秘書の嫁入り 犬(32)

「…おはようございます。朝早く申し訳ございません、時枝です」

誰、という潤の声が聞こえる。

「昨日は、ありがとうございました。…あの、急なのですが…、」
『兄さんのところ、出たいとか?』

時枝が用件をいう前に、黒瀬から切り出された。
勘のいい男だ。

「はい、」
『離れられるの、時枝? 兄さんがいないと寂しいんじゃない?』

今も近くにいないが、視界に勇一の姿がないだけで顔が見たいと思ってしまう。
二度と会えない気がするのだ。 
自分でも異常だと自覚している。
だからといって、このままでは駄目だ。
もう、勇一に甘えられない。
昨夜は「しばらく、側にいさせてくれればいい」と言ったが、側にいれば更に依存が強くなり、孤独は増すだろう。 
自分を愛せない勇一を無言で責めてしまうに違いない。

「それは…そうですが。相談したいことも…、ここでは、出来ませんし…、できれば、マンションへ戻りたいと…歩行も問題ありませんので、…ええ、お待ちしております」

昨日の今日で、黒瀬には申し訳ないと思ったが、ちょうど土曜日だ。
忙しい身の黒瀬だが、会社が休みの日なら、まだ時間はあるだろう。
できるなら自分一人でマンションに戻りたかった。
しかし、歩行はできてもまだ火傷が引き攣る足では長時間は歩けないし、外で犬を目にしパニックに陥るのは避けたかった。
こんな状態でなければ、黒瀬に借りを作るようなことはしたくないが、仕事のこともあるし、結果、頼らざるを得なかった。
時枝が受話器を置いた直後、勇一が戻ってきた。

「おはよう、勇一」
「――起きていたのか? 調子はどうだ」
「悪くない」
「――勝貴、あのな…、」
「腹が減った。朝食にしよう」

勇一が言い掛けたのは、昨夜のことだろう。
勇一のばつの悪そうな顔を見ると、それ以上、続けさせたくなかった。

「ああ、食欲があるのは良いことだ」

朝食の膳を運ばせると、二人、向かい合って食事を始めた。
昨日の朝と同じように。
二人の間に流れる重い空気だけが、違っていた。

「なんだ、腹が減ったと言っていた割りには進んでないな」
「…そうか。あのな、勇一…」

時枝が箸を置いた。

「改まってどうした? …口に合わないのか?」
「そんなはずないだろ。ここで半分育ったんだから…。桐生の味が、俺のお袋の味のようなもんだ。そうじゃなくて…」
「ハッキリ言ってみろ」

昨夜の続きか、と勇一が身構えた。

「今日、マンションへ戻る。今まで世話になった…あとは向こうでリハビリするつもりだ」
「駄目だっ!」

バンと、勇一が激しく箸を置いた。
途端、時枝がブルブル震え出す。

「あ、イヤ、えーっと、その、怒鳴って悪かった。急にどうしたんだ? 昨夜は、まだしばらくここにって……」

怯える時枝に、勇一が慌てて取繕うが、時枝の身体の震えは治まらない。

「…ここに、…じゃない。側に…いさせてくれ、って言ったんだ…。だけど…、距離の問題じゃないだろ……。今までだって…俺達は離れていることの……方が…多かったが……お前は、ちゃんと……側にいた……」

震えながらも、時枝は勇一の目を見て、必死で言葉を紡ぐ。

「…俺のこと、…可哀想って、同情してくれるなら…」

同情しかしてくれないなら

「…俺の好きに…させては…くれないか…」

自由を奪うぐらいの強い愛情がないなら

「……心だけ、側にいてくれれば、いい」

もう…俺は…勇一にとって、魅力のない人間なのだから……この無様な身体は、お前に必要ないだろう

「同情じゃない。違う。勝貴がどう思おうが、同情じゃない。そこだけは否定させてくれ」
「…わかった」

でも、恋愛としての愛情でもない。
今の勇一にあるのは、家族としての情愛だけだろ?

「何度も言っているが、勝貴は何も悪くない。俺は諦めない」

何をだ?
一度冷めた心が、元に戻るとでも言いたいのか?

「何をチンタラやってるんです? 時枝、迎えに来たよ」
「武史っ!」

黒瀬の突然の出現に、勇一が驚いた。

「早かったですね。あれから、まだ一時間も経ってないと思いますが?」

自分が連絡したものの、まさかこんなに早く来るとは思わなかった。
いざ此所を出るとなると、勇一との時間を少しでも長く持ちたかった。
居心地の悪い、押し問答的な会話しかなかったとしてもだ。