秘書の嫁入り 犬(31)

「…落ち着け、」

時枝も身体を起こす。ゆっくりと。

「武史は関係ない。…お前だって、自覚はあるだろう? もう、愛せないという…認めるのが怖いだけだ」
「違うっ! 勝手に人の気持ちを決めつけるな。本気で怒るぞ!」

勇一が時枝の肩に手を掛け、揺さぶりながら怒鳴る。

「…じゃあ、どうして…」

穏やかに呟きながら、時枝の手が勇一の寝巻きの間を割る。

「ここは、…こうなんだ?」

下着の上から、勇一の股間を包み込むように時枝の手が置かれた。

「…もう、反応しないだろ? 違うか? もっと言おうか? 俺にだけ、反応しないんだろ?」

馬鹿なことを、と勇一は否定できなかった。
事実だった。
時枝のあまりに凄惨な凌辱シーンを目にして以来、その姿が脳裏に焼き付き、時枝への性衝動にブレーキが掛っていた。
時枝が拒絶するのを素直に受け入れてしまった背景には、勇一自身に問題があったのだ。
時枝が指摘したように、時枝限定で、身体が反応しない。
朝勃ちもするし、テレビでちょっとセクシーアイドルが艶めかしいポーズを決めただけで熱くなるソコは、時枝に触れても近くにいても無反応なのだ。
時枝は、確信していたわけではなかった。
だが、自分が拉致される前の勇一なら、側にいるだけで、ウザイほど股間を脹らませ自分に欲情していた。
自分に気遣い、一人で昂まったモノを処理するならまだ分る。
だが、四六時中側にいるというのに、勇一の目に雄の欲情は一切感じられず、ただ、優しいだけの男になっていた。
そして、先程、自分から仕掛けたキスで、時枝の推測は確信に変わった。

「違うっ!」
「…違わないだろ? 男の身体は正直だからな。いいんだよ、勇一。お前のせいじゃない」

悪いのは自分だと時枝が言う。
苦しめているのは自分だと。

「一緒に寝よう。俺は勇一の体温が好きだ。匂いも好きだ……同情でいい。しばらく、側にいさせてくれればいい……今はまだ、一人が怖くて寂しいんだ…だから、甘えさせてくれ……」
「――勝貴…」

時枝が、勇一の上半身をゆっくりと押し倒す。
暗闇に慣れた勇一の目は、時枝の頬に涙の筋が通っているのを捉えた。
勇一の身体が布団へ沈むと、今度は自分の上半身を倒す。
身体を丸め、勇一の身体に背中をピタッと貼り付くように寄る。
時枝の身体が小刻みに震え、その振動が勇一にも伝わった。
声を押し殺し、泣いていた。
その震える身体を勇一が背後から包み込んだ。
愛しているのだ、と伝えようにも、勇一の身体は時枝の温もりを全身で受け止めても反応しない。
口に出し、否定すればするほど、時枝を傷付ける。
時枝限定じゃなければ、ただの勃起障害として、そこまで傷付けずに済んだだろう。
不甲斐なさで、勇一の目も潤んでいた。

 

一夜明け、時枝は離れの電話を見つめていた。
習慣で五時には目覚める勇一は、時枝が起きた時には、姿がなかった。朝風呂だろう。
空港で携帯を捨ててから出掛けることもなかった時枝は、次の携帯を購入していない。
携帯に限らず、拉致された時に持っていたものは、全てない。
身の回りのものは、全て勇一が用意したものだ。
自宅マンションにさえ、一度も戻ってはいなかった。
電話を掛けようか、どうしようか、と時枝は迷っていた。 
掛ける相手は黒瀬だ。
今後の身のふり方を決めなければならない。
勇一が、自分の世話で組の仕事をしてないことは知っている。
自分を拉致した奴らの目的も知っている。
見事な迄の奴らの思惑通りの展開に、笑いさえこみ上げて来るが、一つだけ、奴らの計算違いがあった。
「黒瀬」の存在だ。