりと黒瀬が言い切った。

「だったら、武史はもし、この嫁が勝貴と同じ目にあったら、どうするんだ? 犬を嗾けるつもりか? 嫌がるのに、無理矢理身体を繋げるつもりか?」

あなた、やっぱり、馬鹿でしょ? と黒瀬の視線が一層冷ややかになる。

「ふん、言うまでもない。ねえ、潤。そんなこと、分ってるよね」
「黒瀬なら…俺を抱く…」

潤が回された黒瀬の腕に両手を掛け、黒瀬に、そうだよねと目で語りかけながら涙声で答えた。

「兄さん、潤をオークション会場から連れ出した後、私が何をしたかご存じないんですか? 強姦したんですよ。時枝と二人掛かりで。それこそ、流血騒ぎでしたけどね。それに、あなただって、潤に何をしたか、覚えてないんですか? ショック療法か何かはしりませんが、あんな酷い事しておいて。笑わせないで下さい。何が『勝貴が大事』ですか。バカバカしい。嫌がることはしたくない? 面倒なことはしたくない、の間違いじゃないんですか?」

勇一は黒瀬に言われ、自分が潤にしたことを思い出した。 
それこそ口にするのを躊躇われるぐらい、酷い事をした。

―――だが、

「嫌がることをして、これ以上追い詰めてそれこそ立ち直れなくなったら、どうするんだ? 勝貴は、そこまで強くない。お前だってわかっているだろうが、その嫁は、強いんだよ。芯が強い。だから、あの時だってそれに一か八かで掛けた迄だ。だが、勝貴は、壊れてしまうかもしれない」
「本望でしょ。時枝だって、兄さんに壊されるなら。そっちの方が今の蛇の生殺し状態より、よっぽどマシだと思いますよ。だいたい、今の時枝だって、十分壊れてますよ。兄さんがいないだけで、不安で目がウルウルでしたよ。気持ち悪いったらありゃしない。あの時枝が…親に捨てられた少女みたいな表情。うう…思い出しても鳥肌が立つ……」
「気持ち悪いとか、言うなっ!」
「でも、変ですっ! あんなの時枝さんじゃない。組長さんのせいだ…だから、あんなに寂しそうだったんだ……」

勇一が黒瀬を諌めたら、反対に潤から責められた。
潤は、もう我慢ならないといった感じで、黒瀬の腕から離れると、勇一に近づき着流しの袷を掴んだ。

「おい、こら、このへボ組長、よく聞けよ。時枝さんはな、俺に、『もし仮に救出後、同情され優しくされ腫れ物に触るように接しられてたら、あなた乗り越えられたと思いますか?』って、言ったんだ」

泣いていたはずの潤が、勇一相手に啖呵を切り出した。

「お、おい…」

ここ最近、黒瀬とイチャつく所しか見てなかった勇一は、潤の殺気だった切れ方に、驚きのあまり言葉も出ない。

「こうも言った。『普通に友人や知人なら、あなたに同情して終わりです。優しい言葉をかけ、あれは事故のようなものだから忘れろっていうだけでしょう』 あんた、時枝さんが言った普通の友人か知人と同じじゃないか。そんなあんたを、時枝さんはどう思っていると思う? 同情しかされていないことが、どんなに辛いか分らないのかっ」

時枝が潤に言ったという言葉が、ハンマーとなって勇一の頭を殴りつけた。

「黒瀬はな、俺を嬲り続けたんだよ。中途半端な愛情じゃ無理なんだよ。そんなもので、癒える傷じゃないんだよ。犬が怖いなら、犬以上の存在になってやれよ。排除することが、目を反らさせることが、愛情かよ。時枝さんが弱い? あんたが弱くしてるんじゃないのか? 同情だけで側にいて、あんた、何もしてないじゃないかっ! あんな表情させるあんたはな、最低だっ! あんたに時枝さんの本当の辛さは分らない。酷い目にあったことより、自分を見る目が変わったあんたの同情が辛いんだよ。この薄らボケっ!」

潤の着流しを掴む手に、押す力が加わり、勇一の上半身を突き飛ばした。
勇一の上半身が畳の上に崩れた。

「ブラボー、潤」

パチパチパチと、黒瀬が拍手をしている。
黒瀬は潤を惚れ直していた。
黒瀬が潤に恋に落ちた瞬間のことを思い出す。
黒瀬相手でもヤクザの親分相手でも、いざとなれば、負けてはいない。
いつもは健気で従順な面ばかりが表面に出ているが、潤の本当の姿は男気溢れる九州男児だ。

「いいか、よ~く覚えておけ。これ以上、時枝さんを苦しめるなら、時枝さんは俺達で預かるからな」

立ち上がった潤は、勇一を上から見下ろし最後通告を言い渡しすと、今度は黒瀬の方を向く。
コロッと一変して、いつもの黒瀬を慕う甘えたな表情で、

「黒瀬、いいよね?」

と、お強請りするように問う。

「もちろん」

黒瀬は潤にこれ以上ないぐらいの優しい視線を向け返事をし、情けない格好の勇一に冷ややかな視線を浴びせた。

「うちの潤は最高です。それに比べて…情けない。兄さん、時枝の状態が酷くなるようなら、俺達が兄さんから離しますよ。嫌なら、何とかすればいい。まったく、大事な我が社の戦力だって言うのに…」

ポカンと間抜け面で座り込んだ勇一を尻目に、黒瀬と潤は本宅を後にした。

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秘書の嫁入り 犬(28)

「時枝さん、何か必要な物があったら、連絡して下さい。持って来ますから」
「お二人とも、ありがとうございました」
「この二人に礼など要らん」

出て行こうとする黒瀬と潤を入れ替わるように、不機嫌そうな勇一が入ってきた。

「…勇一」

勇一の姿に、時枝がホッとしたような表情を見せた。

「黒瀬、時枝さん、変わったね。儚い感じがする…」
「そうだね。兄さんがだらしないからね。全く、あの人は何をやっているのだか」

母屋に戻った二人は、勇一の部屋で勇一が戻ってくるのを待っていた。

「どうつもりだ?」

勇一が離れから戻り、黒瀬と潤の前に姿を現したが、その顔は相変わらず不機嫌そのもので、眉間に皺を寄せていた。

「どういうつもりって、あなたが来いって呼びつけたんでしょう」
「俺のことじゃない。どうして、勝貴に犬の話をするんだ? あんなモノまで買ってきて、嫌がらせにも程がある」

黒瀬の眉が、ピクッと動いた。
そして、冷たい笑みを浮かべた。
口元だけ緩め、形、笑顔だが、目は全然笑っていない。
黒瀬が怒っている証拠だ。

「兄さんこそ、どういうつもりですか? 忙しい中、組の仕事まで押し付けられている俺に、労いの言葉があるわけでもなく、プライベートな時間まで潰させておいて、その顔。不愉快です」

何を、と勇一が黒瀬に詰め寄ろうとしたので、潤が慌てて止めた。

「もう、二人とも、兄弟ゲンカはやめて下さい。組長さん、話があるんでしょ? 二人とも時枝さんのことが心配なら、いがみ合っている場合じゃない。だいたい、犬かネコかは知りませんが、それがどうしたっていうんですか?」

潤が二人を交互に見ながら言った。

「兄弟ゲンカって…潤は可愛いこと言うね」
「どうしたも、こうしたもあるか。……お前は知らないのか」
「知りませんよ。とにかく、座って話しましょう」

潤に促され、二人は畳の上に座る。

「組長さん、俺も家族でしょ? 時枝さんも家族になるんでしょ? だったら、俺にもちゃんと説明して下さい。俺だって心配しているし、さっきの時枝さん、おかしかった。全然怖くない。あんなの、時枝さんじゃない」

潤は真剣だった。
壊れかけた経験を持つ潤は、本能で、時枝が追い込まれていることを悟っていた。
潤の気迫に押され、勇一が簡単にDVDに映っていた内容を潤に話し、その後の症状を詳しく伝えた。

「…そうですか。それで、あの時組長さんは暴れていたのですね」
「潤、大丈夫? できれば耳に入れたくなかったんだけど」

話の内容に潤がショックを受けていないかと、黒瀬が気遣う。

「どうして? 俺達は家族だろ? 映像を見たいなんて、思わない。だけど、俺にも一緒に考えさせて欲しい」
「そうだね。一緒に考えよう…この人では、駄目みたいだから」

黒瀬が勇一を冷ややかに見る。

「…かもしれない。組長さん、時枝さんと、寝てる?」

突然、潤が核心を突いてきた。
黒瀬が訊くつもりだった内容を、潤が戸惑いも恥じらいもなく、勇一に向けた。

「俺は四六時中、離れで勝貴と一緒だ。もちろん、夜もだ。嫌な夢に魘されても起こせるよう、夜も常に一緒だ」
「違うっ! そういう意味じゃない。時枝さんが戻って来てから、セックスしているのかって、訊いてるの」
「あ? セックス…だと?」

そんなことを問われるとは、勇一は思ってもみなかった。 
ふざけているのか、と一瞬思ったが、潤の目が真剣だったので、真面目に問われているのだと理解した。

「あのな、嫁。お前だって、どんな状態で勝貴が戻ってきたか、見ただろう? やっと傷が癒えたばかりだ。しかも、さっきも話したが、あいつが経験したことを考えると、それを思い出させるような行為、出来るはずないだろ。第一、あいつは、俺に傷跡を見せたくないんだ。医者ならまだいいみたいだが、俺には見せたくないようだ。そんなあいつを組み伏せるなんてこと、出来るはずないだろが」

潤の目が、みるみる間に潤んできた。
微かに身体も震えている。
よく見ると、両手をギュッと握りしめ、湧き上がる感情を必死で堪えているという感じだ。

「……信じられない。…組長さん、酷い…」

潤の目から、大粒の涙が溢れ出す。
そんな潤を黒瀬が胸に引き寄せた。

「だから、この人では駄目だって言ったろ?」
「黒瀬…、時枝さん、可哀想過ぎる……、この人、何も分っちゃいない……」

勇一は、とうとう潤にまで、『この人』呼ばわりだ。
どうして二人掛かりで非難されねばならないのか勇一には全く分らず、潤の涙に途惑っていた。

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