「大丈夫。言いたい事は分るから。ふふ、潤はやっぱり最高だ」
黒瀬がハンドルから片手を離し、潤の固く握られた拳の上に自分の手を重ねた。
「兄さんが戻ってきたことと、兄さんがどうしようもないバカだってことは別の次元だからね。潤、ありがとう」
「…礼なんて言うなよ。俺だって本当に橋爪には頭にきてるんだ…」
感情的になったことが急に恥ずかしくなり、潤が窓の外に視界を移した。
「いたっ! 時枝さんがいた!」
歩道を爆走する車椅子というのを、潤は初めてみた。
後頭部しか見えないが、まず間違いないだろう。
脇目もふらず、と言った感じで直進する車椅子を通行人が慌てて避けている。
「先回りしよう」
当たり前だが、ワゴンの速度の方が爆走車椅子より速い。
車椅子の進路百メートル先にワゴンを停め、ワゴンから降りると、車椅子が近付くのを待った。
「前を塞ぐ?」
「そんなことしたら、跳ねられるよ」
「ふふ、私に任せて。仕留めてみせるから」
「…仕留めるって、狩りみたい」
「時枝狩り? ふふ、息の根は止めないから安心して。車椅子は止めるけどね」
危ないからと黒瀬は潤を自分の背で隠すように立つと、暴走車椅子を待つ。
「怪我人出してないか、心配だ」
四、五人出ていても不思議ではない。
「ふふ、軽く二十人はいるんじゃない? 潤、下がってなさい。もう、すぐだから」
赤いマントに向かって鼻息荒く突進する闘牛のようだ。
黒瀬と潤の存在に気付く様子もなく、前だけ見ている。
黒瀬と潤の前に時枝が差し掛かった。
「これ以上は、行かせないよ、」
爆走車椅子が、ヒュ、と黒瀬の前を通り過ぎようとしたまさにその瞬間、
「時枝」
黒瀬の手が車椅子背面のグリップを掴んだ。
飛んでいるハエを箸で挟むような絶妙なタイミングだった。
加速していた車椅子を片手で止めるなど、有り得ない。
有り得ないが、現実、潤の目の前で起きた。
車椅子に掛る力と摩擦を考えると、それはまさに神の手の動きだった。
そして車椅子の突然の減速により、時枝が前に放り出されそうになると、今度は潤の身体が勝手に動いた。
自分でも不思議だが、黒瀬の神業に引き寄せられるように、潤は車椅子から飛び出ようとした時枝の前に飛び出し、自分の身体で受け止めた。
「ナイスキャッチ潤、ふふ、さすがだね」
「はあ、自分でも、ビックリだよ」
本当に潤は驚いてた。
黒瀬との連携プレーに胸が高鳴り、いささか興奮状態だった。
「仕留めたのは、結局潤だったね」
「黒瀬が凄かったからだよ」
興奮のせいか、潤の黒瀬を見る目が潤んでいた。
公道だ。歩道だ。
そして、この状況は路上の注目の的だった。
にもかかわらず、
―――見つめ合うこと、三秒。
他人の目など関係ない二人。
―――お互いの唇が引き寄せられること三秒。
注意するはずの人間は、この瞬間は静かだった。
そして、それは当たり前のように重なった。
一度離れた唇が、濃厚なベーゼを求め再度重なろうとした。
「…お、ま、えらぁぁああっ、」
二人の耳に、静寂を破る声が届いた。
「何? ウルサイよ、時枝」
続きをしようとした二人の間で、
「俺の邪魔するなぁああっ!」
怒号が響き、潤の腕から逃れようと身体をくねらせる時枝の首の付け根に、
「んもう、本当にウルサイッ!」
黒瀬の一打が飛ぶ。
「静かになったけど…、潤、続きはあとでね」
と黒瀬が潤にウィンクを送る。
今時ウィンクをする男性は珍しいし、いたとしても気持ち悪いだけだろうが、黒瀬は別だ。
独特の雰囲気を纏う男がすると、それはごく自然だった。