秘書の嫁入り 青い鳥(1)

「泣けば許されるとでも思っているのですか? そんな初歩的なミスは今時小学生でもしません」
「スミマセン。直ぐにやり直します」

眼鏡を掛けた上司に今年入社の新入社員がネチネチと叱られていた。

「君は、新人研修で社会人としてのマナーを学んでないのですか? 『申し訳ございません』ぐらい言えないものか。だいたい、ステップラーの位置を間違えるなんて、信じられません」
「室長、それは私のミスです。私が指示する際、左に留めることを言い忘れてました」

目をウルウルさせている新人にこれ以上のお小言は可哀想だと、女性社員が助け船を出した。

「篠崎さん、これはこの新人のミスです。他の書類を見れば分かること。それに、左右どちらでも構わないと思う雑な思考が、学生気分が抜け切れていない証拠です。篠崎さんが新人の頃は、指示内容が曖昧な点はきちんと私に尋ねてましたよ? 新人、ここが何課が理解してますか?」
「…秘書課です」
「その通り。たかがコピーを留める作業と思ってはいけません。小さなミスが大きな損害に繋がることもあるのです。我々の連絡ミス一つで、取引自体が白紙になることもある。スケジュール管理をとっても、一分一秒が命取りになることだってあるのですよ。全く、秘書課の新人は毎年優秀社員が上がってくるというのに、今年は……」

ウルウルお目々の新人社員が下を向き、延々と続くお小言に唇を噛みしめて耐えていた。
ステップラーの留め位置一つでまさか、こんなにお小言が続くとは思ってもいなかったのだ。

「新人。下を向かない。学校で教師に叱られているわけじゃないんですよ。ここは会社で、自分の失敗を上司に注意されているのですよ? 視線は私にでしょ。はあ」

深い溜息を眼鏡の上司が吐く。
下を向くなと言われ、ゆっくり頭を上げた。
目の縁でどうにか止まっていた涙が、それと同時に溢れた。
泣きたくなかった。
こんなこと泣くなんて男としてどうだろう。
怒られたことでの涙ではなく、ミスをしでかした自分が情けなくて溢れた涙だった。

「…申し訳ございません」
「はあ。だから、泣くのはよしなさい。みっともない」

その『みっともない』が引き金になったのか、ポロリと溢れただけの涙が、今度は大洪水となる。

「市ノ瀬君、これ」

見るに見かねた先輩秘書の篠崎がハンカチを差し出した。

「時枝室長、今日はこれぐらいで。市ノ瀬君も反省しているようですし」
「そうですね。私も忙しい。新人、顔を洗ってきなさい。今度私の前で泣いたら、ここから追い出しますよ? 顔洗ったら、全部やり直すこと」
「…はい」

肩を震わせ駆け足で出て行った新人を見ながら、内心少し可哀想だったかなと、株式会社クロセの社長秘書、時枝勝貴は思った。
が、同時に、新人の特別な立場を考えると、まだまだ甘い、と反省も忘れなかった。

「室長、社長がお呼びです」

ヤレヤレ、今度は社長か…とまた、溜息が出る。
社長秘書の肩書きゆえ、呼び出しは日に何度もある。
新人教育の必要がなければ、秘書室よりも、むしろ社長室に居る方が長い。
よって『普通』の呼び出しなら、別に問題はないのだが……。

「お呼びでしょうか?」
「ああ」

株式会社クロセの社長、黒瀬武史がマホガニーのデスクに肘を付き、前で組んだ両手の甲の上に顎を乗せ、鋭い視線を向けてくる。
緩いウエーブの掛かった長髪を後ろで一つに結び、イタリア製のグレーのスーツに身を包んだ切れ長の目に鼻筋の通ったこの男、一見高級クラブのホストかショーモデルかといった風情だが、れっきとした代表取締役社長なのだ。
しかも二代目のボンボンではなく、自ら立ち上げ、時枝と二人で家具の輸入販売から不動産・金融業と事業を拡大していった頭脳明晰な三十一才の青年実業家である。
時枝は、黒瀬より三つ年上で、もともと黒瀬の兄の親友だった。
訳ありの事情により、黒瀬が会社を立ち上げた時より、秘書として側にいる。
実質は副社長のようなものだが、より黒瀬に近い側近として、陰では黒瀬同様の支配力を持っていた。