秘書の嫁入り 青い鳥(29)

「ゆっくりしててくれ。活きのいい魚を仕入れてくるからよ」
「もう、暗いですが」
「ちょうど、夕方戻ってきた船が、荷を降ろしている頃だ」

尾川が出て行き、一人残された。
時枝は、東京を出てから、自分の中の勇一への思いを断ち切ろうとしてきた。
だが忘れようとすればするほど、自分の中に占める勇一が存在をアピールする。
一人残されれば、また勇一のことを考えてしまう。キリがないのだ。
岸壁から飛び降りそうと言った尾川の言葉じゃないけども、存在を消すには、自分がこの世から消えるしかないような気さえする。
それはできない。
消えるなら、絶対に勇一に知られない方法じゃないと、もし、自分がこの世を去ったことが分かれば、勇一は深く傷つくだろう。
ああ見えて、繊細な男なのだ。
勇一が見合い相手と付き合っているとしても、一方的な別れ話で傷ついていることは、時枝には分かっていた。
しかし、勇一の将来の為にはこれが最善の方法だと思っている。
憎まれてもしょうがない。
だけど、これ以上傷付けたくはない。
そうでなくても、勇一は今までも心を痛めてきた。
特に黒瀬の事では、自分を今でも責めている。
彼の人格を変えてしまったのは、父親の彼への虐待に自分が気付かなかったせいだと思っている。
父親の死が早かったのも自分のせいだと責めている。
そして時枝の人生を変えてしまったことも、自分の我が儘のせいだと、責めている。
桐生のトップとして君臨している彼の心が、傷だらけとは誰一人思ってはいない。
時枝だけが知っていた。

「死ぬ選択肢も俺にはない…」

自嘲気味に時枝は呟いた。

「当たり前だろ。あんた何を考えているんだ? 死ぬ選択肢は、誰にもない。しっかりしろよ」

いつの間にか尾川が戻って来ていた。
目を釣り上げ怒っていたが直ぐに笑顔になった。

「人間空腹だとろくなこと考えないからな。刺身で、先にやっててくれ」

大きな絵皿に盛られた刺身をちゃぶ台の上に置く。
仕入れ先で、その場で刺身にしてもらったらしい。
さほど空腹感はなかったが、口に入れてみると、腹が減っていたことが分かる。
そういえば今日は何も食べてなかった。
昨日は何か口にしただろうか? 覚えていない。 
いつが最後の食事だったかも思い出せないほど、時枝は精神的に参っていた。

「鍋にしたから、すぐに食えるぞ。酒も用意したから、好きなだけ飲め」

カボスの酢醤油を小皿に用意してくれた。
チューブに入った紅葉おろしをその中に入れ、二人で鍋を囲む。

「飲むと、ヤバイ人だったよな、時枝さんって。明日が仕事ってわけでもなさそうだから、酔ってもいいんじゃないか? 飲め飲め」
「頂きます」

勧められるままに、酒も飲む。
飲んで憂さ晴らしが出来るとは思わないが、酔えば何も考えなくて済むかなと酒が進む。
尾川は、時枝がどうして小倉にいたのか、どうして一人でフラフラしていたのか、訊いては来なかった。
話は黒瀬達の結婚式の話しだったり、潤の母親の若き日の武勇伝だったり、全く関係のない野球の話だったりと、時枝を気遣っているようだった。
最後の雑炊を食べ終わったころ、時枝の身体に酒も程良く回っていた。

「何も訊かないんですね」

時枝が箸を置く。

「訊いて欲しけりゃ、訊くぞ。言いたくなければ、それでもいい。抱えていることがあるんだろうけど、それは時枝さんの問題だ。此処に連れてきたのは、好奇心でそれを訊きだそうっていうんじゃない。俺が放っておけなかっただけだ」
「…優しい人だ。甘えてしまいたくなる」

寄りかかれるものが欲しかった。

「時枝さん?」

尾川の背に、時枝は自分の背を合わせた。

「尾川さんは、男と寝たことありますか?」

背中越しに質問する。

「ないな」
「後腐れない遊びは?」
「ある」

正直な男だ。

「俺と遊びましょう」

スラッと出た言葉に、自分でも驚いた。

「後を引くのは、遊びとは言わない」

ふざけるなと、怒鳴られると思ったが、淡々と言われた。

「…遊びじゃなくても構いません。俺は誰かと寝たい。後先考えずに、何も考えずに寝たい」
「いいだろう。但し、彼に連絡しろ」
「彼って?」
「桐生勇一。あいつに内緒にするなら、諦めろ。俺は、あんたも気に入っているが、彼も気に入っている。あんた達二人が好きだ」
「…別れた男ですから。関係ありません」
「関係あるだろ。関係ないなら、あんたがそんなに傷ついている理由がない。悪いけど、時枝さんが、仕事でヘマするとは思えない。訊かなくても理由はその辺だろうとは思っていたよ」
「…連絡は出来ません」
「なら、無理だ。コソコソしたことはしたくない。そんなことすれば、二度と会えなくなるからな。正々堂々としていたい」
「…分かりました。すみません、変なこと言って。他当たります。お邪魔しました。俺、行きます」

背を向けたまま、立ち上がる。
歩き出そうと前に一歩踏み出したところで、後ろ足を掴まれた。
座っていた尾川が立ち上がり、時枝の頬を平手で叩いた。
時枝の顔から眼鏡が飛んだ。