秘書の嫁入り 青い鳥(27)

次の日、時枝は両親の墓前に参ると、その足で東京を発った。
行き先を決めていたわけではない。
知らない場所で、勇一を自分の中から追い出してしまいたかった。
電車を乗り継ぎ、適当に降りる。
駅の近くには大抵ビジネスホテルがあるので、飛び込みで空室があれば、泊まり、なければ夜通しやっているような飲み屋や映画館で一晩過ごす。
北へ向かうのは、失恋男には淋しすぎると、南、南へと南下して行ったら、四日目には九州に辿り着いていた。
九州の玄関口、小倉。
普段、九州には飛行機で来るので、小倉駅は久しぶりだった。
いつの間にこんなに綺麗になったんだと、駅ビルを彷徨(うろつ)いていた。
博多にはクロセの支社もあるし、桐生の事務所もあるので、寄る気はなかった。
このまま、大分、宮崎、と降りて行くのもいいか、とみどりの窓口で、時刻表を眺めていた。

「あんた、時枝さんじゃない?」

肩を叩かれ、聞き覚えのある声に振り返ると、知っている顔が立っていた。

「あなたは…、尾川さん、その節はお世話になりました」

尾川というのは、潤が敵対する企業の罠に掛かり、拉致られた時に、逃げ出した潤を保護してくれた漁師だ。
もし潤がこの男に拾われなければ、潤はもちろんだが、黒瀬さえも死んでいたかもしれないという、大恩人なのだ。
後で潤の母親の幼なじみだったことも判明し、潤はこの尾川を父親のように慕っている。
黒瀬も身内のように思っている人物だ。

「一人? 皆元気にやってるか?」
「ええ。忙しくやっています」
「そりゃ、何よりだ。今日は仕事ってわけじゃなさそうだな」

何かあったんじゃないのかと、いう視線を向けてくる。
この海の男は観察眼が鋭い。

「尾川さんは? 今日は小倉で何か?」
「今日っていうか、昨日、こっちの友人と飲んでて、今から博多に戻る所だ。時枝さん、疲れた顔してるな。美味い飯でも食わせてやるから、一緒に来いよ」

時枝が手にしてたボストンバックを尾川が持って歩き出す。

「あの、どこに」
「いいから、いいから、ついてきな」

回数券があるからと、切符を渡された。
そこに書かれている文字に時枝の足が止まる。

「博多…」

博多には行きたくなかった。
まだ吹っ切れない勇一との濃厚な思い出がある場所だ。

「あの、尾川さん、私は博多には…」
「心配するな。小倉と博多はローカル線でもそう遠くない」
「そういう問題じゃなくて…」
「博多は嫌か? だけど、俺、今日のあんた、放っておけないんだわ。あんた、自分がどんな顔をしてるか自覚ないだろ?」
「顔、ですか?」
「フラフラと岸壁から身を投げ出しそうな顔している。別に自殺しそうっていうわけじゃない。人生諦めたって、顔している。投げやりというか。そんな人間放ってはおけない。お節介だと思うが、これは俺の我が儘だ。悪いな」

本当に見抜かれていた。
下手な嘘を付いて、博多には行けないと言っても、この男には通じないだろう。
自分が情けなかった。
感情ダダ洩れで、尾川相手に仮面の一つも被れない自分が情けなかった。
時枝のボストンバックを持ったまま、自動改札を抜ける尾川を仕方なく追う。
ちょうど帰宅ラッシュ時で、車内は混雑していた。
おかげで取り繕い尾川と世間話をする必要もなかった。
立ったまま、ぼ~っと窓の外を見る。
南を選んだ自分の選択肢の失敗を後悔した。
東京を出てから、いや、勇一と別れてから、誰かと話らしい話はしてなかったなと気付く。
人恋しい寂しさも手伝って、時枝は尾川を振り払えなかったのかも知れないと思った。

 

 

『ボン、アッシです。ちょっとお時間頂けますでしょうか?』

時枝がいない株式会社クロセ本社の社長室。
時枝が予想していたとおり、黒瀬は何かに付けて、潤を呼び出していた。
一応、今は昼休みだが、黒瀬の上に下半身剥き出しの潤が重なっていることは、褒められた行為ではないだろう。
潤の中に自分の中心を埋めたまま、着信音がしつこい携帯を取る。
普段なら、この状況下では無視の黒瀬だが、相手が珍しく佐々木だったので、出てしまった。