秘書の嫁入り 犬(13)

「起きろっ」

朦朧とした頭を覚醒させるように、冷たい水をぶっかけられた。

「…一体…ここは……」

今まで意識が飛んでいたことは分かるが…、ここは何処だ。
どうして、俺は…、と時枝が覚醒した頭で記憶を遡る。

成田空港でメモにあったビアバーに出向いた時枝は、窓際の席に座る男に、さも親しげに「時枝さん、こっちです」と手を振られ、その男の側に行った。

「一杯やりながら、話しましょうか」

既にテーブルには時枝の分のギネスが用意されていた。

「一体これはどういうことですか?」

ポケットの中からグシャグシャに丸めた紙を取りだし、拡げると、テーブルに置いた。

「座ったらどうです、」

話はそれからだと、男の態度が物語る。
二十代後半だろうか? 時枝よりも若い印象だが、サングラスに深いキャップを被っているので、顔はよく分からない。

「これ、冗談だと思います?」
「私には分かりません。ですが、それを確かめるのには、勇一の命を危険に晒すということですよね? 違いますか」

確かめる手段として、きっと爆破の指示を時枝の目の前で出して見せるだろう。
これが悪戯なら何も起こらないだろうが、本気なら勇一の身が危ない。
事実であろうがなかろうが、勇一の身の危険を匂わせて、自分を呼びつけたのには、別の目的があるはずだ。
勇一の命を取りたいだけなら、時枝に回りくどく予告などせず、サッサと爆弾を爆破するなり、鉄砲玉を仕向けるなり、交通事故に見せかけるなり、他に方法はいくらでもある。
勇一の命の危険を匂わせて、馬鹿げた取引を持ちだそうと言うのだろうか?
それならあり得る。

「さすが、株式会社クロセの社長秘書さんは、頭が良い。悪戯かもしれないと思いながら、ここへ来た。桐生勇一の命を守る為に。桐生さんもここまで愛されていたら、本望でしょうね」
「目的は何ですか?」
「そんなおっかない顔をしてないで、まずは乾杯しましょう」

ギネスのグラスを勧められる。

「大丈夫ですよ。変な薬は入ってませんから。薬は、ご自分で飲んで下さい。はい」

男がグラスの横に、白い錠剤を二粒置いた。

「ただの、睡眠薬です。即効性ではありません。ここから駐車場までは、あなたに自力で歩いて行ってもらわねばなりませんから」

男の言う通り、それは確かに睡眠薬だった。
いつも時枝が常備しているものと同じT製薬のものだ。
特有のアルファベットが刻まれているので、間違いないだろう。
もちろん、市販されている薬ではなく、通常は処方箋が必要なものだ。
錠剤の粒を自ら口に放り投げ、ギネスで流し込む。

「乾杯も無しですか。せっかちな人だ」
「意識があるうちに、移動した方が良いのでは? 私の足元がふらつきますと目撃者が出てきますよ」
「こちらの事情まで考慮してくれるとは、さすが、裏の世界も通じているお方だ。出ましょう」

ビアバーを出ると、駐車場へ男と二人並んで向う。
まだ眠気はないが、一旦眠くなると意識が混濁するのは早い薬だ。
その前に、男から目的を聞き出したかった。

「私の事にもお詳しいようですが、そろそろ、目的を教えて頂いてもよろしのでは? 勇一の命が欲しいとは思えない」
「ほんと、せっかちな人だ。この場所を移動すれば、直ぐにわかりますよ。さあ、乗って下さい」

駐車場に駐められていたワゴンに乗り込んだ。

「そろそろ、薬が効いてくるでしょうから、ゆっくりお休み下さい」

ご親切というか何というか、毛布が座席に用意されていた。
誰が使用していたのか分からないものを使う気にはなれなかったので、畳んであった毛布には触れなかった。
座った途端、計ったように眠気が時枝を襲う。

「次に目が覚めた時、地獄が待っているかもしれませんね……時枝勝貴さん…」

男がエンジンを掛け、運転席からバックミラー越しに時枝に囁いたが、時枝の耳には届かなかった。
既に眠りの中だった。

 

 

「熟睡されてましたね。時枝さん」

サングラスを掛けた男が、手を振ると時枝の身体にまた水が掛けられた。

「…ぐ、はっ、…ここ、は…」
「だいたい、察しがつくでしょ? そして、これから、ご自分の身に何が起るのかも」

サングラスの男の他に、五人の男がいた。
サングラスの男は顔を見せる気がないらしいが、彼が首謀者らしく、他の者は彼の指示で動いているらしい。

「…スタジオってわけですか」

幸か不幸か、トレードマークの眼鏡はまだ無事に、いつもの定位置で時枝の視力の助けをしてくれるので、否応なしに自分の置かれている状況が、隅々まで観察できた。
地下室か倉庫か。広い。
窓はないが、リビングと寝室を模したセットが、二つ組まれている。
今、時枝がいるのは、そのいずれでもなく、二つのセットの中間に、天井に埋め込まれている大きなフックに、身体の自由を奪われ吊されていた。
撮影用の機材もあり、男達が自分に何をするつもりなのか、容易に想像できた。

「私を主演男優にでも、するつもりですか? こんな、花のない男では、絵にならないと思いますが? トウも立ってますし」
「あなたは、ご自分の価値も立場も、よく分かっておられない。桐生勇一の弱点だというだけで億の価値がある。心配しないで。我々はあなた達程、非道ではないから、ちゃんとあなたを桐生勇一の元へ、生きたまま、お返ししますよ。プレゼント付きで」
「目的は?」
「さあ。金とゲームとでも言っておきましょう。あ、もう、いいですよね。本当のことを話しても。もちろん、爆弾なんて、仕掛けていませんよ。面倒臭い」

この男は…似ている。
潤と出会う前の黒瀬に似ている。
人生を斜めから見ている。
違う点は、黒瀬はこの男より非情で残酷だった。
そして、こういう場合、もしもの保険で使用しなくても爆弾も用意する。
育ちが案外、いいのか?

「時枝さん、何を考えてます? 眉間に皺が寄ってますよ」
「無駄なことをやるあなたは一体何者ですか? どこの組の回し者なのかぐらい、教えてくれてもいいでしょう?」
「そんな質問に答えるバカだと思われていたとは、心外だな。さあ、始めましょうか。まずは、そうだな。アメリカから連れてきた黒人男優と絡んでもらいましょうか」