秘書の嫁入り 青い鳥(8)

「酷いな。早漏じゃないのに、サッサだって。さあ、潤、私をイかせて」
「…そんなぁ…、黒瀬…、上司の監視付き…」
「ふふ、時枝は潤のこと大好きだから、大丈夫。可愛い声を聴かせてあげて。時枝に、潤の可愛い声で、学習してもらおう」
「学習?」
「うん、学習。どうせ、時枝のことだから、閨の中でも、ブツブツ文句言ってそうじゃない? 少しは、可愛い喘ぎ声の一つも出せないと、相手も興ざめじゃない?」
「俺の声、可愛くないぞ?」
「時枝の数万倍は可愛い。ほら」

ドンと黒瀬が潤を突き上げた。

「んあっ、もぅ、バカぁ」
「ふふ、やっぱり可愛い…」

大人の対応をすると決めていた時枝だったが……

「あなた達、アホですかっ! いい加減にして下さいっ! ヤるなら、サッサとやりなさい! 私が学習することは、何一つありません! 満足させてますっ!」

大声を張りあげてしまった。

「ふ~ん、時枝、凄い自信だね。今度、どうなのか、じっくり聞いてみよう」

黒瀬に、にやつかれ、時枝はハッと我に返った。
閨のことを持ち出されたぐらいで切れてしまったのは、時枝には、ここ最近、プライべートの時間が一切ないからだ。
喘ぐもなにも、会ってもいないのだ。
喘ぎようすらないって言うのに…目の前のバカップルは、仕事時間に合体中とは……
突然、時枝に哀感が襲いかかった。

――切ない…

俺は市ノ瀬と社長のために、結構頑張っているというのに報われない。
時枝の横では時枝の憂いも知らずに黒瀬が潤を啼かせていた。
その潤の喘ぎ声が、余計、時枝を感傷に浸らせた。

…人肌っていいよな…

頭の中に、元親友のいろんな表情が浮かんで来る。
今頃、どうしてるんだろ。
声聴くと会いたくなるから、電話も最近してない…。
あいつのことだ。
きっとコレ幸いと、ソープのお姉ちゃん達と遊んでいるに違いない!

「時枝? 終わったよ。一人百面相中?」
「何でもありません! 新人、何を呑気にぐったりしてるのですか? 早くシャワー浴びて来なさい。5分ですよ」

社長室には隣接で簡易シャワーがある。
仮眠室もあるが、そこを利用するのは、最近はもっぱら時枝だ。
よって社長である黒瀬の私物より、時枝の私物に占領されている。
素っ裸の潤が、時枝を横切ってシャワーを浴びに走る。
結合を解いたばかりの潤からは、二人の精液の匂いが漂ってきた。
よくよく考えたら、最近時枝は自慰すらしていない。

自分の匂いってどんなだった?
思い出せない…
男として、末期なのかもしれない…

「はぁ~」
「時枝、幸せが逃げるよ?」
「心配無用です。もうとっくに逃げてしまったようです」

三十四才にもなる男だというのに、悲劇のヒロインモードにスイッチが入った。

「あ、そ。…あれ?」
「……俺の幸せ……どこだ……」

黒瀬が珍獣でも見るように、時枝を眺めている。

「黒瀬ッ、俺、終わったから、早く浴びた方がいいよ」

烏(からす)の行水、自分の中の黒瀬を流しただけというか、二分も掛からず潤が出てきた。
社長室の床に散らばったままの自分の服を拾い上げながら、黒瀬にシャワーを促している。

「潤、ちょっと、コレ」

黒瀬が時枝を指さす。
シャツを着ながら、潤が黒瀬の側に寄り、指さされている時枝に目を向けた。

「時枝さん…? 室長……?」

目の前の信じられない光景に、潤の表情が固まった。

「潤、こういうの、なんて言うか、知ってる?」
「……鬼の目にも…涙……」

人間信じられない物を見たとき、慌てふためくことも忘れるらしい。

「ふふ、私もそう思ってた」
「室長、どうしたの? 黒瀬何かしたの? 苛めたの?」

淡々と潤が黒瀬に尋ねる。

「やだな、潤。時枝が私を苛めることはあっても、私が苛めることはないよ。急にね、こうなった。訳がわからない」

外国人のように、さあね~とジェスチャー付きで黒瀬が潤の質問に答えた。
普段の時枝が今の黒瀬の言葉を耳にしたなら凄い勢いで反論されそうだが、今の時枝からは何の反応もなかった。
そう、時枝は直立したまま、トレードマークのフレームの細い眼鏡を曇らせている。
うっすらと曇った眼鏡の奥で、目を開いたまま、瞬きもせず、ただ涙をポロリ、ポロリと流しているのである。
二人は、思い出せる範囲で、時枝の涙を見たことがなかった。
どこぞの動物園のレッサーパンダが直立したことより、この二人には時枝の涙の方が珍しかった。

「…俺の幸せの……青い鳥は……」

ぼそり、時枝が呟いた。

「……どこへ…逃げたんだろう……」

潤も黒瀬も珍獣を見る段階を超えてしまった。

「…黒瀬…、俺、もう…」
「分かってるよ。私も駄目だ……我慢できそうもない……」

決して『最中』のラストを迎える言葉ではない。

「あっ、はははっ…、く、苦しいッ!」

潤が、腹を抱えて笑い出した。

「ふふふ、あ~、堪らないッ…」

黒瀬まで笑い出した。
この男が、微笑むことはあっても、大笑いすることは珍しい。

「ひぃ~、時枝さんが…、青い鳥って…あ~、腹痛いよ~」
「時枝が、少女になってしまった。あ~、可笑しすぎ~…」

まだ、涙を流している時枝の前で、二人とも失礼極まりないが、あまりに時枝には似合わない言葉に我慢できなかった。

「黒瀬~、ヤバイよッ…アハハ…、笑い事じゃないよ…、時枝さん壊れちゃったよゥ~~…」

笑いを止められないが、潤は時枝の様子がただ事ではないと感じていた。
どんな状況下でも、至って冷静なのが時枝なのだ。
酔った時の乱れた時枝は知っているが、素面で自分を見失うような男ではない。
むしろ、直ぐに見失い取り乱すのは潤の方で、それを冷静沈着な態度で忠告・指導してきたのが時枝なのだ。

「ふふふ、そうだね~…これは修理が必要かもしれない…あぁああ、でもどうしてこんなに可笑しいのだろう」

しまいには時枝ほったらかしで、潤と黒瀬は抱き合って笑い出した。
五分ぐらい経っただろうか?
一頻(ひとしき)り笑い倒すと、やっと二人は落ち着きを取り戻した。

「あ~あ、腹筋が痛い。黒瀬、マジ、これは一大事かも…。時枝さん…時枝室長、まだ泣いてる」
「そうだね。ここは私に任せて、潤は仕事に戻って。ホントは戻って欲しくないけど、時枝のフォローをお願いします。時枝このまま秘書課に戻す訳にはいかないから、適当に誤魔化しておいて」

自分に出来ることは黒瀬の言うように、秘書課でのフォローしかないだろうと、潤は涙を零している時枝を心配しつつも、社長室を出た。
黒瀬は時枝を仮眠室へ押し込め、自分はシャワーで汗を流すと新しいシャツに着替え、社長室に消臭剤のスプレーを撒いた。
そして、専務を呼びつけ、仕事をひとまず一件終わらせた。

 

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秘書の嫁入り 青い鳥(7)

「時枝室長!」

昼休みを終え、戻ってきた時枝を、専務秘書の青柳が困り果てた様子で待ち受けていた。

「どうしました? 青柳君」
「社長に面会したいのですが…。専務から言付けをお預かりしてまして。内線が繋がらないものですから」
「いないのですか? おかしいですね」
「いえ、社長室にはいらっしゃるようなのですが…。内線を切っておられるようで、出てくれません。社長室には鍵が掛かってまして、仮眠中かと思いお待ちしておりましたが、中からドタドタいう音や、幽霊の呻き声のような声が聞こえてきて…、大丈夫なんでしょうか?」

青柳の話で時枝の頭に浮かんだことは、ラブホテルの「ご休憩」の文字だった。
はは、まさか…いくらなんでも、社内でソコまでは…ははは…。

「分かりました。専務の言付けは機密事項ですか? そうでなければ、私がお伝えしときましょう」
「機密ではありませんが、急ぎます。室長、お願いできますか? 」
「三十分以内なら間に合いますか?」
「ええ。専務の提案したS社の買収の件で話をしたいとのことです」
「わかりました。専務は確かその件で、午後から大阪へ出張でしたね。その前にお会いしたいということでしょう。時間は私が作りましょう。じゃあ、君は専務に三十分待つように伝えて下さい」

青柳を専務の元に帰すと、一応社長室をノックしてみる。
応答はない。
ドアノブに手を掛けてみた。
やはり、開かない。
ドアに耳を近付けると、微かに人の声が聞こえる。
しょうがないと、時枝は自分のデスクから社長室の鍵を取りだし、解錠した。
背後に他の社員がいないことを確認した上で、ドアを押した。

「・・・」

予想はしていたが…あまりに予想通りの光景に……

「エヘン」

ここで大声をあげたところで…過去の経験から無駄なことは分かっている。
感情的になっては、負けなのだ。
怒りを無理矢理鎮め、冷静に対処しようと努めた。

「ぁあっ、黒瀬ッ…」

来客用のソファのスプリングが軋む音と、潤の腰の動きが連動していた。
潤は全く時枝の存在に気が付いてはいない。
一方、潤を下から支えている男は、時枝が入って来たことに気付いていた。
時枝の空咳に、視線を一度は向けたのだ。
しかし、それで終わった。
時枝を無視し、行為に没頭している。
こんなことで、負ける時枝ではなかった。
まだ密室なだけ、この二人にしてはマシな方なのだ。
酷い時など、イギリスから日本に戻る飛行機の中ということもあった。
それに比べれば社内とはいえ、密室でコトに及ぶなんぞ、この二人にしては可愛いものである。
が、可愛いことと許されることは別の問題で、時枝が今しなければならないことは、盛りの付いた犬と化した二人を引き離すことだった。
社長の黒瀬より扱いやすい潤にターゲットを絞ると、黒瀬に騎乗位で跨っている潤の視界、ど真ん中に移動した。
腕を組み仁王立ちで潤を睨み付けた。
アンアンと喘ぎながら、閉じていた目を潤が「イク~」と叫びながら、開けた瞬間、時枝が冷たく一言。

「勝手にどこにでも行きなさい。市ノ瀬潤」

仕事仕様の名で言い放った。

「ひっ、出たッぁあああっ!」

爆ぜた瞬間…、潤の視界に時枝の顔が飛び込んできた。

「ふふ、潤、出たのは、潤の飛沫かそれとも幽霊か、どっち?」

自分が放出したものが黒瀬のシャツを汚していたが、そんなことお構いなしに潤は黒瀬の胸に顔を伏せた。

「…時枝室長…が…出たッ」
「なに人をお化けみたいに言っているのですか。さっさと社長から降りなさい。新人、ここは会社ですよ」
「スミッ、申し訳ございません!」

潤が黒瀬から降りようと腰を浮かした瞬間、黒瀬の手によって、また降ろされた。

「駄目ダメ、まだ私がイッてないよ?」
「…黒瀬~~~、でも…、」
「自分だけイッて、私はほったらかしかい?」

胸のクリップは、もう外されていたが、潤の左右の乳首にはアメジストのピアスが飾られている。
二つとも黒瀬から贈られたものだ。
そのピアスの小さな輪っか部分を黒瀬の指が、お仕置きと言わんばかりに引っ張った。

「あんッ…ばかっ」

潤の反応が可愛くて、まだまだ潤の中に留まっていたい黒瀬だった。

「時枝、何の権利があって、邪魔をする?」
「何の権利? そんなの分かりきっていることでしょ。秘書の権利です。仕事中です。もう、昼休みは終わってます。新人を仕事に戻して下さい。あと、社長にも仕事です。今から三十分以内に専務を呼びますから。専務に、その新人の淫らな姿を見せるつもりですか?」

「やれやれ、時枝は仕事の鬼だ。ふふ、俺に仕事させたかったら、ちょっと、向こう向いててくれる?」

俺がいるのに、最後までヤろうってことか?

「出て行ってくれるのが、一番なんだけど?」

そんなことしたら、これ幸いと、自分がイッた後直ぐにまた始めるに違いない。

「ここにいます。サッサと終わらせて下さい」

二人を見張っているしかない。

 

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秘書の嫁入り 青い鳥(6)

「正直な子だ。この新入社員はお仕置きが好きらしい」
「…酷いよ、黒瀬…治外法権って言ったじゃないか……バカッ…」
「ここじゃ、狭いから移動しよう」

前を出したままの黒瀬が潤を抱え、来客用のソファーへ移動した。
その際、社長室の入口に鍵を掛けることも忘れなかった。

「さあ、全部脱いで」

自分はソファに腰掛けると、その前に潤を立たせた。

「…全部は…恥ずかしい…だって、ここ…」
「社長命令だ。全部脱ぎなさい」

興奮しているのか、恥ずかしいのか、なかなかスムーズに脱げない。
全て脱ぐまで黒瀬は手伝わず、潤の手が不器用に服を剥がす様を眺めていた。

「やっと、脱ぎ終わったね。欲しいものをあげるから、こっちに来て」

潤を自分の膝に乗せた。

「もう、ここ、尖ってる」

潤の胸の突起を片方ずつ、甘噛みした。

「んぁ、」
「お仕置きをしないとね」

いつの間に忍ばせておいたのか、小さなバネ式のクリップを取り出した。

「ウッ、」

ぷくっと膨れている先を潰すように挟む。

「いたっ、いよぅ」

左右とも挟まれた。胸から縦に鋭い痛みが走り、それがやがて鈍痛へと変わる。

「ふふ、でも、この痛みが好きなんだよね…潤は最近とっても淫乱さんだから」
「…誰のせいだよっ…」

まだ新婚の二人は、夜な夜ないろんなことを試していた。
最近は二人して、SMごっこに嵌っている。
黒瀬的には本格的なものでも楽しめるのだが、以前自分が薬物中毒に陥り記憶障害だったおり、潤を酷い目に遭わせた経緯があるので、遊びの範疇で抑えている。
しかし、潤はそんなことは気にしてない。
二人で楽しめるなら、愛情を確認できるなら、相手が黒瀬なら、何をされても構わないと思っているし、むしろ、極限まで付き合う気でいる。
黒瀬に信頼と愛情を置いている証をそうすることで示したいのだ。

「真っ赤に充血しているのが、クリップの間から見えるよ」

黒瀬が軽くクリップを引っ張る。

「あぅ、」

さっきから焦らさられている潤に、痛みという刺激が加わったことで、我慢の限界が近づいていた。
黒瀬を体内へ咥え込みたいという欲求の我慢が…臨界を越えた。

「潤、どうして腰が浮いているの?」
「…くろせっ、早くッ…」
「まだ、解してないよ?」
「…だい、じょうぶっ…」
「こら、自分から当てるなんて、悪い子だ」

潤が浮かした腰を黒瀬の先端に狙いを定めて降ろした。
ヌルヌルしている先端部分を自分の孔に当て、ヌメリを擦り付けている。

「ふふ、賢いね。私の蜜だけで、大丈夫かな? もう、飲み込みまれそう」
「…挿れてっ」
「何を? 指?」

この状況でわざわざ訊く黒瀬自身も、実は早く潤の中に収まりたいのだが、我慢できずに焦れて悶える潤が可愛くて、自分の欲望と戦い、意地悪を言う。

「…大きいの…はやくっ…」
「大きい何だろう?」
「…しら…なっ、い…、もっ、イイッ!」

待てないと、潤が自ら、腰を降ろす。

「こらこら、そんなに乱暴にしたら、裂けちゃうよ。ふふ、もう、私も限界だから…意地悪はやめようね」

黒瀬が潤の腰を持ち、ゆっくりと潤を沈めていく。

「ァああっ…くろせっ…」
「ぁあ、潤の中は夜でも昼でも最高だね…」

潤だけが自分を癒してくれる。
血縁関係の誰からも癒されたことのない黒瀬には、今家族となったこの潤だけが唯一の憩いの場であり、自分が泣ける場でもあった。
特に、こうして、繋がっていると、自分には潤しかいないことを強く実感できる。

 

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秘書の嫁入り 青い鳥(5)

「ね、恥ずかしい状態だろ?」

潤の尻に硬い物があたる。

「潤の顔を社内で見る度に、ドキドキするし、泣きたいのに我慢している顔をみるだけで、欲しくなってしまう。さあ、私の恥ずかしい所を直接見て」

また潤の腰を持ち上げ、股間からずらして降ろす。
スラックスのファスナーを開けると、自ら猛ったものを取り出した。

「…黒瀬…凄い……」
「触って欲しいな」
「いいの? だって…ここ…」
「ここは治外法権エリア…このままじゃ、仕事にならないし…可愛い潤に鎮めて欲しい」

仕事という言葉に、潤は弱い。
そして、もちろん、黒瀬の求めにも弱い。
昨晩だって、散々触ったモノなのに、会社というシチュエーションが潤に緊張感を与え、手が震える。

「ふふ、潤、扱いてくれる?」

耳元で囁かれた。
楕円形で、信じられないサイズを誇るソレを潤が愛撫するときは、両手を使う。

「潤…あぁ…、いい気持ちだよ…。ご褒美」

黒瀬は潤が膝から落ちないよう回していた手に力を入れ、潤の上半身を自分の胸に引き寄せると、近くなった潤の唇に口吻をする。
その黒瀬の口吻と、手の中で更に雄々しくなっていく黒瀬に潤の方が我慢できなくなってきた。
キスだけでも潤の身体は陥落する。
更に手の中の物が、体内に収められた時の快感を思い出させ、身体が火照る。
黒瀬が一旦潤の唇から離れ、潤の様子を楽しむ為に間をあける。
潤の双眸が、自分を欲して誘ってくる。
興奮してきた時の潤は、目の縁がほんのり赤く色づく。
間を空けると、どうして? と、瞳が問うてきて、黒瀬には堪らない。

「…黒瀬…」

キスの続きは? と言いたいのだろう。

「ふふ、潤、どうしたの? 手が止まりかけてるよ?」
「…意地悪…してるだろ?」
「ご褒美はあげたよ?」
「…そんなぁ…黒瀬~」
「夫婦間でも、言葉は必要だよ、潤? 要望があるなら、言ってごらん」
「…やっぱり…意地悪…バカッ…あっ、」

黒瀬が潤の唇を再度塞いだ。
そして、また潤の中の燻っているものを煽る。
黒瀬の舌に潤が舌が絡める。自分の欲望を分かって欲しくて、おねだりのキスを試みた。

「…んっ…」

潤の鼻から、甘ったるい息が抜ける。
その声とも言えぬ音に、潤の手中の黒瀬の一部が、更に硬度を増す。

「ふふ…、困った子だ…。だから、言葉で表現してごらん?」

潤から離れた黒瀬は、あくまでも潤に言わせようと試みる。

「…そんなに……苛めるなら…」

仕事での涙とは違う拗ねた表情で、潤が目を潤ませる。

「苛める? 苛めてないよ?」
「…苛めるてる…苛めるなら、今日は一緒に……」

寝ない、とでも言い出すのかな、と黒瀬が予想する。が、潤の続きは違った。

「風呂に入らないっ!」

余りの可愛い内容に、思わず黒瀬も吹き出してしまった。

「…酷いッ…黒瀬のバカッ! 俺との入浴、大事じゃないんだっ!」

イギリスでの出来事を思い出すと、この潤のこれほどまで可愛い言動が信じられない。
別に潤が他の青年より、子どもっぽいわけではない。黒瀬の前でだけだ。
黒瀬の兄は所謂(いわゆる)極道者なのだが、その極道と対峙し、啖呵を切る度胸もある。
まして、普通の青年なら、耐えられるはずのない試練の数々を乗り越えてきた男だ。
芯はかなり強い。
それこそ、時枝を持ってしても、潤には一目置いている。
が、この可愛い言動…どちらかといえば、黒瀬の方が潤にメロメロなのだ。
潤が黒瀬の猛ったモノから手を放し、黒瀬の胸をバンバンと叩きだした。

「ゴメン、ゴメン。てっきり、今日は一緒に寝ないって言い出すのかなって思って…」

その言葉に、今度は潤が涙を放出させた。

「バカッ、バカッッ…酷いよぅ…黒瀬のバカッ! 俺が黒瀬と寝ないなんて…できるはずないだろっ……そんなこと言い出すはずないじゃないかよぅ…今だって…」
「今だって、何だい? 言ってごらん」
「…黒瀬と寝たくて堪らないのに…うっ…、ヒック…ヒック…」
「やっと、言葉が聞けたね…。潤は今、俺が欲しいと思ってくれてるんだよね?」
「…さっきから、そう言ってる~…のに…黒瀬が…苛めるっ……」

言葉にしてなかったのだが… 興奮状態の潤は、自分が言ったつもりになっていた。

「ふふ、社長を欲しがるなんて、困った新入社員だ…。そんな淫乱な新入社員には、お仕置きが必要かな?」

お仕置きの言葉に、潤の身体がピクッと動く。

秘書の嫁入り 青い鳥(4)

「失礼します。市ノ瀬です」
「待っていたよ」

社長の席に座っている男の顔を見るなり、緊張していたものが緩む。

「社長、書類をお届けに参りました」
「ご苦労」

書類を手渡そうとした新入社員の両手を社長の席に座る男が掴むと、セクハラまがいに撫で始めた。

「社長!」
「どうした?」
「駄目ですっ。ここは会社です」
「頑張っている新人さんを慰労しているだけです。潤、頑張ってるね。泣いてもいいんだよ」

泣かないと決めた。
口に出せないような様々な試練が今まで数多くあったのに、たかが上司に叱られたぐらいで、ピーピー泣くのはみっともないと分かっている。
いや、叱られたのが原因の涙ではない。
早く仕事を覚えて、早く認められて、早くこの目の前の男の役立つ人材になりたいのに、叱咤される内容が仕事以前の問題が多く、自分が情けないのだ。

「…頑張っていません…、俺…、私は…」

泣きたくないのに、目の前の男が優しい目で見つめるものだから、内側からまた情けなさが込み上げてきて、目の縁に水分が溜まった。

「頑張ってます。多くのことをやろうとして、欲張りすぎて、ちょっとミスがあっただけじゃない? 違う?」

そうなのだ。
注意力散漫で、大雑把でミスをしたというより、一つでも多くの仕事をこなしたい、先輩社員に追い付きたいという焦りが、先程の確認ミスも引き起こしていた。

「…駄目なんです。ミスばかりで。室長に叱られてばかり……でも、頑張りますから、クビにしないで下さい」
「ふふ、頑張らなくてもいいんだよ…自然体で肩の力を抜いてごらん、潤。私は潤が時枝みたいおっかない秘書になるのはゴメンだよ? 潤は潤らしく、上を目指しておいで。ね?」

この男はいつも、自分を楽にする魔法の言葉を掛けてくれる。
見てないようで、しっかりと仕事中の自分も見てくれている。
情けなさで溜まっていた水分が、この男の優しさに押されて、スーッと、頬を流れていく。

「…ありがとうございます…社長…」
「潤、こっちにおいで」

社長と呼ばれた男が新入社員の手から書類を取り上げ机の上に置くと、繋いだままのもう一方の手を引っ張る。

「潤、ここに」

自分の太腿を軽く叩き、涙の筋を作っている新入社員を自分の膝の上に招く。

「…駄目です。社長。…ここは社内です」
「黒瀬でいいよ。黒瀬潤クン、もう昼休みだから、プライべートタイムだよ」

プライベートを強調したいのか、市ノ瀬ではなく黒瀬で呼ばれた。

「…いけません…昼休みも就業時間内です…」
「そう? 社則じゃそうかもしれないけど、社長室の決まりは、昼休みはプライベートタイムだよ? ふふ、この部屋の君主は私だから、治外法権エリア。私が決めたルールに従ってもらわねば。ね、新人クン」
「…そんなぁ…」
「真面目な社員だ。じゃあ、こうしよう。ここに乗りなさい。市ノ瀬潤。社長命令だ」

おいで、と手を広げて待っている。
室長も、粗相のないようにと言っていたし…社長命令なら仕方がない、と新入社員は自分の会社のトップの膝に飛び乗った。

「この部屋を出るまで、黒瀬潤だからね。潤、私を社長と呼んだら、減給処分にするよ?」
「…横暴! 黒瀬~」

そんなに甘やかすなよ~と、心の中では思うのに、新入社員から黒瀬潤に戻され、目の前の男が社長から愛する黒瀬に戻ったことが嬉しかった。
と同時に、安堵から、それでも我慢していた涙が一気に流出した。

「よしよし、頑張り屋さん。泣きたくなったら、いつでもここにおいで…」
「もう、泣かない……俺、恥ずかしい…男なのに…」
「恥ずかしいところを見せ合うのが夫婦だろ? 時枝にも、秘書課の他の社員の前でもそんな可愛い泣き顔を見せたら、嫉妬で全員クビにしそうだから、泣きたい時はここへどうぞ」
「…バカッ…その前に俺が時枝さんに追い出されるぅ……黒瀬は恥ずかしいところ、俺に見せてないじゃないかよ…」
「そんなことないよ? ふふ、見せてあげるよ」

ほらここと、膝の上の潤を少し持ち上げると、自分の股間の直ぐ上に来るように降ろした。

秘書の嫁入り 青い鳥(3)

「室長、終わりました。ご確認下さい」
「新人、当然自分でも確認してるのでしょうね? 私に確認を取るのは、自分で完璧だと思っている時ですよ?」
「大丈夫です。全て左側に留めてあります」
「新人、まさか、留め位置の確認しかしてない、なんてことは言いませんよね?」

先輩秘書の篠崎が心配そうな顔を潤に向けている。
毎年、新入社員、それも優秀な成績を研修で修めた者だけが、本社の秘書室に入って来る。
しかし、男女問わず、一年以上続く者が少ない。
仕事がハードなのだ。
別に秘書課内で虐めがあるとか、嫌がらせがあるとか、上司(時枝)や先輩社員が厳しい過ぎるというわけではない。
新人のうちは直接誰かの秘書に付くというわけではなく、実際の秘書業務の更にその下の雑用が仕事になる。
それがハードで、秘書といっても、本社・支社の色々な秘密事項に関わる上、他の部署に洩れては困る資料の作成等を秘書課が手がけている。
秘密の書類で【秘書課】なのか? と思いたくなる程、機密事項が多い。
人事異動で数年で変わる重役よりも、会社の中枢に深く関わる部署になっていた。
大学を出たばかりの、新入社員では少々荷の重い部署であり、そこに残ることがエリートの証だと分かっていても、他の部署に移動希望を出したり、退職するものが多い。
女性社員も多い部でもあるが、皆、誰の目から見ても納得の人材しか残っていなかった。
潤より三年先輩の篠崎もその一人だ。
普通でも残れる新入社員が少ないのに、今年の新人に限り、厳しすぎる気がして篠崎はハラハラしている。
年上の自分から見たら、可愛い部類の好青年が入って来たのだ。
できれば長く続けてもらい、自分の仕事が減ることを期待していたのだが…どうも、この新人と室長が合わないらしい、と篠崎は危惧している。
優秀といっても今時の青年だ。
厳し過ぎると「辞める」と言いだしかねない。
まだまだ仕事にはならない。
だからと言って、次に来る者が優秀とも限らなければ、仕事の合間の鑑賞用に楽しめる容姿をしているとも限らない。
よって、室長の新人に対するお小言が始まると、心配でならないのだ。

「…スミ、申し訳ございませんっ! 直ぐに確認します」
「一体、何の確認をするのか本当に分かっていますか?」
「…えっと…、用紙の向き枚数と順番です」
「その通りです。それを本来、最初の段階で出来ていないといけなかったのですよ。新人が位置を間違えたまま、提出する前の話です。直ぐに確認して提出しなさい」
「はい。アノ、時枝室長」
「何ですか?」
「名前…あります。新人じゃなくて、俺、名前がちゃんとあります」

心配そうな顔で覗いていた篠崎が、あちゃ~、やってくれたよ、と頭を抱えた。

「今年の新入社員のレベルがこれでわかりますよね。この程度で研修の成績優秀者ですか? しかもここは秘書課ですよ? 自分の事を『俺』と呼ぶのは止めなさい。そんなことまで私が注意しないといけないとは。新人、君は本気で秘書課で仕事をする気があるのですか? それから、私から名前を呼ばれたければ、私から秘書課に必要な人材と認められなさい。それまでは新人です」

泣くなよ、市ノ瀬! と篠崎は心の中でエールを送る。

「…はい。ここで認められるよう頑張ります」

篠崎の予想を裏切り、今度は泣かなかった。
席に戻ると黙々と確認作業をし、再度時枝に提出した。

「終了です。もうお昼ですね。新人はコレを社長室に届けて下さい。雑用があるようです。昼食の許可は社長に頂いて下さい。くれぐれも粗相のないように。いいですね?」

自分が作成した書類の山を抱えた市ノ瀬が嬉しそうな顔をしていたのが、篠崎には不思議だった。
近寄りがたい社長の雑務が自分でなくて篠崎はホッとした。

「篠崎さん」
「はい、室長」
「君は年下が好みですか?」
「は?」
「優秀な君が、新人を心配そうな顔で見つめてましたから。てっきり、君は俺のファンかと思っていました。思い過ごしでしたか…。哀しい限りです」
「あ、いえ、そんな…もちろん、クールな室長を崇拝しております」
「冗談ですよ。我々もお昼にしましょう」

見ていたのがバレバレだ。
あまり新人の市ノ瀬を庇うなと、遠回しに言われているのだろうか?
篠崎は自分の上司の真意を測りかねていた。

秘書の嫁入り 青い鳥(2)

「新人のことでしたら、口出し無用ですから」
「新人って、名前ぐらい呼んでやってくれ。姑根性丸出しで、あそこまでクドクドネチネチいびらなくてもいいだろう? 潤を泣かせてただで済むとは、思ってないよね」
「市ノ瀬さまを特別扱いするわけにはいきません。何度も言わせないでください」
「本当は、黒瀬を名乗らせたいのに」
「当別扱いを拒んでいるのは、市ノ瀬さまです。実力を認めてもらって、他のどの社員、幹部からも有無を言わさずあなたの横に立ちたいんでしょう。健気じゃないですか? だから、そうなれるよう、私が教育しているんです」
「だけど、たかが、ステップラー如きで泣かすことないだろう? 潤が可哀想だ。潤を泣かすのは俺だけのはずなのに…ふふ…」

何かを思い出したように黒瀬から鋭い視線が消え、表情が柔らかくなる。

「社長、顔が緩んでいますよ? 変な想像しませんでしたか? 仕事中です。いい加減、内線をオンにして、秘書室内を盗聴するのを止めてもらえませんか?」
「しょうがないだろ? 意地の悪い秘書に俺の大事な雄花が人質に取られているんだから。本当なら、時枝をいびり倒したい心境だけど、そうすると、また潤が苛められて可哀想だから、今日の所は見逃してあげる」
「さようですか。他にご用件がないようでしたら、失礼させて頂きます」
「ある。潤を昼休みここに寄越してくれ。ちゃんと理由をつけてやってくれ。これ、社長命令だから」
「社長、公私混同は止めて下さいよ」

釘を刺した。

「分かってる。秘書の卵として、雑務を言いつけるだけだから」

絶対嘘だ。

「わかりました。粗相のないように、厳しく言っておきます」
「優しくでいいよ」
「失礼します」

一々、新人を叱る度に呼び出されたんじゃ、やってられるかっ、と内心で毒づきながら、社長室を後にした。
社内では旧姓の市ノ瀬を名乗っている新入社員、黒瀬潤の作業を見ながら、時枝は、いつか俺の仕事が減るときが来るのだろうか? と不安になった。
仕事が減るのが不安なのではなく、このまま減らずに増えるのが不安だった。
プライベートの時間が日に日に減っている。
そうでなくても、あってないような短い時間なのだ。
この目の前の青年と社長の黒瀬が知り合ってから、時枝の仕事は増加の一途を辿っている。
普通の大学生だった潤の人生を変えてしまった責任は感じている。

感じてはいるが…

イギリス行きの飛行機の中で黒瀬に目を付けられたばっかりに、黒瀬に敵対する一派の手により潤はイギリスで大変な目に遭わされた。
黒瀬が助け出したのだが、その黒瀬が更に潤を酷い目に遭わせた。
監禁、強姦、その他モロモロ…、やっとの思いで黒瀬の元から逃げた潤と、故意に逃げさせた黒瀬を、時枝自らキューピットになって結びつけてしまった経緯がある。
その後日本に帰国後も、黒瀬と潤の間には、一言では言い尽くせない過酷な出来事があり、それが二人の絆をより深く強くした。
そして一年前の春、二人は関係者を招待しての結婚式まで挙げたのだ。
日本の法律では同性婚は認められていないので、養子縁組の形で、潤が黒瀬の籍に入った。
そこで、めでたし、めでたし、とならないのが、この二人で、秋に行った新婚旅行でも一騒動あった。
二人にしてみれば、騒動が起こる度に絆が深まるのか、バカップルぶりに拍車が掛かるのみで、結局見守る立場の時枝一人が、事態を終息させるために奔放する羽目になる。
それでも新婚旅行から春までは、この二人にさほど振り回される日も少なかったのだが… 束の間の休息に過ぎなかった。
この春、潤がクロセに黒瀬との関係を伏せ実力で入社試験をパスして入ってきた。
時枝以外、誰も社内で潤と黒瀬の関係を知るものはいない。
秘書課への新入社員は、毎年時枝が新人研修の成績で選んでいる。
だから、潤にも最初から、実力で自分に認められるよう頑張れと伝えていた。
正直、一年目は無理かもしれないと思っていた。
最初は他の課に回され、後々、引き抜くしかないなと思っていたのだが、時枝の予想を裏切り人事部から秘書課へどうかと打診がくるぐらい文句なしの研修結果を修めた。
潤は本気で、黒瀬の横に並びたいのだ。
今時枝がいる位置に立ちたいのだ。
それを黒瀬が望んでいるわけではないのだが、潤は黒瀬の片腕になりたいと思っている。
その本気が時枝には分かるだけに、潤には厳しくしてしまう。

が、しかし……

黒瀬に一生付き合うと決めた人生ではあったが、その当時は潤が数に入ってなかった。
だから、仕事は黒瀬中心だった。
潤と黒瀬を結び付けたことが、仕事の量として自分に跳ね返るとは思っていなかった。
問題児の黒瀬の犠牲になってもらうつもりだったのが、どう考えても、自分が二人の犠牲になっている。
仕事量が減るのは、きっと潤が一人前になった時か、専業主夫になってくれた時なんだろう。
それはまだまだ先の長い話だと、目の前の青年を見て「はあ~」と溜息が洩れた。

もっと、時間があればな…俺も……

時枝の頭に、元親友の顔が浮かぶ。
それを頭を振って追い出すと、仕事仕事と言い聞かせ、新人に注意を払いながら、自分の仕事に戻った。

ということで…数年ぶりの秘書嫁が始まったよな。え~っと、少し前までヤクザ者Sで応援してもらっていた大喜(ダイダイ)です。今回も俺が進行役(?)を務めますのでよろしく!俺とオッサンも途中絡むから、是非、応援してくれ~。byダイダイ

秘書の嫁入り 青い鳥(1)

「泣けば許されるとでも思っているのですか? そんな初歩的なミスは今時小学生でもしません」
「スミマセン。直ぐにやり直します」

眼鏡を掛けた上司に今年入社の新入社員がネチネチと叱られていた。

「君は、新人研修で社会人としてのマナーを学んでないのですか? 『申し訳ございません』ぐらい言えないものか。だいたい、ステップラーの位置を間違えるなんて、信じられません」
「室長、それは私のミスです。私が指示する際、左に留めることを言い忘れてました」

目をウルウルさせている新人にこれ以上のお小言は可哀想だと、女性社員が助け船を出した。

「篠崎さん、これはこの新人のミスです。他の書類を見れば分かること。それに、左右どちらでも構わないと思う雑な思考が、学生気分が抜け切れていない証拠です。篠崎さんが新人の頃は、指示内容が曖昧な点はきちんと私に尋ねてましたよ? 新人、ここが何課が理解してますか?」
「…秘書課です」
「その通り。たかがコピーを留める作業と思ってはいけません。小さなミスが大きな損害に繋がることもあるのです。我々の連絡ミス一つで、取引自体が白紙になることもある。スケジュール管理をとっても、一分一秒が命取りになることだってあるのですよ。全く、秘書課の新人は毎年優秀社員が上がってくるというのに、今年は……」

ウルウルお目々の新人社員が下を向き、延々と続くお小言に唇を噛みしめて耐えていた。
ステップラーの留め位置一つでまさか、こんなにお小言が続くとは思ってもいなかったのだ。

「新人。下を向かない。学校で教師に叱られているわけじゃないんですよ。ここは会社で、自分の失敗を上司に注意されているのですよ? 視線は私にでしょ。はあ」

深い溜息を眼鏡の上司が吐く。
下を向くなと言われ、ゆっくり頭を上げた。
目の縁でどうにか止まっていた涙が、それと同時に溢れた。
泣きたくなかった。
こんなこと泣くなんて男としてどうだろう。
怒られたことでの涙ではなく、ミスをしでかした自分が情けなくて溢れた涙だった。

「…申し訳ございません」
「はあ。だから、泣くのはよしなさい。みっともない」

その『みっともない』が引き金になったのか、ポロリと溢れただけの涙が、今度は大洪水となる。

「市ノ瀬君、これ」

見るに見かねた先輩秘書の篠崎がハンカチを差し出した。

「時枝室長、今日はこれぐらいで。市ノ瀬君も反省しているようですし」
「そうですね。私も忙しい。新人、顔を洗ってきなさい。今度私の前で泣いたら、ここから追い出しますよ? 顔洗ったら、全部やり直すこと」
「…はい」

肩を震わせ駆け足で出て行った新人を見ながら、内心少し可哀想だったかなと、株式会社クロセの社長秘書、時枝勝貴は思った。
が、同時に、新人の特別な立場を考えると、まだまだ甘い、と反省も忘れなかった。

「室長、社長がお呼びです」

ヤレヤレ、今度は社長か…とまた、溜息が出る。
社長秘書の肩書きゆえ、呼び出しは日に何度もある。
新人教育の必要がなければ、秘書室よりも、むしろ社長室に居る方が長い。
よって『普通』の呼び出しなら、別に問題はないのだが……。

「お呼びでしょうか?」
「ああ」

株式会社クロセの社長、黒瀬武史がマホガニーのデスクに肘を付き、前で組んだ両手の甲の上に顎を乗せ、鋭い視線を向けてくる。
緩いウエーブの掛かった長髪を後ろで一つに結び、イタリア製のグレーのスーツに身を包んだ切れ長の目に鼻筋の通ったこの男、一見高級クラブのホストかショーモデルかといった風情だが、れっきとした代表取締役社長なのだ。
しかも二代目のボンボンではなく、自ら立ち上げ、時枝と二人で家具の輸入販売から不動産・金融業と事業を拡大していった頭脳明晰な三十一才の青年実業家である。
時枝は、黒瀬より三つ年上で、もともと黒瀬の兄の親友だった。
訳ありの事情により、黒瀬が会社を立ち上げた時より、秘書として側にいる。
実質は副社長のようなものだが、より黒瀬に近い側近として、陰では黒瀬同様の支配力を持っていた。