秘書の嫁入り 犬(23)

「もっと肉体だけの、すかすか頭かと思っていたけど…な~んだ、ちゃんと脳味噌に皺もあるんだね~。ふ~~~ん」
「アッシのことはいいですから、桐生の事をお願いしますっ! これじゃあ、相手の思う壺でしょうっ! これで桐生が潰れたら、時枝さん、立ち直れないんじゃないんですか?」
「潰れなくても、時枝は立ち直れないかも知れないよ? それに、相手の思う壺って、それは兄さんが腑抜けだっていうことじゃない。あ~あ、あの人も情けないったらありゃしない。仕事と割り切って、組の事もすればいいんだよ。時枝べったりが、時枝の回復にとって、本当にいい事なのかどうなのか」
「ボン、後生ですから、お願い致します。ボンが、桐生を憎んでいるのは、承知していますが、ここは、一つ、この佐々木の命に代えても…」

佐々木が上衣の内側からドスを取りだし、黒瀬の前に突きだした。

「殺して欲しいなら、遠慮なく殺すよ。さっきからボンボンって、ホント、煩いしね」

黒瀬が刃を抜いた。

「くろせ―っ!」
「ん、どうした、可愛い秘書さん」
「どうしたじゃないだろッ! 社長室でなんてもの手にしてるんだよっ!」

タイミングよく、潤が飛び込んで来た。

「だって、佐々木が殺してくれていうから」
「違うだろっ! あ~~、もう…、」

潤が黒瀬の手から、ドスを取り上げた。

「佐々木さんっ、会社に物騒なもの持ち込むのは止めて下さい」

佐々木に向って、潤が目を釣り上げた。

「お返ししますっ! んもう、」

黒瀬から取り上げたドスを佐々木に返す。

「黒瀬、桐生のこと、面倒みてあげて」
「立ち聞きしていたの?」

黒瀬が意地悪い笑みを浮かべ、潤に訊いた。

「ち、ちが、わないけど、違うっ! 休憩時間になったから、もし佐々木さんがまだいるようなら、時枝さんの容体を訊こうと思って…ドアの入口開けようとしたら…大きな声が聞こえてきて…それで……、ごめんなさい」

さっきまでの勢いは消え、潤はシュンとした。

「怒ってないよ、潤。それより、潤は私にヤクザになって欲しいの」
「そういうんじゃない。ただ、組長さんが組の仕事しないのは、腑抜けじゃないと思う。もし、俺が時枝さんのような状態だったら、黒瀬に側にいて欲しいって思う。黒瀬は違うの? 俺は口では強がって、仕事に行けよって言うかも知れないけど、本心では側にいて欲しい。いてくれたら嬉しい。組長さん、組の体面より、時枝さんが大事だってことだろ? なんとかならない? 時枝さんが回復するまでだろ? 俺も協力するから」
「潤に頼まれたら、嫌だとは言えないじゃない。全く、佐々木は余計な話を持ち込んでくれたね。佐々木にも兄さんにも時枝にも、これは大きな貸しだからね。ふふふ、俺の貸しは、高く付くよ」
「ボン、本当ですかっ! 潤さま、ありがとうございますっ! ああ…、良かった…、あれ?」

かなり思い詰めていたらしい。
黒瀬に物事を頼む、それを無理を承知で頼むことは、覚悟なくしては出来ないことだ。
それはかなりのストレスを佐々木に与えていたようだ。ホッとしたのか、佐々木の腰が抜けた。

「大丈夫ですか?」

潤に支えられ、佐々木はなんとか立つことが出来た。

「しょうがない。一時的に桐生武史を名乗ることにしよう。ふふ、兄さんのマネして、着流しにする? それとも、マフィアのマネして、高級スーツ? それじゃあ、今と変わらないか? 佐々木みたいに黒尽くめだと、佐々木と被るし…あぁ、だいたい桐生組って今時流行らない任侠ヤクザ集団だし…、潤、どう思う?」
「真っ白のスーツも黒瀬には似合いそう。でも、着物も捨てがたい。黒瀬は何でも似合うから…想像しただけで、ワクワクしてきた」

佐々木の決死の覚悟は何だったのだろう。
決まってしまえば、黒瀬は結構ノリノリだ。

「ふふ、良かったら、ニ、三個、組を潰してやろうか? 時枝の件に関係している組も一つじゃなさそうだし」

本当、黒瀬は喰えない男だ。
仕事が忙しいと言いながら、動かない兄の代わりに、裏で動いていたらしい。
既に何か掴んでいるようだ。
やはり、この男に頼み込んで間違いはなかったと、佐々木は自分を褒めてやりたい心境だった。