秘書の嫁入り 犬(26)

「社長、肩でもお揉みしましょうか?」
「嬉しいね。可愛い秘書さんに、肩を揉んで貰えれば、疲れも吹っ飛んでしまう」

株式会社クロセの社長室。
書類を届けに来た新人秘書の潤が、黒瀬の疲労を読みとった。
普通の秘書ならポーカーフェイスの黒瀬の疲れなど気付かないが、愛ゆえか、潤はちょっとした仕草や表情の中に、黒瀬の疲労を読み取ることが出来た。
今、気付いたのは、黒瀬が自分の顔に掛った髪の毛を払う指の動きからである。
潤の目には、その指の動きが怠そうに映った。
実際、黒瀬の肩をもみ始めたら、かなり凝っていた。

「あ~、気持ちがいい。ふふ、こういう気持ち良さも悪くないね。いつもは、別の気持ち良さを与えてもらっているけど」
「社長、会社ですよ?」
「だんだん潤が時枝に近づいてる。喜ぶべきか、悲しむべきか、迷うな~」
「時枝室長は、私の理想ですから、喜んで下さい。特に今は、室長がいたら、叱られるようなことはしたくないんです」
「私の可愛い秘書さんは、優しいね」
「社長もです。この後、二時間はあちらですよね? 私の我が儘で…仕事増やしてしまって…」
「違うよ? 佐々木の我が儘だ。そろそろ、迎えが来るね。私も一つ、我が儘をいい?」
「何ですか?」

黒瀬が自分の肩の上にある潤の手を握った。
そのまま、潤の手を伸ばし、甲にキスをした。

「ちょっとだけ、ブレイクタイム。おいで、潤。肩もみも気持ちいいけど…疲れが一瞬で飛ぶのは、潤かな?」

疲れを引き合いに出されれば、到底拒めるはずもなく、新人秘書は恋する男に戻り、愛する男の口付けを受けた。

「っん~」

潤の甘い声が、鼻から抜ける。
この可愛い愛する潤の頼みなら、仕事がいくつ増えても苦にならないのが黒瀬だ。

「栄養補給終わり。一仕事、やってくるか」
「今日は、…その、どちらを着て行きますか?」

頬を赤らめた潤が、必死で秘書モードに切り替えようとしている。
その姿も黒瀬には可愛くてたまらない。

「黒地に桜と般若がいいかな?」
「それなら、クリーニングから戻って来ています。クローゼットの一番上の棚に一式入ってます」
「ふふ、じゃあ、行ってくるね」

佐々木が会社の裏に車を駐め待っていた。
桐生の組に顔を出すのは、今の所、週三日だけ。
社長業務を抜けだし、組長代理を務めている。
会社から直接行くのではなく、一旦、自宅マンションへ戻り、着替えをしてから組へ顔を出す。
今日は黒の着流しだ。
洋の顔立ちの黒瀬だが、生地や仕立ての良い着物を身に纏うと、色気と迫力が増し、眼力も増すように感じる。
人を寄せ付けない度を普段の数倍UPさせていた。

「今日も、お似合いです。組長代理」

桐生の事務所に顔を出すと、組員一同、一度は黒瀬を見て固まる。
迫力に押されてだ。
勇一の代理が黒瀬になることに、誰一人反対する者はいなかった。できなかった。
黒瀬の冷酷さは、真偽はともかく、伝説となって末端の組員にも伝わっていた。
粗相をしたら沈められると、皆、黒瀬が顔を出す日は異常なまでに緊張を強いられる。

「ありがとう。じゃあ、仕事を始めようか。佐々木、報告」

黒瀬の桐生での仕事ぶりは、無駄が全くなかった。
二時間しか滞在しないということもあるのだろうが、テキパキとこなす。
組員も同じように動くことを強要された。

「そんな、子ども騙しの報告、しないでくれる? そのシマは元々桐生のものだろ? 今日中にカタをつけておいて。いい? 二度目はないよ?」

物腰は柔らかなのに、失敗は許さないと脅される。
皆、命を掛けて仕事に望んでいた。

「…組長…、早く復帰しないかな…。俺、組長が復帰するまで、生きてられるかな…」

黒瀬のいない場所で、皆、勇一が、どれほど寛大で優しい組長だったかと、口々に零すようになった。
黒瀬の厳しさに、組員の中には、自分が足を踏み込んだ世界が、死と隣り合わせだったと初めて実感した者もいた。

「組長代理、仕事終わりにナンですが、組長から、お電話です」

今日も二時間働いたと、黒瀬が事務所を出ようとしたとき、勇一から黒瀬に電話が入った。

「はい、ええ、今からは無理です。社で会議が一本……、じゃあ、潤と伺います」

勇一からの呼び出しだった。
会社に戻り会議を終えた黒瀬は、潤と二人で本宅へと出向いた。
潤の手には時枝への見舞いの花束と、黒瀬の手には……