秘書の嫁入り 犬(28)

「時枝さん、何か必要な物があったら、連絡して下さい。持って来ますから」
「お二人とも、ありがとうございました」
「この二人に礼など要らん」

出て行こうとする黒瀬と潤を入れ替わるように、不機嫌そうな勇一が入ってきた。

「…勇一」

勇一の姿に、時枝がホッとしたような表情を見せた。

「黒瀬、時枝さん、変わったね。儚い感じがする…」
「そうだね。兄さんがだらしないからね。全く、あの人は何をやっているのだか」

母屋に戻った二人は、勇一の部屋で勇一が戻ってくるのを待っていた。

「どうつもりだ?」

勇一が離れから戻り、黒瀬と潤の前に姿を現したが、その顔は相変わらず不機嫌そのもので、眉間に皺を寄せていた。

「どういうつもりって、あなたが来いって呼びつけたんでしょう」
「俺のことじゃない。どうして、勝貴に犬の話をするんだ? あんなモノまで買ってきて、嫌がらせにも程がある」

黒瀬の眉が、ピクッと動いた。
そして、冷たい笑みを浮かべた。
口元だけ緩め、形、笑顔だが、目は全然笑っていない。
黒瀬が怒っている証拠だ。

「兄さんこそ、どういうつもりですか? 忙しい中、組の仕事まで押し付けられている俺に、労いの言葉があるわけでもなく、プライベートな時間まで潰させておいて、その顔。不愉快です」

何を、と勇一が黒瀬に詰め寄ろうとしたので、潤が慌てて止めた。

「もう、二人とも、兄弟ゲンカはやめて下さい。組長さん、話があるんでしょ? 二人とも時枝さんのことが心配なら、いがみ合っている場合じゃない。だいたい、犬かネコかは知りませんが、それがどうしたっていうんですか?」

潤が二人を交互に見ながら言った。

「兄弟ゲンカって…潤は可愛いこと言うね」
「どうしたも、こうしたもあるか。……お前は知らないのか」
「知りませんよ。とにかく、座って話しましょう」

潤に促され、二人は畳の上に座る。

「組長さん、俺も家族でしょ? 時枝さんも家族になるんでしょ? だったら、俺にもちゃんと説明して下さい。俺だって心配しているし、さっきの時枝さん、おかしかった。全然怖くない。あんなの、時枝さんじゃない」

潤は真剣だった。
壊れかけた経験を持つ潤は、本能で、時枝が追い込まれていることを悟っていた。
潤の気迫に押され、勇一が簡単にDVDに映っていた内容を潤に話し、その後の症状を詳しく伝えた。

「…そうですか。それで、あの時組長さんは暴れていたのですね」
「潤、大丈夫? できれば耳に入れたくなかったんだけど」

話の内容に潤がショックを受けていないかと、黒瀬が気遣う。

「どうして? 俺達は家族だろ? 映像を見たいなんて、思わない。だけど、俺にも一緒に考えさせて欲しい」
「そうだね。一緒に考えよう…この人では、駄目みたいだから」

黒瀬が勇一を冷ややかに見る。

「…かもしれない。組長さん、時枝さんと、寝てる?」

突然、潤が核心を突いてきた。
黒瀬が訊くつもりだった内容を、潤が戸惑いも恥じらいもなく、勇一に向けた。

「俺は四六時中、離れで勝貴と一緒だ。もちろん、夜もだ。嫌な夢に魘されても起こせるよう、夜も常に一緒だ」
「違うっ! そういう意味じゃない。時枝さんが戻って来てから、セックスしているのかって、訊いてるの」
「あ? セックス…だと?」

そんなことを問われるとは、勇一は思ってもみなかった。 
ふざけているのか、と一瞬思ったが、潤の目が真剣だったので、真面目に問われているのだと理解した。

「あのな、嫁。お前だって、どんな状態で勝貴が戻ってきたか、見ただろう? やっと傷が癒えたばかりだ。しかも、さっきも話したが、あいつが経験したことを考えると、それを思い出させるような行為、出来るはずないだろ。第一、あいつは、俺に傷跡を見せたくないんだ。医者ならまだいいみたいだが、俺には見せたくないようだ。そんなあいつを組み伏せるなんてこと、出来るはずないだろが」

潤の目が、みるみる間に潤んできた。
微かに身体も震えている。
よく見ると、両手をギュッと握りしめ、湧き上がる感情を必死で堪えているという感じだ。

「……信じられない。…組長さん、酷い…」

潤の目から、大粒の涙が溢れ出す。
そんな潤を黒瀬が胸に引き寄せた。

「だから、この人では駄目だって言ったろ?」
「黒瀬…、時枝さん、可哀想過ぎる……、この人、何も分っちゃいない……」

勇一は、とうとう潤にまで、『この人』呼ばわりだ。
どうして二人掛かりで非難されねばならないのか勇一には全く分らず、潤の涙に途惑っていた。