その男、激情!123

「大丈夫。言いたい事は分るから。ふふ、潤はやっぱり最高だ」

黒瀬がハンドルから片手を離し、潤の固く握られた拳の上に自分の手を重ねた。

「兄さんが戻ってきたことと、兄さんがどうしようもないバカだってことは別の次元だからね。潤、ありがとう」
「…礼なんて言うなよ。俺だって本当に橋爪には頭にきてるんだ…」

感情的になったことが急に恥ずかしくなり、潤が窓の外に視界を移した。

「いたっ! 時枝さんがいた!」

歩道を爆走する車椅子というのを、潤は初めてみた。 
後頭部しか見えないが、まず間違いないだろう。
脇目もふらず、と言った感じで直進する車椅子を通行人が慌てて避けている。

「先回りしよう」

当たり前だが、ワゴンの速度の方が爆走車椅子より速い。
車椅子の進路百メートル先にワゴンを停め、ワゴンから降りると、車椅子が近付くのを待った。

「前を塞ぐ?」
「そんなことしたら、跳ねられるよ」
「ふふ、私に任せて。仕留めてみせるから」
「…仕留めるって、狩りみたい」
「時枝狩り? ふふ、息の根は止めないから安心して。車椅子は止めるけどね」

危ないからと黒瀬は潤を自分の背で隠すように立つと、暴走車椅子を待つ。

「怪我人出してないか、心配だ」

四、五人出ていても不思議ではない。

「ふふ、軽く二十人はいるんじゃない? 潤、下がってなさい。もう、すぐだから」

赤いマントに向かって鼻息荒く突進する闘牛のようだ。
黒瀬と潤の存在に気付く様子もなく、前だけ見ている。
黒瀬と潤の前に時枝が差し掛かった。

「これ以上は、行かせないよ、」

爆走車椅子が、ヒュ、と黒瀬の前を通り過ぎようとしたまさにその瞬間、

「時枝」

黒瀬の手が車椅子背面のグリップを掴んだ。
飛んでいるハエを箸で挟むような絶妙なタイミングだった。
加速していた車椅子を片手で止めるなど、有り得ない。 
有り得ないが、現実、潤の目の前で起きた。
車椅子に掛る力と摩擦を考えると、それはまさに神の手の動きだった。
そして車椅子の突然の減速により、時枝が前に放り出されそうになると、今度は潤の身体が勝手に動いた。 
自分でも不思議だが、黒瀬の神業に引き寄せられるように、潤は車椅子から飛び出ようとした時枝の前に飛び出し、自分の身体で受け止めた。

「ナイスキャッチ潤、ふふ、さすがだね」
「はあ、自分でも、ビックリだよ」

本当に潤は驚いてた。
黒瀬との連携プレーに胸が高鳴り、いささか興奮状態だった。

「仕留めたのは、結局潤だったね」
「黒瀬が凄かったからだよ」

興奮のせいか、潤の黒瀬を見る目が潤んでいた。
公道だ。歩道だ。
そして、この状況は路上の注目の的だった。
にもかかわらず、
―――見つめ合うこと、三秒。
他人の目など関係ない二人。
―――お互いの唇が引き寄せられること三秒。
注意するはずの人間は、この瞬間は静かだった。
そして、それは当たり前のように重なった。
一度離れた唇が、濃厚なベーゼを求め再度重なろうとした。

「…お、ま、えらぁぁああっ、」

二人の耳に、静寂を破る声が届いた。

「何? ウルサイよ、時枝」

続きをしようとした二人の間で、

「俺の邪魔するなぁああっ!」

怒号が響き、潤の腕から逃れようと身体をくねらせる時枝の首の付け根に、

「んもう、本当にウルサイッ!」

黒瀬の一打が飛ぶ。

「静かになったけど…、潤、続きはあとでね」

と黒瀬が潤にウィンクを送る。
今時ウィンクをする男性は珍しいし、いたとしても気持ち悪いだけだろうが、黒瀬は別だ。
独特の雰囲気を纏う男がすると、それはごく自然だった。

その男、激情!122

「ハァ、ハァ、組長…、」
「退け」

開いた扉の向こうから静かに唸るように言った。

「退きませんよ。組長、一体どちらに行かれるおつもりですか」
「邪魔だ」

一言、言い放ち、目の前を塞ぐ木村めがけ車椅子で突撃した。

「うっ…ツッ、」

―――まさか車椅子にはね飛ばされる日が来るとは…

木村が、派手に尻餅をついた。
車椅子の金具に事務所で蹴られた臑を、遠慮無く弾かれ、声も出ない。
時枝を止めないと、と気だけ焦るが、身体が言うことを聞かない。
尋常じゃない、早く止めないと。
どうする、どうしたらいいっ!
木村は時枝と大喜の会話を盗み聞きしていたわけじゃないが、時枝が尋常じゃないことは、激痛を伴って降り掛かった災難で身をもって感じていた。
誰かに止めてもらわねば、
時枝組長の上をいく人間と言えば…
…究極の選択だけど、仕方ないっ!
木村は携帯を取り出すと、痛みであがった息を整え、決してかけてはならない相手――『組長代理』を表示した。

 

「失礼します。次の会議の資料をお持ちしました」

株式会社クロセの社長室に隣の秘書課からコピーした資料を抱え黒瀬を訪ねると、当の黒瀬は、携帯で通話中だった。

「……それで? 用件は簡潔に、…だから?」

込み入った話のようなので、潤は邪魔しないよう、資料を黒瀬のデスクに静かに置くと一礼して立ち去ろうとした。

「ちょっと待って、」

通話相手に言ったのか、自分に向けられたのか分らず、潤が黒瀬を振り返った。

「ソファに座って待ってて」

潤に向けられた言葉だった。

「困った中年だ。お猿は潤に任せよう」
通話相手は、仕事ではない。
桐生で何かあったのは明白だ。

「――自分達のトップの管理ぐらい、できないの? 全く…兄さんといい、佐々木といい、時枝といい、単細胞集団? アメーバに失礼か。いっそ、三つ巴でドンパチやらせたらいいんじゃない?」

珍しく黒瀬が苛立っている。
会話から推測すると、大喜が見つかったのだろう。

「佐々木を病院から出さないようにして。どんな手を使ってもいいから。出したら、殺すよ。時枝はこちらに任せて、桐生は引続き『橋爪』の捜索」

黒瀬が携帯を閉じた。

「次の会議まで、時間どれくらい?」
「今からですと、ちょうど一時間ありますが」
「じゃあ、その一時間で、元社長秘書の捜索だ。秘書さん、付き合える?」
「…時枝さん、いなくなったのですか?」
「う~~ん、時間がないから説明は捜索しながらね。あと、しばらくお猿をうちで飼うことになるから」
「承知しました。時間がありません。急ぎましょう。既に資料の中身は頭に叩き込んでいますので、ご心配なく」

黒瀬が資料に目を通す時間がなくても、大丈夫だということだ。

「ふふ、ホント、優秀な秘書で助かるよ」

黒瀬と潤が時枝探しに走る。
実際走ったのは車だが、珍しく黒瀬が運転した。
運転だけなら、そこまで珍しくはない。
普段の移動は運転手付きだが、黒瀬が自ら運転することがないわけじゃない。
しかし、レンタカーのワゴン車となると、かなり珍しい。
車椅子ごと時枝を拉致、いや、保護するつもりだ。

「…橋爪、…許せないっ!」

助手席で概要を聞いた潤が、拳を自分の太腿に打ち付けている。
木村が黒瀬に話した内容は、橋爪と大喜が桐生所有のラブホテルの防犯カメラに映っており、駆けつけた時には乱暴された形跡を残した全裸で拘束されていた大喜が残されていたこと。
時枝が一人で大喜と話をしたこと。
その後、異常に激怒した時枝が、止める木村を車椅子ではねとばしホテルと飛びだしたこと。
大きく三つだった。
それを黒瀬が潤に説明した。

「三人を裏切るなんて…。一番起きて欲しくなかったことじゃないかっ、」

三人とは、もちろん、時枝、大喜、佐々木のことだ。

「橋爪も、時枝の身体を知っているわけだから、間違ってもお猿には手を出さないと思ったけど…」
「佐々木さんが知ったら…。まだ、知らないよね?」
「病院に置いてきて正解だったよ。今知ったら、時枝だけじゃなくて、佐々木も飛び出しそうだしね。ああ、んもう、世話を焼かせる面々だ。潤、ゴメンね」
「どうして、黒瀬が謝るんだよ」
「認めたくないけど、兄さんだからね。あの亡霊は戻って来ない方が良かったかもね」
「違うっ! それは違うッ!」

潤が黒瀬に声を荒げるのは珍しい。

「戻って来て良かった?」
「…ダイダイのことは絶対許せないっ! 時枝さんをこんなに傷付けたことも許せないっ! 佐々木さんが知ったら、桐生は解散の危機かもしれないっ! でも、戻らない方が良かったなんて、絶対ない。クソッ、俺、何が言いたいんだ」

感情が先走り、上手く言葉に出来なかった。

その男、激情!121

「…私です、時枝です」

ベッドの上に、小さな山があった。
左右に揺れる山。
姿は見えないが、その山の正体は大喜だと分っている。

「毛布、剥がしますよ」

車椅子から手を伸ばし、一気に毛布を取った。

「!」

絶句。
思考がその一瞬止まった。

「ぅう、…ぐ、うううっ、」

性交の痕を生々しく残した全裸の大喜。
手と足を縛られ、猿ぐつわまでされ、転がっていた。 
時枝を認識すると、怒りと絶望が混じり合った目を唸りながら向けた。

「…大森、――なんてことだ…」

時枝が素早く大喜の口に渡った布を解く。

「ぅうわぁあああああ――っ」

自由になった口から、大喜の泣き叫ぶ声が解き放たれた。

「ああーっ、死ぬっ、俺、俺っ、」

首を左右に激しく振り、死ぬ、死にたい、を繰り返す興奮状態の大喜。
時枝は車椅子から立上がりベッドに移動しようとしてバランスを崩し、泣き叫ぶ大喜の横に尻餅を着くように腰から着地した。
自分の横に時枝が座っても、大喜の興奮状態は続いていた。
片手しか動かせないので、その手を大喜の頭の後ろに回すと、自分の胸に大喜の上半身を引き寄せた。

「…落ち着いて、」

時枝の胸には吊られた腕があり、その上に大喜の頭が乗っている。
時枝には激痛が走っていたが、その痛みを無視し、時枝は大喜の興奮が鎮まる迄待った。

「っ、っく…、――っく、…、…、」
「あなたが死んでどうするんですか。哀しむのは誰ですか? 佐々木ですよ。佐々木を苦しめたいのですか?」
「……生きてても、苦しめるっ! 俺、…俺、…裏切った」
「違うでしょ。大森の意思じゃない。こんな目に遭わせた勇一が悪い。死ぬなら、あなたじゃなくて、勇一です」
「…っ、…でも、あいつはっ、」
「橋爪でも、勇一です。私が勇一の手で命を落とすのは構いませんが、大森をこんな目に遭わせたことは許せません。許せるはずがないっ!」

時枝の身体が怒りでブルブル震え出した。

「…時枝、…さん」

大喜が時枝の震えを感じ、泣きっ面で見上げた。

「いくら橋爪だからといって、こんな行為を許せるはずがないっ! 息の根を止めてやる」
「…いや、――ソレは…」

時枝は橋爪が大喜を犯したと思っていた。
時枝の顔が般若のように見え、大喜はゾッとした。
本当に殺すかもしれない、こりゃ、ヤバイ、と大喜に思考が戻って来た。

「俺のケツ掘ったの、アイツじゃない。…橋爪じゃない…から…」
「勇一、自らですかっ! あのヤローーーッ!」

ヤバイ、と大喜が思った時には遅かった。
大喜を自分の胸から放り出すと、曲芸のような早業で車椅子に戻った。
車椅子が必要な人間とは思えぬ俊敏な動きを見せる時枝。
大喜が呆気にとられているうちに、時枝の乗った車椅子は大喜の視界から消えた。

「ちょ、ちょっと、時枝さんっ! 待てって」

追い掛けようにも、手足の拘束は解かれていない。
大喜はベッドから床にぐるっと転がって身体を落とすと、大声で叫んだ。

「誰か、時枝さんを止めてっ!」

驚いたのは、木村とスキンヘッドだ。
大喜の叫び声とほぼ同時に鬼の形相の時枝が車椅子で飛び出てきた。
そのままグルッと木村の前で方向転換すると、エレベーターに向かう。
木村が慌てて時枝を追い掛けたが…時枝は既にエレベーターの中に乗っていた。
間が良いというか悪いと言うか、ちょうどエレベーターが四階に止まっていた。
木村の目の前で扉が閉まる。
こりゃ、階段だ、と非常口に回った。
数段とばしで階段を駆け下りると、時枝が乗ったエレベータより数秒早く着いた。

その男、激情!120

それは木村と時枝が、橋爪の潜伏しそうな場所を地図を広げて検討しているところだった。
木村の携帯が突然ネコ型ロボットアニメの主題歌を奏で始めた。

「はい、俺だ。なんだとぉ? それは本当か? 間違いないんだな? で、その男は組長か? …直ぐ行く。応援は呼ぶな」

童顔の木村が、嶮しい顔で携帯を閉じた。

「勇一か?」
「はい、現われました。うちのホテルの一つに組長が、あ、その、橋爪が。防犯カメラに映っていたそうです。それと、そのホテルに大森が置き去りに……」

それから先は、報告したくないのか、木村が視線を時枝から反らした。

「大森は無事ですか?」

時枝が、車椅子で木村に詰め寄った。

「命に別状はありませんっ。直ぐに出たいので、腕のたつ者を至急戻しますっ!」

携帯を慌てて開いた木村の臑を、車椅子に座ったままで時枝が蹴った。
歩行訓練の成果は木村の悲鳴で証明された。

「必要ない。私も一緒に行く」
「駄目ですっ! それは駄目ですっ。連れて行けませんっ!」

木村は必死だった。

「この目で大森の無事を確認します。何か問題がありますか?」

木村の様子からあることは分っている。

「……あります。いえ、ありません」

木村が聞いた内容では、大森は明らかに乱暴を受けている。
考えられる相手は一人なだけに、その姿を時枝には見せたくなかった。

「何を心配しているのかは知りませんが、私は佐々木とは違います。大丈夫です」

そうだ、若頭が戻ってなくて良かった…、まだ時枝組長の方がマシかもしれない、と木村は時枝の発言を素直に言葉通りに受け取ってしまった。

 

 

「…懐かしいな」

従業員用の駐車場に着いた時枝は、建物の汚れた壁を見ながら目を細めた。
桐生の所有物ではあるが、組長として時枝が直接出向いたことはなかった。
この中に足を踏み入れるのは何年ぶりだろう。
そう、あの時も、裏から入って行った。

「利用されたことが?」
「高校生の頃に。勇一と…」
「えっ! そんな昔からお二人は、そういう関係だったんですか!?」

車椅子を押す木村の手が止まった。

「バカなこと言わないで下さい。気持ち悪い。高校生のアホの勇一と私が何かあるわけないでしょ。バイトです」

当時とは、自分の状況も含め何もかもが変わってしまった。
バカやっていたあの頃には戻れないが、今も昔も勇一に振り回されているところは同じだ。

「大森の所に急ぎましょう」

バリアフリーにはなっていないが、建物内は木村の手を借りずとも、車椅子での通行に問題はなかった。

「遅い! 置いていきますよ」

エレベータに先に乗り込んだ時枝が、木村を急かす。

「何階の部屋ですか?」
「412なので、四階です」

あの度アホは、大森をラブホテルに連れ込んで、何をしようとしていたんだ。
時枝のこめかみがピク、ピクッと電流が皮膚の真下に流れているように撓る。
直ぐにエレベーターは四階に着いた。
降りると、部屋番号を見なくても、どの部屋に大喜がいるか直ぐに分った。
スキンヘッドの厳つい顔が、エレベーターから右に三つ目の部屋の前に、門番さながら立っている。

「組長っ! …どうして、ここに」

時枝の顔を見て、スキンヘッドが困惑した顔になる。
木村同様、時枝には見せたくないと思っていた。
それともう一人、見せられない人間がいる。

「若頭は…、」
「教えてない。安心しろ」

木村が答えた。

「大森の様子は?」

時枝が訊いた。

「…痛々しい、というか、生々しいというか。俺が触るわけにもいかないので、毛布だけ掛けています。…あの、組長は会わない方が…」
「ドアを開けて下さい。私が呼ぶまで木村も入らないで下さい。それから、どんな姿か知りませんが、見たことはこの場で全部忘れて下さい。いいですね。大森の名誉の為です」
「はいっ! 忘れますっ。大森の名誉は俺が守りますっ」

時枝は開けてもらったドアの前で、一旦深呼吸をし、それから一人で中に入った。

その男、激情!119

(いよいよ、最終巻です!)

時枝が桐生第一事務所で、佐々木が脳の検査を受けながら、潤と黒瀬が社長室で会議資料に目を通しつつ、各々案じているのは橋爪と大喜の事だった。
その橋爪と大喜は、二人揃ってラブホテルの一室にいた。

「蓑虫状態で暴れるなっ」
「んぐぅ、ぐっ、ぐうう、ぐ」
「ナニ言ってるが全然分らん。大人しくしろ」

ダブルサイズのベッドの上で、肌に裂傷を散らせた大喜が、猿ぐつわをされ、両手両足を紐で括られ自由を奪われた形で、激しく左右に転がっていた。
大喜の肌を傷付けたのは橋爪ではないが、動きの自由を奪ったのは橋爪だった。
何故なら、大喜が「騙したっ」とか「死ぬ」とか「殺せ」とか泣き叫びながら全裸で暴れ出し、手が付けられなかったからだ。
仕方がないと鳩尾殴って気絶させ、意識がない間に裂いたシーツを紐にして、身体を拘束したのだ。

――ったく、初動ミスを犯したのは俺じゃないだろ。

覚醒してからずっと自分を恨めしげに睨み、転がり続ける大喜に全く同情しないわけではないが、こうなったのも大喜のミスだと橋爪は思っていた。
金さえ手に入れば良かった。
大喜が犯られる直前に、現場を押さえて金をふんだくってやるはずだった。
が、その邪魔をしたのは、一枚の扉だった。

「良く聞けっ、ガキ」

と言って、大喜が聞くとも思わなかったが、橋爪は続けた。

「俺はちゃんとギリで助けてやるつもりだったけど、そうさせなかったのはお前だ。ドアを閉めたら、どうやって外から入るんだ? 外からは開かないことぐらい、分るだろ」

大喜の動きが止まった。
だが口からは籠った音が漏れたままだ。
何か反論があるようだが、舌を噛み切られたらコトなので、猿ぐつわを外してやらなかった。

「ドアガードを噛ませておけばよかったんだ。入室する時、客の目が気になって無理だったんなら、隙を見ていつでも出来ただろ、それぐらいのこと。そうしたら、いつでも踏み込めたんだけどな。諦めろ。時間は戻らないし、犯られた事実も変わらない。だが、喜べ、一つだけいいことがある」

急に大喜が静かになる。

「金はたんまり頂いた」

その言葉はグサッと大喜の心を抉った。
金と佐々木への当てつけで、やってしまった過去と同じ理由でまた男と…
大喜が唸り、怒り露わにした目から水分を飛ばし、また激しく動き始めた。
橋爪に向かって突進したいようだが、思うようにバランスがとれないらしい。
大喜が身体を揺らす度に、彼の太腿を伝って客が残したモノがベッドを汚していた。 
自分の体温で温度を保ったソレが皮膚の上を滑る不快感が、自分を責めているように大喜には思えた。
佐々木の元に、本当に帰れなくなった。
佐々木にあわせる顔がなかった。
橋爪の指示とは言え、自ら客を連れ込んだのだ。
そして、口に出せないようなサディスティックな行為の数々に最後は自分でも感じ、何度も射精してしまったという事実。
自分より酷い目にあっている人間は五万といると思える余裕が大喜にはなく、佐々木への詫びと、佐々木との先がない絶望感だけが、大喜を占めていた。

「悪いが計画変更。もっと役に立ってもらうつもりだったが、足手まといだ。死にたいなら、俺が消えてからにしろ」

連れ出すにしても、人目を惹く。
紐を解くと暴れそうだし、猿ぐつわを外せば叫き散らしそうだし、また気絶させても抱えていかねばならない。

「じゃあな」
「んぐっ、ぐううっ、うぐぅっ、」

ベッドの上に、裸で転がる大喜を残したまま、橋爪は部屋から出て行った。

その男、激情!118

「佐々木さんの容体は? 悪いの?」

救急専門受付の待合室に座る木村を潤が見つけた。
祈るように両手を組み瞼を閉じている木村から返事はなかった。
一緒に来た黒瀬が、木村の耳元で『殺すよ?』と一言呟くと、

「出たぁッ!」

と跳び上がった。
寝ていたらしい。

「シッ。ここ、病院。人を化け物みたいに言うのは、どうかと思うけど? 仕事サボって寝ていたと時枝に告げ口しておくからね」
「…時枝、さん?」
「木村さん、時枝さんはマズイと思う。今日からまた時枝組長だから。もう、事務所に組長として顔を出している」

どうして、時枝に告げ口なのかという木村の疑問を即座に潤が解消する。

「――どうして? 勇一組長は?」
「どうして? それは木村のせいだから。佐々木のせいもあるけど」
「俺と若頭のせい? …どういうことですか?」
「そこは、些細なことだから省略。それより潤の質問に答えてないんだけど。それは、潤の質問にはバカバカしくて答えられないという意味?」
「質問?」

訊かれた時、寝ていた木村には、潤からの質問を受けた覚えがない。
聞いてないと言えば、目の前の男からそれこそ殺されそうだと必死でこの状況下から逃げる言葉を探した。 「バカバカしいなんて、滅相もございませんっ。え~っと、ですね…、それはですね、あのぅ、…そうそう大きなコブが出来てまして」
言いながら、二人の様子を見る。自分の回答の方向性があっているのか二人の表情で確認するしかなかった。
だが、黒瀬は表情を変えないし、潤は時間が気になるのか腕時計を見ていて、いまいち表情が掴めない。

「木村さん、俺も黒瀬も遊んでる暇はないんです。聞いてなかったんなら、そう言って下さい。寝ていたのに聞いてるはずないじゃないですか」
「申し訳ございませんっ。聞いていませんでしたっ!」

唾を飛ばし、木村が潤に謝罪した。

「木村、佐々木に似てきてよね。脳味噌が腐食し始めてる?」
「はいっ! 仰有る通りです」

木村は受け答えを完全に間違えていた。

「それで、佐々木さんの容体は?」

木村の返事などどうでもよかった。
潤は一人残してきた時枝が心配だったし、佐々木の様子も気になるし、午後からは黒瀬に仕事もさせるつもりだった。
さっさと肝心なことを言えと急かすように訊いた。

「大きなこぶができています。でも、こぶ自体は大したことはないとのことです。ただ、ちょっと問題がありまして。意識がないまま診てもらってたんですが…囈言で・・・そのう、まあ、…なんといいましょうか、きっと大森のことを心配しているからだと思いますが…風貌に似合わないことを呟いていまして…、念の為に脳の検査に回されています」

と、説明する木村の顔が赤くなる。
余程、恥ずかしい事を洩らしたのだろう。

「検査に時間が掛っているようで、…あとはまだ説明が、」

木村がまだ話している途中だったが、三人の耳に知っている男の濁声が飛び込んで来た。

「離せっ! こっちは多忙なんだっ。異常などあるかっ! ダイダイがっ! 俺をダイダイの所に行かせろッ!」
「離しませんっ! まだ検査が終わっていませんっ!」

声がする方へ視線を移すと、恰幅のいい看護師二人に両腕を取られ暴れている佐々木だった。

「全くあのゴリラはしょうがないね。もう木村は用無しだから」
「…でも、若頭が…」
「木村さんは、至急、組にお戻り下さい。佐々木さんのことは黒瀬と俺で足りるから。それよりも一人になっている時枝さんが心配。橋爪にまた狙われるかもしれない」
「どういう事ですかっ! また、組長がっ、あっ」

慌てて木村が自分の口を両手で塞いだ。

「今の組長って、兄さんのこと? ふふ、木村は気付いてたんだ。兄さんと橋爪の関係」
「あ、いや、その…、若頭の近くにいるので…。喫茶店で橋爪と思われる男も見ていますし…総合的に考えて」

寿命を縮めるような失言に、木村は怯えていた。

「若手ナンバーツーと呼ばれるだけの頭は持っているということらしいね」
「もう、組の人、みんな知ってるけどね。さっきその話になったから」
「え?」

助かった、と思った。
自分だけじゃないなら、咎めはないだろう。

「でも、その勘の良さは頂けないね。しかも気付いていること、我々に言わなかったことも。ふふ、信用できない組員ってことじゃない?」
「な、な、な…何を、仰有っているんですかっ。信用して下さいっ!」
「慌てるところが、怪しいね。ふふ、信用して欲しいなら、サッサと組に戻って、時枝の命を兄さんから守ることだね」

はい、と言うが早いか、走り出すのが早いか、あっという間に木村は待合室から消えた。
一方でまだ暴れる佐々木と看護師のやり取りは続いていた。

「黒瀬、アレ、どうする?」
「ゴリラは二分で片付けようね」
「二分?」
「一分でも足りると思うけど、ちょっと待ってて」

潤を置いて黒瀬が佐々木の元へ行く。

「煩いよ、ゴリラ」
「…ボ、ン」

黒瀬の出現で、佐々木が大人しくなった。
黒瀬の顔が一瞬で冷やかになったのを見て、自分の失言にも気がついた。

「さっさと検査を受ければ?」

ヤバイと、冷や汗を垂らしている佐々木に、黒瀬が冷たく言った。

「看護師さん、どうぞ、このゴリラ連れて行って下さい」

佐々木の時とは違い、紳士的な顔を恰幅の良い看護師二人に向けると、彼女達の顔が赤らんだ。

「アッシはもう大丈夫ですからっ」
「ふ~ん、ゴリラに何かあったら、小猿は誰が助けるんだろうね。頭は怖いからね。兄さんみたいに、急に大事なことを忘れるかもしれないよ。助けるはずが、自分の手で殺めたりして~。それでもいいなら、一緒に来れば?」

と言うと、黒瀬は佐々木から離れた。
途中、

「来ないの?」

と黒瀬が佐々木を振り返ったが、佐々木はばつの悪そうな顔で、顔を横に振った。

「ふふ、二分掛ってないよね?」
「1分18秒。さすがだ~、黒瀬。惚れ直した」
「じゃあ、秘書さん、あとでご褒美くれる?」
「…仕事が終わったら、タップリと。ゴホン。社長、仕事の時間です」

潤と黒瀬は佐々木を病院に残し、クロセ本社に向かった。

 

その男、激情! 最終巻へ続く

 

その男、激情!117

「それで、…あのう、…若頭と木村は?」

スキンヘッドの問いに、時枝からはあ~と、深い溜息が溢れる。

「お茶を一つ、…いや、三つ。…やはり、一つ。喉が渇きました」

スキンヘッドへの回答は後回しのようだ。

「一つって、私と潤に出すお茶はないということ?」
「はい。その通りです。もう私は大丈夫ですから、ここで遊んでないで会社に行って下さい。午後の業務には間に合う時間です。もし、少し遠回りしても構わないようでしたら、」
「佐々木さんの様子、でしょ? 大丈夫、俺と黒瀬で見てくるから。任せておいて」

最後まで潤が時枝に言わせなかった。

「本当に、潤さまはここ数年で成長しましたね。先も読める。クロセはこの調子だと安泰ですね」

時枝に褒められ、潤は照れ臭かった。
そして、黒瀬は、

「当たり前じゃない。私の側に潤がいて、クロセに何かあるなんて有り得ない」

潤を褒める時枝にジェラシーを覚えていた。

「はあ、それに比べて…桐生は…」

問題が山積だ。
やっと勇一が組長に復帰したかと思った矢先にこれだ。
組のこれからを思うと正直頭が痛い。
これから二人の間と桐生の内外で、起こりうる問題は数知れないだろう。
嘆きながらも、どこかに今の状況を少し楽しんでいる自分も時枝は感じていた。
何故なら、勇一の生死を杞憂した辛い時期は過ぎ、今の憂いは、勇一の命があってのことなのだ。
だが組員の目には、時枝の溜息とボヤキは、十分に同情に値するものとして映った。

「大丈夫ですっ、組長!」

皆が、黒瀬と潤を押し退けるようにして時枝の側に駆け寄った。

「そうですよ、組長っ!」
「この三年で、時枝組長も俺達も絶対成長してますっ! だから、俺達の凄さを『橋爪』なんかになっちまった勇一組長に見せてあげましょうっ!」
「時枝組長バンザーイッ!」
「桐生組バンザーイッ!」

時枝も黒瀬も潤も、組員達のこの盛り上がりは想定外だった。

「…黒瀬、俺達は、おいとましよう」
「そうだね。バカが伝染すると困る」

時枝は二人が立ち去ろうとするのを、自分一人にこの状況を押し付けるのかと恨めしげに見ていた。
だが、時枝の杞憂より、彼等の盛り上がりは一つ上を行っていた。

「行くぞ、てめ~らっ!」
「オーッ!」
「一刻を争う事態だっ!」
「オーッ!」

入口に向かう黒瀬と潤をはね除けた集団が、あっという間に姿を消した。

「…俺がお茶、煎れましょうか?」

頼んでいたお茶も煎れてもらえず、出て行った集団に呆気にとられていた時枝に、事務所を出そびれた潤が気を利かせた。

「お茶? ぁあ、結構です」

ドッと疲れが出たのか、時枝は机に突っ伏していた。

「命を狙われている時枝を一人にして全員で出掛けるとは、ふふ、ホント、成長しているよね」
「…黒瀬、俺達も早く行こう。佐々木さんも気になるし、木村さんを時枝さんの側に付けた方がいいと思う」
「はあ。成長しているのが、潤さま一人とは…。いや、彼等を信じてやらねば…」
「バカな子も可愛いっていう、親心? ふふ,バカな兄さんを捕まえるには、釣り合いがとれていいんじゃない?」
「そうですね。否定しませんが、あれでも優秀な面も持ち合わせていますので。早くお二人も仕事に戻って下さい」

バタンとドアが閉まり、静かになった事務所内に、時枝の深い溜息だけが響いた。

その男、激情!116

「あなた達、この非常事態に、妄想浮かべて何好き勝手言っているんですかっ! ダブル不倫? 道ならぬ恋? 心中? そんなことあるわけ無いでしょっ!」
「そう?」

だって、今小猿の側にいるのは、橋爪じゃない? と黒瀬の短い言葉には含まれていた。

「あるとしても、ただの摘み食いですっ!」
「あれ? 摘み食いだったらいいの?」
「いいはずないでしょっ! 勇一であろうと、橋爪であろうと、許しませんっ!」

どうして、ここで、橋爪が出て来るんだろう? と組員達の頭に疑問符が浮かぶ。

「――あの、時枝さん。橋爪のことは…そのなんというか、皆さん、」

恐る恐るといった様子で、潤が時枝に伺いをたてる。
知らないはずだ。
勇一が戻って来た話と、勇一と橋爪が同一人物だという話は別だ。

「ふふ、兄さんが橋爪だなんて、知らないよね」
「社長!」
「黒瀬っ!」

スルッと飛び出した黒瀬の言葉に、時枝と潤が同時に声を上げた。
慌てた二人をよそ目に、組員達は黒瀬の言葉の意味が瞬時には理解出来なかったようだ。

『――勇一、組長が…、橋爪? 今、元代理はそうおっしゃったよな?』
『そう聞こえた』
『橋爪って…時枝組長を撃った犯人だったよな?』
『昨日俺達、組長の命令で橋爪という男の目撃情報集めるように言われた…その橋爪?』
『ソレって…ソレって…勇一組長が、橋爪という男なら…、大変な事じゃないのか?』
『…時枝組長を、銃撃したのが、』

コソコソ始めた組員達が、一斉に息を呑む。

「ははは、ははは、ははははは」

乾いた笑いをたてながら、お互いを小突き始めた。

「そんなわけ、あるはず無いじゃないか」
「そうだ、そうだ、あるはずない。俺達をからかわないで下さいよ、元組長代理」

脳が麻痺しているのか、普段は緊張してまともに会話もできないはずの黒瀬に対し、かなりフレンドリーな口調だった。

「あるんだけど」

その黒瀬の一言で、事務所内が一気に静まりかえった。

「…探せねばならない。早急に勇一と大森を。だから、みんなには一致団結して私に協力して欲しい。このことが…橋爪と勇一が同一人物と他の組にばれる前に、我々の手で二人を捕まえる」

沈静且つ重々しく、時枝が言った。
冗談は含まれてないのだと、皆、悟るしかなかった。

「組長、一つ伺っても」

組員を代表するように、スキンヘッドが口を開く。

「昨日の勇一組長の様子からして、ご自分が橋爪とは思ってないんじゃ…」
「その通りです。勇一は本気で橋爪を見つけ出し、私の仇をとろうとしていた。でも、勇一なんだ。人格がどうとか、記憶喪失とかそういうことはどうでもいい。橋爪は自分を勇一とは認めない。勇一は自分が橋爪で、私を撃ったとは思っていない」

時枝に突き付けられた現実の残酷さに、組員達は顔を見合わせたが、それについては何も言えなかった。
信頼し、惚れた男から殺されかけた現実を淡々と語る時枝に、やさぐれどもの胸が痛んだ。

「…今、行方不明なのは…どっちなんですか?」
「多分、橋爪でしょ」
「じゃあ、今、勇一組長は、俺達の敵?」
「敵とか味方とか…そういう次元の話をしていても意味が無い。とにかく、二人を早急に捜し出す。優先順位は大森の保護だ。そこを胆に命じておいて下さい」
「ふふ、小猿を遠ざける方が先っていう所に、時枝の嫉妬を感じるけど」

茶化すなと、レンズ越しに時枝が黒瀬を睨む。

「彼は一般人です。巻き込む方がどうかしている」
「佐々木と関係がある以上、一般人というのもどうかと思うけど」
「でも、佐々木さんとの関係は、今微妙だから…一般人扱いでいいんじゃないの」

話が別の方向に反れそうなのを、時枝がゴホンと咳払いで遮った。

その男、激情!115

「時枝、組…元組長ッ! ゲッ、組長代理ッ!」

桐生組第一事務所。
昨日が勇一復帰の第一日目で、今日も当然ボロを出さないようにしなくては、と朝から緊張していた組員達の視界、ホッとする顔と更なる緊張を強いる顔が同時に飛び込んで来た。

「ゲッ? 誰、今の声」

訊かなくても誰の声かもちろん黒瀬には分かっていた。
その証拠に、声の主だけに冷やかな視線を向けていた。

「社長、うちの組員を脅さないで下さい」
「脅してないじゃない。気分の悪い人間がいるようだから、確かめようとしただけ。だいたい、この組の人間は、朝の挨拶もできない小学生以下の集まりのようだから」
「黒瀬、それは違うぞ。幼稚園に通っている子どもでも、お早うございます、ぐらいは言える」

黒瀬の横から、潤の訂正が入る。
それを聞いて、車椅子の時枝が「はあ~、」と深い溜息を吐いた。

「皆さん、挨拶ぐらいして下さい。身体が強張っていても、挨拶ぐらいできるでしょ」

黒瀬の視線を受けているのはたった一人だが、その光景に、他の者も次は自分達じゃないのか、と直立不動で固まっていた。

「お、はよーございますっ!」

一斉の挨拶に、潤だけが

「お早うございます」

と返し、黒瀬の興味は別のものに移っていた。

「ふふ、懐かしいね。しばらくココに座ろうかな?」

黒瀬が時枝の側を離れ、組長の椅子に座る。

「ダダダ、ダメですっ!」

組員の中にも気骨ある者がいるらしい。
黒瀬の前方にスキンヘッドが一名飛び出して来た。

「ダメ? どうして?」
「そこは、組長の席ですっ!」
「組長って? 誰のコト?」
「勇一組長ですっ!」
「だってさ、時枝」

ここで、俺に振るか? と時枝が黒瀬を睨む。
車椅子を黒瀬が座っている椅子の横に寄せた。

「退いて下さい。ここは、あなたの場所ではないでしょ」

はいはい、と黒瀬が席を立ち、ついでに椅子を机から離し、時枝の車椅子がそこに収まるようにした。

「ついこの間まで私がここに座っていたが、――もう座ることはないと思っていたが…、非常事態となりました。しばらく、また私が組長に復帰します」
「勇一組長は?」
「行方不明です」
「行方不明? ぇええ? 戻って来たばかりじゃないですかっ」
「行方不明です。しかも、勇一だけではなく、大森もです。一緒だと思われます」
「ソレって…、まさか…、嘘でしょっ!」

皆が一斉に時枝から目を反らし、何やらコソコソと始めた。

『…若頭、とうとう、捨てられたんだ』
『…組長がお戻りになってから、大森のヤツ、出て行ったし…何かあると思ってたんだ』
『俺もっ! でもさ、勇一組長には、時枝さん、いや、時枝組長がいらっしゃるじゃないか』
『でもさ、若い子と浮気するって、気持ち分からなくもない…お前だって、古女房より、若いキャバクラ嬢と、一緒になりて~って、ぼやいてたじゃないかよ』
『だがよぅ、昨日こそ、勇一組長、橋爪を探せと俺達に指示してただろ? なのに色恋で姿消すか?』
『だから、時枝組長の銃撃犯を探すより大森の方が大事だ、ってことだろ。それか、大森が、一緒に来てくれないと死ぬとほざいたとか…』
『つまり、時枝組長も捨てられたってことか? 泥沼のダブル不倫? すげぇ~っ!』

「ふふ、ダブル不倫? 道ならぬ恋を貫き通す為に心中とか?」

『心中! ヤバイだろ、それ。 …うわっ、組長代理ッ』

黒瀬の参加に、密談の輪が散る。

「ヤバイのは、皆さんじゃない? 時枝さんのこめかみが――」

潤の声に、皆の視線が時枝に戻る。
眼鏡のフレームの上に浮かぶ青筋がピクピク撓っていた。

その男、激情!114

「あの人、金持ちそう…。あんた、どう思う?」

大喜が橋爪に耳打ちをした。

「商社の部長クラスって所か? 腕時計も金になりそうだ。行け」
「――あんた、約束守れよ。ちゃんと助けろよ」

約束?
約束しろ、とは言われたが、交わしてはいない。
バカなガキだ。

「ああ。任せとけ」

橋爪の返事で大喜の足が動く。

「あ、ごめんなさい」

ターゲットに選んだ男は、パッと見、秘書時代の時枝を彷彿させる、細いフレームの眼鏡を掛けた神経質そうな顔をしている。
わざとらしく大喜が前からぶつかった。
男の手から鞄が離れ、地面に書類が散らばった。

「君、故意だろ?」

書類を掻き集めようと伸ばした大喜の手首を男が掴んだ。

「痛いっ!」
「どこの会社の依頼だ?」
「わけわかんねーっ! 離せよ」
「この鞄に、ディスクは入ってないぞ」

企業スパイと間違われたらしい。
手首がギュッと捩られ、大喜はやってられね~と、橋爪に視線を向けたが無視された。
続行しろ、ということだろう。

「勘違いするなよ。わざとなのは認めるけどっ、違う方面だっ!」
「はぁ? なんだ、違う方面とは」
「説明するから、手を離せよ」

手首は解放されることはなかった。
しかし、力は緩んだ。

「俺と遊んでくれないかなと思って…、オジサン、金持ってそうだし…」

言いながら、意味わかるだろとラブホテルの看板に視線を向けた。

「ソッチ駄目な人?」

男の手が大喜の手首から顎に移った。
顎を掴むと、品定めをするように、大喜の顔をマジマジと見た。
嫌な視線だ。
時枝に似ていると思ったが、それは間違いだった。
値踏みをするような視線に、人間らしい温かみはこれっぽっちもなかった。
黒瀬とも違う冷酷さを感じた。
その違いを言葉で説明することは出来ないが、狡賢くのし上がってきたエリートであることは間違いないだろう。

「いいや。小遣いが欲しいのか?」
「ああ」
「年は?」
「二十一」

正直に言う必要はなかったのに、バカ正直に答えてしまった。
若い方が飛び付くんじゃないのか?

「見えないが。まあ、本当だと受け止めよう。成人している方が、都合が良い」
「遊んでくれるの?」
「幾らだ?」
「多ければ、多い方が良いんだけど」
「イイ仕事できるなら、幾らでも出してやろう。好みの顔だ。さっさと拾え」

最後の言葉の意味はすぐにわかった。
書類を拾え、という意味だ。
顎を掴んでいた手が、今度は大喜の後頭部に回り、地面に顔が付くんじゃないだろうかというぐらい押さえ付けられた。
コノヤローッ! という言葉を胸になんとか押し留め、大喜はアスファルトの上に広がった紙を拾った。
【社外秘】【持出禁止】のスタンプが目に入ったが、変に首を突っ込むのは得策ではないと、男に問うこともなくサッサと拾い集めた。

「全部拾った」
「行くぞ」
「ちょ、ちょっとぅ、」

ありがとう、の一言もナシかよ。
男が先にホテルに向かって歩いてく。
金が欲しけりゃついてこい、と言っているような太々しい後ろ姿だった。
橋爪を見ると、行け、と顎で合図された。
ちゃんと助けてくれよ、と橋爪に視線で訴え、男の後を追った。