秘書の嫁入り 青い鳥(22)

「時枝室長、どうかなさいました? ご気分でも?」

社へ戻ってきた時枝の顔が少し青いように感じ、部下の篠崎が声を掛けた。

「大丈夫です。仕事が溜まっているなと、少し憂鬱になっただけです」
「室長?」

普段、仕事の愚痴をこぼさない時枝の口から、「憂鬱」の言葉が出たことに篠崎は驚いた。
怪訝そうに時枝の顔を見ると、それを察した時枝が笑って見せた。

「冗談ですよ。本当に、何でもありません。新人はどこに行きました?」
「お茶菓子を買いに行ってます。室長が留守の間に、社長がお客様がみえると仰有るものですから。ちょうど和菓子が切れてましたので、羊羹を買いに行かせました」
「客の予定はなかったはずですが…、」
「社長がお呼びになったみたいです」
「どなたですか?」
「桐生様と仰有ってましたが?」

勇一だった。
今、このタイミングで勇一がここに来るのかと、時枝は胸に圧迫感を覚えた。
顔をまともに見る自信がない。
見合いについては勇一が話さない限り、知らないフリをするつもりだ。
しかし、今顔を見れば、平常でいられる自信がなかった。

「分かりました。では桐生様がお見えになったら、お茶出しは新人にさせて下さい。くれぐれも失礼のないように、と。私は総務に用事があるので、後は頼みます」

時枝は、逃げることを選択した。
目を通さなければならない書類の束を持ち、いそいそと、秘書課を出た。
エレベーターを待つ。
普段使わない貨物運搬用のエレベーターだ。
動揺が顔に表れていることを他の社員に気付かれたくなかった。
それで社員が使わない運搬用のエレベーターを選択した。
扉が開く。
誰かが乗っていた。
運送会社の者だろうと顔も見ずに会釈し、相手が降りるのを待って時枝が中に入ろうとした。
中に片足踏み込んだところで、その誰かが時枝の腕を掴んだ。

「おいおい、挨拶は会釈だけかよ。目も合わさないとは、この会社の秘書さんは、失礼だな」
「…ゆう…いち…」

今、一番会いたくない人間の顔がそこにあった。

「よっ、元気か?」
「ああ、まあ…、じゃあ、急ぐから」
「急ぐからって、秘書さんは運搬用のエレベータを利用するのか? 武史のところにいるから、後で顔を出せ」
「…手が空けば、」

待っているからなと、言う勇一の言葉を最後まで聞くことなく、時枝はエレベーターのボタンを押した。
動揺していた時枝は忘れていたのだ。
勇一がこの会社に来るときは、悪目立ちしないよう運搬用のエレベーターしか使わないことを、すっかり失念していた。
総務に用事があると出てきたものの、実際に用事があるわけではなく、使用してない会議室で時間を潰すことにした。

「普通の顔、出来てなかったよな…あぁあ、失態だ……」

顔を上げなかったのは、勇一と分かってて避けていた訳じゃない。
ただ、誰とも顔を合わせたくなかっただけだ。
しかし、もしかしたら勇一はワザと見なかったと思っているかも知れないと時枝は後悔した。
それに会社で会ったというのに、タメ語で応答してしまった。
きっと勇一は変に思っているに違いないと、時枝を落ち込ませた。
何一つ自分の中でまとまってないときに、会いたくない勇一と出会すなんて最悪だと、逃げた意味がなかったことを実感した。
意味があるとしたら、遭遇が秘書課ではなく、人気のない場所だったということぐらいだ。
広い会議室にぽつんと座り、書類に目を通す。
勇一のことを考えたくなくて、書類の文字だけを目で追った。
仕事は仕事と目の前の書類に没頭しているつもりだった。
しかし、一枚一枚書類の束を捲る度に、深い溜息と共に、胸に熱いモノが込み上げてきた。

「勇一、普通だったな…」

もう俺の事はどうでもいい範疇ってことか……時枝が手にしていた書類の上にポタッと雫が落ちた。