秘書の嫁入り 青い鳥(30)

「いい加減にしろ。どんな事情で別れたかは知らんが、まだ気持ちが残っているんだろうが。大人のあんたが誰かと寝ようとそれは自由だ。しかし、今のあんたが、それですっきりすると思っているのか? あんた、今以上に辛くなるぞ? それでもいいのか?」

叩かれた頬をさすりながら、時枝が尾川を見上げた。

「じゃあ、どうすればいいんですかっ! 俺から別れたんだ。これが勇一にとっても桐生の組にとっても、最善だと信じてる。だけど、理屈じゃ割り切れないんだ。苦しいんだよっ。あんた俺より人生長く生きてるんだろ? 教えてくれよ。…教えて下さいっ! あいつはただの恋人とかそういうんじゃ、ない。くそぉおおおおおっ」

大声で喚いていた。目から水分を飛ばし、八つ当たりだと分かっているのに、心配してくれている尾川にあたっていた。
尾川が、前からではなく、時枝の後ろから羽交い締めにするように時枝を包む。

「潤や黒瀬さんのことでは冷静で、先を見据えての判断ができる時枝さんも、自分のことになると潤よりガキだ。あんた、仕事も完璧で、黒瀬さんや潤を引っ張って行ってるんだろ? でも、恋っていうのはそういうものだ。人から思考を奪う」

諭すような尾川の言葉に、時枝は嗚咽をあげたまま、耳を傾けた。

「誰でもそうだ。恥ずかしいことじゃない。泣き喚けばいいんだよ。ほら、泣け」

泣いている人間に泣けというのも尾川らしいが、泣けと言われると涙は引っ込むらしい。

「…もう、いい…です…」
「泣いていいんだぞ?」
「…泣けません……」
「じゃあ、俺の話を聞け」

羽交い締めにされたまま、首をコクンと下げた。

「あんた、間違っていると思う。おっと、反論するなよ。最後まで聞いてくれよ。俺が間違っていると思うのは、泣いて本音を伝えるのが俺じゃないということ。相手が違うだろ? 時枝さん、あんたのことだ。自分だけで自己完結しようとしたんじゃないのか? ちゃんと向き合ったわけじゃないだろ? 話し合っての別れ話じゃないだろう? 自分から別れたって、さっき言ってたよな。それって、自分の本心を相手にぶつけてないんだろ? だから苦しいんじゃないのか」
「…それが、出来ないから…。最善の方法をとった…」
「最善? 本当にそうなのか? そう自分で思い込んでいるだけじゃないのか? だいたい、恋人同士だったんだろ? 腹の中かち割って洗いざらいハッキリさせて、カタ付けろよ。それで別れるなら、別れるでいいじゃないか。違うから、自分の中だけで、終わりにしようとするから、やり場がないんだよ。あんた、桐生さんのことが、好きで好きで堪らないんだ。相手の為に身を引くって、美徳でも何でもないぞ? 潤達の話を聞いたが、彼奴らだって、身を引こうとしてたそうじゃないか。でも、引かなかった。それでも、何とかなったじゃないか。あんた達がいたからだ。逆に言えば、あんたと桐生さんにも、潤達がいる。事情は知らないが、あんたが身を引かなくても済む解決方法もあるかも知れないし…あの桐生さんがあんたを捨てるとは思えないけどな」

でも、事実…

「見合いした…その相手と付き合っている」

ぼそり、時枝が洩らした。

「見合い? それで、あんた…」

時枝を羽交い締めした尾川の腕がブルブル震えだした。

「…くっ、」

腕だけじゃなく、尾川の身体全体から細かい震動が伝わってくる。

「尾川さん?」

時枝が、泣き腫らした顔で後ろを振り返った。

「…たまらん…クッ、…ワリィ…あぁあ…腹が痛いッ…」

時枝の目に映ったのは、声を必死で堪えて笑っている尾川の顔だった。

「尾川さんっ!」

どこにも、笑いを誘う要因はなかったはずだ。
泣き喚いた自分の姿は、笑いを誘うものだったかもしれないが、そんな自分に確かに尾川は説教めいた言葉を掛けてくれた。
尾川がもう駄目だと時枝に掛けていた腕を外し、畳に座り込み涙を浮かべ腹を抱えて笑い出した。

「可笑しい話はどこにもないでしょっ!」

親身になって話をしてくれてるかと思っていたのに、大笑いされ、バカにされているのかと腹が立ってきた。

「…あんた、見合いってッ…あ~、腹が、千切れそうッ…それが原因でッ…ヒィ~~」

見合いが、そんなに可笑しいことか?

「あ~、悪かった……はぁ…、はぁ…、やっと落ち着いた」
「尾川さんっ、説明して下さいっ! 笑われる原因が分かりませんっ!」

呼吸を整える尾川に時枝が詰める。

「そりゃ、可笑しいだろ。思い詰めた原因がたかが見合いだっていうんだ。もっと深い何かがあると思うだろうが。死ぬような顔で思い詰めていた原因が、見合いって、そりゃ、見合いぐらい、桐生さんだってするだろうよ」
「ぐらいって、何ですか? 見合いしたんですよ。今までしたことがなかった勇一が俺に黙って」
「俺だって、世話焼きババァに無理矢理見合いって何度もあるぞ? 黙っていたのは、時枝さんにいうほどのことはないってことだろ」
「しかも、相手と付き合ってるんだ。結婚を考えている証拠だろ。だったら、俺が身を引くしかないじゃないかっ!」

尾川が時枝を見て、また笑いをかみ殺している。

「…時枝さん、あんた、頭賢いんだろ? 社会の裏だって見てきてるんじゃないのか? くっ…、なのに、世間知らずだったとは…」

世話になった桐生もそうだが、黒瀬と共に歩んで来た世界は、裏なんていう生易しいものじゃない。
まさかその自分が世間知らず呼ばわりされるとは思ってもいなかった。

秘書の嫁入り 青い鳥(29)

「ゆっくりしててくれ。活きのいい魚を仕入れてくるからよ」
「もう、暗いですが」
「ちょうど、夕方戻ってきた船が、荷を降ろしている頃だ」

尾川が出て行き、一人残された。
時枝は、東京を出てから、自分の中の勇一への思いを断ち切ろうとしてきた。
だが忘れようとすればするほど、自分の中に占める勇一が存在をアピールする。
一人残されれば、また勇一のことを考えてしまう。キリがないのだ。
岸壁から飛び降りそうと言った尾川の言葉じゃないけども、存在を消すには、自分がこの世から消えるしかないような気さえする。
それはできない。
消えるなら、絶対に勇一に知られない方法じゃないと、もし、自分がこの世を去ったことが分かれば、勇一は深く傷つくだろう。
ああ見えて、繊細な男なのだ。
勇一が見合い相手と付き合っているとしても、一方的な別れ話で傷ついていることは、時枝には分かっていた。
しかし、勇一の将来の為にはこれが最善の方法だと思っている。
憎まれてもしょうがない。
だけど、これ以上傷付けたくはない。
そうでなくても、勇一は今までも心を痛めてきた。
特に黒瀬の事では、自分を今でも責めている。
彼の人格を変えてしまったのは、父親の彼への虐待に自分が気付かなかったせいだと思っている。
父親の死が早かったのも自分のせいだと責めている。
そして時枝の人生を変えてしまったことも、自分の我が儘のせいだと、責めている。
桐生のトップとして君臨している彼の心が、傷だらけとは誰一人思ってはいない。
時枝だけが知っていた。

「死ぬ選択肢も俺にはない…」

自嘲気味に時枝は呟いた。

「当たり前だろ。あんた何を考えているんだ? 死ぬ選択肢は、誰にもない。しっかりしろよ」

いつの間にか尾川が戻って来ていた。
目を釣り上げ怒っていたが直ぐに笑顔になった。

「人間空腹だとろくなこと考えないからな。刺身で、先にやっててくれ」

大きな絵皿に盛られた刺身をちゃぶ台の上に置く。
仕入れ先で、その場で刺身にしてもらったらしい。
さほど空腹感はなかったが、口に入れてみると、腹が減っていたことが分かる。
そういえば今日は何も食べてなかった。
昨日は何か口にしただろうか? 覚えていない。 
いつが最後の食事だったかも思い出せないほど、時枝は精神的に参っていた。

「鍋にしたから、すぐに食えるぞ。酒も用意したから、好きなだけ飲め」

カボスの酢醤油を小皿に用意してくれた。
チューブに入った紅葉おろしをその中に入れ、二人で鍋を囲む。

「飲むと、ヤバイ人だったよな、時枝さんって。明日が仕事ってわけでもなさそうだから、酔ってもいいんじゃないか? 飲め飲め」
「頂きます」

勧められるままに、酒も飲む。
飲んで憂さ晴らしが出来るとは思わないが、酔えば何も考えなくて済むかなと酒が進む。
尾川は、時枝がどうして小倉にいたのか、どうして一人でフラフラしていたのか、訊いては来なかった。
話は黒瀬達の結婚式の話しだったり、潤の母親の若き日の武勇伝だったり、全く関係のない野球の話だったりと、時枝を気遣っているようだった。
最後の雑炊を食べ終わったころ、時枝の身体に酒も程良く回っていた。

「何も訊かないんですね」

時枝が箸を置く。

「訊いて欲しけりゃ、訊くぞ。言いたくなければ、それでもいい。抱えていることがあるんだろうけど、それは時枝さんの問題だ。此処に連れてきたのは、好奇心でそれを訊きだそうっていうんじゃない。俺が放っておけなかっただけだ」
「…優しい人だ。甘えてしまいたくなる」

寄りかかれるものが欲しかった。

「時枝さん?」

尾川の背に、時枝は自分の背を合わせた。

「尾川さんは、男と寝たことありますか?」

背中越しに質問する。

「ないな」
「後腐れない遊びは?」
「ある」

正直な男だ。

「俺と遊びましょう」

スラッと出た言葉に、自分でも驚いた。

「後を引くのは、遊びとは言わない」

ふざけるなと、怒鳴られると思ったが、淡々と言われた。

「…遊びじゃなくても構いません。俺は誰かと寝たい。後先考えずに、何も考えずに寝たい」
「いいだろう。但し、彼に連絡しろ」
「彼って?」
「桐生勇一。あいつに内緒にするなら、諦めろ。俺は、あんたも気に入っているが、彼も気に入っている。あんた達二人が好きだ」
「…別れた男ですから。関係ありません」
「関係あるだろ。関係ないなら、あんたがそんなに傷ついている理由がない。悪いけど、時枝さんが、仕事でヘマするとは思えない。訊かなくても理由はその辺だろうとは思っていたよ」
「…連絡は出来ません」
「なら、無理だ。コソコソしたことはしたくない。そんなことすれば、二度と会えなくなるからな。正々堂々としていたい」
「…分かりました。すみません、変なこと言って。他当たります。お邪魔しました。俺、行きます」

背を向けたまま、立ち上がる。
歩き出そうと前に一歩踏み出したところで、後ろ足を掴まれた。
座っていた尾川が立ち上がり、時枝の頬を平手で叩いた。
時枝の顔から眼鏡が飛んだ。

秘書の嫁入り 青い鳥(28)

「佐々木、学習能力のない大人は嫌いなんだが?」
『は、申し訳ございませんっ!』

携帯の向こうで、頭を下げている佐々木の姿が目に浮かぶ。
呼び名の一つぐらい、どうして覚えられないんだと、黒瀬の中で佐々木は仕事の出来ない部類に分けられていた。

「何のよう? 俺もそんなに暇じゃない」

そう黒瀬は忙しかった。
潤を悦ばせる為にまだまだこの昼休み、アレコレしたいのだ。

『組長が、荒れていまして…。放っておくと、大学生のガキに手を出しそうな勢いでして…。止めようにも、俺は自由の身だとか何とか、仰有って……、時枝さんとは、もう、本当に駄目なんでしょうか』
「時枝? 時枝がどうした? 兄さんと別れたとか?」
『え、…もしかして…ご存じなかった…とか…』
「何だかよく分からないけど、時枝なら休暇中だ。そんなことだろうとは、思っていたけど。ふ~ん、やっぱり、そうなったか。別にいいんじゃない。時枝と兄さんの自由にしたら」
『そんなっ、ボン、あの二人は相思相愛じゃないですかっ。お願いですから、一度組長と会って下さい。このままじゃ、時枝さんが不憫です。今の組長じゃ桐生も滅茶苦茶になります。ボン、しか組長に意見出来る人間がいないんですっ!お願いしますっ!』

黒瀬は二人の問題に口を挟む気はなかった。
一度は勇一に警告をしているのだ。それで、十分だろう。
二人ともいい大人で、自分達が出した結果なら、他人が何を言っても同じだろう。
その結果が間違っていても、後々後悔しても、それは二人の責任だ。
他人の事は、実際黒瀬はどうでもいいのだ。
しかし「どうでも良くはない」と思っている人間が、黒瀬の膝の上にいた。

「…黒瀬、時枝さんと組長さん…、わかれたのか…? この前の、見合いが、原因?」

佐々木の声が大きくて、携帯から佐々木の話が潤にも聞こえていた。

「そうみたい。時枝の休暇はセンチメンタルジャーニーじゃない?」
「…そんな~、あの二人は…お互い愛し合ってるじゃないかっ」
「そうだね。だから、時枝は身を引いたんじゃない?」
「…そんなの駄目だ。それは絶対駄目なんだよ…それって、俺を手放そうとした、黒瀬と同じじゃん……黒瀬の元を離れようとした俺と同じ……駄目だよ…身を引くのが愛じゃないよ…黒瀬……、組長さんに会ってよ」
「ふふふ、そうだね…どうしようかな」

ハッキリ返事をしない黒瀬の手から、潤が携帯を奪いとる。

「佐々木さんっ!」
『はいっ、えっと、市ノ瀬さまですか?』
「そうです。黒瀬のことは俺に任せて下さい。責任を持って、組長さんの所に行かせますから。明日にでも連れて行きます。佐々木さんは組長さんを逃がさないようにして下さい」
『は、承知しました。よろしくお願い致します』

人の恋路に首を突っ込むのは決して黒瀬の趣味ではないのだが、こうなったら自分が出向くしかないかと、膝の上の新妻を軽く睨んだ。

「駄目ダメ、黒瀬、睨んでも怖くないよ。……でも、勝手なことして、ごめん」

潤が携帯を黒瀬に返し、黒瀬の額に自分の額を付けて、媚びた表情で謝る。

「潤が、どうしても、って言うなら、私が動くしかないけど、それでも、二人の絆が強くないなら、元には戻らないよ? それは分かっているよね?」

潤がウンと、頷いた。

「私が動くのは、今は潤の中がいいんだけど。それは認めてもらえるかな?」
「…バカッ。…俺が動く」

潤の嬌声が響く社長室。
鬼の居ぬ間に楽しむだけ楽しもうと、引き出しには怪しいグッズが増えていた。

 

 

「ここは何も変わっていませんね」

時枝は、尾川の家の前にいた。
漁師をしている尾川の家は、もちろん海の近くだ。
時枝が初めて尾川の家を訪れてから、一年半ぐらい経つ。

「中心地から離れているから、のんびりしたものだ。一年そこらで何も変わらん。相変わらず殺風景だが、入ってくれ」

中に入る。
何もかもが、以前来たときと同じだった。
初めて来たときは、勇一も同行していたことを思い出し、鼻の奥がツンとした。

秘書の嫁入り 青い鳥(27)

次の日、時枝は両親の墓前に参ると、その足で東京を発った。
行き先を決めていたわけではない。
知らない場所で、勇一を自分の中から追い出してしまいたかった。
電車を乗り継ぎ、適当に降りる。
駅の近くには大抵ビジネスホテルがあるので、飛び込みで空室があれば、泊まり、なければ夜通しやっているような飲み屋や映画館で一晩過ごす。
北へ向かうのは、失恋男には淋しすぎると、南、南へと南下して行ったら、四日目には九州に辿り着いていた。
九州の玄関口、小倉。
普段、九州には飛行機で来るので、小倉駅は久しぶりだった。
いつの間にこんなに綺麗になったんだと、駅ビルを彷徨(うろつ)いていた。
博多にはクロセの支社もあるし、桐生の事務所もあるので、寄る気はなかった。
このまま、大分、宮崎、と降りて行くのもいいか、とみどりの窓口で、時刻表を眺めていた。

「あんた、時枝さんじゃない?」

肩を叩かれ、聞き覚えのある声に振り返ると、知っている顔が立っていた。

「あなたは…、尾川さん、その節はお世話になりました」

尾川というのは、潤が敵対する企業の罠に掛かり、拉致られた時に、逃げ出した潤を保護してくれた漁師だ。
もし潤がこの男に拾われなければ、潤はもちろんだが、黒瀬さえも死んでいたかもしれないという、大恩人なのだ。
後で潤の母親の幼なじみだったことも判明し、潤はこの尾川を父親のように慕っている。
黒瀬も身内のように思っている人物だ。

「一人? 皆元気にやってるか?」
「ええ。忙しくやっています」
「そりゃ、何よりだ。今日は仕事ってわけじゃなさそうだな」

何かあったんじゃないのかと、いう視線を向けてくる。
この海の男は観察眼が鋭い。

「尾川さんは? 今日は小倉で何か?」
「今日っていうか、昨日、こっちの友人と飲んでて、今から博多に戻る所だ。時枝さん、疲れた顔してるな。美味い飯でも食わせてやるから、一緒に来いよ」

時枝が手にしてたボストンバックを尾川が持って歩き出す。

「あの、どこに」
「いいから、いいから、ついてきな」

回数券があるからと、切符を渡された。
そこに書かれている文字に時枝の足が止まる。

「博多…」

博多には行きたくなかった。
まだ吹っ切れない勇一との濃厚な思い出がある場所だ。

「あの、尾川さん、私は博多には…」
「心配するな。小倉と博多はローカル線でもそう遠くない」
「そういう問題じゃなくて…」
「博多は嫌か? だけど、俺、今日のあんた、放っておけないんだわ。あんた、自分がどんな顔をしてるか自覚ないだろ?」
「顔、ですか?」
「フラフラと岸壁から身を投げ出しそうな顔している。別に自殺しそうっていうわけじゃない。人生諦めたって、顔している。投げやりというか。そんな人間放ってはおけない。お節介だと思うが、これは俺の我が儘だ。悪いな」

本当に見抜かれていた。
下手な嘘を付いて、博多には行けないと言っても、この男には通じないだろう。
自分が情けなかった。
感情ダダ洩れで、尾川相手に仮面の一つも被れない自分が情けなかった。
時枝のボストンバックを持ったまま、自動改札を抜ける尾川を仕方なく追う。
ちょうど帰宅ラッシュ時で、車内は混雑していた。
おかげで取り繕い尾川と世間話をする必要もなかった。
立ったまま、ぼ~っと窓の外を見る。
南を選んだ自分の選択肢の失敗を後悔した。
東京を出てから、いや、勇一と別れてから、誰かと話らしい話はしてなかったなと気付く。
人恋しい寂しさも手伝って、時枝は尾川を振り払えなかったのかも知れないと思った。

 

 

『ボン、アッシです。ちょっとお時間頂けますでしょうか?』

時枝がいない株式会社クロセ本社の社長室。
時枝が予想していたとおり、黒瀬は何かに付けて、潤を呼び出していた。
一応、今は昼休みだが、黒瀬の上に下半身剥き出しの潤が重なっていることは、褒められた行為ではないだろう。
潤の中に自分の中心を埋めたまま、着信音がしつこい携帯を取る。
普段なら、この状況下では無視の黒瀬だが、相手が珍しく佐々木だったので、出てしまった。

秘書の嫁入り 青い鳥(26)

「珍しく、遅かったな」

別に咎めるような口調ではなかった。

「悪かった。出よう」

簡単な謝罪。

「は? 勝貴、童心に返ってパ~ッと遊ぶんじゃなかったのか?」
「と、思っていたが、こうガキばかりだとな…話がある、出るぞ」

そこまで、ガキが多くはなかった。
しかし、ここに足を踏み入れた時から、息するのも苦しいぐらい胸が締め付けられた。
懐かしさとこれから失う物の大きさが、鎖となって時枝の胸を縛る。
長居は無理だと、時枝の足は別の場所へ向かった。
我が儘なやつだと、笑いながら時枝の後を勇一が追う。

「なあ、勝貴、今日は思い出ツアーか? どうして今度は図書館なんだ?」
「アホな子をココで立派に育てたなと思ってさ」

時枝の足は、昔、時枝が勇一の勉強に付き合わされた図書館の前で止まった。
ここでも、胸は当然苦しくなる。
しかし、思い出の場所で最後にしたかった。

「アホな子って、この子?」

勇一が自分を指さした。

「他に誰がいる。だが、そのアホな子も今は立派な桐生の代表だ。感慨深いな」
「なんだ、それ? 勝貴、親戚のオッサンみたいな口調だぜ。変なやつ」
「そこのベンチにでも座ろうか、組長」

図書館の周辺は、木々生い茂る公園になっている。
花壇もあり、花壇と花壇の間にベンチが所々置かれている。
その中の一つに時枝は勇一を誘った。

「早速だが、本題に入る。桐生組組長、桐生勇一、」

世間話の一つもする余裕が時枝にはなかった。

「何事だ?」

肩書き付きのフルネームで呼ばれ、勇一が片眉を上げて、時枝を見る。
時枝は、正面を向いたまま、勇一を見ようともしない。

「俺は、お前と縁を切る。終わりにしたい。話は終わりだ」

それだけ言うと、立ち上がった。
時枝が歩き出そうと一歩踏み出すのと同時に、勇一の手が時枝の腕を掴む。

「待て、どういうことだ」

勇一の声が低い。
時枝が勇一の腕を振り払おうとした。

「どういうことだと、訊いてるんだ」

明らかに怒っている。
時枝の腕を掴んだ手を後方に引き、無理矢理時枝をベンチに戻した。

「どういうことも何もないだろう? 縁を切る。別れるということだ。国語も俺は教えたぞ? 今まで世話になった」

また、立ち上がる。
今度は勇一の前で深々と頭を下げた。
これには、勇一が驚いた。
時枝が勇一にプライベートの時間で頭を下げたことなど、思い出す限り、ない。
つまり、ふざけた遊びで口にしたのではないということだ。
本気なのだ。

「俺を一人にするっていうのか? 俺と人生を歩いてくれるはずじゃなかったのか? 理由もなく、そんな話、呑めるかっ!」

土曜日の公園だった。
人がいないわけでもない。
響き渡る勇一の罵声。
いつもの時枝なら、それを制止しただろう。
しかし、時枝はしなかった。

「お前は一人じゃない。構成員が大勢いるじゃないか。お前と人生を共にするのは、俺じゃない。別の人間だ。そして、最大の理由は、俺はヤクザが嫌いなんだ。俺の親は誰に殺されたか、お前が一番知っているじゃないか。自分に嘘は、もうつけない。これ以上俺に言わせるな。世話になったし、感謝もしている。それは本当だ。だから、もう、解放してくれ、頼む。組長」

一番傷付ける理由を時枝は敢えて付け足した。
両親の弔いをしてくれた桐生に、今更ヤクザがどうこういう思いはなかった。
だがこのことを持ち出せば、勇一が何も言えないことを時枝は知っていた。
頭を下げたまま告げる時枝の肩を勇一が掴む。

「本当の理由を言え」
「これ以上の理由はない、組長」
「どうして、俺の名を呼ばない。恋人でもなければ、友人でもないということか」
「その通りだ」
「もう、いいだろ? これで足りないなら、土下座する」
「やってみろよ、出来るなら、やれ」

自分でも大人げないと、勇一は思った。
突然別れ話を切り出され、理性より感情が先走る。
売り言葉に買い言葉的なものだったが、時枝の心を痛く傷付けた。
やはりそこまで愛されてはなかったのか、と心が弱くなっていた時枝には、勇一の自分への命令口調が杭のように突き刺さる。
遠巻きに人だかりが出来ていた。だが、二人の目には映ってはいない。
時枝が、地に座る。
そして、勇一の靴のすぐ前に両手を並べ、そのまま頭を深く下げた。
地に額が届く程下げた。

「もう、いいっ、勝手にしろ。そうやって、本当の理由も俺に告げず、俺から逃げて行くのか? 好きにすればいい…好きにすれば…」

時枝の目に映っていた勇一の靴が消えた。
地面から伝わる音が、勇一がその場から去っていくのを時枝に伝えた。
時枝が起き上がり、膝に付いた土を払う。

「…終わったな……終わってしまえば、呆気ないものだ…」

トレードマークの眼鏡を胸のポケットにしまう。
視界がクリアでない方が有り難かった。
頬を伝う熱い物を拭うこともなく、時枝は帰路についた。

秘書の嫁入り 青い鳥(25)

自分のマンションへ戻った時枝は、ビールを三缶飲み干した。
続いてウィスキーをボトルの半分まで空け、それから、ベッドの上で携帯電話を握りしめ、じっと携帯の液晶画面を睨み付けていた。
素面(しらふ)では話せないと、空き腹に酒を流し込んでみたのだが、一向に酔えなかった。
短縮でボタン一つ押すだけでよいのに、それができない。 
外で会う日時を決めるだけの電話なのに、出来ない。
部屋へ呼びつけることは簡単だ。
自分が桐生に出向くことも簡単だ。
しかし外でしか、冷静に話せないような気がする。
自分がここまで弱い人間とは時枝自身思ってもいなかった。
たかが別れ話じゃないか、と自分に言い聞かせても、勇一の声を聞いたら声が震えそうで、まともに話せる自信がなかった。
今日は、日時を決めるだけだというのに、携帯をジッと凝視しているだけで、時間が過ぎていく。
震えた。
指が震えた。
やっとキーを押したというのに、ワンコール鳴るか鳴らないかで、切ってしまった。
それを連続三回。
四回目に突入かというとき、携帯が鳴った。
着信音が時枝に勇一からだと告げた。

『勝貴? 俺にイタ電しているのか?』

ワン切りが三回続けば、勇一が不審に思って掛けてきても不思議はない。

「…」

咄嗟の言葉が出なかった。

『勝貴だよな? 具合でも悪いのか』
「…大丈夫だ。ちょっと、話があって…会いたい……早い方がいい」
『今から行くか?』
「今夜は遅いし、……明日の午後三時ぐらい空いてるか?」
『三時に、着くように行けばいいんだな?』
「此処じゃない…ゲーセンに来てくれ」

どこか、公園でも、と思っていた時枝だったが、勇一の声を聴いていたら、初めて声を掛けられた場所が頭に浮かんだ。

『ゲーセン? どこのだ?』
「桐生が昔所有していたゲーセンあったろ。勇一が、俺に声を掛けてきた。あそこ」

早く切らないと、時枝の腹の底からグッと込み上げてくるものがあった。

『ゲーセンで遊びたいとはね~』
「パ~ッと、童心に返って遊ぶのも悪くないだろ。じゃあ、三時」

プチっと、一方的に携帯を切った。
こんな切り方をしたら、勇一から再度掛かってくるかもしれないと、電源をオフにする。
家電のジャックまで抜いてしまった。
ゲーセンだった。
二人が出会ったのはゲームセンターだった。
まだ中学生だった。
大事な部分に毛が生えそろったばかりのガキだった。
思い出したいわけではないのに、二人の歴史が走馬燈のように、時枝の脳裏に浮かぶ。

「普通の友達に、戻れるかっ!」

突然、時枝が発狂したように大声をあげ枕を壁に叩きつけた。

「あのバカが、大バカが、俺にっ、俺に……変なことさえしなければ、よかったんだっ!」

今度は携帯を投げつけた。

「何がセフレだっ! 何が、特別な友達だっ、何が恋人だーっ! クソッ……クソッ…あいつはいつも浅はかなんだよっ……恋人も友人も一度に…ははは…はははは……俺…一人だ」

笑いながら、時枝の眼鏡は涙で曇っていた。
三時の待ち合わせに、時枝は二十分遅れて行った。
いつでも時間厳守の時枝だったが、今日はワザと遅れて行った。
勇一を待つのが嫌だったのだ。
待つ間に、逃げたくなるかもしれない。
先に勇一が着いていてくれた方が時枝にはよかった。
ゲームセンターの入口に勇一の姿はなく、店内を探すと、勇一がガキどもに交じってスロットに興じていた。
時枝は声を掛けず、勇一の真後ろに立つ。
立った瞬間、セブンが並び、コインがジャラジャラと音をたて出てきた。
気付いてないと思っていたが、勇一は振り返ることなく、

「勝貴、俺凄いだろ? 中坊ん時のお前に負けない腕前だ」

と、語りかけてきた。

「だが、所詮ガキの遊びだ。換金できないからな。ほら、坊主、コレ全部やるぞ」

横に座っていた少年に、溜まったコイン全部を渡すと、勇一は立ち上がった。

秘書の嫁入り 青い鳥(24)

勇一に会いたくなくて秘書課を出たというのに、勇一に遭遇してしまい、結局時枝の頭にあるのは勇一のことだった。
勇一が黒瀬に問い詰められていた時間、時枝は、自分がどうするべきなのか、一人孤独に答えを模索していた。
佐々木に聞かされたばかりで、今は考えたくないのが本音だったが、勇一の顔をまともに見られない今、早く自分なりの決着を付けなければと焦っていた。
時枝の知る限り、時枝と深い関係になる前にも勇一が実際に見合いをしたことは無かったはずだ。
見合い話はあった。
しかし、勇一が腰をあげたことはなかった。
つまり見合いをしたということは、本気だということなのだ。
時枝は勇一が自分に飽きたとは思いたくなかった。
だが、勇一が自分を好きでも、添い遂げる相手を別に選ぶ可能性はあるだろう。
組の存続を考えると、跡を継ぐ者の存在が必要なのだ。
これが政略結婚なら、なおのこと自分が消えるべきではないのか、と時枝は思い始めていた。
佐々木には自分で決着を付けると言った。
その時から、自分の選択肢が一つしかないことを感じていた。
勇一の口から、見合いや別れ話が出る前に、自分から別れを告げよう、それしかない。
それが時枝の辿り着いた答えだった。
勇一だって、自分から見合い話や、別れ話、その先の結婚話をするのは、辛いだろうと時枝は思う。
ましてや、勇一の口から聞かされるのは、自分には辛すぎる。
両親が逝った時、勇一がいなかったらどうなっていたか分からない。
勇一がいたから、施設にも入らずに済んだ。 
桐生の世話になり、学費も生活費も全て出してもらった。 
時枝の両親の死に暴力団が絡んでいた為、憎んだこともあったが、それ以上に家族だった。
桐生の先代にも勇一にも恩がある。
今、ここで、桐生の為に出来ること、勇一の為に出来ることは、別れてやることだと時枝は腹を括った。

「社長、少しお時間よろしいですか?」

今日は金曜日だ。週末が目前だ。

「いいよ、何事? 一杯飲む?」
「いえ、結構です」

社長室にはかなりの数の高級酒が隠してある。
他の社員が帰ったあと、二人で残業をするときは、飲みながらということも多い。
今日も既に他の者は引き上げていた。
潤も帰宅している。
今頃は黒瀬の為に料理を作っているに違いない。

「そう? 俺は飲みたいから頂くよ。時枝、作ってくれる。ブランディのロック」

社長のデスクから、黒瀬が応接セットの方へ移動する。 
ソファに腰を降ろすと、ネクタイを緩めた。

「どうぞ、」
「ありがとう。座れば?」
「いえ、それも結構です」
「見下ろされるのは好きじゃないんだけど?」

遠回しの命令だ。
時枝が渋々黒瀬の前に座った。

「話っていうのは、俺への告白?」
「真面目な話ですけど」
「告白っていうのは、不真面目なんだ~。知らなかったよ。てっきり、俺のキスが忘れられなくて、兄さんから俺に乗り換えたいのかと思った。でも、時枝、それには問題が、俺には可愛い潤がいるからね、悪いけど、気持ちには応えてやれない」
「…、あの、社長?」
「なんだ?」
「私がいつ、あなたとキスをしましたか?」
「覚えてないんだ~。ふ~ん、」
「してないことは、覚えようがありませんっ!」

絶対そんなことはしていない。
自信を持って、時枝は否定した。
ニヤニヤと黒瀬が意地の悪い笑みを浮かべた。

「あなたに告白するはずもないでしょ。バカバカしい」
「そう? 一回ぐらいなら、寝てやってもいいけど。最近時枝、元気ないし~」
「市ノ瀬さまに、言いつけますよ?」
「それは、困るな。冗談だから」
「分かってます」
「それで、用件は何?」
「中国へ出向く前に休みを下さい。一週間ほど。駄目ですか? 篠崎がいれば、秘書課の仕事は今のところは大丈夫です。新人もいますしね。篠崎が新人のフォローするでしょう」
「急にまた。いいけど、いつ欲しいの?」
「今週末から次の日曜まで。月曜日には出社します」
「理由を訊いてもいい?」

本当のことなど、時枝が黒瀬に言えるはずもない。
黒瀬は黒瀬で、時枝の様子から、時枝の耳に勇一の見合い話が入っていることは勘付いていた。
時枝が休暇申請の本当の理由を言うはずはないと分かっていて、訊いた。

「両親の墓参りと、中国へ行く前に少し身体をリフレッシュしたいなと。中国での仕事もハードになるのは、目に見えてますし、二、三日、一人旅でもして、のんびりするのもいいかなと」
「兄さんと一緒じゃないんだ~。二人で温泉旅行でも行ってくれば?」

勇一の事を持ち出され、時枝の目が憂う。

「組長も忙しいでしょうから、一人でのんびりしてきます」
「そう。わかったよ。月曜日は遅刻せずに出社してよ」
「誰かさんじゃあるまいし、私が遅刻などするはずがありません」
「やだな、ただの確認だろ。ムキになってどうしたの?」
「ムキになってはいません。社長、私がいないからといって、新人を呼びつけての破廉恥な行為は謹んで下さい。いいですね?」
「はいはい。仕事のことは大丈夫だから、ゆっくりしておいで」

珍しく黒瀬の物わかりがいいことに、時枝は気味が悪かったが、一週間、正確には九日間の休暇を手に入れたことには満足だった。
ただし、この休暇に、楽しい事が一切起こらないことは間違いなかった。

秘書の嫁入り 青い鳥(23)

「まともな格好で良かった。兄さんを呼びつけるときは、いつも着流しで来やしないかと冷や冷やしてますよ」

株式会社クロセの社長室。
社長の黒瀬とその兄、桐生組組長の勇一が対峙していた。

「俺だってTPOぐらい考えている。忙しいのに呼びつけやがって。用事はなんだ? そういえば、勝貴も慌てていたが…」
「時枝に会ったのですか?」
「ああ。エレベータですれ違った。様子がおかしかったが、また何かあったのか?」

ふ~ん、と黒瀬が変に納得した表情を見せる。

「急いでいただけでしょう。それより、兄さん、俺に隠しごとしてませんか? 俺にっていうより、時枝にですが」
「そりゃ、組関係のことは、隠していることは山ほどある。それはお前達だって一緒だろうが。何を今更」
「そうきますか。そのうち、時枝の耳にも入ると思いますよ。兄さんの見合い。兄さんが政略結婚を考えていたとは知らなかった」
「政略結婚っ!」

声をあげたのは、勇一ではなく、お茶を運んで来た潤だった。

「潤も驚くだろう? 兄さん、見合いをしたらしい。しかもその彼女と只今親密なお付き合い中らしい。潤、どう思う?」

潤が、高級煎茶が入った湯飲みを中身が飛び出す程乱暴にテーブルに置いた。
そして、自分が買ってきた有名和菓子店の乾菓子を客の勇一からワザを遠く離れた場所に置いた。
空になった盆を胸の前で抱え、目を釣り上げ、客である勇一を睨み付けた。

「見損ないました。組長さんが…そんな人間だったなんて。そんないい加減な気持ちで時枝さんを……そりゃ、時枝室長は、怖いし口うるさいし、俺も黒瀬も叱られてばかりだけど…だけど…俺は………」

時枝に衝撃を与えた勇一の見合い話は、第三者の潤にもショッキングな話だった。
もちろん、それは佐々木にもだ。
だから彼は時枝と勇一が別れたと思い込んだのだ。

「…時枝さんが好きだ……一生懸命俺のことも黒瀬のことも考えてくれている…それこそ…自分の時間削って……俺達の為に。なのに酷いよっ! 政略結婚って、時枝さんが認めたのか? 組長さん、好きだったんじゃないの?」

潤が興奮してきた。
黒瀬は余裕の態度で、潤がどこまで勇一に食って掛かるのかと、見物を決めこんでいた。

「…忙しいのは、時枝さんのせいじゃないっ! 男なのは初めから分かっていたことだろ? 政略結婚ってなんだよっ。組の為に、時枝さんを袖にするつもりかよっ!」

勇一が、は~っと深い溜息と共に、目で黒瀬に『早く止めてくれ』と訴えかける。

「潤が怒るのも当然だ。潤、あとは私が兄さんから詳しく話を訊いておくから。時枝に会っても見合いの件は内緒だよ? 多分まだ知らないだろうからね」
「黒瀬っ、俺っ、」
「分かってる。私に任せて。ちゃんと真意を聞き出すから、仕事しておいで。帰ったら、筆記体の練習もあるだろ? テスト頑張って時枝から認めてもらおう、ね?」

潤が深呼吸した。
秘書としての立場を思い出したらしい。

「はい、社長。桐生様、大変失礼しました」

ギッと、潤が勇一を睨み付けたあと、頭を下げた。
潤が社長室を出て行くと、勇一が「ヤレヤレ」と頭をかく。

「さあ、兄さん、話して頂きましょうか?」
「見合いはした。付き合ってもいる。だが、結婚はない」
「結婚しないのに、見合いする必要も、付き合う必要もないでしょうに」
「…それがな…、あるんだ」
「見合いまでは、世話になった組の顔を立てるため、形だけということだったんだが…ちょっと、耳かせ」

二人きりなので問題ないはずだが、普通に話すのが躊躇われたらしい。
勇一が黒瀬の耳元で、囁き始めた。

「…兄さん、あなた…、それじゃあ…」
「まあ、俺の一存でどうこういう問題じゃないが、組の安泰と将来を考えたら、もちろん、これは勝貴との将来ということも含めてだ。問題は勝貴だ…。武史どう思う?」
「時枝は、堅物ですよ? 理解できるかどうか分かりません。一体いつまで、隠しておくつもりですか? 俺が知っているぐらいです、直に見合いの件は時枝の耳にも入ります。見合いってだけで、潤同様、時枝のショックは大きいはずです。うちだって、これから中国進出で時枝が必要なんです。兄さんの思いつきや気まぐれで、時枝を振り回して欲しくないですね」
「分かっている。俺からちゃんと話す。だがな、今、俺達はあまり会えないんだぞ? 誰のせいかは知らんが。たまに会ったときに、この話は出来なんだろうが…、疲れている勝貴に話してみろ。悪い方にしか考えられないんじゃないのか? あいつは、人のことには敏感だし、こと、お前達二人のことになると、お前達以上に理解しているが、自分のことがあまり分かっていないだろ? あいつもお前の嫁ぐらいには強い。仕事の為なら鬼になることもある。しかし、弱い面もある。佐々木ほどではないが、純粋な面もあるんだよ。だから、傷付けたくはない」

勇一の言葉に、黒瀬が面白くないですね、と不満顔だ。

「そうやって、時枝を守っているつもりでしょうが、結果、その気遣いが時枝を傷付けることになるかもしれませんよ。兄さん、ビジネスでも恋愛でも、タイミングを逃すと、取り返しが付かないことになりますよ。俺は、忠告しましたからね」
「ああ、話は終わりか?」
「ええ。兄さんが時枝に隠している間は、時枝とは会って欲しくないですね。二人の問題ですから、これ以上は口出ししませんが、うちの中国進出までには、決着を付けて下さい」

結局、この弟は、勝貴の心配をしているのか、それとも、仕事の心配をしているのか、と勇一は自分が呼びつけられた真意をはかりかねていた。

秘書の嫁入り 青い鳥(22)

「時枝室長、どうかなさいました? ご気分でも?」

社へ戻ってきた時枝の顔が少し青いように感じ、部下の篠崎が声を掛けた。

「大丈夫です。仕事が溜まっているなと、少し憂鬱になっただけです」
「室長?」

普段、仕事の愚痴をこぼさない時枝の口から、「憂鬱」の言葉が出たことに篠崎は驚いた。
怪訝そうに時枝の顔を見ると、それを察した時枝が笑って見せた。

「冗談ですよ。本当に、何でもありません。新人はどこに行きました?」
「お茶菓子を買いに行ってます。室長が留守の間に、社長がお客様がみえると仰有るものですから。ちょうど和菓子が切れてましたので、羊羹を買いに行かせました」
「客の予定はなかったはずですが…、」
「社長がお呼びになったみたいです」
「どなたですか?」
「桐生様と仰有ってましたが?」

勇一だった。
今、このタイミングで勇一がここに来るのかと、時枝は胸に圧迫感を覚えた。
顔をまともに見る自信がない。
見合いについては勇一が話さない限り、知らないフリをするつもりだ。
しかし、今顔を見れば、平常でいられる自信がなかった。

「分かりました。では桐生様がお見えになったら、お茶出しは新人にさせて下さい。くれぐれも失礼のないように、と。私は総務に用事があるので、後は頼みます」

時枝は、逃げることを選択した。
目を通さなければならない書類の束を持ち、いそいそと、秘書課を出た。
エレベーターを待つ。
普段使わない貨物運搬用のエレベーターだ。
動揺が顔に表れていることを他の社員に気付かれたくなかった。
それで社員が使わない運搬用のエレベーターを選択した。
扉が開く。
誰かが乗っていた。
運送会社の者だろうと顔も見ずに会釈し、相手が降りるのを待って時枝が中に入ろうとした。
中に片足踏み込んだところで、その誰かが時枝の腕を掴んだ。

「おいおい、挨拶は会釈だけかよ。目も合わさないとは、この会社の秘書さんは、失礼だな」
「…ゆう…いち…」

今、一番会いたくない人間の顔がそこにあった。

「よっ、元気か?」
「ああ、まあ…、じゃあ、急ぐから」
「急ぐからって、秘書さんは運搬用のエレベータを利用するのか? 武史のところにいるから、後で顔を出せ」
「…手が空けば、」

待っているからなと、言う勇一の言葉を最後まで聞くことなく、時枝はエレベーターのボタンを押した。
動揺していた時枝は忘れていたのだ。
勇一がこの会社に来るときは、悪目立ちしないよう運搬用のエレベーターしか使わないことを、すっかり失念していた。
総務に用事があると出てきたものの、実際に用事があるわけではなく、使用してない会議室で時間を潰すことにした。

「普通の顔、出来てなかったよな…あぁあ、失態だ……」

顔を上げなかったのは、勇一と分かってて避けていた訳じゃない。
ただ、誰とも顔を合わせたくなかっただけだ。
しかし、もしかしたら勇一はワザと見なかったと思っているかも知れないと時枝は後悔した。
それに会社で会ったというのに、タメ語で応答してしまった。
きっと勇一は変に思っているに違いないと、時枝を落ち込ませた。
何一つ自分の中でまとまってないときに、会いたくない勇一と出会すなんて最悪だと、逃げた意味がなかったことを実感した。
意味があるとしたら、遭遇が秘書課ではなく、人気のない場所だったということぐらいだ。
広い会議室にぽつんと座り、書類に目を通す。
勇一のことを考えたくなくて、書類の文字だけを目で追った。
仕事は仕事と目の前の書類に没頭しているつもりだった。
しかし、一枚一枚書類の束を捲る度に、深い溜息と共に、胸に熱いモノが込み上げてきた。

「勇一、普通だったな…」

もう俺の事はどうでもいい範疇ってことか……時枝が手にしていた書類の上にポタッと雫が落ちた。

秘書の嫁入り 青い鳥(21)

「誰の話ですか? 社長達は仲睦まじいですよ。こちらが、困るほど、毎日仲良くしてますが?」
「ボン達じゃねぇ! 時枝さんと組長のことです!」

思いもよらぬ内容だった。

「佐々木さん、落ち着いて下さい。別れるって、別に組長と私は…」
「ラブラブの恋人同士だったじゃないですか。なのに…アッシは納得がいきませんっ!」

今度は握り拳で机をドンと叩く。

「ラブラブって、佐々木さん…、まあ、仲良くはさせていただいてますよ。古い付き合いですから…大人の関係は認めましょう。で、その別れ話ってなんですか? 私と組長が、仲違いでもしたと仰有りたいのですか?」

佐々木のサングラスが曇る。
うどんを食べるときでも曇らなかった両眼のグラスが曇っている。
嫌な予感がした。

「つっ、何で隠すんです。アッシは、応援してたんですっ。もちろん陰ながらですが…、変な女にウロウロされるより、愛し合うお二人がこの先、人生を共にされる方がいいと、思っていたのに…くっ…」

予感的中、佐々木が泣き始めた。
このヤクザ者、こと恋愛話には弱い。
映画館でラブストーリーに涙する男なのだ。
強面の男の中には、純情な心がそんじょそこらの女子高校生よりも多く存在していた。
いくら客の少ない店内とはいえ、人が全くいない訳じゃない。
席を立って、ここから佐々木を連れ出そうにも、目立ってしょうがない。
通りに出て好奇の目を向けられるよりは、この店内だけに留めておく方がマシかと、時枝の脳内で計算が働く。

「私と組長が、ラブラブの恋人同士かどうかは別にして、別に仲違いもしてませんし、別れるどうこうの話もしたことはありませんよ。ここしばらく会ってないだけで」
「くっ、時枝さん、アッシに嘘付かないでくださいっ。だったら、どうして、組長は見合いなんかしたんですかっ! アッシはショックで…時枝さんと別れてないなら、するはずないじゃないですかっ! …もう、組長のことは、どうでもいいんですかっ!」
「…見合い? …勇一が見合い?」

佐々木の吐いた思いがけない言葉に、時枝は勇一を組長と呼ぶことも忘れていた。

「…それはいつの話ですか…佐々木さん」

みるみる間に、時枝の顔から血の気が引く。
脳内で『何をそんなにショックを受けているんだ? 落ち着け、落ち着くんだ』と時枝は自分自身に言い聞かせていた。
しかし口から出る声は、かなり上ずっていた。

「えっ、時枝さん…、まさか…」
「知りません。俺は何も聞いてないっ!」

佐々木が興奮していた時よりも強い力で時枝がテーブルをドンと叩き、立ち上がった。
テーブルの上のお冷やのコップが倒れた。

「時枝さんっ、落ち着いて下さいっ!」

立場逆転、佐々木が倒れたコップを元に戻し、溢れた水をハンカチで拭き、慌てて駆けつけた店員に「お騒がせしちまって」と頭を下げた。
突っ立ったままの時枝を、佐々木が無理矢理肩を押さえ込んで座らせた。
もう、佐々木の目に涙はなかった。
代わりに、時枝の目からスーッと涙が一筋流れていた。
佐々木が時枝の涙を見たのは、もう随分と昔のことだ。
時枝の両親が亡くなり、勇一と伴に、病院に駆けつけた時に一度見たきりだと思う。
その時枝が泣いている。
佐々木の目にはいつも冷静で完全無欠のように映っていた時枝の涙に、佐々木は時枝のショックの深さを感じた。
「愛してらっしゃるンですね…やっぱり。だったら、アッシは組長が許せねぇ。どうして、見合いなんか。時枝さんに黙ってするなんて、筋が通ってねぇ。組長が、そんな男だったなんて…。アッシが組長の真意を確かめますっ!」
勇一の真意?

「やめて下さい」

少しは落ち着いたらしい。
ハッキリとした口調で時枝が佐々木を止めた。

「…これは…、俺と勇一の、いや組長と私の個人的な事です。私に内緒にしているのは、組長なりに考えあってのことでしょう。…真意…ですか…、確かめることに果たして意味があるのでしょうか」

確かめることが、怖いのかもしれない。
事実は事実として、勇一が見合いをしたことを時枝は受け止めないとならない。
しかし、勇一が、何を考え見合いをしたかを想像すると、それ以上の事を考えるのがイヤだった。
自分に飽きたか、組関係の政略か、組存続の為の子孫繁栄か…確かめてしまえば、今の時枝は自分が崩れそうだった。
そのどれかだと思い当たるが為に、真意は知りたくなかった。

「…でも、それじゃあ、」
「いいんです。佐々木さん、知らせてくれてありがとうございました。私が知っていることは組長には内密にお願いします。私も男ですから、自分でケジメは付けます」
「ケジメって…」

自分から決別するって意味じゃ…と、佐々木に不安が過ぎる。
この二人を佐々木はずっと見てきた。
ガキの頃からずっとだ。
さすがに深い関係になるとは思ってもみなかったが、この二人なら、それもアリだと素直に思える程、元々が深い絆で結ばれているのだ。
その絆が切れるのだろうか?
勇一の側から時枝の存在が消えるということがあるのだろうか?
佐々木はこりゃ、桐生の一大事じゃないかと、焦りを覚えた。その佐々木の焦りが時枝に伝わったのか、念を押されてしまった。

「くれぐれも勝手なマネはしないで下さい。これは桐生の話ではなく、私と組長の個人的な問題ですから。じゃあ、ここは私に奢らせて下さい」

時枝の顔から、涙は消えていた。
凜としたいつもの時枝の顔だった。秘書の仮面を被った顔だった。
立ち上がると「お騒がせしました」と、支払いに言葉を添え、時枝はうどん屋を出た。