秘書の嫁入り 犬(29)

「どうしてだ? 俺は勝貴が大事なんだ。あいつの嫌がることはしたくない。傷を抉るようなこと、出来るわけがない。それのどこが酷いんだ?」
「だから兄さんは傍観者を決め込むと。それって、ただの逃げですよ? 怖がるから、嫌がるから? だから何? 水を怖がる子どもに泳ぎを教えなかった。結果、水難事故で子どもを亡くした。嫌がることを可哀想だとさせないことが、大事にするということではないでしょうに」
「そんなガキの話と勝貴を一緒にするなっ、次元が違うだろう」
「同じです」

きっぱりと黒瀬が言い切った。

「だったら、武史はもし、この嫁が勝貴と同じ目にあったら、どうするんだ? 犬を嗾けるつもりか? 嫌がるのに、無理矢理身体を繋げるつもりか?」

あなた、やっぱり、馬鹿でしょ? と黒瀬の視線が一層冷ややかになる。

「ふん、言うまでもない。ねえ、潤。そんなこと、分ってるよね」
「黒瀬なら…俺を抱く…」

潤が回された黒瀬の腕に両手を掛け、黒瀬に、そうだよねと目で語りかけながら涙声で答えた。

「兄さん、潤をオークション会場から連れ出した後、私が何をしたかご存じないんですか? 強姦したんですよ。時枝と二人掛かりで。それこそ、流血騒ぎでしたけどね。それに、あなただって、潤に何をしたか、覚えてないんですか? ショック療法か何かはしりませんが、あんな酷い事しておいて。笑わせないで下さい。何が『勝貴が大事』ですか。バカバカしい。嫌がることはしたくない? 面倒なことはしたくない、の間違いじゃないんですか?」

勇一は黒瀬に言われ、自分が潤にしたことを思い出した。 
それこそ口にするのを躊躇われるぐらい、酷い事をした。

―――だが、

「嫌がることをして、これ以上追い詰めてそれこそ立ち直れなくなったら、どうするんだ? 勝貴は、そこまで強くない。お前だってわかっているだろうが、その嫁は、強いんだよ。芯が強い。だから、あの時だってそれに一か八かで掛けた迄だ。だが、勝貴は、壊れてしまうかもしれない」
「本望でしょ。時枝だって、兄さんに壊されるなら。そっちの方が今の蛇の生殺し状態より、よっぽどマシだと思いますよ。だいたい、今の時枝だって、十分壊れてますよ。兄さんがいないだけで、不安で目がウルウルでしたよ。気持ち悪いったらありゃしない。あの時枝が…親に捨てられた少女みたいな表情。うう…思い出しても鳥肌が立つ……」
「気持ち悪いとか、言うなっ!」
「でも、変ですっ! あんなの時枝さんじゃない。組長さんのせいだ…だから、あんなに寂しそうだったんだ……」

勇一が黒瀬を諌めたら、反対に潤から責められた。
潤は、もう我慢ならないといった感じで、黒瀬の腕から離れると、勇一に近づき着流しの袷を掴んだ。

「おい、こら、このへボ組長、よく聞けよ。時枝さんはな、俺に、『もし仮に救出後、同情され優しくされ腫れ物に触るように接しられてたら、あなた乗り越えられたと思いますか?』って、言ったんだ」

泣いていたはずの潤が、勇一相手に啖呵を切り出した。

「お、おい…」

ここ最近、黒瀬とイチャつく所しか見てなかった勇一は、潤の殺気だった切れ方に、驚きのあまり言葉も出ない。

「こうも言った。『普通に友人や知人なら、あなたに同情して終わりです。優しい言葉をかけ、あれは事故のようなものだから忘れろっていうだけでしょう』 あんた、時枝さんが言った普通の友人か知人と同じじゃないか。そんなあんたを、時枝さんはどう思っていると思う? 同情しかされていないことが、どんなに辛いか分らないのかっ」

時枝が潤に言ったという言葉が、ハンマーとなって勇一の頭を殴りつけた。

「黒瀬はな、俺を嬲り続けたんだよ。中途半端な愛情じゃ無理なんだよ。そんなもので、癒える傷じゃないんだよ。犬が怖いなら、犬以上の存在になってやれよ。排除することが、目を反らさせることが、愛情かよ。時枝さんが弱い? あんたが弱くしてるんじゃないのか? 同情だけで側にいて、あんた、何もしてないじゃないかっ! あんな表情させるあんたはな、最低だっ! あんたに時枝さんの本当の辛さは分らない。酷い目にあったことより、自分を見る目が変わったあんたの同情が辛いんだよ。この薄らボケっ!」

潤の着流しを掴む手に、押す力が加わり、勇一の上半身を突き飛ばした。
勇一の上半身が畳の上に崩れた。

「ブラボー、潤」

パチパチパチと、黒瀬が拍手をしている。
黒瀬は潤を惚れ直していた。
黒瀬が潤に恋に落ちた瞬間のことを思い出す。
黒瀬相手でもヤクザの親分相手でも、いざとなれば、負けてはいない。
いつもは健気で従順な面ばかりが表面に出ているが、潤の本当の姿は男気溢れる九州男児だ。

「いいか、よ~く覚えておけ。これ以上、時枝さんを苦しめるなら、時枝さんは俺達で預かるからな」

立ち上がった潤は、勇一を上から見下ろし最後通告を言い渡しすと、今度は黒瀬の方を向く。
コロッと一変して、いつもの黒瀬を慕う甘えたな表情で、

「黒瀬、いいよね?」

と、お強請りするように問う。

「もちろん」

黒瀬は潤にこれ以上ないぐらいの優しい視線を向け返事をし、情けない格好の勇一に冷ややかな視線を浴びせた。

「うちの潤は最高です。それに比べて…情けない。兄さん、時枝の状態が酷くなるようなら、俺達が兄さんから離しますよ。嫌なら、何とかすればいい。まったく、大事な我が社の戦力だって言うのに…」

ポカンと間抜け面で座り込んだ勇一を尻目に、黒瀬と潤は本宅を後にした。