秘書の嫁入り 犬(36)

「…そんな…ことって…。信じられない」

潤の目が潤む。

「絶対、組長さん、愛してる。愛情がなくなるなんてことない。だって、時枝さんと組長さんは、そんな簡単な絆じゃないじゃないか」
「だからかもしれません。絆が深い分、彼のショックも大きかったのでしょう」
「何、大袈裟に考えているの? よくあることじゃない。男は普通、繊細だからね。出産に立ち合ったら、その後、妻を女と見れない、妻以外の人なら勃つけど、妻とは他の女を想像しないと出来なくなったっていう男性は、意外と多いよ」

繊細とも出産とも無縁の男が、口を挟む。

「黒瀬も…もし、俺が女で、出産に立ち合って欲しいって希望したら、そんな風になる?」
「ならない。私は潤がそこからゴジラでも蛇でも恐竜でも妖怪でも宇宙人でも産み落としても大丈夫。私は潤に感じるエロスは潤に何があっても失われることはない…この愛情は普通の人間の愛情とは深さも幅も違うし」

はあ、と時枝が溜息を付いた。

「…勇一は、普通の感覚を持ち、普通に傷付くんです…社長とは違います…繊細なんです」
「分かってるじゃない、時枝。だから、深刻に考えず、兄さんの下半身の情けなさを、嗤(わら)ってやればいいのに」
「黒瀬、それは男として、余計傷付くと思うぞ?」
「楽しいじゃない。ヤクザの組長が、どこまで傷付くか見てみたい。あの人が、潤にしたこともあるし…これって、きっと罰かも…」

時枝と潤が顔を見合わせた。

『まだ、根に持っていたんだ…』

黒瀬の執念深さを改めて思い知った二人だった。

「黒瀬…そのことはもう。でも、組長さん、俺と黒瀬の為には鬼にでも悪魔でもなれるというのに、時枝さんの事となると…」

『…鬼、悪魔って…結局この二人は…?』
時枝は、二人にはないと思っていた共通点を見た気がした。
潤と黒瀬は違いすぎるから惹かれ合ったと思っていた。 
自分の人を見る目がまだまだ甘いと、この時感じた。

『似たもの同士って事か…』

「ふふふ、潤、兄さんの弱点は時枝だね。なのに、愛がないみたいな捉え方されている兄さんって、結構可哀想かも」
「社長っ! 私は別に勇一に愛がないとは申していませんがっ!」
「だけど自分を欲しがってくれない勇一は同情しかない…ああ、俺はもう愛されてない…勇一のバカバカバカ…って、感じだろ?」
「・・・」

その通りだった。
結局自分は、勇一を責めているのだ。
勇一の為に、罠と知りつつ男の言いなりになって、あんな酷い目に遭ったと言うのに…と。
時枝は反論出来なかった。

「ふふ、兄さん同様、時枝もこと兄さんの事になると、物事の判断がちゃんと出来ないよね。時枝、一つ忘れていることがあるよ」
「…何ですか?」
「時枝は勃つの?」
「…なっ、社長っ! なんてこと訊くんですかっ!」

自分のことを振られると弱い。
勇一のことを最初にふられ時より、時枝は赤面だ。

「勃つなら問題ないじゃない。繋がりたいなら、別に兄さんが駄目なら、時枝が兄さんに挿れればいいだけのこと」
「なっ、」
「黒瀬、凄いっ! 天才だっ! 頭良いっ!」
「ふふ、潤に褒められると、何よりも嬉しいね」
「そうか、そうだよね。時枝さんが情けない組長さんを組み伏せればいいんじゃない? ふふふ、楽しそう~」
「ふふふって、市ノ瀬さまっ、社長みたいな笑い浮かべないで下さいっ!」

時枝が照れているのか、途惑っているのか、それとも、自分の一大事を笑いのネタにされていると怒っているのか…とにかく潤がプライベートでは市ノ瀬の姓を名乗っていないことをすっかり忘れ、抗議した。

「黒瀬です! 俺、黒瀬潤ですから。時枝さんも情けない組長さんを捨てる気ないなら、さっさと桐生の人間になれば、いいんだよ」

と潤が口を尖らせる。

「どうなの、時枝。誤魔化しても駄目だよ。勃つの、勃たないの、どっち?」
「……それは、その…勇一とは逆なんです…彼にだけ、身体が反応するようで…でも、触れられると身体が萎縮して」
「ソコも?」
「いえ、ソコは…問題なくて…元々私のは…人様より…」
「何、それ、自慢? だったら問題ないじゃない。兄さんがこれで拒めば、その時は愛情を疑えば良いんだよ。ふふふ、過去に経験しているじゃない。兄さんの中って良いの?」

経験が無いわけではないのだ。
過去に一度、黒瀬の怒りを買い、勇一を時枝が掘る写真を撮らされたことがあった。