秘書の嫁入り 犬(27)

「武史、それは何だ?」
「見れば、分るでしょ? ハスキーです。兄さん、知らないんですか?」

大きな犬の縫いぐるみが入った紙袋が提げられていた。 
顔の部分が入りきれず、袋から出ている。

「置いて行け。なんだって、そんなモノを提げてるんだ」

母屋で出迎えた勇一が、あからさまに嫌な顔をした。

「可愛いでしょ。もちろん、時枝へのお見舞いですよ? 犬と戯れていたようだから、こういうのがいいかなと」
「…武史、テメェ、本気で言ってんのか?」

勇一が、真っ赤な顔で黒瀬の胸ぐらを掴んだ。

「本気ですよ? 兄さんも見たでしょ、DVD。ふふ、濃厚な時間を過ごしたようだから、時枝も犬が恋しいんじゃないかと思っ…」

最後まで黒瀬が言い終る前に、勇一の拳が黒瀬の頬に飛んだ。

「組長さんっ!」

潤が、驚き声をあげた。
黒瀬は殴られたというのに、笑みを浮かべていた。

「何がおかしい?」
「おかしいでしょ? 犬ですよ? たかが犬如きで、兄さんが血相を変えている。しかも、俺が持参したのは、縫いぐるみ」
「お前、アレを見て、たかが犬如き、って、よく言えたな」

勇一は自分が呼び出したにも関わらず、黒瀬を呼んだことを後悔した。

「特別だと? 犬が時枝にとって特別な存在だと言うつもりですか? 兄さん、あなたがそう言うなら、時枝、もう、駄目ですよ」

ここに来る前、黒瀬は医者に電話を入れていた。
その時、時枝が犬に怯え痙攣したことと、勇一の腫れ物に触るような時枝への態度を聞いていた。

「なんだとっ。何が駄目なんだっ!」

勇一の拳が再度振り上げられた。

「組長さん、落ち着いてっ」

振り上げた拳を止めたのは潤だった。
両手でぶら下がるように勇一の腕を掴んだ。

「黒瀬も、挑発は大人げないぞ? 犬って何?」

潤は時枝が獣姦されていたことを知らない。

「時枝さん、犬好きだから、それ買ったんだよな? 違うの? 本当はネコが良かったとか?」

勇一が潤の方を向く。

「ネコも駄目だ!」

怒鳴られた。

「組長さん、変。そんなに怒らなくてもいいだろ」
「全くだ。これだから、治るモノも治らないんですよ。この辺の話は後でゆっくりさせてもらいましょ。どうせ、俺を呼び出した理由もその辺でしょ。先に時枝の間抜け面を拝ませてもらいます。はい、これは、兄さんが預けておきますよ。渡す渡さないはあなたが決めればいい」

縫いぐるみの入った袋を黒瀬は勇一へ渡すと、黒瀬は潤を伴い離れへ向った。

「くそッ、」

勇一の癇癪声と縫いぐるみを壁に叩きつける音が、廊下に響いたが、黒瀬も潤も振り返ることはなかった。

「時枝、元気?」
「時枝さん、体調どうですか?」

時枝は起きていた。
座椅子に腰掛け、本を読んでいた。
顔色は悪くない。
ただ、覇気はなかった。

「勇一が一緒ではないのですか?」

黒瀬と潤が訪ねてきたいうのに、時枝の関心は勇一にあるらしい。

「ふふ、兄さんなら今頃犬と遊んでいるよ」
「…犬、ですか?」

時枝の身体が小刻みに震えだした。
かなり重症らしい。

「時枝への見舞いにと犬の縫いぐるみを買ってきたんだが、何故か兄さんがね~、今頃投げたり踏んだりして遊んでるんじゃない? 動物虐待する趣味があったとはね~」
「そうですか、社長が縫いぐるみを私に…、あなたらしい選択です。勇一はじゃあ、怒っていたでしょうね」
「みて、ここ」

黒瀬が時枝に、勇一から殴られた頬を向けた。

「腫れてない? 兄さんに殴られた。この俺を殴るなんてね。ふふふ、兄さんの時枝への愛?」
「勇一が、社長を?」
「そうなんですよ、時枝さん。俺、ビックリしちゃった。あ、これ、定番ですけど、お見舞いです」

潤が時枝に花束を渡す。

「ありがとうございます。仕事、大変じゃないですか? 秘書課の連中に社長のお守りを押しつけれているんでしょ?」
「お守りはしてませんが…新人なのに、社長の側で仕事をさせて頂いてます。あ、ちゃんとしてますから。でも、まだまだ俺じゃあ…、時枝さん、早く復帰して下さい」
「…そうですね。そのうち、復帰したいと思いますが…今の私では、迷惑を掛けることの方が多いと思います。社長にもご迷惑をお掛けすることとなり……社長、頬、大丈夫ですか? 勇一も何を考えているのやら。社長を殴るなんて」
「何をって、時枝の事だろ?」
「…勇一は…、同情しているだけです。もう……」

時枝の目が曇る。

「もう、何?」
「あ、私としたことが、社長に何を言っているのでしょう。気にしないで下さい。今、お茶を煎れます」

時枝の目が潤んだのを、黒瀬も潤も感じていた。

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秘書の嫁入り 犬(26)

「社長、肩でもお揉みしましょうか?」
「嬉しいね。可愛い秘書さんに、肩を揉んで貰えれば、疲れも吹っ飛んでしまう」

株式会社クロセの社長室。
書類を届けに来た新人秘書の潤が、黒瀬の疲労を読みとった。
普通の秘書ならポーカーフェイスの黒瀬の疲れなど気付かないが、愛ゆえか、潤はちょっとした仕草や表情の中に、黒瀬の疲労を読み取ることが出来た。
今、気付いたのは、黒瀬が自分の顔に掛った髪の毛を払う指の動きからである。
潤の目には、その指の動きが怠そうに映った。
実際、黒瀬の肩をもみ始めたら、かなり凝っていた。

「あ~、気持ちがいい。ふふ、こういう気持ち良さも悪くないね。いつもは、別の気持ち良さを与えてもらっているけど」
「社長、会社ですよ?」
「だんだん潤が時枝に近づいてる。喜ぶべきか、悲しむべきか、迷うな~」
「時枝室長は、私の理想ですから、喜んで下さい。特に今は、室長がいたら、叱られるようなことはしたくないんです」
「私の可愛い秘書さんは、優しいね」
「社長もです。この後、二時間はあちらですよね? 私の我が儘で…仕事増やしてしまって…」
「違うよ? 佐々木の我が儘だ。そろそろ、迎えが来るね。私も一つ、我が儘をいい?」
「何ですか?」

黒瀬が自分の肩の上にある潤の手を握った。
そのまま、潤の手を伸ばし、甲にキスをした。

「ちょっとだけ、ブレイクタイム。おいで、潤。肩もみも気持ちいいけど…疲れが一瞬で飛ぶのは、潤かな?」

疲れを引き合いに出されれば、到底拒めるはずもなく、新人秘書は恋する男に戻り、愛する男の口付けを受けた。

「っん~」

潤の甘い声が、鼻から抜ける。
この可愛い愛する潤の頼みなら、仕事がいくつ増えても苦にならないのが黒瀬だ。

「栄養補給終わり。一仕事、やってくるか」
「今日は、…その、どちらを着て行きますか?」

頬を赤らめた潤が、必死で秘書モードに切り替えようとしている。
その姿も黒瀬には可愛くてたまらない。

「黒地に桜と般若がいいかな?」
「それなら、クリーニングから戻って来ています。クローゼットの一番上の棚に一式入ってます」
「ふふ、じゃあ、行ってくるね」

佐々木が会社の裏に車を駐め待っていた。
桐生の組に顔を出すのは、今の所、週三日だけ。
社長業務を抜けだし、組長代理を務めている。
会社から直接行くのではなく、一旦、自宅マンションへ戻り、着替えをしてから組へ顔を出す。
今日は黒の着流しだ。
洋の顔立ちの黒瀬だが、生地や仕立ての良い着物を身に纏うと、色気と迫力が増し、眼力も増すように感じる。
人を寄せ付けない度を普段の数倍UPさせていた。

「今日も、お似合いです。組長代理」

桐生の事務所に顔を出すと、組員一同、一度は黒瀬を見て固まる。
迫力に押されてだ。
勇一の代理が黒瀬になることに、誰一人反対する者はいなかった。できなかった。
黒瀬の冷酷さは、真偽はともかく、伝説となって末端の組員にも伝わっていた。
粗相をしたら沈められると、皆、黒瀬が顔を出す日は異常なまでに緊張を強いられる。

「ありがとう。じゃあ、仕事を始めようか。佐々木、報告」

黒瀬の桐生での仕事ぶりは、無駄が全くなかった。
二時間しか滞在しないということもあるのだろうが、テキパキとこなす。
組員も同じように動くことを強要された。

「そんな、子ども騙しの報告、しないでくれる? そのシマは元々桐生のものだろ? 今日中にカタをつけておいて。いい? 二度目はないよ?」

物腰は柔らかなのに、失敗は許さないと脅される。
皆、命を掛けて仕事に望んでいた。

「…組長…、早く復帰しないかな…。俺、組長が復帰するまで、生きてられるかな…」

黒瀬のいない場所で、皆、勇一が、どれほど寛大で優しい組長だったかと、口々に零すようになった。
黒瀬の厳しさに、組員の中には、自分が足を踏み込んだ世界が、死と隣り合わせだったと初めて実感した者もいた。

「組長代理、仕事終わりにナンですが、組長から、お電話です」

今日も二時間働いたと、黒瀬が事務所を出ようとしたとき、勇一から黒瀬に電話が入った。

「はい、ええ、今からは無理です。社で会議が一本……、じゃあ、潤と伺います」

勇一からの呼び出しだった。
会社に戻り会議を終えた黒瀬は、潤と二人で本宅へと出向いた。
潤の手には時枝への見舞いの花束と、黒瀬の手には……

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秘書の嫁入り 犬(25)

「色男に、何があった? あんた、側に付いていたんだろ? タオルを噛ましたのは正解だった。引きつけを起こしかけていたな、こりゃ」

駆けつけた医者が、目が覚めて、暴れるようならこれ使えと、安定剤を使い捨ての注射器ごと勇一に渡した。

「子犬に怯えたんだ。可愛い犬だった」
「そうか、無理もあるまい」
「知ってるのか? こいつが、その…」
「獣姦が行なわれた。それが犬だった。他の動物もあるかも知れないが、肛門の周囲と腸の中に、犬の毛が付いていたんだよ。それだけじゃないが、まあ、この色男は地獄を見てるね」
「そうか、バレバレか…。あんた、ヤブでも医者だもんな」
「だ~れが、藪だ。俺のお陰で、ここの連中は警察に通報されずに鉄砲傷やら刀傷を治療できてんだろうが。ったく、ばれたら医師免許はく奪もんだ」
「そん時は、桐生で面倒みてやるよ。はあ、藪医者の医師免許より、こいつだ。犬が嫌いで怖いヤツでも日常生活は送っているだろうが、こいつのは尋常じゃない。先生、普通とまではいかなくても、痙攣したり失神したりしない程度までには、克服できるものか?」
「さあな。メンタル面は専門外だ。多分、この色男、犬だけじゃないと思うぞ。実際、使われたのは犬だけかも知れんが、ネコでもパンダでも、動物全般ダメかも知れん。毛並みが犬を想像させるのは、多分全般ダメだろうよ。実験するわけにはいかないが、子犬でダメならサイズ・姿・どう猛さには関係ないって事だろうからな」
「なに、脅してくれてんだ? は? 一生勝貴は動物園に行けないのか?」

医者が勇一を呆れたように見た。

「動物園は別に行けなくとも構わないだろ? 三十過ぎにオッサン二人が動物園デートするつもりか? 頭痛がしてきた」

わざとらしく頭を抱えてみせ、お茶ぐらい出したらどうかと、医者はぼやいてみせた。

「玉露でもないのに、なんでこんなにぬるいんだ…、」
「人に煎れてもらって文句を言うな」

勇一直々に煎れたのだが、離れのポットは魔法瓶なので、朝熱々の湯を入れていても夕方には六〇度ぐらいに冷める。 
時枝が抹茶玄米茶が好きなので、離れの茶筒には、それしか用意してない。

「動物園どころじゃないぞ、組長。街を歩けば、動物のポスターや縫いぐるみ、冬になれば毛皮のコート、テレビを付ければ、それこそ動物が出てくるドラマやらコマ―ショルやら多い。特に犬は多い。その全部を排除してやることは無理だろ? 火傷も治ってきて、身体は直ぐに普通に戻る。一生、この離れで暮らすわけにもいかんだろうし」
「メンタルは専門外って言いながら、脅してくれるよな」
「脅しだったら、いいけどな。あんた、組、張ってる割りには、中途半端に優しそうだから、心配してやってるんだ。こういう時は、弟の残酷さが組長さんにも欲しいよな~」

横目で勇一を一瞥し、ズズズとぬるいと文句を言っていたお茶を啜る。

「傷口に塩を塗ることも時には必要かもしれんな。あんた、傷口に、砂糖塗ってるだろ? 砂糖に蟻が集って、傷口内に侵入しているんじゃないのかな? ジンワリ、傷を癒すどころか広げているかもしれんな~。精神科医紹介してやってもいいが…根掘り葉掘り訊かれるぞ。催眠療法も有効かもしれんが…どっちにしても、俺以外の医者が知れば、警察沙汰になる。まあ、まずはあの弟に相談してみろ」

武史が助けになると、言うのか?
そんなわけあるか…だが、あいつは親父からの虐待を乗り越えた。
いや、乗り越えたというより、それを糧に今の自分を作り上げた。

「武史か…」
「プライドはいらんだろ。早くこの色男、楽にしてやる方法を探してやれ」

また、引きつけを起こすような痙攣をおこしたら、直ぐに呼べと医者は帰っていった。

「勝貴、ごめんな。俺はどうやったらお前を楽にしてやれるのか、分らないんだ…」

時枝の寝顔を眺め、ポツリ勇一が洩らした。
静かに夜は更けていった。

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秘書の嫁入り 犬(24)

勇一の手厚い看護のおかげか、時枝の火傷以外の傷はほぼ完治した。
医者も既に引き上げ、三日に一度顔を出す程度だ。
今、時枝は、医務室ではなく、客用の離れに勇一と一緒に生活をしている。
生活と言ってもほとんどが布団の上だが、医務室よりは気分が晴れるだろうと、あまり口を開かなくなった時枝を気遣って、離れに移動したのだ。
監禁の一週間とその後の治療で、時枝の体力と筋力はすっかり落ちていた。
火傷で皮膚が攣るせいもあるのだが、今の時枝は歩行すら困難だ。
まずは外の空気に触れさせようと、車椅子を用意させ、朝夕の二回、庭に出るようにした。

「紅葉が綺麗だな~。部屋に少し持って帰るか?」
「…そうだな。もう、緑じゃないのか…。秋か……」
「月を見ながら、一杯やるのも、いいんじゃねえか?」

アルコールでも入れば、時枝の中に溜まった澱も出てくるのではないだろうか。
遠慮ないはずの二人の関係には、見えない壁が存在していた。
気遣いすぎて何も訊けない勇一、自分からは何も伝えようとしない時枝。
このままじゃいけないと勇一は思いながらも、突破口が見つけられないでいた。

「酒か、悪くない。…なあ、勇一、」

車椅子を押す勇一に、時枝は前を向いたままで、返事をする。

「ん、なんだ?」
「どうして、……どうして、何も訊かない」
「何を訊いて欲しいんだ?」
「訊いて欲しいんじゃない…、訊かない理由を訊いているんだ。俺は腫れ物か何かか?」
「お前は勝貴だろ? 俺の恋人兼婚約者兼親友だろ。言ってることが難しすぎて理解出来ん」

カメラが回っていた。
確かに撮影されていた。
極限状態に置かれていたが、時枝の耳に、DVDを桐生に送るという男の言葉は届いていた。
何が自分の身に起きたのか、どういう行為をされ続けたのか、勇一は見ているはずなのだ。
それなのに、何も訊こうとはしない。
勇一はもう自分を愛してないのかも知れない、
同情だけで側にいてくれてるのかも知れないと、近くにいるのに、優しくされているのに、時枝に勇一は遠かった。

「…そうか。難しいのか…、…勇一はアホだから、仕方がない」

あはは、と時枝は笑ってみせた。
その目に涙が浮かんでいたことを、背後にいた勇一は気付かなかった。

「失礼なヤツめ。そろそろ、戻るか? 冷えてきた」

涙声になっていそうで、時枝はコクリ首を倒して返事をした。
来た道を戻る。
手入れの行き届いた庭園の砂利に、車椅子の跡が残る。

「庭師の仕事を増やしてしまって、申し訳ないな…」
「仕事がある方が嬉しいに違いない」
「全く、お前は……」
「自己中だ。そんなことは皆、重々承知だから、今更だ」 

そんなことはないだろ、と時枝が胸の裡だけで呟く。
家業のせいで、辛い想いや重責に若い頃から堪えてきたくせに…、もう、俺ではそれを支えてやることも出来ないかも知れない…。

「ん、何やら騒がしいな?」

感傷に浸っていた時枝の耳にも「こら、まて、」という声が届く。
声がする方を向くと、白い子犬が庭園内を走り回っていた。
どこかの飼い犬が迷い込んだのだろう。
首輪をしている。
若い衆が追いかけ回していたが、すばしっこい子犬は捕まる気配はなく、楽しそうにキャンキャン吠えながら、段々と時枝と勇一がいる方に近づいてきた。

「…い、ぬ…?」

時枝の身体が、突然ガタガタと震え出した。

「勝貴、おい、勝貴っ!」

両耳を手で塞ぎ、頭を左右に振っている。
子犬が、無邪気に尻尾を振って、車椅子に近づいて来た。

「嫌だっ、犬はいやだっ! 来るなっ! …来ないでっ! うわぁあああっ!」

驚いた勇一が前に回ると、真っ青な顔で焦点が定まらない時枝が、泡を噴いて痙攣していた。

「てめぇら、サッサとコイツを追い出せっ!」

勇一が石を子犬に投げつけた。
もちろん当たらないようにだが、それで子犬はキャンキャン尻尾を振りながら、車椅子から遠く離れて行った。
泡を噴き、身体の痙攣が治まらない時枝を勇一が抱きかかえると、急いで離れに戻った。

「至急、来てくれ」

舌を噛まないよう時枝にタオルを噛ませると、医者を呼んだ。

「勝貴、大丈夫だから。もう、犬はいない。何も、誰も、お前を傷付けない」

勇一は自分の胸に時枝を抱きかかえ、痙攣の治まらない時枝の背中を優しく撫でる。
勇一の匂いで安心するのか、段々と痙攣は治まったが、時枝の意識は飛んでいた。

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秘書の嫁入り 犬(23)

「もっと肉体だけの、すかすか頭かと思っていたけど…な~んだ、ちゃんと脳味噌に皺もあるんだね~。ふ~~~ん」
「アッシのことはいいですから、桐生の事をお願いしますっ! これじゃあ、相手の思う壺でしょうっ! これで桐生が潰れたら、時枝さん、立ち直れないんじゃないんですか?」
「潰れなくても、時枝は立ち直れないかも知れないよ? それに、相手の思う壺って、それは兄さんが腑抜けだっていうことじゃない。あ~あ、あの人も情けないったらありゃしない。仕事と割り切って、組の事もすればいいんだよ。時枝べったりが、時枝の回復にとって、本当にいい事なのかどうなのか」
「ボン、後生ですから、お願い致します。ボンが、桐生を憎んでいるのは、承知していますが、ここは、一つ、この佐々木の命に代えても…」

佐々木が上衣の内側からドスを取りだし、黒瀬の前に突きだした。

「殺して欲しいなら、遠慮なく殺すよ。さっきからボンボンって、ホント、煩いしね」

黒瀬が刃を抜いた。

「くろせ―っ!」
「ん、どうした、可愛い秘書さん」
「どうしたじゃないだろッ! 社長室でなんてもの手にしてるんだよっ!」

タイミングよく、潤が飛び込んで来た。

「だって、佐々木が殺してくれていうから」
「違うだろっ! あ~~、もう…、」

潤が黒瀬の手から、ドスを取り上げた。

「佐々木さんっ、会社に物騒なもの持ち込むのは止めて下さい」

佐々木に向って、潤が目を釣り上げた。

「お返ししますっ! んもう、」

黒瀬から取り上げたドスを佐々木に返す。

「黒瀬、桐生のこと、面倒みてあげて」
「立ち聞きしていたの?」

黒瀬が意地悪い笑みを浮かべ、潤に訊いた。

「ち、ちが、わないけど、違うっ! 休憩時間になったから、もし佐々木さんがまだいるようなら、時枝さんの容体を訊こうと思って…ドアの入口開けようとしたら…大きな声が聞こえてきて…それで……、ごめんなさい」

さっきまでの勢いは消え、潤はシュンとした。

「怒ってないよ、潤。それより、潤は私にヤクザになって欲しいの」
「そういうんじゃない。ただ、組長さんが組の仕事しないのは、腑抜けじゃないと思う。もし、俺が時枝さんのような状態だったら、黒瀬に側にいて欲しいって思う。黒瀬は違うの? 俺は口では強がって、仕事に行けよって言うかも知れないけど、本心では側にいて欲しい。いてくれたら嬉しい。組長さん、組の体面より、時枝さんが大事だってことだろ? なんとかならない? 時枝さんが回復するまでだろ? 俺も協力するから」
「潤に頼まれたら、嫌だとは言えないじゃない。全く、佐々木は余計な話を持ち込んでくれたね。佐々木にも兄さんにも時枝にも、これは大きな貸しだからね。ふふふ、俺の貸しは、高く付くよ」
「ボン、本当ですかっ! 潤さま、ありがとうございますっ! ああ…、良かった…、あれ?」

かなり思い詰めていたらしい。
黒瀬に物事を頼む、それを無理を承知で頼むことは、覚悟なくしては出来ないことだ。
それはかなりのストレスを佐々木に与えていたようだ。ホッとしたのか、佐々木の腰が抜けた。

「大丈夫ですか?」

潤に支えられ、佐々木はなんとか立つことが出来た。

「しょうがない。一時的に桐生武史を名乗ることにしよう。ふふ、兄さんのマネして、着流しにする? それとも、マフィアのマネして、高級スーツ? それじゃあ、今と変わらないか? 佐々木みたいに黒尽くめだと、佐々木と被るし…あぁ、だいたい桐生組って今時流行らない任侠ヤクザ集団だし…、潤、どう思う?」
「真っ白のスーツも黒瀬には似合いそう。でも、着物も捨てがたい。黒瀬は何でも似合うから…想像しただけで、ワクワクしてきた」

佐々木の決死の覚悟は何だったのだろう。
決まってしまえば、黒瀬は結構ノリノリだ。

「ふふ、良かったら、ニ、三個、組を潰してやろうか? 時枝の件に関係している組も一つじゃなさそうだし」

本当、黒瀬は喰えない男だ。
仕事が忙しいと言いながら、動かない兄の代わりに、裏で動いていたらしい。
既に何か掴んでいるようだ。
やはり、この男に頼み込んで間違いはなかったと、佐々木は自分を褒めてやりたい心境だった。

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秘書の嫁入り 犬(22)

「社長が、お会いになるそうです。ん? どうなされました?」
「あ、いや、ちゃんと秘書さんなんだな~と思いまして…」

普通のスーツに身を包んでも、どこか筋モノの雰囲気が漂うのは、佐々木が根っからのやくざだろうか?
そのやくざが、面食らったように、自分を案内してくれている潤を見ている。

「当たり前です。ここ、会社なんですから」

公私混同していると思われていたのかと、潤は内心ムッとした。
確かに、社長室で就業時間外にイケナイ行為に耽ることもあるが、それは黒瀬が仕掛けてくることであって、通常はちゃんと秘書としてのケジメを付け仕事をしている。
特に、時枝不在の今は、時枝の分まで仕事に励むつもりでいた。

「失礼しました」

潤の心の声を読み取ったのか、佐々木が詫びをいれる。

「社長、佐々木さんをお連れしました」
「ご苦労さん、一休みしていく?」

潤は、会社では仕事モード全開だが、黒瀬は違った。
あまり公私の区別はないようだ。
それでも潤が嫌がるので、人前では「市ノ瀬」と名前でなく旧姓で呼んでいる。

「いえ、結構です。今お茶をお持ちします」

黒瀬が佐々木を睨んだ。

「あ、いや、お気遣いなく、」

潤をこき使う気かという黒瀬の意図を感じ、慌てて佐々木が断りをいれた。

「そうですか? では、お言葉に甘えて仕事に戻らせて頂きます」

潤が消え、社長室に黒瀬と二人きりになると、佐々木が突然頭を下げた。

「今日は、桐生組若頭として、武史さまにお願いに参りました」
「なんだか、仰々しいね。座れば?」

黒瀬がデスクを離れると、応接セットのソファに腰を降ろし、佐々木にも座るように促した。

「いえ、アッシは…」
「座れ、」

冷たく命じられ、怒らせたら大変だと、素早くソファに腰掛けた。

「で、お願いって何? 俺も結構忙しい身なんだけど。時枝いないし、中国へもまた出張控えているし、潤との甘い時間を一分でも長く取りたいし。そんな俺にお願いって、佐々木も結構図々しいよね」

お願いなどするなと言われているようなものである。
佐々木が座ったばかりのソファから跳び上がるように立つと、黒瀬の足元に平伏した。

「時枝さんが回復するまでの間で結構です。どうか、桐生に戻っては頂けませんでしょうかっ。組長の代わりを務めて頂きたいっ!」

佐々木が必死で訴えた。
勇一が突然仕事をしなくなって、組の内外に勝手な憶測が飛び交いだした。
男と無理心中を図っただの、女に骨抜きにされただの、酷い鬱状態だの、桐生の現状はぐらぐらで、足元を掻っ攫うなら今だとか、嫌な噂ばかり広がっている。
会合にも顔を見せない勇一に、桐生の上の関東清流会も快くは思っていない。
若頭の佐々木が代理出席する度に、現生の土産を持参している。
それでなんとか、「桐生の若造も偉くなったものだ」の嫌味一つで済んでいるのだ。
佐々木一人で勇一の代理を務めるには、口実も尽きてきた。保つ
いっそ、勇一を病気ということで、勇一よりも闇世界には顔が利く黒瀬に、やくざの表舞台に立ってもらいた方が、桐生は保つだろう。
今日、佐々木は黒瀬に命を取られる覚悟できたのだ。

「はあ、なにそれ? 佐々木、俺は桐生の人間じゃないんだけど。俺にやくざになれっていうの? 真っ当な市民捕まえて、よくもまあ、そんなことが言えたものだ。だいたい、会社の評判にも傷が付くだろう? クロセの取締役が、桐生の組長代理なんて、世間が認めるわけないだろう? 経済誌になんて書かれるか…。全く、しょうがないこと考え付くね」
「じゃあ、ボンは、このまま、桐生が潰れても良いと仰有るのですかっ! それじゃあ、時枝さんが、可哀想過ぎますっ!」

興奮状態で、佐々木が床の上から黒瀬に喰って掛った。

「どうして、時枝なんだ? 時枝だって、やくざは本当は嫌いだろ」
「ボンッ、誤魔化さないで下さいっ。本当は今回のこと、何が目的か分っているんじゃないんですかっ!」

黒瀬の眉間に一瞬皺が寄った。

「ふふ、佐々木も見た目と違って鋭いね」

佐々木の見た目は決してボヤッとはしていない。
左目の横には傷が走っているし、小さな子が見たら、親の後ろに隠れて泣き出しそうなぐらい強面だ。

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秘書の嫁入り 犬(21)

手厚い看護が功を奏して、日に日に時枝の身体の傷は癒えていった。
鼻以外の顔の腫れは引き、身体も局部と火傷以外の傷は、ガーゼを必要しない所まで回復していた。
困ったのは佐々木だった。
勇一が、桐生の代表としての仕事を全くしないのだ。
時枝から、片時も離れようとしない。
全ての看護をする。
医者に診せる以外は、他人に触らせるのが嫌だと何一つ、佐々木には任せない。
よって、勇一の仕事は全部佐々木が代行する羽目になった。
これこそが、時枝拉致の目的だったということを、勇一が知る由もなく、まんまと敵の策略に嵌っていた。
傷が癒えていっても、時枝の口数は少なかった。

「…勇一、ごめん」

口を開けば出てくるのは謝罪の言葉ばかり。
勇一が何かをしてやれば、決まって時枝は「ごめん」と言い、それ以外は常に勇一の姿を目で追っている。
自分の視界の中に勇一がいれば安心できるようで、勇一が少しでも側を離れると不安そうな表情を浮かべ、医務室から出て行こうとすると泣きそうな顔を見せる。
逆に戻ってくると、ホッと嬉しそうな顔をする。
そして、医者が最初に気を遣っていたように、勇一に局部を見られるのが耐えられないらしい。
全ての看護をしている勇一だが、そこだけは、医者がした。
医者が言うには、肛門周辺も腸の傷もかなり回復しており、少し激しい性交をした程度の痕しか残ってない。
それでも数針縫っているので、以前の時枝の局部とは違う様子になっていることは想像が付く。

「勝貴、もう、それは聞き飽きた。できれば、ごめんの代わりに好きだとか、愛してるとか、そういう言葉が聞きたい」
「…ごめん…」
「強情っぱりだな。粥、食べろ。点滴だけじゃなくて、口からも栄養をとれって、あのヤブも言ってたろ?」

医者が食事を勧めるのは、もう時枝が自力で排泄ができるようになったということもある。
勇一がふ~ふ~と自分の息で冷やした玉子粥を時枝の口に運ぶ。

「はい、あ~ん。そう、良い子だ」

勇一の介助で時枝は三口食べた。

「もう、いい…ごめん」
「だから、謝るなって。詫びというのは、自分に非があるときにするものだ。どうして、勝貴が俺に謝る? ダーリン、ありがとうか、ダーリン、大好きか、ダーリン、愛してる、ってもっと色々あんだろ? あ~あ~、この嫁は冷たい」

勇一の発した言葉の一部に反応したのか、全部に反応したのか、急に時枝が泣き出した。

「やべ、泣くなっ。ごめん、勝貴…俺、気に障ること言ったか?」

慌ててティッシュを箱から引く抜くと、勇一が時枝の頬の水滴を拭う。

「俺は怒ってるんじゃないぞ…ああ~、俺のほうが謝らないと。泣かせてごめんな…勝貴…よしよし、」

医者から精神的にも弱っているから、刺激するなと言われていたことを思い出す。

「…うっ、…ゆう、いち…、ゆういち……困らせて…ごめん」

自分が泣いたことを悪いと思っているのか、時枝はまた謝罪を繰り返す。

「困ってないぞ。心配するな。いいか、勝貴、俺はお前が大好きだ。お前の為にすることは、自分がしたくてしているんだ。世話焼かせてくれないと、桐生家の長男はグレるからな」
「…勇一」

中学生の頃に戻ったような勇一の言葉に、時枝は勇一の名前を呼びながら、また一滴涙を流した。

「そこは、笑う所だから、しょうがないやつだ」
「…うん」

時枝の表情が少しだけ、和らいだように感じた。

 

 

「社長、お客様です。アポイントは入ってませんが、お会いになりますか?」
「誰?」
「佐々木さんです」
「お通しして」

株式会社クロセ。
時枝の不在は出張中の事故という扱いになっていた。
復帰は未定。
社長付の秘書に、異例ではあるが、まだ新人の潤が抜擢された。
これは黒瀬の意向と言うより、秘書課内の総意だ。 
近寄りがたく、俗物離れした男と普通の会話が成立するのが、入社一年目の潤しかいなかったのだ。
黒瀬と潤の本当の関係は知られていないが、黒瀬が潤を気にいっていることは皆知っている。
もちろん、潤にはまだ時枝の代わりが務まる程の力量はない。
あくまでも側付きとして、秘書課と社長との連絡係として、押し付けられた、いや、抜擢されたのだ。
今のところ、この抜擢は成功のようだ。
時枝が不在の分、他の秘書達の仕事量は当然増える。
社長の世話までは手が回らない。
新人といっても社長のお気に入りが秘書を務めることで、社長の黒瀬も時枝不在で増えた仕事を真面目にこなしていた。

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秘書の嫁入り 犬(20)

「なんで、藪医者が見て良くて俺はいけねぇんだ? こいつは俺の男だっ!」
「大声ださなくても、知ってる。で、そっちの色男と若いのも、デキてるよな? 何年桐生の世話してると思ってる。ハイハイ、早く連れ出して」

潤が、組長さん行きましょうと、腕を取る。
組長さんには見られたくないと思いますと潤にも言われ、渋々腰をあげた。
安定剤が効きすぎているのか、足取りがおぼつかない。
そんな勇一を黒瀬と潤が両サイドから支えた。

「佐々木、テメェ、目を瞑ってろよっ。俺が見届けられないもの、勝手に見るんじゃねぇぞ!」
「全く煩いガキだ。若頭には、見えない角度に立たせるから、安心しろ」

本当にガキですね、と黒瀬が医務室の外の廊下に座り込んだ勇一を、上から見下ろしていた。

「あのお医者さん、なんか強烈…」
「腕はいいはずだから、潤、安心して。それにやくざ相手に治療するぐらいあって、胆も据わってるし、口も固いし。時枝もすぐに回復するよ」
「そうだよね。時枝さん、俺より強いはずだから、大丈夫だよね」

潤の方が強いんだよ、と黒瀬は思ったが、口に出さなかった。
ある程度までは、人生経験が長い分、時枝の方が強いだろう。
誰かに強姦されたぐらいなら、自分で克服できる強さはある。
が、それ以上となると、潤の方が強い。
測れる辛さは克服できる男だが、想定外のことには弱い部分がある。
勇一の見合い話の時だって、自分で確かめようとはしなかった。
しかも、変なところが常識人だ。
非合法なことにも手を染めるくせに、日々、世間一般の常識に照らし合わせ、説教をする。
そういう人間に、あのDVDに映っていたようなことを「忘れろ」と言っても無理だろう。
何より、焼き印のような火傷。
皮膚移植したとしても、痕は残る。
一生消えない傷を目にする度に、時枝がどう感じるのか。
黒瀬は自分の背のケロイド状の傷と、時枝の火傷を重ねていた。

「ふふ、もし、時枝が弱かったら、潤が叱ってあげればいいんだ。いつも叱られているから、仕返しね。潤に叱られたら、時枝は強くならざると得ないよね」

中では医者が黙々と治療をしていた。
勇一はまだかまだかと苛つきながら床を叩き、黒瀬と潤は時枝の今後を案じていた。

 

 

「…助かってよかった」

全身、ガーゼやら包帯やらで、ミイラのような状態の時枝の手を勇一は握っていた。
治療の終わりが告げられ医務室に飛び込んだ勇一は、意識のない時枝の手を取ったまま、離れようとはしなかった。
黒瀬と潤は、自分達のマンションへ戻り、医者は何かあったら直ぐに対応出来るようにと離れに泊まることになり、佐々木は医務室に近い部屋へ自分の布団を運んだ。
動かない勇一の為に、佐々木が簡易ベッドを時枝のベッドの横に組み立てやった。

「敵(かたき)は、俺が取ってやる」

ホッと安堵しつつも変わり果てた時枝の姿に、押さえようのない怒りが湧いてくる。
守れなかった自分と、こんな目に遭わせた者達への怒り。

「…ゆう、い、ち…」

昏睡状態の時枝が、苦しそうに勇一の名前を呟いた。

「勝貴っ、俺っ、ここにいるぞ、勝貴っ」
「…ご…め、…ん…」

絞り出すように言うと、それっきり時枝の口は閉ざされた。

「どうして、俺に謝る。なあ、勝貴、お前俺に何も悪いことしてないじゃないか…謝るなよ…くっ」

怒りと哀しみと後悔と安堵と情けなさで、勇一の頬は濡れていた。

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秘書の嫁入り 犬(19)

「…なんて、こった…」

袋から立ち込めた異臭の元は、焼けただれた時枝の皮膚だった。
尻の下、左脚の太腿の付け根から膝の裏まで、バーナーか何かで焼かれたような酷い火傷が広がっていた。
ここに連れてこられる直前に焼かれたのか、まだぐじゅぐじゅと汁が出ていた。

「兄さん、早く医者を。佐々木、どこだっ! 担架を持って来てっ! 早くっ!」
「勝貴っ、しっかりしろっ」
「医者を呼んで下さいっ! 兄さんっ! 桐生の掛かり付け、早く」

黒瀬が携帯を勇一に渡した。
医者を大至急で呼び出す。
警察沙汰にはできないので、普通の病院には連れて行けない。
本宅にはある程度の医療設備も整っている。
手術さえ必要なければ本宅で治療はできるが、念の為、救急車代わりのワゴン車の手配も忘れなかった。
火傷の面が担架に接触しないよう俯せに寝かせると、四人で医務室へと運んだ。
庭での騒ぎで、一旦は散っていた本宅住まいの若い衆が、何事かとぞろぞろ顔を出す。

「なんでもねえ、散れ」

時枝の哀れな姿を見せたくない勇一が、怒鳴りつけ、佐々木が心配ないと追い払った。

「医者はまだか」

担架からベッドに時枝を移す。
上から何かを掛けてやりたいが、火傷部分が酷すぎて、それも出来ない。
意識のない時枝は発熱しているらしく、うっすらと汗を掻いており、時折、唸り声を洩らしていた。

「潤、辛かったら、出ていていいんだよ?」

青い顔の潤は、今にも倒れそうだった。

「…大丈夫。…良くなるよね、時枝さん、死なないよね、ねえ、黒瀬…」
「大丈夫だから。これぐらいの火傷じゃ人間死にはしない。その他の傷は全部治る。身体の傷は、治る。火傷は痕になるかもしれないが、皮膚の移植手術もあるし。見た目はほぼ完治すると思うよ」

いたぶるのが目的の傷だ。
どれもそうだ。
嬲るだけ嬲った、拷問のような傷の跡だ。
足の爪も数本剥がされていた。
DVDに映っていたのは、あれでもほんの一部だったのだ。
生かさず殺さず。
命を奪うのが目的ではない。
冷酷なことには、長けている黒瀬の目には明らかだった。
黒瀬が「見た目は」と言ったのは、言葉通り外見だけは完治するだろうと、いう意味だ。

「兄さん、分っていると思いますが、時枝、多分精神的なダメージの方が大きいですよ。俺と違って、潔癖な男ですからね」
「そんな心配は、身体が元に戻ってからだっ! 医者は何してるんだっ! 佐々木、さっさと連れてこいっ!」

勇一には、時枝の精神状態まで考える余裕がなかった。
黒瀬は死ぬ程じゃないと冷静に判断を下していたが、勇一はそうじゃなかった。
時枝の命の灯火が、ふっと消えてしまうんじゃないかと、潤同様、怖くて仕方なかった。
佐々木が医者を連れて来ると、勇一は憤りを医者に向けた。

「てめえぇえ、チンタラやってるんじゃねえぞっ!」

医者の首に手を掛け、締め上げた。
その勇一の腹を医者は蹴飛ばした。

「落ち着け、見苦しい。あんた、それでも組長か。はん」

いつも荒くれ者を、治療しているだけのことはある。
自分を締め上げた勇一を鼻で笑った。
佐々木と同年代ぐらいの医者は注射器を取り出すと、時枝を診るより先に、つい今しがた自分の首を絞めていた勇一の腕を取り、黒瀬に勇一を押さえるよう指示を出す。

「このヤブ医者がっ! 診る相手が違うだろうが」
「うるせ~ガキだ。あんたが治療の邪魔だから邪魔されないようにだ。これで、気を落ち着かせろ」

ブスリと注射をぶち込んだ。
精神安定剤らしい。
邪魔だと勇一を椅子に座らせ、助けたいなら大人しくしてろと吐き捨てると、医者は時枝の側へ行った。

「ありゃ~、こりゃ、色男も台無しだ。えっと、誰が助手を務めてくれるんだい?」
「そりゃ、アッシが」
「若頭か。なら、安心だ」

医者と佐々木が、時枝の治療にあたる。
佐々木は黒瀬が薬物中毒になったときもそうだが、怪我人や病人の扱いにはなれている。
この医者の助手を務めることも何度かあり、手際よく、医者の指示通りに動く。
勇一は安定剤が効いてきたのか、「勝貴~」と時枝の名を呼びながらも大人しく座っている。
その両端に黒瀬と潤が立っていた。
少しでも勇一が動きそうになると、二人して肩を押さえつける。

「兄さん、」
「組長さん、」

二人掛かりで咎められれば、見守ることしか出来ない。
意識のないはずの時枝だが、火傷部分の治療が始まると、痛みが走るらしく呻き声がたえない。

「ちょっと、そこの色男と若いの、悪いがその男、外に連れ出してくれないか?」
「大人しく、してるだろうがっ!」
「この兄ちゃん、多分あんたには、見せたくないんじゃないのか? 意識がなくても、あんたにだけは見せたくない傷だろうよ。気を利かせろ」

医者が時枝の尻の割れ目を指さす。
今から、局部を治療するというのだ。

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秘書の嫁入り 犬(18)

「時枝を殺すつもりですか? 見ても手掛かり一つ探せないあなたより、俺が冷静に見た方が早いでしょ。もしかしたら、こうしている間にも、時枝は更に酷い目に遭ってるかもしれませんよ。一秒を争うかも知れないってこと、分ってます? 佐々木っ、」

黒瀬が佐々木を呼びつけた。

「この、役立たずの組長さんを、俺から離して。しっかり、邪魔できないよう、押さえつけておいて。潤も、見張っててね」
「黒瀬…、見て、平気か? 組長さんみたいに、ならないか?」

心配そうに潤が訊く。

「ふふ、私を誰だと思っているの? 潤の愛する旦那だろ? 時枝にそこまでの愛はないから、見ても平気。戻ってくるまで、兄さんをヨロシクね。なんなら、ロープで縛ってもいいからね」
「…いや、そこまでは…」

黒瀬は二人に勇一を預けると、勇一の寝室へと急いだ。

「なるほどね、あんな色気のない男相手にここまで、しますか。兄さんが正視できなくてもしょうがない…そんなことより」

全て見終わった黒瀬がDVDを手に、勇一達がいる部屋へ戻って来た。

「しっかりして下さい。兄さん。時枝が戻ってきます。いや、もう、戻って来ているかもしれない」

黒瀬の発言に、勇一以下三人が「え?」と呑込めていない表情を浮かべた。

「合成された音声で最後に『使い物にならなくなった廃棄物を今夜お返しします。転がっていますので、野犬に食われる前に拾い上げ下さい』と入っていたよ。佐々木、監視カメラの画像、見せて」

本宅には塀を沿うように監視カメラが数台設置している。 
警備会社が監視しているが、それとは別に本宅内でも画像は録画再生できるようになっている。

「はい、」

黒瀬と三人が別棟の管理室へ向う。

「変わったことは?」

画像を監視している者に、佐々木が訊いた。

「特に、何もありませんが」
「ちょっと、貸してくれる?」

数台のモニターのコントローラーを黒瀬がガチャガチャと操作する。

「…裏門の画像、これ、今日の物じゃない。カメラ、壊されてます。ここに映っている画像は昨日のものですよ。確認だけど、ダイダイは、いつもどこから出入りしているの?」

黒瀬が佐々木に確認する。

「もちろん、裏門です」
「出ていった画像は映っているが、服も今日のとは違う。DVDを持って戻ってきた画像もない。日付は今日になっているが、画像は今日じゃない。壊されたというより、特殊な細工がされてますね、なかなか頭のイイ人間のようですね。わざわざ裏門のカメラを弄ってあるということは…」

一緒に来ていた勇一が、管理室から飛び出した。
黒瀬、潤、佐々木が懐中電灯を手に後を追う。

「勝貴っ! どこだっ!」

項垂れ、泣き崩れていた勇一はもういなかった。
鬼が戻ってきたように、恐ろしい形相で裏門の外から庭園内を時枝を見つけるために走り回る。
黒瀬と潤、佐々木も広い庭園内を駆け回った。

「…黒瀬――っ! 組長さんっ!」

潤の甲高い叫び声が庭園内に響き渡った。
本宅内のゴミを収集している場所で、潤が不審な黒い物体を発見した。
野良犬がクンクンとその物体の匂いを嗅いでいた。

「潤、…それは、」
「勝貴っ! 勝貴だっ! 退け、このくそ犬っ!」

黒い物体、それは大きな黒い袋だった。
ゴルフバッグくらいの大きさで微かに動いている。
勇一が犬を追い払うと袋の口を探す。

「今、出してやるからなっ!」

ファスナーを見つけると、勇一が焦りを露わに引き下ろした。
ムッとした匂いが袋から立ち込める。
袋の中には、顔が腫れ過ぎて誰だか分らない状態の裸の男性が入っていた。
勇一がその身体を静かに抱き起こした。

「……ゆ、…い、ち……」

時枝だった。
微かな声が、勇一の名を呼び、そして、ホッとしたのか、そのままぐったり動かなくなった。

「死ぬなっ!」

叫ぶ勇一の横で、黒瀬が時枝の脈を測る。

「大丈夫です。意識を失っているだけです」
「…酷い…、これが…時枝さん? なあ、黒瀬、そうなの? どんなことしたら…こうなるんだ…」

冷静な黒瀬の横で、潤がブルブル震えていた。
それぐらい、酷い状態だった。
腫れが引けば、元に戻るだろうが、鼻は折れているだろう。
瞼も脹れあがり、時枝の端正な顔の面影はない。
酷いのはむしろ顔より身体で、通常の皮膚の箇所の方が少なかった。
痣やミミズ腫れ、そして……

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