秘書の嫁入り 犬(34)

「人形を…、組長さんが渡さなかったようなので……、それに代わるものを……、だけど、本当に可愛くて……」
「何となく想像はつきます。もしかして、昨日、本宅からの帰りに購入したんじゃないですか? 勇一に会った後で」
「やはり、時枝さんだ。黒瀬の行動パターンをよくご理解してますね。少し妬けます」
「可愛いことを。少々付き合いが長いってだけのこと。繋がりの深さには負けますから、ご安心を」

時枝の言葉に、潤の顔が赤らむ。

「社長がそれをココに運んでくるつもりなら、申し訳ないですが、タオルを一本用意して下さい。もし、私がショックで痙攣をおこしかけたら、口に咥えさせて下さい」
「…わかりました。…時枝さん、覚悟して戻って来たんですね。そうだと思ってました」

それぐらいのことは黒瀬ならするだろうと時枝は思っていた。
静寂もあとしばらくか、と時枝は潤の煎れてくれたお茶を味わう。
黒瀬の部屋から直通のエレベータが開く音がし、キャンキャンと子犬特有の甲高い鳴き声が聞こえてきた。

「…時枝さんっ!」

湯飲みを持った手がブルブルと震えだした。
その時枝の震える手に潤が上から自分の手を重ねた。

「可愛いんです。大丈夫です。ゲージに入ってますから」

潤が何気なく口にしたゲージという言葉に、時枝の身体の震えは酷くなる。
あの時、ゲージに入っていたの時枝の方だった。
檻の中で何が起ったのか、頭の中でフィルムが流れるように映像が浮かぶ。

「潤、浮気中? 旦那の前で大胆な子だ」
「黒瀬、分ってて冗談言うなよ~」

横五十センチ位の、小さな取っ手付きゲージを抱えた黒瀬が入って来た。中の小動物が相変わらずキャンキャン吠えている。

「本気だけど? 手なんか握り合っちゃって、しかも時枝、目が恍惚状態じゃない?」

焦点定まらぬ時枝は、ヒィー、ヒィーっと、息を吸い込んでいる。

「時枝さん、呼吸、普通にしてっ! 大丈夫だから。あれはトイプードルで、名前はユウイチって言うの。なんなら、組長さんでも、アホでも、バカでも、根性無しでもいいから。危害は加えない。ちゃんと、呼吸して。それじゃあ、ひきつけ前に、過呼吸だよっ! 黒瀬、ビニール袋、一枚っ!」
「やれやれ、最近潤の方が強くて、私はすっかり尻に敷かれてるね。ふふ…それも悪くない…潤が女王さまで、私が僕(しもべ)。よし、今夜はそれでいこう」
「ああもう、黒瀬、早くっ! 時枝さん、吸ったら、吐いて。そうそう、吸ったら、吐く」

一旦ゲージを置くと、黒瀬が時枝のキッチンへビニール袋を取りにいく。

「うちの潤は、産婆さんにもなれそうだ。ふふふ」

潤が親身になって時枝の世話をする姿が、黒瀬には可愛くてしょうがない。
ついつい、からかってしまう。
時枝が大変な状態だが、予想以上に潤の献身的な可愛い態度を見られて、ジェラシーを感じつつも、時枝を本宅から連れ出した甲斐があったと黒瀬の目元が緩む。
何があろうと、黒瀬は潤中心なのだ。
黒瀬が潤にビニール袋を手渡してやると、潤がそれを膨らませ、時枝の口に持っていく。

「時枝さん、この中で呼吸して…そう、ゆっくり…そう、そう…」

時枝の呼吸が治まってくると、潤が時枝の背中をさすり、ゆっくりと袋を外した。

「呼吸、出来ますか?」
「……だい、じょうぶ…です」
「温くなってしまいましたが、お茶です。飲んで下さい」

呼吸は落ち着いたものの、子犬が鳴いているので、時枝の身体から震えは消えない。

「ユウイチ、静かにしなさい。良い子にしないと、丸焼きにするよ?」

黒瀬が子犬に命じた。
黒瀬の目が怖いのか、ク~~~ンと小さく鳴いたあと、子犬は静かになった。

「黒瀬、丸焼きはないだろ? 可哀想だよ」
「でも、ユウイチ大人しくなったよ」

鳴き声が止むと、時枝も少しは平静でいられるようだ。 
目を向けなければ、視界に入ってくることもない。