「失礼します。時枝室長、そろそろ朝のミーティングの時間ですが……えっと…お取り込み中ですか…」
先輩社員に頼まれたのか、潤が時枝を呼びに来た。
黒瀬と潤の関係は知られてないが、秘書課の人間は、潤が黒瀬のお気に入りだとは認識していた。
度々、呼び出しが掛かれば、そう思われても仕方がない。
だが、これは他の秘書達にしてみても都合がいい話だった。
独特のオーラを放つ、容姿端麗で浮世離れした自分達のトップは、おいそれとは近付けない雰囲気を醸し出していて、側に寄るとなると深呼吸が必要なぐらい緊張を強いられる。
だから、潤がホイホイと呼ばれて嬉しそうに社長室に行くのは大歓迎だし、雑務で社長に用事があれば、言いつかるのは最近では決まって潤だ。
「いえ、もう用事は済みました。あ、新人、こちらへ」
時枝が、潤を呼びつけた。
「出社早々、潤を苛める気?」
「社長! 理由もなく私が新人をイビッたことなど、ありません」
「ふ~ん、理由があれば、イビるんだ」
「言葉のあやでしょ。上司として適切な指導しかしていません。そうですよね?」
時枝が潤を見る。
ここで、違うと言える人間はいないだろう。
「はい、その通りです。社長、私は室長に苛められてもイビられてもいません」
潤が優等生の回答をすると、黒瀬が満足そうに目を細めた。
「やはり、私の潤は人間ができている。人の親切を素直に受け取れない誰かさんとは違うね」
「新入社員の一人に過ぎない者を『私の潤』などと就業時間内に呼ぶのは止めて下さい。この新人でさえ、ちゃんとあなたのことを『社長』と呼んでいるのに。は~、全く」
「少しは人間丸くなったのかと思えば、兄さんと『あ~~~ん』な関係でも時枝の口うるさいのは一つも変わらない。残念だ」
「当たり前でしょ。こんな調子じゃ、まだまだ私もあなたの側を離れるわけには行きませんね」
桐生に入れば、いつまでも秘書として黒瀬の側にいることは無理じゃないかと思う。
しかし、この一般常識が通用しない黒瀬を一人野放しにするのは、恐ろしくて出来ない。
「…あのぅ、時枝室長」
「ああ、新人、申し訳なかった。チャチャを入れる人間がいたもので、まだ話をしてませんでしたね。就業時間内ですがココは黒瀬潤さまにお詫びをさせて頂きます」
時枝が潤の方を向き、そして頭を下げた。
「本当に申し訳ありませんでした。社長の命令とはいえ、あなたに酷いことをしてしまった。そのことについて、私はまだ正式に謝罪していなかった」
潤が驚いたのは言うまでもない。
「あ、あのう…室長? 時枝さん? 俺、何か酷いこと…されました? えっと…」
黒瀬は時枝のいう『酷いこと』に思い当たるのか、意味ありげな笑みを浮かべていた。
その表情は、何かを懐かしんでいるようにも見える。
「イギリスでのことです。社長の暴行の手伝いをしてしまったことです。本当にあの時は申し訳ございませんでした」
「時枝さん、頭を上げて下さいっ!」
潤がどうしていいのか、分からずオロオロしている。
「あの凶行が、あなたの性癖を替えてしまったのかもしれません。あなた達の流血をも厭わない性生活は、きっとアレが原因です」
「時枝さん、どこかで、頭打ったとか…。黒瀬に無理矢理強姦されたのも…いや、あれは強姦じゃなかった…どっちにしても、俺にとっては大事な思い出だし、今更変だよ。時枝さん、何かあった? 黒瀬っ、止めさせてっ!」
潤が 黒瀬に助けを求める。
いつになく潤をみる黒瀬の目が優しい。
「疑似体験みたいなことが、あったんじゃない? それで、恐怖とか痛みとか経験したから、潤に悪い気がしてるんだよ。ね、時枝」
潤にだけ優しい眼差しは、時枝に移った段階で意地の悪いものへと変わる。
時枝が頭を上げ、黒瀬を睨む。
「恐怖はありません」
「あ、そ。じゃあ、痛かったんだ~。で、まだ、痛いんじゃないの。だから座布団用意してやってたのに。潤、知ってる?」
ナニナニ、と潤が体を乗り出す。
「尾川さんところの布団を、時枝、血で染めたんだよ」
「まさか、組長さんが…」
「レイプしたんじゃない?」
「違いますっ! 合意ですっ!」
言ってしまってから、ハッと時枝が口を押さえた。
「ふふふ、時枝を迎えにいった兄さん、余程溜まっていたんだろうね~」
「社長っ!」
「まあ、いいんじゃない? ね、潤」
「本当に気にしないで下さい。それより、室長、早く戻らないと、皆さんお待ちです」
仕事に戻ろうとした潤に、時枝は成長を感じた。
「はい、では、新人、いや、市ノ瀬君、行きましょうか」
えっ、と潤が目を丸くした。
嬉して溜まらないといった表情で、
「はい、時枝室長」
と返事をした。
時枝が潤を秘書として認め始めているのかと、黒瀬も悪い気がしない。
猛獣使いのバトンを渡す日が、案外早く来るのかもしれないと時枝は思った。