秘書の嫁入り 青い鳥(24)

勇一に会いたくなくて秘書課を出たというのに、勇一に遭遇してしまい、結局時枝の頭にあるのは勇一のことだった。
勇一が黒瀬に問い詰められていた時間、時枝は、自分がどうするべきなのか、一人孤独に答えを模索していた。
佐々木に聞かされたばかりで、今は考えたくないのが本音だったが、勇一の顔をまともに見られない今、早く自分なりの決着を付けなければと焦っていた。
時枝の知る限り、時枝と深い関係になる前にも勇一が実際に見合いをしたことは無かったはずだ。
見合い話はあった。
しかし、勇一が腰をあげたことはなかった。
つまり見合いをしたということは、本気だということなのだ。
時枝は勇一が自分に飽きたとは思いたくなかった。
だが、勇一が自分を好きでも、添い遂げる相手を別に選ぶ可能性はあるだろう。
組の存続を考えると、跡を継ぐ者の存在が必要なのだ。
これが政略結婚なら、なおのこと自分が消えるべきではないのか、と時枝は思い始めていた。
佐々木には自分で決着を付けると言った。
その時から、自分の選択肢が一つしかないことを感じていた。
勇一の口から、見合いや別れ話が出る前に、自分から別れを告げよう、それしかない。
それが時枝の辿り着いた答えだった。
勇一だって、自分から見合い話や、別れ話、その先の結婚話をするのは、辛いだろうと時枝は思う。
ましてや、勇一の口から聞かされるのは、自分には辛すぎる。
両親が逝った時、勇一がいなかったらどうなっていたか分からない。
勇一がいたから、施設にも入らずに済んだ。 
桐生の世話になり、学費も生活費も全て出してもらった。 
時枝の両親の死に暴力団が絡んでいた為、憎んだこともあったが、それ以上に家族だった。
桐生の先代にも勇一にも恩がある。
今、ここで、桐生の為に出来ること、勇一の為に出来ることは、別れてやることだと時枝は腹を括った。

「社長、少しお時間よろしいですか?」

今日は金曜日だ。週末が目前だ。

「いいよ、何事? 一杯飲む?」
「いえ、結構です」

社長室にはかなりの数の高級酒が隠してある。
他の社員が帰ったあと、二人で残業をするときは、飲みながらということも多い。
今日も既に他の者は引き上げていた。
潤も帰宅している。
今頃は黒瀬の為に料理を作っているに違いない。

「そう? 俺は飲みたいから頂くよ。時枝、作ってくれる。ブランディのロック」

社長のデスクから、黒瀬が応接セットの方へ移動する。 
ソファに腰を降ろすと、ネクタイを緩めた。

「どうぞ、」
「ありがとう。座れば?」
「いえ、それも結構です」
「見下ろされるのは好きじゃないんだけど?」

遠回しの命令だ。
時枝が渋々黒瀬の前に座った。

「話っていうのは、俺への告白?」
「真面目な話ですけど」
「告白っていうのは、不真面目なんだ~。知らなかったよ。てっきり、俺のキスが忘れられなくて、兄さんから俺に乗り換えたいのかと思った。でも、時枝、それには問題が、俺には可愛い潤がいるからね、悪いけど、気持ちには応えてやれない」
「…、あの、社長?」
「なんだ?」
「私がいつ、あなたとキスをしましたか?」
「覚えてないんだ~。ふ~ん、」
「してないことは、覚えようがありませんっ!」

絶対そんなことはしていない。
自信を持って、時枝は否定した。
ニヤニヤと黒瀬が意地の悪い笑みを浮かべた。

「あなたに告白するはずもないでしょ。バカバカしい」
「そう? 一回ぐらいなら、寝てやってもいいけど。最近時枝、元気ないし~」
「市ノ瀬さまに、言いつけますよ?」
「それは、困るな。冗談だから」
「分かってます」
「それで、用件は何?」
「中国へ出向く前に休みを下さい。一週間ほど。駄目ですか? 篠崎がいれば、秘書課の仕事は今のところは大丈夫です。新人もいますしね。篠崎が新人のフォローするでしょう」
「急にまた。いいけど、いつ欲しいの?」
「今週末から次の日曜まで。月曜日には出社します」
「理由を訊いてもいい?」

本当のことなど、時枝が黒瀬に言えるはずもない。
黒瀬は黒瀬で、時枝の様子から、時枝の耳に勇一の見合い話が入っていることは勘付いていた。
時枝が休暇申請の本当の理由を言うはずはないと分かっていて、訊いた。

「両親の墓参りと、中国へ行く前に少し身体をリフレッシュしたいなと。中国での仕事もハードになるのは、目に見えてますし、二、三日、一人旅でもして、のんびりするのもいいかなと」
「兄さんと一緒じゃないんだ~。二人で温泉旅行でも行ってくれば?」

勇一の事を持ち出され、時枝の目が憂う。

「組長も忙しいでしょうから、一人でのんびりしてきます」
「そう。わかったよ。月曜日は遅刻せずに出社してよ」
「誰かさんじゃあるまいし、私が遅刻などするはずがありません」
「やだな、ただの確認だろ。ムキになってどうしたの?」
「ムキになってはいません。社長、私がいないからといって、新人を呼びつけての破廉恥な行為は謹んで下さい。いいですね?」
「はいはい。仕事のことは大丈夫だから、ゆっくりしておいで」

珍しく黒瀬の物わかりがいいことに、時枝は気味が悪かったが、一週間、正確には九日間の休暇を手に入れたことには満足だった。
ただし、この休暇に、楽しい事が一切起こらないことは間違いなかった。