秘書の嫁入り 犬(24)

勇一の手厚い看護のおかげか、時枝の火傷以外の傷はほぼ完治した。
医者も既に引き上げ、三日に一度顔を出す程度だ。
今、時枝は、医務室ではなく、客用の離れに勇一と一緒に生活をしている。
生活と言ってもほとんどが布団の上だが、医務室よりは気分が晴れるだろうと、あまり口を開かなくなった時枝を気遣って、離れに移動したのだ。
監禁の一週間とその後の治療で、時枝の体力と筋力はすっかり落ちていた。
火傷で皮膚が攣るせいもあるのだが、今の時枝は歩行すら困難だ。
まずは外の空気に触れさせようと、車椅子を用意させ、朝夕の二回、庭に出るようにした。

「紅葉が綺麗だな~。部屋に少し持って帰るか?」
「…そうだな。もう、緑じゃないのか…。秋か……」
「月を見ながら、一杯やるのも、いいんじゃねえか?」

アルコールでも入れば、時枝の中に溜まった澱も出てくるのではないだろうか。
遠慮ないはずの二人の関係には、見えない壁が存在していた。
気遣いすぎて何も訊けない勇一、自分からは何も伝えようとしない時枝。
このままじゃいけないと勇一は思いながらも、突破口が見つけられないでいた。

「酒か、悪くない。…なあ、勇一、」

車椅子を押す勇一に、時枝は前を向いたままで、返事をする。

「ん、なんだ?」
「どうして、……どうして、何も訊かない」
「何を訊いて欲しいんだ?」
「訊いて欲しいんじゃない…、訊かない理由を訊いているんだ。俺は腫れ物か何かか?」
「お前は勝貴だろ? 俺の恋人兼婚約者兼親友だろ。言ってることが難しすぎて理解出来ん」

カメラが回っていた。
確かに撮影されていた。
極限状態に置かれていたが、時枝の耳に、DVDを桐生に送るという男の言葉は届いていた。
何が自分の身に起きたのか、どういう行為をされ続けたのか、勇一は見ているはずなのだ。
それなのに、何も訊こうとはしない。
勇一はもう自分を愛してないのかも知れない、
同情だけで側にいてくれてるのかも知れないと、近くにいるのに、優しくされているのに、時枝に勇一は遠かった。

「…そうか。難しいのか…、…勇一はアホだから、仕方がない」

あはは、と時枝は笑ってみせた。
その目に涙が浮かんでいたことを、背後にいた勇一は気付かなかった。

「失礼なヤツめ。そろそろ、戻るか? 冷えてきた」

涙声になっていそうで、時枝はコクリ首を倒して返事をした。
来た道を戻る。
手入れの行き届いた庭園の砂利に、車椅子の跡が残る。

「庭師の仕事を増やしてしまって、申し訳ないな…」
「仕事がある方が嬉しいに違いない」
「全く、お前は……」
「自己中だ。そんなことは皆、重々承知だから、今更だ」 

そんなことはないだろ、と時枝が胸の裡だけで呟く。
家業のせいで、辛い想いや重責に若い頃から堪えてきたくせに…、もう、俺ではそれを支えてやることも出来ないかも知れない…。

「ん、何やら騒がしいな?」

感傷に浸っていた時枝の耳にも「こら、まて、」という声が届く。
声がする方を向くと、白い子犬が庭園内を走り回っていた。
どこかの飼い犬が迷い込んだのだろう。
首輪をしている。
若い衆が追いかけ回していたが、すばしっこい子犬は捕まる気配はなく、楽しそうにキャンキャン吠えながら、段々と時枝と勇一がいる方に近づいてきた。

「…い、ぬ…?」

時枝の身体が、突然ガタガタと震え出した。

「勝貴、おい、勝貴っ!」

両耳を手で塞ぎ、頭を左右に振っている。
子犬が、無邪気に尻尾を振って、車椅子に近づいて来た。

「嫌だっ、犬はいやだっ! 来るなっ! …来ないでっ! うわぁあああっ!」

驚いた勇一が前に回ると、真っ青な顔で焦点が定まらない時枝が、泡を噴いて痙攣していた。

「てめぇら、サッサとコイツを追い出せっ!」

勇一が石を子犬に投げつけた。
もちろん当たらないようにだが、それで子犬はキャンキャン尻尾を振りながら、車椅子から遠く離れて行った。
泡を噴き、身体の痙攣が治まらない時枝を勇一が抱きかかえると、急いで離れに戻った。

「至急、来てくれ」

舌を噛まないよう時枝にタオルを噛ませると、医者を呼んだ。

「勝貴、大丈夫だから。もう、犬はいない。何も、誰も、お前を傷付けない」

勇一は自分の胸に時枝を抱きかかえ、痙攣の治まらない時枝の背中を優しく撫でる。
勇一の匂いで安心するのか、段々と痙攣は治まったが、時枝の意識は飛んでいた。