秘書の嫁入り 青い鳥(31)

「失礼じゃないですか」
「事実だろ。時枝さん、あんた、見合いしたことないだろ?」
「ないですけど、それが何か」
「だから、見合いのシステム知らないんだよ。あんた、見合いしたら、直ぐにカタ付けると思っているだろ?」
「結婚の意思がない場合はそうでしょう?」
「あのな、結婚の意思がなくても、間に入った人の顔を立てて、数回デートぐらいするぞ? 断る時、数回会って、色々話してみましたが、自分にはもったない相手で、とか言って断る方が角が立たないんだよ。それに、」

チラッと、時枝を見る。
ここまで言えば分かるだろうと、視線が語っている。

「お互いに仕方なく、っていう場合が多いんだ。そういう見合いって、だいたい、仲介してくれた人への義理とかで見合いだろ。そう言うときは、数回のデートに見せかけて、二人で上手い断り方を相談してたりするんだよ。だいたい、あんた、相手が誰か、知っているのか?」
「…知らない」
「相手が、ヤクザに嫁ぎたいって本気で思っているかどうかも分からないじゃないか」

それはそうかも知れない。
黒瀬の実母がいい例だ。
見初められたばかりに、訳も判らず嫁いだ結果、悲劇は生まれた。

「仮にだ。何か事情があって、相手の女性だってしたくもない見合いをさせられていたとする。相手から断れない事情があった場合、桐生さんならどうするかな?」

勇一なら相手の話を聞いてやるだろう。
そして穏便に破談にもっていくに違いない。

「まあ、実際、どういう見合いなのかは、分からん。しかし、見合いして数回デートしているだけで、大の男が大騒ぎするほどのことか? もし、あの桐生さんが本気で結婚を考えているなら、あんたに相談無しってことはないと俺は思うけどな」
「本気だから、俺に言えなかったんだ。そう考える方が自然だ」

佐々木さんだって、慌てて自分のところに来たんだ、と、大騒ぎしたのにはするだけの理由があるんだと、尾川を見据えた。

「時枝さんの常識では、だろ。俺からみたら、一々言わない方が自然だ」

そこで初めて、時枝を含め周りの人間の常識が、もしかしたら普通と違うのかと思った。
桐生の中や黒瀬達の間では、自分の感覚が一番まともで、最も常識人だと思っていたが、一歩外に出ると違うのかもしれない。
そもそも勇一の見合い話を時枝の耳に入れた佐々木も、見合いをした経験があるとは思えないし、こと恋愛事には大げさな男だ。
大袈裟に捉えすぎていたのだろうか?
尾川の言うことにも一理あるように思えてきた。

「百歩譲って、組長さんが本気で結婚を女性と考えているとして、そう思うならどうしてあんたは確かめないんだ?何も訊かず、自分から身を引くって、なんだそれ? 昼のメロドラマか、演歌の歌詞か? さっきも言ったけど、腹の中ぶちまければいいじゃないか」
「…他人事だから、簡単に言えるんだ」

はい、そうですかと、簡単には素直になれなかった。

「あんたも大概焦れったい男だな。俺は、海の男なんで、短気なんだ。悪く思うなよ」

尾川が立ち上がり、木製の古い小物入れの引き出しから何やら取りだした。
名刺だ。
それを見ながらレトロな黒電話の受話器を握る。
どこに電話しているのか、と尾川の指先を見ていたら、回すダイヤルを見て時枝は驚いた。

「尾川さんっ!」
「いいから、任しときな」

尾川は回したダイヤルは、勇一の携帯のナンバーだった。

「あ、桐生さんですか。夜分にどうもすみません。福岡の尾川です。…ええ、元気でやってます。はい、また一杯やりましょう。ちょっとつかぬ事を伺いますが、桐生さん、お見合いしたんですって? ほう、それはまた。で、ご結婚をその方と? …ははは、そうですか。でしたら、明日朝一でお宅の嫁さん迎えに来てもらえませんか? 迎えに来ないと浮気するそうですよ。尻に敷かれてますね。アハハ。じゃあ、明日」

受話器を置いた尾川の横で、時枝が顔面蒼白で口をパクパク金魚のように開けていた。

「明日、桐生さん迎えにくるそうだ。良かったな」
「よ、よ、よ…」
「よよよ?」
「…よっく、な―――っい!」

蒼白だった顔が、今度は一気に真っ赤だ。

「どうして? あ、それと結婚ないって。やっぱり、良かっただろ? 最初から、深刻になる問題じゃなかったんだよ」

勝ち誇ったような尾川の言い方にカチンと頭にくる。 
しかし、全て尾川の言った通りだった。
自分で問題を大きくし、勝手に悩み、勝手に答えを出し、そして、立ち直れそうもないぐらい落ちていた。
尾川に抱いてくれと持ちかけるほど自暴自棄だった。
時枝の身体から、力が抜けた。
今まで必死で乗り越えようと、藻掻いていた全てが、無意味だった。

「…アハ…、アハハ…、ハハハ……」

あまりに自分が滑稽で、笑いが込み上げてきた。
そんな時枝に尾川が慌てる。

「オイ、正気か? 大丈夫か? ほら、これ、飲め」

コップに日本酒をなみなみと注ぐと、時枝に持たせた。 
時枝はそれを水のように一気で飲み干した。

「…良かった…、まだ結婚しない…良かった」

先程緩んだ時枝の涙腺は、いとも簡単にまた緩む。
今度は安堵の涙だ。

「まだ、って、多分桐生さんは一生しないと俺は思うけどな。その辺は二人で納得がいくまで話し合えよ。一人で勝手に結論付けるのは子どものやり方だ。まあ、あんたも意外と大人の仮面を被った子どもかもしれんな」

時枝を子ども扱い出来るのはこの男ぐらいだろう。
潤が実父のジェフ以上に、この尾川を父親代わりに慕う気持ちが、今の時枝にはよく理解できた。
普通なのだ。 
普通の感覚で、しかも寛大なのだ。
父親と暮らしたことがない潤には温かくて大きい理想の父親像なのだろう。

「子どもですか…、そうかもしれません。俺も勇一も、無理矢理大人になったところがあります。黒瀬もですが」
「なに、男はみんな子どもなのさ。って、格好つけてみた。どうだ?」
「どうだって…えっと…」

笑えません、と正直言っていいものか。

「駄目か? チェッ」

尾川が拗ねて見せる様子がおかしくて、今度は普通に笑いが込み上げてきた。
頬にはまだ涙が残っていたが、中年男の可愛い子ぶった素振りがツボにはまり、久しぶりに腹の底から笑えた。

「それだけ笑えれば、大丈夫だ。さあ、飲め。飲んでヤなことは忘れてしまいな。明日はダーリンが迎えにくるからさ」

本当に一方的に別れ話をした俺を迎えに来てくれるのか、と時枝は不安だった。
一体どんな顔で会えばいいのかも分からない。
しかし、尾川の影響か、もう一人で抱え込むのはやめようという気になっていた。