秘書の嫁入り 犬(33)

『…俺より、武史か』

小声で、勇一が呟いた。
時枝は気付かなかったようだが、黒瀬の耳は拾っていた。

「しょうがないでしょ。表面だけの男より、俺の方が数倍魅力的だということですよ」
「何を言ってるんですか?」

勇一の言葉を聞いていない時枝には、自分の発言に対しての返事だと思っている。
来るのが早いというのと、黒瀬が魅力的だという繋がりが見出せない。

「何でもないよ。車椅子は持って行く?」
「必要ありません」
「じゃあ、兄さん。ご機嫌よう」
「ちょっと、待てっ!」

時枝が立ち上がろうとしたので、慌てて勇一が止めた。

「まだ、食事の途中だろうがっ!」
「だから?」

それがどうしたと、不遜な態度を黒瀬が勇一に向ける。

「勝貴だって、着替えが必要だろ? そのまま、行くつもりか?」
「…勇一、俺は社に出る訳じゃないんだぞ? 自分の家に帰るだけだ。このままで良いだろう。どうせ、車での移動だ。有り難いことに俺のマンションは、一般の住人とは別に専用エレベーターもある。服なんかどうでもいい。戻れば、幾らでもある」
「勝貴っ!」
「ご馳走さまでした。そして、ありがとう、勇一。じゃあ、行くから」

社長、行きましょうと、時枝が黒瀬の腕を掴む。
黒瀬には潤がいるし、黒瀬は潤を馬鹿が付くほど惚れていると知っていても、勇一は、二人の連れ添う姿が面白くなかった。

「勝貴ーっ、行くなっ!」

離れを出て本宅の廊下を歩く時枝の後頭部に、勇一の声が響く。
ドタドタと、勇一が追いかけてくる音がする。 
黒瀬が珍しく溜息を付き、立ち止まった。

「兄さん、無様なことはよしなさい。あなた、何も出来ないんなら、大人しく見送るぐらいしたらどうです? 全く女々しいったら、ありゃしない」

勇一の身体のことは知らないはずなのだが、「何も出来ない」と言われたことに、時枝相手に勃たないことを指摘されたように感じ、勇一の足は止った。

「……女々しい、か。その通りだ」

不能と言うわけではないが、時枝に欲情できない自分は、女のようだと言われてもしょうがないと感じた。
黒瀬は勇一の精神について言ったまでだが、今の勇一には言葉以上の意味があった。
目の前から遠ざかる二人を、勇一がそれ以上邪魔することはなかった。

「時枝さん、大丈夫ですか?」
「お早うございます。朝から、時間を取らせてしまって、申し訳ございません」
「やだな、水臭い」

黒瀬の車には、潤が乗っていた。

「黒瀬、組長さん大変だった?」
「ザッツ、ライト。全く、我が兄ながら、情けない。ふふ、あの人、もしかして…まあ、それは後でゆっくり、時枝から聞こう」

何やら、黒瀬は楽しそうである。
他に頼る人間がいなかったので仕方ないのだが、人選を間違ったのかも知れないと、時枝は思った。
本宅から一歩出た途端、時枝の心は少し軽くなった。
勇一の元を去ったという大きな寂しさと引換えに、勇一の同情による優しさから逃れたという解放感があった。
そして、この男の含みのある笑顔。
この男は自分に起きたことを考慮して、優しくなったり、良い人になったりはしない。
黒瀬は何があっても黒瀬だと思うと、間違った人選も悪くないか、と時枝は思い直した。
黒瀬と潤に付き添われ、時枝は久しぶりに自宅へ戻った。

「疲れたでしょう。俺、お茶煎れてきます」

一緒に部屋へ入ってきた潤が、空気を入れ替えましょうと窓を開けた後、キッチンへ消えた。
時枝はリビングのソファに座った。
当たり前だが、何も変わっていない。
部屋の主は、生涯消えそうもないトラウマを負うぐらい酷い目に遭ったというのに、出迎えた部屋はその前の自分が暮らしていたままだ。
黒瀬は車を置いたあと、先に自宅へ戻った。
見せたいものがあるらしい。

「あの、時枝さん。黒瀬、桐生の仕事もしてるんですよ。想像ですが、黒瀬が一番したくない仕事だと思うんです。だから…あの…」

潤が湯飲みを渡しながら、言いにくそうにしている。

「ごめんなさいっ! 先に謝っておきます。でも、とっても可愛いんです」
「何がです? ――う~ん、お茶を煎れるのが上手になりましたね」

黒瀬が何かを企んでいるのだろう。
潤の表情でわかる。