「時枝、組…元組長ッ! ゲッ、組長代理ッ!」
桐生組第一事務所。
昨日が勇一復帰の第一日目で、今日も当然ボロを出さないようにしなくては、と朝から緊張していた組員達の視界、ホッとする顔と更なる緊張を強いる顔が同時に飛び込んで来た。
「ゲッ? 誰、今の声」
訊かなくても誰の声かもちろん黒瀬には分かっていた。
その証拠に、声の主だけに冷やかな視線を向けていた。
「社長、うちの組員を脅さないで下さい」
「脅してないじゃない。気分の悪い人間がいるようだから、確かめようとしただけ。だいたい、この組の人間は、朝の挨拶もできない小学生以下の集まりのようだから」
「黒瀬、それは違うぞ。幼稚園に通っている子どもでも、お早うございます、ぐらいは言える」
黒瀬の横から、潤の訂正が入る。
それを聞いて、車椅子の時枝が「はあ~、」と深い溜息を吐いた。
「皆さん、挨拶ぐらいして下さい。身体が強張っていても、挨拶ぐらいできるでしょ」
黒瀬の視線を受けているのはたった一人だが、その光景に、他の者も次は自分達じゃないのか、と直立不動で固まっていた。
「お、はよーございますっ!」
一斉の挨拶に、潤だけが
「お早うございます」
と返し、黒瀬の興味は別のものに移っていた。
「ふふ、懐かしいね。しばらくココに座ろうかな?」
黒瀬が時枝の側を離れ、組長の椅子に座る。
「ダダダ、ダメですっ!」
組員の中にも気骨ある者がいるらしい。
黒瀬の前方にスキンヘッドが一名飛び出して来た。
「ダメ? どうして?」
「そこは、組長の席ですっ!」
「組長って? 誰のコト?」
「勇一組長ですっ!」
「だってさ、時枝」
ここで、俺に振るか? と時枝が黒瀬を睨む。
車椅子を黒瀬が座っている椅子の横に寄せた。
「退いて下さい。ここは、あなたの場所ではないでしょ」
はいはい、と黒瀬が席を立ち、ついでに椅子を机から離し、時枝の車椅子がそこに収まるようにした。
「ついこの間まで私がここに座っていたが、――もう座ることはないと思っていたが…、非常事態となりました。しばらく、また私が組長に復帰します」
「勇一組長は?」
「行方不明です」
「行方不明? ぇええ? 戻って来たばかりじゃないですかっ」
「行方不明です。しかも、勇一だけではなく、大森もです。一緒だと思われます」
「ソレって…、まさか…、嘘でしょっ!」
皆が一斉に時枝から目を反らし、何やらコソコソと始めた。
『…若頭、とうとう、捨てられたんだ』
『…組長がお戻りになってから、大森のヤツ、出て行ったし…何かあると思ってたんだ』
『俺もっ! でもさ、勇一組長には、時枝さん、いや、時枝組長がいらっしゃるじゃないか』
『でもさ、若い子と浮気するって、気持ち分からなくもない…お前だって、古女房より、若いキャバクラ嬢と、一緒になりて~って、ぼやいてたじゃないかよ』
『だがよぅ、昨日こそ、勇一組長、橋爪を探せと俺達に指示してただろ? なのに色恋で姿消すか?』
『だから、時枝組長の銃撃犯を探すより大森の方が大事だ、ってことだろ。それか、大森が、一緒に来てくれないと死ぬとほざいたとか…』
『つまり、時枝組長も捨てられたってことか? 泥沼のダブル不倫? すげぇ~っ!』
「ふふ、ダブル不倫? 道ならぬ恋を貫き通す為に心中とか?」
『心中! ヤバイだろ、それ。 …うわっ、組長代理ッ』
黒瀬の参加に、密談の輪が散る。
「ヤバイのは、皆さんじゃない? 時枝さんのこめかみが――」
潤の声に、皆の視線が時枝に戻る。
眼鏡のフレームの上に浮かぶ青筋がピクピク撓っていた。