秘書の嫁入り 青い鳥(21)

「誰の話ですか? 社長達は仲睦まじいですよ。こちらが、困るほど、毎日仲良くしてますが?」
「ボン達じゃねぇ! 時枝さんと組長のことです!」

思いもよらぬ内容だった。

「佐々木さん、落ち着いて下さい。別れるって、別に組長と私は…」
「ラブラブの恋人同士だったじゃないですか。なのに…アッシは納得がいきませんっ!」

今度は握り拳で机をドンと叩く。

「ラブラブって、佐々木さん…、まあ、仲良くはさせていただいてますよ。古い付き合いですから…大人の関係は認めましょう。で、その別れ話ってなんですか? 私と組長が、仲違いでもしたと仰有りたいのですか?」

佐々木のサングラスが曇る。
うどんを食べるときでも曇らなかった両眼のグラスが曇っている。
嫌な予感がした。

「つっ、何で隠すんです。アッシは、応援してたんですっ。もちろん陰ながらですが…、変な女にウロウロされるより、愛し合うお二人がこの先、人生を共にされる方がいいと、思っていたのに…くっ…」

予感的中、佐々木が泣き始めた。
このヤクザ者、こと恋愛話には弱い。
映画館でラブストーリーに涙する男なのだ。
強面の男の中には、純情な心がそんじょそこらの女子高校生よりも多く存在していた。
いくら客の少ない店内とはいえ、人が全くいない訳じゃない。
席を立って、ここから佐々木を連れ出そうにも、目立ってしょうがない。
通りに出て好奇の目を向けられるよりは、この店内だけに留めておく方がマシかと、時枝の脳内で計算が働く。

「私と組長が、ラブラブの恋人同士かどうかは別にして、別に仲違いもしてませんし、別れるどうこうの話もしたことはありませんよ。ここしばらく会ってないだけで」
「くっ、時枝さん、アッシに嘘付かないでくださいっ。だったら、どうして、組長は見合いなんかしたんですかっ! アッシはショックで…時枝さんと別れてないなら、するはずないじゃないですかっ! …もう、組長のことは、どうでもいいんですかっ!」
「…見合い? …勇一が見合い?」

佐々木の吐いた思いがけない言葉に、時枝は勇一を組長と呼ぶことも忘れていた。

「…それはいつの話ですか…佐々木さん」

みるみる間に、時枝の顔から血の気が引く。
脳内で『何をそんなにショックを受けているんだ? 落ち着け、落ち着くんだ』と時枝は自分自身に言い聞かせていた。
しかし口から出る声は、かなり上ずっていた。

「えっ、時枝さん…、まさか…」
「知りません。俺は何も聞いてないっ!」

佐々木が興奮していた時よりも強い力で時枝がテーブルをドンと叩き、立ち上がった。
テーブルの上のお冷やのコップが倒れた。

「時枝さんっ、落ち着いて下さいっ!」

立場逆転、佐々木が倒れたコップを元に戻し、溢れた水をハンカチで拭き、慌てて駆けつけた店員に「お騒がせしちまって」と頭を下げた。
突っ立ったままの時枝を、佐々木が無理矢理肩を押さえ込んで座らせた。
もう、佐々木の目に涙はなかった。
代わりに、時枝の目からスーッと涙が一筋流れていた。
佐々木が時枝の涙を見たのは、もう随分と昔のことだ。
時枝の両親が亡くなり、勇一と伴に、病院に駆けつけた時に一度見たきりだと思う。
その時枝が泣いている。
佐々木の目にはいつも冷静で完全無欠のように映っていた時枝の涙に、佐々木は時枝のショックの深さを感じた。
「愛してらっしゃるンですね…やっぱり。だったら、アッシは組長が許せねぇ。どうして、見合いなんか。時枝さんに黙ってするなんて、筋が通ってねぇ。組長が、そんな男だったなんて…。アッシが組長の真意を確かめますっ!」
勇一の真意?

「やめて下さい」

少しは落ち着いたらしい。
ハッキリとした口調で時枝が佐々木を止めた。

「…これは…、俺と勇一の、いや組長と私の個人的な事です。私に内緒にしているのは、組長なりに考えあってのことでしょう。…真意…ですか…、確かめることに果たして意味があるのでしょうか」

確かめることが、怖いのかもしれない。
事実は事実として、勇一が見合いをしたことを時枝は受け止めないとならない。
しかし、勇一が、何を考え見合いをしたかを想像すると、それ以上の事を考えるのがイヤだった。
自分に飽きたか、組関係の政略か、組存続の為の子孫繁栄か…確かめてしまえば、今の時枝は自分が崩れそうだった。
そのどれかだと思い当たるが為に、真意は知りたくなかった。

「…でも、それじゃあ、」
「いいんです。佐々木さん、知らせてくれてありがとうございました。私が知っていることは組長には内密にお願いします。私も男ですから、自分でケジメは付けます」
「ケジメって…」

自分から決別するって意味じゃ…と、佐々木に不安が過ぎる。
この二人を佐々木はずっと見てきた。
ガキの頃からずっとだ。
さすがに深い関係になるとは思ってもみなかったが、この二人なら、それもアリだと素直に思える程、元々が深い絆で結ばれているのだ。
その絆が切れるのだろうか?
勇一の側から時枝の存在が消えるということがあるのだろうか?
佐々木はこりゃ、桐生の一大事じゃないかと、焦りを覚えた。その佐々木の焦りが時枝に伝わったのか、念を押されてしまった。

「くれぐれも勝手なマネはしないで下さい。これは桐生の話ではなく、私と組長の個人的な問題ですから。じゃあ、ここは私に奢らせて下さい」

時枝の顔から、涙は消えていた。
凜としたいつもの時枝の顔だった。秘書の仮面を被った顔だった。
立ち上がると「お騒がせしました」と、支払いに言葉を添え、時枝はうどん屋を出た。