秘書の嫁入り 犬(21)

手厚い看護が功を奏して、日に日に時枝の身体の傷は癒えていった。
鼻以外の顔の腫れは引き、身体も局部と火傷以外の傷は、ガーゼを必要しない所まで回復していた。
困ったのは佐々木だった。
勇一が、桐生の代表としての仕事を全くしないのだ。
時枝から、片時も離れようとしない。
全ての看護をする。
医者に診せる以外は、他人に触らせるのが嫌だと何一つ、佐々木には任せない。
よって、勇一の仕事は全部佐々木が代行する羽目になった。
これこそが、時枝拉致の目的だったということを、勇一が知る由もなく、まんまと敵の策略に嵌っていた。
傷が癒えていっても、時枝の口数は少なかった。

「…勇一、ごめん」

口を開けば出てくるのは謝罪の言葉ばかり。
勇一が何かをしてやれば、決まって時枝は「ごめん」と言い、それ以外は常に勇一の姿を目で追っている。
自分の視界の中に勇一がいれば安心できるようで、勇一が少しでも側を離れると不安そうな表情を浮かべ、医務室から出て行こうとすると泣きそうな顔を見せる。
逆に戻ってくると、ホッと嬉しそうな顔をする。
そして、医者が最初に気を遣っていたように、勇一に局部を見られるのが耐えられないらしい。
全ての看護をしている勇一だが、そこだけは、医者がした。
医者が言うには、肛門周辺も腸の傷もかなり回復しており、少し激しい性交をした程度の痕しか残ってない。
それでも数針縫っているので、以前の時枝の局部とは違う様子になっていることは想像が付く。

「勝貴、もう、それは聞き飽きた。できれば、ごめんの代わりに好きだとか、愛してるとか、そういう言葉が聞きたい」
「…ごめん…」
「強情っぱりだな。粥、食べろ。点滴だけじゃなくて、口からも栄養をとれって、あのヤブも言ってたろ?」

医者が食事を勧めるのは、もう時枝が自力で排泄ができるようになったということもある。
勇一がふ~ふ~と自分の息で冷やした玉子粥を時枝の口に運ぶ。

「はい、あ~ん。そう、良い子だ」

勇一の介助で時枝は三口食べた。

「もう、いい…ごめん」
「だから、謝るなって。詫びというのは、自分に非があるときにするものだ。どうして、勝貴が俺に謝る? ダーリン、ありがとうか、ダーリン、大好きか、ダーリン、愛してる、ってもっと色々あんだろ? あ~あ~、この嫁は冷たい」

勇一の発した言葉の一部に反応したのか、全部に反応したのか、急に時枝が泣き出した。

「やべ、泣くなっ。ごめん、勝貴…俺、気に障ること言ったか?」

慌ててティッシュを箱から引く抜くと、勇一が時枝の頬の水滴を拭う。

「俺は怒ってるんじゃないぞ…ああ~、俺のほうが謝らないと。泣かせてごめんな…勝貴…よしよし、」

医者から精神的にも弱っているから、刺激するなと言われていたことを思い出す。

「…うっ、…ゆう、いち…、ゆういち……困らせて…ごめん」

自分が泣いたことを悪いと思っているのか、時枝はまた謝罪を繰り返す。

「困ってないぞ。心配するな。いいか、勝貴、俺はお前が大好きだ。お前の為にすることは、自分がしたくてしているんだ。世話焼かせてくれないと、桐生家の長男はグレるからな」
「…勇一」

中学生の頃に戻ったような勇一の言葉に、時枝は勇一の名前を呼びながら、また一滴涙を流した。

「そこは、笑う所だから、しょうがないやつだ」
「…うん」

時枝の表情が少しだけ、和らいだように感じた。

 

 

「社長、お客様です。アポイントは入ってませんが、お会いになりますか?」
「誰?」
「佐々木さんです」
「お通しして」

株式会社クロセ。
時枝の不在は出張中の事故という扱いになっていた。
復帰は未定。
社長付の秘書に、異例ではあるが、まだ新人の潤が抜擢された。
これは黒瀬の意向と言うより、秘書課内の総意だ。 
近寄りがたく、俗物離れした男と普通の会話が成立するのが、入社一年目の潤しかいなかったのだ。
黒瀬と潤の本当の関係は知られていないが、黒瀬が潤を気にいっていることは皆知っている。
もちろん、潤にはまだ時枝の代わりが務まる程の力量はない。
あくまでも側付きとして、秘書課と社長との連絡係として、押し付けられた、いや、抜擢されたのだ。
今のところ、この抜擢は成功のようだ。
時枝が不在の分、他の秘書達の仕事量は当然増える。
社長の世話までは手が回らない。
新人といっても社長のお気に入りが秘書を務めることで、社長の黒瀬も時枝不在で増えた仕事を真面目にこなしていた。