「ハァ、ハァ、組長…、」
「退け」
開いた扉の向こうから静かに唸るように言った。
「退きませんよ。組長、一体どちらに行かれるおつもりですか」
「邪魔だ」
一言、言い放ち、目の前を塞ぐ木村めがけ車椅子で突撃した。
「うっ…ツッ、」
―――まさか車椅子にはね飛ばされる日が来るとは…
木村が、派手に尻餅をついた。
車椅子の金具に事務所で蹴られた臑を、遠慮無く弾かれ、声も出ない。
時枝を止めないと、と気だけ焦るが、身体が言うことを聞かない。
尋常じゃない、早く止めないと。
どうする、どうしたらいいっ!
木村は時枝と大喜の会話を盗み聞きしていたわけじゃないが、時枝が尋常じゃないことは、激痛を伴って降り掛かった災難で身をもって感じていた。
誰かに止めてもらわねば、
時枝組長の上をいく人間と言えば…
…究極の選択だけど、仕方ないっ!
木村は携帯を取り出すと、痛みであがった息を整え、決してかけてはならない相手――『組長代理』を表示した。
「失礼します。次の会議の資料をお持ちしました」
株式会社クロセの社長室に隣の秘書課からコピーした資料を抱え黒瀬を訪ねると、当の黒瀬は、携帯で通話中だった。
「……それで? 用件は簡潔に、…だから?」
込み入った話のようなので、潤は邪魔しないよう、資料を黒瀬のデスクに静かに置くと一礼して立ち去ろうとした。
「ちょっと待って、」
通話相手に言ったのか、自分に向けられたのか分らず、潤が黒瀬を振り返った。
「ソファに座って待ってて」
潤に向けられた言葉だった。
「困った中年だ。お猿は潤に任せよう」
通話相手は、仕事ではない。
桐生で何かあったのは明白だ。
「――自分達のトップの管理ぐらい、できないの? 全く…兄さんといい、佐々木といい、時枝といい、単細胞集団? アメーバに失礼か。いっそ、三つ巴でドンパチやらせたらいいんじゃない?」
珍しく黒瀬が苛立っている。
会話から推測すると、大喜が見つかったのだろう。
「佐々木を病院から出さないようにして。どんな手を使ってもいいから。出したら、殺すよ。時枝はこちらに任せて、桐生は引続き『橋爪』の捜索」
黒瀬が携帯を閉じた。
「次の会議まで、時間どれくらい?」
「今からですと、ちょうど一時間ありますが」
「じゃあ、その一時間で、元社長秘書の捜索だ。秘書さん、付き合える?」
「…時枝さん、いなくなったのですか?」
「う~~ん、時間がないから説明は捜索しながらね。あと、しばらくお猿をうちで飼うことになるから」
「承知しました。時間がありません。急ぎましょう。既に資料の中身は頭に叩き込んでいますので、ご心配なく」
黒瀬が資料に目を通す時間がなくても、大丈夫だということだ。
「ふふ、ホント、優秀な秘書で助かるよ」
黒瀬と潤が時枝探しに走る。
実際走ったのは車だが、珍しく黒瀬が運転した。
運転だけなら、そこまで珍しくはない。
普段の移動は運転手付きだが、黒瀬が自ら運転することがないわけじゃない。
しかし、レンタカーのワゴン車となると、かなり珍しい。
車椅子ごと時枝を拉致、いや、保護するつもりだ。
「…橋爪、…許せないっ!」
助手席で概要を聞いた潤が、拳を自分の太腿に打ち付けている。
木村が黒瀬に話した内容は、橋爪と大喜が桐生所有のラブホテルの防犯カメラに映っており、駆けつけた時には乱暴された形跡を残した全裸で拘束されていた大喜が残されていたこと。
時枝が一人で大喜と話をしたこと。
その後、異常に激怒した時枝が、止める木村を車椅子ではねとばしホテルと飛びだしたこと。
大きく三つだった。
それを黒瀬が潤に説明した。
「三人を裏切るなんて…。一番起きて欲しくなかったことじゃないかっ、」
三人とは、もちろん、時枝、大喜、佐々木のことだ。
「橋爪も、時枝の身体を知っているわけだから、間違ってもお猿には手を出さないと思ったけど…」
「佐々木さんが知ったら…。まだ、知らないよね?」
「病院に置いてきて正解だったよ。今知ったら、時枝だけじゃなくて、佐々木も飛び出しそうだしね。ああ、んもう、世話を焼かせる面々だ。潤、ゴメンね」
「どうして、黒瀬が謝るんだよ」
「認めたくないけど、兄さんだからね。あの亡霊は戻って来ない方が良かったかもね」
「違うっ! それは違うッ!」
潤が黒瀬に声を荒げるのは珍しい。
「戻って来て良かった?」
「…ダイダイのことは絶対許せないっ! 時枝さんをこんなに傷付けたことも許せないっ! 佐々木さんが知ったら、桐生は解散の危機かもしれないっ! でも、戻らない方が良かったなんて、絶対ない。クソッ、俺、何が言いたいんだ」
感情が先走り、上手く言葉に出来なかった。