その男、激情!53

「ヤメロッ」
「ヤメロと言われて止めるはずないでしょ? あなた、本当に、バカになって戻ってきましたね」

橋爪の首から太腿の内側まで、潤が余す所なく容器の中身を振りかけた。
甘ったるい匂いが、橋爪の身体から立ちのぼり、部屋中に広がった。

「その液体は何だっ!」
「ココナッツミルクに蜂蜜とバターを入れたものを小型犬専用のミルクに混ぜ、少しだけマカの粉末をブレンドした、ユウイチスペシャル」

潤が笑顔で丁寧に説明をした。
橋爪の身体から漂う甘い香りに、ユウイチは期待で背中をブルブル震わせていた。

「ユウイチスペシャルだとぉおっ! ふざけるなッ。そんなもの俺に振りかけて、何をする気だっ!」

躾されている犬は『その時』を、まだか、まだかと待っている。

「分かっているくせに、確認してどうするんです? やはり、バカになって戻ってきましたね」

自分の見当が100%当たっていることは、もちろん橋爪自身も分かっていた。

「うるせぇっ、…この野郎っ、放せッ」

無駄と分かっていたはずの抵抗を、今更ながらに橋爪が始めた。

「大丈夫、あなたの夢に出て来たユウイチは知りませんが、このユウイチは、ソーセージに齧り付くより、ペロペロ舐める方が好きですから。ふふ、機嫌さえ悪くなければあなたのその存在理由のない箇所を、噛みついたりしませんから」

噛む噛まないの問題じゃないだろ。
犬に舐められるなんて冗談じゃない。
しかも、存在理由がないって、どう意味だっ。

「コケにするにも程がある。犬なんかに俺の大事な場所を提供できるかっ」
「犬なんかって、失礼だろ。組長さんが居ない間、このユウイチがどれだけ組長さんの代わりに時枝さんを慰めたと思ってるんだよ。あんたなんかより、よっぽどいい仕事するんだよ。何が大事な場所だよ。時枝さんに使う気がないなら、ホント、存在理由ないから。ソレ」

切れ気味に言いながら、潤がユウイチの側に寄る。

「ユウイチ、君の凄さを思い出させてやって」

ユウイチの背中を潤が「GO!」という掛け声と共に押した。

「シッ、シッ! 退けッ!」

黒瀬に羽交い締めされた橋爪の上半身に、ユウイチがよじ登るように前足を掛け、ペロペロと大好物のユウイチスペシャルを舐め始めた。

「擽ったいっ、ヤメロッ」

犬のざらつく舌に、ゾワゾワッと肌が粟立つ。

「ひっ、俺はお前の母親じゃないっ! そんな所、吸うなッ」

橋爪の胸の尖りを舌先で探り当てたユウイチが、チューッと吸引を始めた。

「ふふ、時枝の胸と勘違いしているのかも」
「黒瀬、それはないよ。時枝さんと組長さんじゃ体臭が違うから。きっと、ユウイチ、前に組長さんの乳首、吸った事があるんだよ」
「有り得るね。二人のベッドにユウイチも上がっていたからね。時枝だけじゃなくて、兄さんとも仲良しこよしだったのかも」
「てめぇら、勝手なこと言ってないで、この犬、何とかしろっ!」

乳首が伸びるほど吸われ痛い。
キンとした痛みが走る。 
痛いだけならまだ許せるが、我慢ならないのがそこから変な疼きが下半身に伝達することだ。

「何とかしろ、って、橋爪さんユウイチの愛撫に、興奮しているじゃないですか」

ナニっ、と視線を落とすと、朝の現象で形を変えていた物が、更に角度を上げ、先端からは露を零している。

「っる、せーっ。このバカ犬、サッサと俺から離れろッ!」

羽交い締めにされた上半身は、大して捩れもしないのに、橋爪は身体をくねらせた。

その男、激情!52

「問題あるだろうがっ。あの潤とかいうのと、お前、できてるんだろうが!」
「だから? ふふ、潤の見ている前で、時枝にも挿れたことありますよ?」
「てめぇえっ」

カッと頭に血が上る。

「また怒る。昨日も時枝の話でカッカしてましたね。そこ、橋爪さんが怒るところですか? 兄さんが怒るなら分かりますけど」

そんなこと百も承知だ。
自分でも何故怒りが湧いてくるのか分からない。
ターゲットが誰にケツを掘られようが知ったこっちゃないはずだ。

「時枝のことより、自分の心配した方がいいんじゃないですか?」
「なッ!」

黒瀬の脚が橋爪の脚に絡み付き、左右にグッと広げられた。

「脚が長いと、何かと便利ですよね」

大股開きの状態だ。
剥き出しの中心にヒンヤリと冷たい空気が纏わりつく。

「ふふ、どうです。下半身を無防備に晒され、後ろは犯される一歩手前の状況」

押しつけられた物が、ムクムクと動く。

「勃起しているのか? てめぇは、誰にでも勃起する節操なしかっ!」
「嫌だな。そんなはずないでしょ。潤の顔を思い浮かべただけで、反応するんですよ。ふふ、申し訳ないですが、橋爪さんの尻に欲情する変人は、あなたが殺そうとした時枝ぐらいですよ」
「なら、ソレを間違っても俺に使用するなよっ」
「どうして?」

会話にならない。

「どうしてもだっ!」
「嫌がる事しないと、お仕置きにならないじゃないですか? あなたが昔、潤にしたことを思えば、時枝の報復関係なくても、嫌がらせとしてこの分身を使ってもいいと思いますが」
「俺は橋爪だ。お前のイロに何かした覚えはない」

黒瀬の先端が濡れてきているのを感じる。
本当にやる気なのか、と橋爪が焦る。

「ふふ、殺し屋さん。もしかして、怯えてます? 冗談ですよ。コレ、使用したらベッドが血で汚れますから。潤の血なら歓迎ですけど、あなたの血はごめんです。それよりも…」

バタバタバタと音がして、犬――トイプードルのユウイチが駆け足で戻って来た。

「ユウイチだけ? 潤はまだかな」

ぴょんとベッドに飛び乗ると、橋爪と黒瀬の絡み合った左右の脚を、交互に飛び越し遊び始めた。

「お待たせ」

今度は潤だ。
手にプラスチック製のスプレー容器を握っている。

「冷蔵庫に入れてあったので、人肌に温めてきた」
「潤は優しいね。冷たいままでもよかったのに」
「それだと、ユウイチが可哀想だろ? 時枝さんと離れているだけで精神的に凄く不安だと思うのに、そのうえ冷たい物なんか舐めさせたら、腹壊すよ」

二人の会話で、橋爪は黒瀬のいうお仕置きが何であるか、おおよその見当が付いた。

「そのチビを降ろせっ!」
「チビって、ユウイチですか? ふふ、何が始まるか、もうお分かりのようですね。潤、ユウイチが満足できるようにタップリと掛けて」

潤もベッドに上がる。
手にしていたスプレー容器を橋爪に向けて構えると、ユウイチに待てを命じた。
ユウイチがベッドの端にちょこんと座ってキャンと鳴く。
嬉しそうに指示に従うのは、ユウイチにもこれから何が始まるか分かっているからだろう。

その男、激情!51

「クゥウウッ」
「何するんだよッ!」

同じ犬だった。
夢に出て来たのと全く同じ犬だった。

「ユウイチが可哀想だろっ。酷い事するなよ」

潤が犬を抱きかかえ、橋爪を睨んだ。
犬も敵意むき出しで、橋爪に向かってキャンキャン吠えている。

「酷い? こいつは人の大事な一物を食い千切ろうとしたんだぞっ」

怒鳴った後、しまったと思った。

「ふ~ん、兄さん夢の中でユウイチにねぇ。ふふ、ユウイチが兄さんのソレをね~。こんな可愛い犬に怯えて跳ね起きたとは、殺し屋になっても、情けなさは相変わらずですね。安心しましたよ」
「そうだよ。ユウイチ、夢じゃなくて、本当にがぶっと噛みつけ。…あれ、夢にユウイチが出てきた? それって…」

潤がユウイチを抱えたまま考え込む。

「ふふ、氷が溶け始めているのかも、ね」
「勝手なことを抜かすなっ! だいたい、どうして、お前たちが俺と一緒に寝ているんだっ! 変な犬まで連れ込んで。だから、奇妙な夢を見たんだっ! だいたい、ユウイチって、何だ! 前の桐生の組長は、犬だったのかッ? は?」

冷静な殺し屋のはずが、なぜ、こんなに興奮しているのか。
客観的に理論的に対応したいのにできない。
ユウイチ、という音にも、この小さな生き物にも何故か感情が乱される。
向きになって反論すること自体、大人げないと思いながら、橋爪は自分を止められなかった。

「家族水入らず、楽しいじゃないですか。誰かさんのせいで、潤も私も休暇中ですしね。ふふ、そうだ、時枝を虐めた兄さんに時枝に代わってお仕置きをしてあげましょう。残念ながら、時枝は当分動けませんし」
「兄さんって、呼ぶのはやめろっ。俺はお前の兄でも家族でもないっ」
「はいはい、橋爪さんでしたね。では、時枝を殺そうとしてしくじった腕の悪い殺し屋さんに、それ相応の報復ということで」

ちょっと失礼、と黒瀬がベッドの上を動く。

「な、んだっ」

油断していたわけじゃない。
黒瀬の動きに視線は這わせていた。
が、黒瀬の目的を阻止するには、いささか頭も体も寝ぼけていた。
橋爪は上半身を背後から羽交い締めにされた。

「この体勢で暴れても無駄だって分かっているでしょ? ふふ、それは楽しいお仕置きですから、心配無用ですよ」

自分の頭部の後ろから響く黒瀬の声が、本当に愉快そうなのが腹立たしい。
バタバタ暴れる気など、羽交い締めにされた段階でなかった。
体力を消耗するだけ無駄だと言われなくても分かっている。
隙のない人間相手に藻掻いても意味が無い。
ど素人相手みたいに、念を押されたこともバカにされたようで、橋爪には面白くなかった。

「潤、ユウイチお気に入りのアレ、うちにもあったよね?」

オモチャの銃でバカにされ、髪は切られ、次は何だっていうんだ。

「お仕置きって、そういうこと? 黒瀬、さすが! 冷蔵庫に入ってるから取って来る」

潤が犬を抱えたまま、ベッドから飛び降りると、その部屋から小走りで出て行った。

「言えっ。一体何をするつもりだ!」
「言ってるじゃないですか。楽しいお仕置きだって。ふふ、あなたが嫌がりそうなことですよ。でも、嫌いじゃないはず」

黒瀬が上半身を羽交い締めしている橋爪の背中にピタっと貼り付け、橋爪を挟む形で脚を投げ出した。

「オイッ!」

黒瀬は裸の橋爪とは違い、潤とお揃いでバスローブを着ていた。
開いた足のせいで前がはだけたらしく、何やら生温かいものが橋爪の尻の溝にあたる。

「変なもの押し付けるなっ! …お前まさかっ」
「まさか、何ですか?」

グリグリと尻の割れ目に食い込ませるように、生温かい物が押し付けられる。

「お前は、俺をっ、…いや、そんなはずは…。兄、だと…」
「ふふ、そんなはず、ありかもしれませんよ。ふふふ、橋爪さん、兄さんではないんでしょ? だったら、問題ない」

常識が通用する男ではないと分かっていたが、ここまでとは思わなかった。

その男、激情!50

『勇一、起きろっ、いつまで寝ているつもりか』

煩いっ、俺は勇一じゃないっ。

『早く起きないと、ユウイチに大事なソコを噛みつかせるぞ』

なんだ、その小さな生き物はっ。

『行け、ユウイチ。役立たずのソーセージなんか、食いちぎってしまえ』

うわっ、ヤメロッ、
クソっ、手足の縛りを解け。

『ナニ寝ぼけたことをほざいているんだ。お前の身体は自由だろうが』

来るなっ、舌を出すなっ、
モコモコとした小さな生き物が、橋爪の股間に飛び掛かって来た。
身体が大の字に固定され動かない。
何が自由だ。
手足を拘束して、動きを封じているくせに。
第一、俺は起きているじゃないか。

『早く起きて俺の側に来ないと、ユウイチに去勢されてしまうぞ』

なんだ、このチビッ、
身体に似合わぬ牙しやがってっ!
冗談だろっ。
どうみても愛玩犬にしか見えない犬が、狂犬病を発症したかのように、涎を垂らしながら、橋爪の股間を狙っていた。

『そうか、そんなに俺が嫌で寝たふりを決め込むんなら、イケ、ユウイチ』
「ウ、ギャアアア―――ッ!」

股間に走った激痛で、橋爪の身体は飛び跳ねた。

「煩いなぁ、兄さん、どうしました」
「ハア、ハア、俺の、俺の股間がっ、……何だっ、どうして、お前がッ!」
「…組長さん? …怖い、夢でもみたの?」
「なっ、お前もいるのかっ」

右に黒瀬、左に潤と、橋爪は二人に挟まれベッドの上にいた。

「そんなことよりっ、」

橋爪は慌てて自分の股間を確認した。
布団を剥いだだけで、直ぐに自分の股間の存在を確認できた。
立派な雄が天井を見上げていた。

「ハァ、ハァ、無事だ、ある、…夢か」

夢と分かっても、痛みを感じる。

「いい歳して、夢見て大騒ぎですか? おやまあ、お元気ですね」
「…凄い、組長さん。痛そう」

黒瀬と潤の視線は、橋爪の股間だ。
そこは、見るだけで同性なら痛みを覚えるほど、見事に勃起していた。
実際、橋爪が痛みを感じているのは、夢のせいではなく朝の現象のせいだった。

「痛いんだっ。あの犬が…」

と、言い掛けて橋爪は止めた。

「何でもない」

小さな愛玩犬に襲われる夢で跳び起きたなど、男の沽券にかかわる。

「犬? 時枝さんのこと、思い出したのか?」

潤が橋爪の顔を横から覗き込む。

「何の事だ」
「犬関係で、大騒ぎするっていったら、時枝さんのことしか考えられない」
「…あいつは、犬が嫌いなのか?」
「好きなはずない。あんな残酷な目に遭わされて……覚えてないなら、いい」

潤が勇一に寄せていた顔を離す。

「残酷? 小さなモコモコに、玉でも囓られたのか」
「小さなモコモコ? それって…」

橋爪に背を向けたと思うと、布団の中から何かを引っ張り出しクルッと振り返ると

「この子?」

モコモコしたものを、橋爪の腹の上に乗せた。

「ワンッ!」
「ゥワァアッ!」

咄嗟に橋爪は、腹の上の物体を払い落とした。

その男、激情!49

「なあ、黒瀬」
「なあに?」
「組長さんさ、どこか悪いんじゃない?」
「記憶以外に?」
「おでこの傷、見ただろ。髪の毛切るまで気付かなかったけどさ、あれって、自分でやった気がする。さっきも鏡に打ち付けようとしていたけど、同じ事した傷だよ。きっと」
「精神的に不安定なのは、間違いないね」
「それに…、アン、んもう、ダメだって、話している途中なのに」

背後から悪戯を仕掛けてくる黒瀬に、潤がバシャッとお湯を掛けた。
二人は今、ジャグジーの中だ。
橋爪を名乗る勇一を、黒瀬が気絶させてしまったので、二人掛かりでベッドに運んだ。
それから今度は自分達が入浴するために、浴室に戻って来た。

「話は出来るはずだよ? 兄さんの髪型だけでも元に戻した私に、ご褒美あってもいいと思うけど?」

前に座っていた潤を、黒瀬が自分の膝の上に乗せた。 
黒瀬の中心が、潤の背中に当たる。
それは膨張している最中らしく、潤の背中に添って、ピクッ、ピクッと動く。

「ご褒美って、俺を触るぐだけ?」
「ふふ、潤と身体を密着できるだけでも、十分私にはご褒美だけど…できれば」
「できれば?」

潤が後ろの黒瀬を振り返る。

「潤の期待に応えたいな。潤の悦ぶ顔が、何よりのご褒美」
「それって、結局、黒瀬より俺の方が褒美もらったことになるじゃないかよぅ…狡いよ、いつも俺ばっかり…与えられる」
「ふふ、それがどうして、狡いの?」
「俺だって黒瀬を悦ばせたいのに」
「ふふ、逆だよ、潤。極上の悦楽を与えてもらっているのは私の方」
「本当?」
「ふふ、何を今更なことを。本当だよ。ご褒美もらってもいい?」
「うん。でも、話しも聞いて」
「もちろん。兄さんの事が気になるんだろ? ふふふ、ちょっと兄さんにジェラシーを感じちゃうけど。聞くよ」
「バカァ、何言ってるんだよぅ…続きだけどさ、」

振り返ったまま、潤は黒瀬の頭に手を回し、自分の顔に引き寄せた。
すかさず、黒瀬の唇を奪った。
続きを話すのかと思えば、潤の起した可愛い行動に、黒瀬の顔が綻ぶ。そして、凍りがちな黒瀬の心も。

「まったく、潤には、驚かされるね」

潤からのキスは、一分以上続いた。

「…黒瀬が、ジェラシーなんて言うから」
「ふふ、潤が大胆になってくれるなら、ジェラシーも悪くないね」

潤が頬を上気させたまま、黒瀬の胸板にしな垂れ掛かる。

「バカァ…」

黒瀬の手は潤の胸にぶら下がるピアスに伸びた。
潤の身体には、三箇所のピアッシングが黒瀬の手により、施されている。
全て服で隠れる場所だが、それ故に、潤は公衆の面前で裸を晒せない。
それに不便も感じなければ、不満もなかった。
あるのは、黒瀬の愛情の証で、身体を飾られているという幸福感だけだ。

「…組長さんさ、精神的なものだけじゃなくて、…あっ、ダメだって…もう少し、待って」

自分から仕掛けたキスで、身体中の神経が敏感になっていた。
特にピアスを通された部分は、少し触られただけでも、身体に電流が走るほど過敏になっていた。

「我慢して、その先を話してごらん。その我慢が、あとで堪らない悦びを運んでくるから」
「…そういうところ、黒瀬ってホント意地悪だ…ぁあん、」
「なら、ご期待に応えて、もっと意地悪になってあげよう」
「…ごめんっ、――俺が悪かったっ、…ダメェ、」

コリコリとピアスごと尖った赤い部分を指で転がされ、身体の奥まった所までむず痒くなる。
身体が黒瀬を欲し始めていた。

「ふふ、何がダメなの? 精神的なものだけじゃなくて、どうしたの?」
「…ん、…どこか、…ぁあっ、…くっ、…悪いん、じゃ、…身体も、…どこかっ、…検査、…した、方が…、ぁあっ、んもう、…ギブ」

身を捩り、悶えながらも、伝えたいことの大筋は言えた。
黒瀬の指に翻弄され、すでに溶けかかっている身体から黒瀬の指を振り払うと、潤が体勢を変えた。

「ちゃんと話は聞いてるよ? 兄さんの身体に異変があるって言いたいんだろ? 頭痛も酷いみたいだしね」

黒瀬の方を向いて、座り直した潤に、黒瀬の手は伸びてこなかった。
潤の指が、黒瀬の胸に残るスプーン型の火傷をなぞる。

「…もう、話は終わったから、」

縁を赤く染めた目で、潤が黒瀬を見つめる。

「だから?」
「…意地悪していいぞ」

両手を黒瀬の首に回し、潤が黒瀬を誘った。

「しているけど?」

黒瀬が、ふふ、と笑っている。

「…黒瀬、今、してない…」

潤が真っ赤に熟した乳首を黒瀬の胸にあて、擦りつけた。

「意地悪しているじゃない。触って欲しくて堪らない潤を、ほったらかし。ふふ、最高の意地悪」
「…そういうこと、言うんだ。なら、優しくして」
「優しいだけでいいの?」

うん、と潤は首を縦に振った後で、慌てて左右にふり直した。

「…イヤ、…激しくがいい…、凄く激しく愛されたい…、俺の目の前には、俺のことちゃんと俺だとわかっている黒瀬が存在しているから…それって、当たり前みたいになってるけど」

当たり前じゃない、と潤は痛感していた。
勇一のことが、潤に過去の辛い出来事を、鮮明に思い出させていた。

その男、激情!48

「大丈夫だ、佐々木。その先は、武史から詳しく聞いている」
「し、かし…組長、」

鼻まで押さえられ、大喜が息が出来ず藻掻いていた。

「死にますよ。放してあげなさい」

大喜の様子に気付き、慌てて佐々木が大喜の口と鼻から手を退けた。

「ぁあああっ、オッサン、死ぬかと思った。ハア、空気が美味い」
「本当に…いいコンビだな…二人とも」

寂しげに時枝が呟いた。

「あのう、組長…、差し支えがなかったら、どんな夢を見ていたのか、教えて頂けませんか? あんな風に泣く組長は…組長になってからは…お目にしてなかったので…その、気になって。やはり、こいつがその、アレ、された事が…」
「それで、大泣きしたのは、オッサンだろ」

横から口を挟んだ大喜に、佐々木が邪魔をするなと睨みをきかせた。

「苦しんでいる。…勇一が、苦しんでいるんだ」

時枝の目は、何処か遠くを見つめていた。

「は?」

佐々木から、間の抜けた声が洩れた。

「あのう、夢の中で、勇一組長に何かが?」
「勇一が、泥沼の迷路の中で出口が分からず苦しんでいる。俺が手を差しのばしているのに、俺の手に気付かない。泥に足を取られ、自由に歩くことも出来ない…俺の手さえ取れば楽になるのに…気付いてくれない…可哀想なヤツだ」
「違うと思うぜ。可哀想なのは、時枝のオヤジ、じゃなかった、時枝組長だろ。気付いて欲しくて、哀しかったんじゃないのか?」

大喜の横槍を、時枝は否定しなかった。

「全く、教育の行き届いてない子どものくせに、核心を突いてくる。そういう所が、武史と潤に気に入られているんでしょうね」
「やめてくれよ、潤さんはともかく、あのド変態は苦手なんだから。今日のことだって、まだ、勇一、あ、勇一組長で、良かったんだって…あれが、黒瀬のド変態だったらと思うと…今頃、きっとオッサンを哀しませる結果になっているぜ」

大喜が佐々木をチラッと見た。
明らかに、ムッとしていた。

「でしょうね。どういう気で、勇一が大森の下着まで脱がせたのか、容易に推測できる。下半身裸にしておけば、そう簡単に逃げ出す気にならないと思ったんでしょうけど。これが、武史なら、目的は別でしょうから」

はあ、と時枝が溜息を付く。

「勇一が、昔の勇一じゃなくても、俺にはアレの考えそうな事が、分かる。俺を早く殺してしまわないと、自分の存在価値を見失うかもしれない…殺し屋なんて、一番、似合わない職業だというのに…」
「アッシもそう思いますっ! あの人の手は、人を殺める為のものじゃねえ。時枝組長を抱き締める為のものだっ!」

一歩退いた所で、大喜はここが個室で良かったと思った。
最上級のロマンティストなのだ。
顔と年と職業に似合わず、この桐生の若頭は。

「でもさ、元々ヤクザの組長なんだからさ、人殺した事もあるんじゃないの?」
「勇一は、下っ端から這い上がって組長になったんじゃない。殺した数で評価され、組長になった訳じゃない。…自らの手を汚すことは、早々ない。あったとして、自衛の為だ…殺しを職業なんて…。バカは、過去を失っても治らないのか…更に大バカになって、戻ってきやがって……」

それ以上、時枝は喋らなかった。
顔を佐々木と大喜から背けた。

「…組長」

微かに時枝の後頭部が震えているのを見て、佐々木が呼び掛けた。

「…オッサン」

大喜が佐々木の手を取った。
そっとしておいてやろう、という意味で、手をギュッと握り首を左右に振った。
時枝が声を殺し泣いているのを、しばらくの間、二人は静かに見守っていた。

その男、激情!47

「組長、時枝組長」

身体を揺さぶられ、桐生組現組長の時枝が目を開けた。

「…なんだ、佐々木、…さんか」
「佐々木、で結構です。アッシは若頭、組のナンバーツー。組長はナンバーワンですよ。人の目があってもなくてもそれは変りません」
「そうだったな。何か? 大森の側にいなくていいのですか?」

大喜が、橋爪を名乗る勇一に何をされていたのか、もちろん時枝にも事細かく報告が入っていた。
報告主は黒瀬。
コメディ映画の内容を話すように、それは楽しげに。

「俺なら、オッサンの横にいるだろ。惚けるには早いぞ」

大喜の声に、時枝は眼鏡を探した。
身動きが自由に出来ない時枝に変って、佐々木が時枝の顔に眼鏡を掛けようとした。
が、その前に時枝の顔を、胸ポケットから出したハンカチで拭いた。

「…佐々木。俺の顔に涎でも…」
「涙です」
「そうだよ、涙ポロポロ流し出したから、心配になって起したんだよ。怖い夢でも見てたんじゃないのか?」
「怖い目にあったのは、あなたでしょ。無事で良かったですよ」
「その安堵は俺を心配して? それともあいつの浮気を心配して?」
「ダイダイッ!」

眼鏡を時枝の顔に掛けていた佐々木が大喜を振り返り、叱るように名前を呼んだ。

「もちろん、両方ですよ。それにしても大森はいつになったら…まともな言葉を覚えるのか」
「俺だってTPOで使い分けぐらい出来るぜ」
「と、思っているのは自分だけですよ。来年クロセで鍛えられるでしょうから、覚悟しておきなさい」
「コワァ~」
「ダイダイッ! 賢い子なんだから、もっと普通に受け答えしろっ。拳骨が飛ぶぞッ!」

時枝の顔に眼鏡を掛け終わった佐々木が、大喜の前で拳を振り上げてみせた。

「なんだよ、もう未成年じゃないのに、まだガキ扱いする気か?」

大喜が口を尖らせる。

「大人でも、だ。時枝組長に失礼な態度をするな。俺の上司だ。俺の事、嫌いになったのなら、好きにすればいい」

珍しく佐々木が強気な態度で大喜に接した。

「――嫌い、」
「え?」

拳を振り上げたまま、佐々木の眉が、情けなくハの字になる。

「…に、なるわけないだろっ! 悪かったよ、オッサン。ごめん」

途端、佐々木の顔がデレ~ッと、これまた一層、見るに耐えないぐらい情けなくなる。
大喜の方が一枚上手なのか、潤(うる)ませた目で佐々木を見上げた。

「…ダイダイ…、可愛いっ!」

佐々木が大喜に飛び付こうとした瞬間、そこが二人だけの世界ではないことを、時枝の咳払いが告げた。

「二人とも、いい加減にしなさい。佐々木、躾るなら真面目にやりなさい。何が、『可愛いっ!』ですか。大森はもう、そういう年ではありませんよ」

眼鏡によりクリアな視界を手に入れた時枝が、レンズ越しに冷やかに二人を睨む。

「申し訳ございませんっ! ほら、ダイダイも、謝れ」
「悪い事してないのに?」
「今の時枝組長の心情をお察ししろっ! 目の前で俺達が仲良くしている姿を見るだけで、きっと内心穏やかじゃない」

時枝を怒らせるような事を言っている自覚は、もちろん佐々木にはない。

「佐々木ッ、…あぁ、疲れた。反論する気にもなれない。まともな会話ができる相手が欲しい」
「あの変態ヤロウとなら、会話が出来るって言いたいのか?」
「変態ヤロウ? 武史のことか?」

変態と言えば、イコール黒瀬武史が時枝の頭にはインプットされていた。
潤という伴侶がいながら、年上の自分を犯すことさえ、ためらいなくやってのけた男だ。

「違う。あいつは別格だろ。ド変態だ。勇一だよ」
「ダイダイッ! 呼ぶ捨てにするなっ。元組長だ。…さっき言ったばかりだろ。失礼な態度を取るなって…」
「あ、そうだった。ワリィ、オッサン。だからさ、俺が言いたいのは…申し上げたいのは、時枝組長が欲しがっている会話できる相手っていうのは、俺の下着まで脱がせて…んぐっ」

その先を言えなかったのは、佐々木が大喜の口を塞いだからだ。

その男、激情!46

「いい加減にしとけよっ!」
「吠えても無駄ですよ。ふふ、子どもが嫌だったら、大人しくすればいいだけのこと」
「覚えてろよっ、」

一言残し、橋爪は目を閉じた。
髪を切断する音が耳に響く。
床に落ちる音からして、かなりの量を切られているらしい。
髪ぐらい、また伸びるさ。
たいしたことじゃない、と暗闇の中で橋爪は自分に言い聞かせた。
首の付け根まで届いていた髪が切られ、首元に外気が触れ、ブルッと橋爪の身体が震えた。

「…組長さんだ。黒瀬、組長さんだよ」
「ふふ、私の腕もなかなかじゃない?」

橋爪の耳に届いていたハサミの音が消えた。
ゆっくりと瞼を上げた。
正面の鏡の中に、見慣れない男が、裸で椅子に座っていた。

「―――誰だ」
「誰って、あなたでしょ。橋爪さん、いや、桐生勇一さん」
「違うっ! 俺じゃないっ」

風呂上がりに見る、水分で髪のボリュームがない時の姿に似てはいる。
だが、違う。
顔の造作は同じだが…まるで違う印象。

「組長さんだよっ! どこからどう見ても、組長さんだよっ! 俺達の前から消えた時の組長さんだよっ!」
「違うっ!」

橋爪が鏡に映る男を睨みつけた。

『勇一、お前それでも組長か?』
『勇一、殴らせろ』

鏡に映る顔の上に、別の顔が重なる。
幻聴まで聞こえる。
ターゲット時枝勝貴の顔だった。
声などまともに聞いたことないはずなのに、幻聴も時枝勝貴の声だと感じた。

「ヤメロッ! 喋るなッ!」

橋爪が声をかき消そうと、頭を激しく振った。

『…勇一、ごめん』

今度は鏡の中ではなく、橋爪の頭の中に、瀕死状態の時枝の姿が浮かんだ。
自分が負わせた傷ではなく、惨い姿の時枝が切れ切れの息で橋爪を見つめていた。
愛しい者に向ける情愛と後悔に満ちた切なげな視線。

「見るなッ! 俺を見るなっ」
「一体、誰に向って言ってるんですか?」

様子がおかしくなった橋爪に黒瀬が問う。

「うるさいっ、あの男に決ってるだろッ」
「あの男って、ふふ、幻覚ですか? ここには、あなたと私と潤しかいませんよ」
「当たり前のこと、言うなっ! 俺に何をしたっ! 俺が目を覚ます迄の間に、薬物を打ったのかっ」
「私達が非合法な事に手を出すと思います? これでも私と潤は上場企業の社長とその秘書ですよ」
「裏で何かやってるのはバレバレなんだよっ。消えろっ、死にかけのくせに俺をそんな目で見るなっ!」

橋爪は黒瀬に答えながら、自分を縋るように見つめる時枝を拒絶した。

「時枝さん? そうなんでしょ? 組長さん、時枝さんが見えてるんだ」
「そうみたい」

橋爪ではなく、黒瀬が潤に答えた。

「…ヤメロッ、見るな…。どうして、俺にそんな目を向けるっ!」

頭を振っていた橋爪が、括り付けられた椅子ごと、前後に身体を揺らし始めた。

「黒瀬、ヤバイよ。組長さん、このままだと鏡に激突しそう」
「ふふ、時枝との対面を邪魔するつもりはないけど、その石頭で鏡を割られるのもごめんなので、」

黒瀬が橋爪が座っている椅子の背もたれを動かないよう片手で押さえつけると、

「失礼しますよ」

橋爪の腹部に拳を埋めた。

その男、激情!45

「黒瀬は、顔だけじゃなくて、心も凛々しい。組長さんも、早く精悍で凛々しい元の組長さんに戻れよ。せめて姿だけでも」
「俺は男として精悍だ。この優男(やさおとこ)に負けているとでもいうつもりか」
「図々しいよ、組長さん。黒瀬に勝っているつもり? ダイダイ攫って、何かを企もうとしてたくせに。姑息だろ。銃を振り回しているから、精悍なんて言うつもりじゃないよな? そんな生き方している人間は、普通の暮らしをしている人間より、全てにおいて負けてる。ってことに気付けば?」

潤は怒っていた。
自分の知っている桐生勇一の顔をし、その身体を持つ人間が、その欠片も見せないことに。
少なくとも潤の知っている勇一は、男気溢れ、桐生の構成員から長として尊敬される男だった。
弱い面もあったが、一本筋の通った男だった。

「だいたい、時枝さんを殺したいなら、正面切って行けばいいだろ。こそこそと姿隠して狙撃なんて、卑怯者のすることだっ!」

人の目のある街中で、正面切って殺しにいく殺し屋など皆無に等しいが、勇一には堂々とした人間であって欲しいのだ。
黒瀬が過去に潤を忘れたことがあった。
だが、黒瀬は黒瀬のままだった。
勇一は違う。
過去と一緒に本来の勇一まで消えたようで、潤の中に哀しさと憤りがこみ上げていた。

「卑怯者だとぉおっ! もう一遍言ってみろっ!」

頬にハサミが当たっていることも忘れ、橋爪が吠えた。
頬に赤い筋が出来た。
しかし深くはない。
黒瀬が咄嗟にハサミを外したからだ。

「危ないな。殺し屋さんにしては、冷静さに欠けてますよ。ふふ、だから、あなたにそんな仕事は向いてないんですよ。傷物にしたら、時枝に叱られるかな?」

黒瀬の指が橋爪の頬の赤い筋をなぞり、手に付着した血液を舐めた。

「この血の中に、桐生の血が流れているんですよ。逃がしませんよ、兄さん」

黒瀬が橋爪の髪を一房握ると、ハサミを構えた。

「切るなッ!」
「女じゃあるまいし、髪が命だって情けないこと言わないで下さいよ」

容赦なく、黒瀬がハサミのクリップを閉じた。
ザリッという音がし、バサッと黒い髪が大理石の光沢のある床に散る。
止めさせようと、橋爪が頭を振る。

「そういうの、無駄な抵抗って言うんですよ。耳切り落としても知りませんよ?」
「っつぅ、」

黒瀬が後部の髪を、ギュッと後ろに引っ張った。

「こうすれば、首を振れないでしょ。子どもじゃないんですから、大人しくカットされなさい。あまり聞分けがないと、ふふ、あとで、その無意味なヘアも剃りますよ?」
「…ナニをぉおっ!」

髪を引っ張られ、顎を天井に向けた格好でも、黒瀬のヘアがどこを指すのかは、橋爪にも分かった。

「無意味なヘアーって、ココのこと?」

潤が、橋爪の局部を指さした。

「ふふ、潤も言ってたじゃない? 精悍さもない卑怯者だって。そんな男に、その黒々とした雄の象徴みたいな茂みは必要ないと思うけど。ふふ、子どもでもいいんじゃない?」
「…でも、それだと、時枝さんが」
「時枝の状態だと、この『橋爪さん』と対面できるのは、しばらく掛かるよ。それに、こういうのも好きかも知れないじゃない? 時枝も放っておかれた期間が長いから、色々遊んでいるみたいだし」
「そうだね。そうだ、観察日記でも付けようか。毎日伸び具合を写メで撮って時枝さんに送る? どうせ、組長さん、ここではずっと裸だし、時枝さん、入院生活は退屈だろうし」

橋爪を抜きに、二人の話が更にエスカレートしていく。

その男、激情!44

「銃弾の跡、あの時のだね。綺麗に貫通している」

潤が、橋爪の身体に残る銃創を指で確かめるように触る。
何故か涙ぐんでいる。

「…組長さんも、死ぬような目に遭って、辛かったと思うけど…、時枝さんはもっと辛かったんだっ。なのに、なんだよ、今のあんた」

何故、この青年は泣く?
あの時?
ダメだ、ダメだ。
これがこいつらの手だ。
人の傷を利用して、人の記憶が曖昧なのを利用して、俺を違う人間に仕立て上げようとしているんだっ。

「潤、アレ、持って来て」

黒瀬が、潤を浴室の外にやる。

「兄さん、潤を泣かせないで下さい」
「勝手に泣き出したんだろ、知るかっ」
「あなたが覚えていようといまいと、あなたは残念ながら、桐生勇一なんですから。ふふ、時枝を早く、私の手元に戻して下さい」
「どういうことだ? あ? お前のイロは、あに若造だろうが。あの死に損ないとも関係があるのか?」
「寝ているのか、という意味ですか?」
「ああ。お前らの周囲は、ホモ臭が蔓延しているからな」
「ふふ、時枝とも、寝たことはありますよ。意外と良い身体してましたよ。誰かさんの仕込みが良かったのか」

バカにされた腹立ちで、忘れていた頭痛がズキッと音を立て戻って来た。
何故か心臓まで縮むように痛んだ。
そして、理由のない怒りがこみ上げて来た。

「ヤメロッ!」

唯一、自由になる足で、橋爪は大理石の床を蹴った。

「どうして、橋爪さんが怒るんです? 兄さんじゃないなら、関係ない話でしょ?」

黒瀬が『橋爪』を強調した。

「ああ、関係ないさ。ホモ臭に胸くそ悪くなっただけだ」

黒瀬の指摘通り、時枝が何をしようと自分には関係ない。
どうして腹の底から怒りが湧き上がるのか、橋爪自身、分からない。

「これ、ユウイチ用に買ってたものだけど、大丈夫かな?」

場の空気を一変させるように、澄んだ潤の声が、浴室に響く。
潤が手にトレーを持ち、戻って来た。

「ユウイチ同士、仲良く同じ道具使用でいいんじゃない? 潤がする?」
「俺? 無理無理。器用じゃないし」
「でも、あのモデルガンの改造は見事だったよ。兄さんの額に吸盤が見事に貼り付いた時は、感動したね」

あのふざけた玩具は、この若造の仕業だったのか。
鏡越しに橋爪は潤を睨んだ。

「ああいうのは得意だけど。こういうのはダメ。黒瀬がしろよ」
「何をするつもりだ」
「ふふ。橋爪さんを、兄さんに変えてみたいなと思って」

黒瀬が、トレーの上の光る物を手にした。

「――まさか、ソレ、」
「その鬱陶しい髪を、綺麗にしてあげますよ」

黒瀬が手にしたのは、散髪用のハサミだった。
ハサミの刃を広げ、橋爪の頬にピタピタと当てた。

「ヤメロッ、要らんことをするなっ。鬱陶しいのは、お前の髪だ」
「何言ってるの。黒瀬の髪は、組長さんと違って、手入れが行き届いた髪だろ。黒瀬の凛々しい顔にピッタリだっ」

潤が、黒瀬の髪に手櫛を入れながら反論した。

「ふん、この男の顔が凛々しい?」

見ようによっては、女より美しい顔をした男だ。
この顔なら、まだターゲットの時枝の方が凛々しいと言えるだろう。