秘書の嫁入り 青い鳥(26)

「珍しく、遅かったな」

別に咎めるような口調ではなかった。

「悪かった。出よう」

簡単な謝罪。

「は? 勝貴、童心に返ってパ~ッと遊ぶんじゃなかったのか?」
「と、思っていたが、こうガキばかりだとな…話がある、出るぞ」

そこまで、ガキが多くはなかった。
しかし、ここに足を踏み入れた時から、息するのも苦しいぐらい胸が締め付けられた。
懐かしさとこれから失う物の大きさが、鎖となって時枝の胸を縛る。
長居は無理だと、時枝の足は別の場所へ向かった。
我が儘なやつだと、笑いながら時枝の後を勇一が追う。

「なあ、勝貴、今日は思い出ツアーか? どうして今度は図書館なんだ?」
「アホな子をココで立派に育てたなと思ってさ」

時枝の足は、昔、時枝が勇一の勉強に付き合わされた図書館の前で止まった。
ここでも、胸は当然苦しくなる。
しかし、思い出の場所で最後にしたかった。

「アホな子って、この子?」

勇一が自分を指さした。

「他に誰がいる。だが、そのアホな子も今は立派な桐生の代表だ。感慨深いな」
「なんだ、それ? 勝貴、親戚のオッサンみたいな口調だぜ。変なやつ」
「そこのベンチにでも座ろうか、組長」

図書館の周辺は、木々生い茂る公園になっている。
花壇もあり、花壇と花壇の間にベンチが所々置かれている。
その中の一つに時枝は勇一を誘った。

「早速だが、本題に入る。桐生組組長、桐生勇一、」

世間話の一つもする余裕が時枝にはなかった。

「何事だ?」

肩書き付きのフルネームで呼ばれ、勇一が片眉を上げて、時枝を見る。
時枝は、正面を向いたまま、勇一を見ようともしない。

「俺は、お前と縁を切る。終わりにしたい。話は終わりだ」

それだけ言うと、立ち上がった。
時枝が歩き出そうと一歩踏み出すのと同時に、勇一の手が時枝の腕を掴む。

「待て、どういうことだ」

勇一の声が低い。
時枝が勇一の腕を振り払おうとした。

「どういうことだと、訊いてるんだ」

明らかに怒っている。
時枝の腕を掴んだ手を後方に引き、無理矢理時枝をベンチに戻した。

「どういうことも何もないだろう? 縁を切る。別れるということだ。国語も俺は教えたぞ? 今まで世話になった」

また、立ち上がる。
今度は勇一の前で深々と頭を下げた。
これには、勇一が驚いた。
時枝が勇一にプライベートの時間で頭を下げたことなど、思い出す限り、ない。
つまり、ふざけた遊びで口にしたのではないということだ。
本気なのだ。

「俺を一人にするっていうのか? 俺と人生を歩いてくれるはずじゃなかったのか? 理由もなく、そんな話、呑めるかっ!」

土曜日の公園だった。
人がいないわけでもない。
響き渡る勇一の罵声。
いつもの時枝なら、それを制止しただろう。
しかし、時枝はしなかった。

「お前は一人じゃない。構成員が大勢いるじゃないか。お前と人生を共にするのは、俺じゃない。別の人間だ。そして、最大の理由は、俺はヤクザが嫌いなんだ。俺の親は誰に殺されたか、お前が一番知っているじゃないか。自分に嘘は、もうつけない。これ以上俺に言わせるな。世話になったし、感謝もしている。それは本当だ。だから、もう、解放してくれ、頼む。組長」

一番傷付ける理由を時枝は敢えて付け足した。
両親の弔いをしてくれた桐生に、今更ヤクザがどうこういう思いはなかった。
だがこのことを持ち出せば、勇一が何も言えないことを時枝は知っていた。
頭を下げたまま告げる時枝の肩を勇一が掴む。

「本当の理由を言え」
「これ以上の理由はない、組長」
「どうして、俺の名を呼ばない。恋人でもなければ、友人でもないということか」
「その通りだ」
「もう、いいだろ? これで足りないなら、土下座する」
「やってみろよ、出来るなら、やれ」

自分でも大人げないと、勇一は思った。
突然別れ話を切り出され、理性より感情が先走る。
売り言葉に買い言葉的なものだったが、時枝の心を痛く傷付けた。
やはりそこまで愛されてはなかったのか、と心が弱くなっていた時枝には、勇一の自分への命令口調が杭のように突き刺さる。
遠巻きに人だかりが出来ていた。だが、二人の目には映ってはいない。
時枝が、地に座る。
そして、勇一の靴のすぐ前に両手を並べ、そのまま頭を深く下げた。
地に額が届く程下げた。

「もう、いいっ、勝手にしろ。そうやって、本当の理由も俺に告げず、俺から逃げて行くのか? 好きにすればいい…好きにすれば…」

時枝の目に映っていた勇一の靴が消えた。
地面から伝わる音が、勇一がその場から去っていくのを時枝に伝えた。
時枝が起き上がり、膝に付いた土を払う。

「…終わったな……終わってしまえば、呆気ないものだ…」

トレードマークの眼鏡を胸のポケットにしまう。
視界がクリアでない方が有り難かった。
頬を伝う熱い物を拭うこともなく、時枝は帰路についた。