秘書の嫁入り 青い鳥(30)

「いい加減にしろ。どんな事情で別れたかは知らんが、まだ気持ちが残っているんだろうが。大人のあんたが誰かと寝ようとそれは自由だ。しかし、今のあんたが、それですっきりすると思っているのか? あんた、今以上に辛くなるぞ? それでもいいのか?」

叩かれた頬をさすりながら、時枝が尾川を見上げた。

「じゃあ、どうすればいいんですかっ! 俺から別れたんだ。これが勇一にとっても桐生の組にとっても、最善だと信じてる。だけど、理屈じゃ割り切れないんだ。苦しいんだよっ。あんた俺より人生長く生きてるんだろ? 教えてくれよ。…教えて下さいっ! あいつはただの恋人とかそういうんじゃ、ない。くそぉおおおおおっ」

大声で喚いていた。目から水分を飛ばし、八つ当たりだと分かっているのに、心配してくれている尾川にあたっていた。
尾川が、前からではなく、時枝の後ろから羽交い締めにするように時枝を包む。

「潤や黒瀬さんのことでは冷静で、先を見据えての判断ができる時枝さんも、自分のことになると潤よりガキだ。あんた、仕事も完璧で、黒瀬さんや潤を引っ張って行ってるんだろ? でも、恋っていうのはそういうものだ。人から思考を奪う」

諭すような尾川の言葉に、時枝は嗚咽をあげたまま、耳を傾けた。

「誰でもそうだ。恥ずかしいことじゃない。泣き喚けばいいんだよ。ほら、泣け」

泣いている人間に泣けというのも尾川らしいが、泣けと言われると涙は引っ込むらしい。

「…もう、いい…です…」
「泣いていいんだぞ?」
「…泣けません……」
「じゃあ、俺の話を聞け」

羽交い締めにされたまま、首をコクンと下げた。

「あんた、間違っていると思う。おっと、反論するなよ。最後まで聞いてくれよ。俺が間違っていると思うのは、泣いて本音を伝えるのが俺じゃないということ。相手が違うだろ? 時枝さん、あんたのことだ。自分だけで自己完結しようとしたんじゃないのか? ちゃんと向き合ったわけじゃないだろ? 話し合っての別れ話じゃないだろう? 自分から別れたって、さっき言ってたよな。それって、自分の本心を相手にぶつけてないんだろ? だから苦しいんじゃないのか」
「…それが、出来ないから…。最善の方法をとった…」
「最善? 本当にそうなのか? そう自分で思い込んでいるだけじゃないのか? だいたい、恋人同士だったんだろ? 腹の中かち割って洗いざらいハッキリさせて、カタ付けろよ。それで別れるなら、別れるでいいじゃないか。違うから、自分の中だけで、終わりにしようとするから、やり場がないんだよ。あんた、桐生さんのことが、好きで好きで堪らないんだ。相手の為に身を引くって、美徳でも何でもないぞ? 潤達の話を聞いたが、彼奴らだって、身を引こうとしてたそうじゃないか。でも、引かなかった。それでも、何とかなったじゃないか。あんた達がいたからだ。逆に言えば、あんたと桐生さんにも、潤達がいる。事情は知らないが、あんたが身を引かなくても済む解決方法もあるかも知れないし…あの桐生さんがあんたを捨てるとは思えないけどな」

でも、事実…

「見合いした…その相手と付き合っている」

ぼそり、時枝が洩らした。

「見合い? それで、あんた…」

時枝を羽交い締めした尾川の腕がブルブル震えだした。

「…くっ、」

腕だけじゃなく、尾川の身体全体から細かい震動が伝わってくる。

「尾川さん?」

時枝が、泣き腫らした顔で後ろを振り返った。

「…たまらん…クッ、…ワリィ…あぁあ…腹が痛いッ…」

時枝の目に映ったのは、声を必死で堪えて笑っている尾川の顔だった。

「尾川さんっ!」

どこにも、笑いを誘う要因はなかったはずだ。
泣き喚いた自分の姿は、笑いを誘うものだったかもしれないが、そんな自分に確かに尾川は説教めいた言葉を掛けてくれた。
尾川がもう駄目だと時枝に掛けていた腕を外し、畳に座り込み涙を浮かべ腹を抱えて笑い出した。

「可笑しい話はどこにもないでしょっ!」

親身になって話をしてくれてるかと思っていたのに、大笑いされ、バカにされているのかと腹が立ってきた。

「…あんた、見合いってッ…あ~、腹が、千切れそうッ…それが原因でッ…ヒィ~~」

見合いが、そんなに可笑しいことか?

「あ~、悪かった……はぁ…、はぁ…、やっと落ち着いた」
「尾川さんっ、説明して下さいっ! 笑われる原因が分かりませんっ!」

呼吸を整える尾川に時枝が詰める。

「そりゃ、可笑しいだろ。思い詰めた原因がたかが見合いだっていうんだ。もっと深い何かがあると思うだろうが。死ぬような顔で思い詰めていた原因が、見合いって、そりゃ、見合いぐらい、桐生さんだってするだろうよ」
「ぐらいって、何ですか? 見合いしたんですよ。今までしたことがなかった勇一が俺に黙って」
「俺だって、世話焼きババァに無理矢理見合いって何度もあるぞ? 黙っていたのは、時枝さんにいうほどのことはないってことだろ」
「しかも、相手と付き合ってるんだ。結婚を考えている証拠だろ。だったら、俺が身を引くしかないじゃないかっ!」

尾川が時枝を見て、また笑いをかみ殺している。

「…時枝さん、あんた、頭賢いんだろ? 社会の裏だって見てきてるんじゃないのか? くっ…、なのに、世間知らずだったとは…」

世話になった桐生もそうだが、黒瀬と共に歩んで来た世界は、裏なんていう生易しいものじゃない。
まさかその自分が世間知らず呼ばわりされるとは思ってもいなかった。